納税の季節だ。それで思い出したことがある。ふるさと納税に関して2、3か月前のTV番組でこんな話を知った。

関西のある市だったと思うが、1億円のふるさと納税、つまり寄付した老人男性がいる。それほどの大金を用意出来るからには、誰しも大金持ちと思うが、ごく普通の人で、数十年無駄遣いをせず、こつこつと貯めたお金を役所に持参したそうだ。それまでの同市へのふるさと納税は全部まとめても数百万であったのが、この人ひとりが何十倍か寄付した。この男性は、生まれた時に盲目であったが、2、3歳の頃に母が失明して亡くなった。その後急速に視力が回復して正常に見えるようになったらしい。目が見えるようになったのは、母が自分に視力をくれたためで、それで母は命を落とさなくてはならなかったと、その男性はその後ずっと母に感謝して生きて来たらしい。それでせめてもの恩返しをしようと、1億円を貯めて寄付することにしたのだ。時々そういう大きな寄付の話を聞くが、たいていは資産家だ。だが、この男性の場合は、目が見えることに感謝しながら母の思いを胸に抱き、慎ましやかな生活を長年続けてのお金だ。お金には変わりがないとはいえ、1円ずつに悲しみと感謝が染みついていて、それを受け取る市はとても無駄に使うことは許されない。だが、現実には市の歳入となって他の税金と同じように使われるだろう。この男性と同じ思いを持った人がその市役所にたくさんいればいいが、税金が自動的に入って来る役所の人間は、それを使うことを当然と思う。母の思いを胸に1億円貯めた人はそれだけ幸福な人生であったから、寄付されたそのお金を全部きれいに使ってやることがその人も嬉しいのであって、もらってしまえばこっちのもの、それをどう使おうが勝手、とそう役所の人間が思わないとも限らない。いや、限らないどころか、本当にそうだろう。また、そのように使ってもらってかまわないと思って、寄付する人は寄付する。

寄付のついでに思い出した。自治会長は各組長が集めた各種募金を連合会の募金担当委員の家に持参するのだが、赤い羽の共同募金を去年秋に持参した時は驚いた。組長が集めた募金を筆者の家に持参してくれる時、誰がいくら募金したかのサインと金額の表を添えて来る。筆者はその場で表をチェックして、金額に間違いがないことを確認して領収書を書いてわたす。たいてい寄付は500円と決められていて、ほとんどの人は500円を寄付してくれる。共同募金側が500円と決めて来るのはいかがなものかと思うが、コーヒー一杯を飲んだと思えばいいという意見もある。だが、中には200円しかしない人もいて、毎年合計金額に端数が出る。それはいいとして、だいたい筆者の自治会では6万円ほど集まる。そのお金と、各組長が持参してくれた誰がいくら寄付したかの表を、11月下旬に共同募金の役員の家に持って行った。その時、当然誰がいくら寄付したかの表も受け取ってもらえるものとばかり思っていたところ、ちらりとも見ずに現金だけでいいと言う。これは全く現金な話で、個人が寄付した事実を黙殺するも同然の気がした。腑に落ちない気がしながら合計金額の領収書をもらって帰り、後日回って来た各自治会ごとの集計金額表ともらった領収書をコピーして全組、つまり全員に回覧した。今までそういうことをした会長はいなかったが、寄付してもらった後のフォローとしてはそれは最低限必要ではないか。それはいいとして、筆者が思ったのは、寄付を持参する時、仮に筆者がネコババしても誰にもわからないことだ。なぜなら、役員は筆者が持参した募金表を全く見なかったし、いくら集まっていようが、とにかく集まったものをわたしてくれればいいという雰囲気で、また各組長は集めた募金額は知っているが、他の組がどれだけ集めたかは知らない。つまり、どれだけ集まったか知っているのは筆者だけなのだ。しかもその集まった金額の根本資料である各組から持参された表を、個人情報保護の観点からも筆者以外の誰も見ないのであるから、1万や2万を抜いて持参しても、ああそうでしたかで終わりだ。筆者がそこで思ったのは、きっと役所やその他、たくさんお金が集まるところではこれと似たことがたくさんあって、誰かが不正をしているだろうという、いわばいやなことだ。だが、そのいやな思いの源は、せっかく持参した募金表を委員が受け取らず、見もしないことだ。そのようにして集められた寄付は、どうしてありがたみが湧くだろうか。個人の名前が署名された表のとてつもない束を、共同募金のトップにいる人たちがドンと前にして、初めてその募金が無数の人々の思いの集まりで、本当に大切に使わねばばちが当たると思うはずだ。お金だけもらえば後はどうでもいいという態度では、募金する方の気が萎える。また、この話をある人にしたところ、共同募金は集めたお金で天皇陛下を招いて帝国ホテルでパーティをするとのことだ。そしてそのパーティは日本で最大のものらしい。そのために数千万以上のお金が募金から使われるとも聞いたが、つつましやかな生活をしている人から500円を義務づけ、その500円の膨大な集積の一部が役員たちの飲み食いに使われている。もちろん大部分はさまざまに役立てられるが、筆者から言わせれば、パーティなどせず、役員はすべて無料奉仕し、寄付の全額を、寄付を受け取るべき人々にわたすべきだ。そんなあたりまえのことが行なわれない。寄付団体はみないかがわしいと筆者は思いたくなる。

