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●尾道は猫の町
賀直哉の「暗夜行路」を読んだのは18か9だった。主人公が女性の乳房に触れながら発する有名な言葉に「豊年だ! 豊年だ!」がある。



筆者はほとんどそれしか記憶にないが、『おにおにっ記』ではこのセリフをもじって「豊作だ! 豊作だ!」を2、3度使った。そこから「暗夜行路」を思い出した人がどれほどいるか知らないが、まだ人が眠っているような夜明け前の真っ暗な道を散歩するのが好きと思い込んでいるマニマンも、実は「暗夜行路」をどこかに念頭に置いて作った設定であった。ということは、今日のこの投稿は必然的なものだ。「暗夜行路」は父との葛藤が描かれ、尾道が舞台の中心を占める。尾道は小津安二郎の『東京物語』にも登場するが、筆者が特に意識し始めたのは、尾道が主催する公募展に、尾道の風景を描くというものが10年かもっと前にあって、えらく観光に力を入れている町だなと思ったことからだ。坂と海辺という点で、また紹介される写真によって、長崎に似た町かと思っていたが、実際はかなり違った。先日少し書いたように、3月26、27日の2日間は1泊旅行に行って来た。思い出はまだまとまり切らないが、今日から断続的に書いて行く。ただし、行き先順ではなく、思い出し順にする。これは記憶の強い順ということなのかもしれないが、そうとも言えない。また各場所で1日分の投稿で済ますのではなく、複数の日数を費やすかもしれない。さて、旅の目的は尾道ではなかった。広島を再訪して、現地でお好み焼きを食べようと最初は考え、またそのついでに呉まで足を延ばそうとも思ったが、訪れたことのある広島市内より、その手前の尾道の方がいいかと思ってそこに宿を予約した。雨天がずっと続いていたので、4月になってからにしようかとも思ったが、天気予報によると26日の午後から晴れるというのでその日に家を出た。だが、海辺の尾道は風がとても冷たかった。あまり歩かず、駅から一番近い宿を取ったのは正解であったが、安宿のために家内は不満たらたらであった。お金をたくさん出すほどに快適なところに泊まれて、また食事も豪勢だ。ある人が書いていたように、旅の記憶がよいものとなるのに一番大事なものは宿泊施設で、それをけちってはすべてが台なしになるという意見があった。それをいちおうは納得するが、筆者の少ない旅行経験から言えば、安宿ほどかえって印象に強い。それにその日常感が、普段の自分の安い生活と同じものであるため、旅先の珍しい景色が、いわば自分の日常のすぐ隣にあるかのような形で記憶に刻まれる。これが普段の生活とは無縁な豪華なホテルに泊まると、旅全体が非日常化し、その分、かえって記憶に残りにくい。それに経済的に不如意な筆者では、最初から豪華なホテルや食事は無縁とあきらめているから、安宿でがまんしても苦にならない。過ぎ去ってみればどこも同じで、安い宿ならそれなりにまた面白さもある。何でも楽しんでやろうと思えばいいのだ。豪華な部屋と食事でなければ楽しめないというのでは、筆者から言わせれば哀れだ。と、負け惜しみをいつものように書いておく。
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 今回は全部自分で決め、そしてぱっと思いついてさっと家を出たという、全くの思いつきの旅で、しかも途中で大きく予定を変更したにもかかわらず、全部思いどおりに事が運んだ。団体のパック・ツアーならばそうは行かず、やはり自分で勝手気ままに決めて出かけるのが断然よい。1泊2日にしてはえらくあちこち回ったので、これほど充実した旅はなかった。この調子では毎年2回ほどは同じような旅をして日本中を回りたいが、大阪生まれの筆者はあまり寒いところには行きたいと思わず、どうしても目は西に向く。それでも次は金沢あたりをゆっくり巡ってみたいと考えているが、これも思っているだけでいつになるかはわからない。さて、ネットでは尾道の紹介は多いし、画像もたくさん出ていて、それらを見ただけで行った気分になる。だが、実際に行ってみるとやはりかなり違う。