さて、筆者の住む区に1000万円を寄付した人がいた。それを200万円ずつ5団体に使ってもらおうと区は考え、筆者の所属する連合会は手を挙げ、そしてそれに当たった。つまり200万円がもらえた。それを何に使うかは、連合会のトップの三役に一任してほしいと、三役から去年の会合の際に言われた。それで何を作ったかと言えば、黄色い幟旗が確か170本ほどと、自転車の籠に取りつけるオレンジ色のプラスティック性の札500枚ほどだ。どちらも黒で「安全パトロール中」と印刷してある。目立ちはするが、色も文字のデザインもよくない。だが、三役が勝手に決めたことで、自治会長は誰も口出し出来なかった。幟旗は1月に入って配られた。筆者の自治会は6本もらった。それを筆者が組み立て、自治会内の目立つ場所に針金で留めた。その時、もちろん許可を得るべき場所ではそうしたし、また風で旗が飛ばされ、あるいは車の視界をさえぎっては事故が起きかねないので、入念に固定した。それはあたりまえのことだが、1月末の総会では、えらく筆者の留め方がある人から誉められた。それほどに他の自治会では杜撰なところがあったりする。全くやる気のないような取りつけ具合、また場所など、何の意味のな場合が目立つ。一方では家の前に目立つ旗を掲げたくないという人がたくさんいて、旗はかなりあまった。あまったものはまた何年かして使えばいいので別に問題はないが、会合である人は、三役がその幟旗を作ったということを耳にした時、「そんなものを立てれば、夜中に酔っ払いがライターで火をつけたりしないか」と意見した。その時三役は一瞬凍りついた。そういう意見が出るとは思わなかったのだ。自分たちに一任してほしい、そうすれば全部こっちでやりますという思いがあったからだろう。だが、思慮不足を指摘されてももう手遅れだ。200万円をドブに捨てるわけには行かない。それでもほとんどの自治会は2本か3本で充分と言って全く人気がなかった。その後三役が連合会地区、つまり松尾大社から渡月橋までの地域を歩いて、設置状況を確認し、空いていると思えるところにどんどん設置した。それがあまりにも多く、50メートルの間に3本立つ場所がとても多い。ある家では玄関の両脇に1本ずつ立てていて、そこを通るたびに筆者は笑ってしまう。いつまで立てるかと言えば、朽ち果てるまでだ。三役の予想では2、3年で色褪せ、またちぎれたりするだろうから、その時は自治会長が処分すればいいとのことだ。オレンジ色のプラスティック板は、筆者は率先して自転車の前籠に針金で取りつけた。だが、筆者はめったに自転車に乗らないので効果はない。これだけ多くの「安全パトロール中」の旗があれば、泥棒などは恐れをなして近寄らないと思うが、どの道を歩いても必ず2、3本が目に入り、30メートル間隔ごとに立つ状態では、本当に地元の人間が安全パトロールをしていると思われるだろうか。ほとんど漫画的な光景になっているが、幸福の黄色いハンカチを連想され、筆者はそれなりに面白がっている。寄付した人はまさかこのようにお金が使われるとは思わなかったのではあるまいか。寄付する人はその行為をしたことで幸福感を得るべきであって、どのように使われるかを気にしてはならない。