それに、記憶に残す、いや勝手に残るものは、たまたま出会ったごく些細な何かであることが多い。そんなものを感じるだけでわざわざなぜ遠方にと思う人があるかもしれないが、人生などそういうものだ。記憶に留めようと思ったものが案外早く消え去り、どうでもいい瞬間が何十年経っても鮮明に蘇り続ける。そういう思いに立って尾道のことを思い出すと、まず真っ先に猫が出て来る。猫が多いのは別段珍しくないが、尾道では特に目立った。断わっておくと、筆者は猫好きではなく、かわいいとは思わない。一番よく覚えている猫は、志賀直哉が大正時代に住んだ家の縁側にいた、丸々と太った2匹だ。すぐ隣に筆者が座っても逃げず、ゆうゆうゆうぜんと体中を舐め回していた。猫は清潔好きというが、石鹸の代わりに自分の舌を使う。猫は愛する相手の体をそうして舐め回さないのだろうか。人間には時々そういう趣味の人がいるが、猫は清潔好きなのでそんなことはしないかもしれない。志賀直哉の住んだ家は大正時代からもう100年近く経つから、建て変えたか、あるいはかなり補修もされて、当時の雰囲気とは違うだろう。その家は坂の上にあり、そのすぐ下がごく小さな迷路のような公園になっている。また、文学の石碑があるなど、やはり観光にかなり力を入れている市の様子がわかった。志賀直哉が住んだ家と言えば、奈良にもある。そこは以前ゆっくり覗いたことがあるが、志賀はよほど金持ちだったため、転々と住まいを変え、小説の着想を得ることが出来た。筆者は志賀のファンでもないが、まずそんな経済状態の差を思った。
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 志賀の住まいを訪れたのは朝の8時頃だ。雨戸が閉まっていた。開館するとしても9時からだろう。その家が目的で尾道に行ったのではなく、ぶらり散歩していて見つけ、そして立ち寄った。体を舐める猫の前に背を向けて立つと、眼前に背丈ほどのまだ新しい角柱の石碑があった。そこに「暗夜行路」と刻んであった。そこで思い出したのが、その小説が尾道を舞台にしていたことだ。10代後半の筆者には少し大人びた内容で、感情の移入はあまり出来なかったが、主人公が暗い精神の旅路から脱出する理由というのもまた理解出来たとは思えない。さまよう精神が、物語の最後にそれを脱出すると設定としては、開高健の小説にも似たものがあるが、「暗夜行路」の場合は主人公の心のありどころはもっと深刻で、その分なおさらそこから脱出せねばならないという切迫感が強い。だが、そうした立場に追い込まれる人はどれほど世間にいるだろう。いや、たいていの人はそうした悩みを抱えるから、この小説は名作として読み継がれる。だが、志賀と同じような境地に至らずに、ますます暗夜にはまり込んで、ついには自殺してしまう人も昨今では多い。「暗夜行路」では、主人公は大自然に接して癒される。それは現在どれほど説得力があるだろう。気分転換でぶらりと旅に出てそうした自然に触れることが出来る人はいいが、なかなかそんな余裕のある人はいないし、あれば最初から大きな悩みにも陥らない。その意味で「暗夜行路」の主人公はかなり贅沢な生活を送っていると言ってよい。そして、それは志賀直哉自身がそうであったから仕方がない。ほとんど記憶にない小説のことをここであれこれ書いても始まらないが、尾道の志賀の住んだ家は今も見晴らしがとてもよく、筆者も数か月は滞在出来ればいいなとうらやましくなった。尾道市としては、「暗夜行路」にゆかりのある家を保存し、それを観光に現在も役立たせることが出来ているから、その意味でも志賀はいい貢献をした。この有名人あやかりの観光宣伝は、尾道は徹底している。志賀直哉の住んだ家からすぐ脇の道を真っ直ぐに下り切ったところ、JRの線路沿いの商店街のあちこちに、有名人の手型ブロンズ板が並んでいた。サックス奏者の坂田明の手があまりに小さいことに驚いたが、坂田明が尾道を訪れた時に、すかさず手の型を取った観光課もなかなかすごい。尾道はそのように有名人大歓迎の町であるようで、有名人になった人は訪れるとよい。そうでない人は、筆者がしたように、有名人の手型に手を合わせて大きさを測ってみるとよい。
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 話を戻す。尾道に着いたのは午後5時頃であった。夜景がそれなりきれいなことはわかっていたが、あまりに寒く、とても夜外出する気にならなかった。駅に着いてすぐ、駅舎内左の観光案内所を訪れた。若い女性ひとりが座っていたので、数時間で町を回るとすればどこをどう行けばいいか質問した。地図をもらって説明を受け、そして翌朝の行動を決めた後、宿に行く前に駅前付近を散策した。桜の開花には少し早く、また後で知ったが金曜日は商店街が休みであった。道理でJRと平行して走る、つまり海岸沿いに伸びるアーケードの商店街を往復した時、まだ閉店の時間でもないのにほとんどの店が閉まっていた。そのため、銭湯をそのまま改造した有名な喫茶店にも入ることは出来なかった。当てもなくそのまま東へどんどん歩いて行くと、一旦商店街が途切れた。正確に言えば、やや左に折れて郵便局があり、そこを起点としてまた真っ直ぐ東に伸びている。その果てまで行ってもよかったが、どこも閉まっているようであったので、ともかくどこかで夕食をと考え、そして空いている店に適当に入った。と言うより、ほとんどその店しか目に入らなかった。中華料理店で、客は筆者らのみ。注文を聞きに来たおばさんの日本語がたどたどしく、また店内の飾りから中国人の経営とすぐにわかった。尾道に来たならば、やはりラーメンかと思って、それと焼き飯のセットを頼んだ。確かに尾道ラーメンの特徴とされる魚の出汁が利いていた。だが、それだけのことで、特に味わい深いということもない。長崎にひとりで行った時には、中華街で同じような規模の店に入ってチャンポンを頼んだ。それも別段おいしくもなかった。だが、土地のものを食べたという記憶だけはある。商店街の9割り以上が閉まっていたので、よくわからないが、鮮魚屋は数が多いだろうか。海岸べりの町であるので、魚くらいは豊富に、しかも安価で入手出来ると思いたいが、案外そうでもないかもしれない。だが、坂のあちこちで見かけた猫は、やはり魚で生きているのではないか。猫と言えば魚であるし、尾道は猫にとって天国のような町ではあるまいか。それでも漁村といった風情は全くなく、すぐ向こうの島は工業地帯と言ってよい。郵便局は2本の商店街を結ぶ位置にあって、そこをずっと上がったところに志賀直哉の家がある。となると、志賀はその坂を何度も上り下りしながら、時にはその郵便局から何かを発送したことであろう。だが、大正時代では商店街はアーケードがなく、町並みはもっと地味だったに違いない。それを想像することはさほど難しくはない。尾道は今でも昭和レトロの建物がたくさんあり、それらから大正時代を想像することはさほど困難ではない。中華料理で思い出したことを書いておくと、その郵便局から南に少し下るとすぐに海岸べりに出るが、その海岸沿いに洒落た中華レストランがぽつんとあった。その前まで歩いて行ってもよかったが、なぜかその50メートル前、つまり道路をはさんでこちら側から向こうに行く気がしなかった。それはその店が高価そうであったからというのではない。家内は酒を一滴も飲めず、そうした酒がつきもののムードのある店は何となく場違いで、また筆者らのほかには人は誰も歩いておらず、貸し切り状態で食べるのが何となく気が引けたことによる。だが、最大の理由は、駅前を出た時から海岸べりには一歩も近づかなかったためだ。駅前からも、またその中華レストランのすぐ横からも絶えず渡し船が出ていて、100円かそこら払えば数分で向島まで行くことが出来るのだが、行っても何をするでもなく、対岸の坂の町をただ眺めるということを観光案内所の女性から聞いていたので、行った気分になることで済ました。そのため、海岸べりにまで歩むことはせず、むしろ足は北の山手を向き、あるいは東の商店街へと進んだのだ。
by uuuzen | 2010-04-05 00:47 | ●新・嵐山だより
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