丘人という号は師の松岡映丘からもらったのだろう。『松岡映丘展』は1978年に兵庫県立近代美術館で開催され、とても印象深かった。映丘は兵庫県の出身であるため、同館でそのような展覧会が開催された。

その点丘人は東京生まれで、それもあってか関西では人気があまりないように見え、今回高島屋の会場はガラガラであった。さて、『松岡映丘展』で買った図録が手元にある。その表紙に使用された絵は小雪舞う中、牛車に乗った右大臣実朝を描くが、その顔から滲み出る憂愁は、一度見れば忘れられない。その表情を小雪やまたそれとは反対の真っ黒な衣や牛車が引締め、またところどころに配された華麗な色の絵具が高貴さをよく表している。この1点を見ただけでも松岡映丘がどういう絵を追求したかが即座にとわかる。簡単に言えば大和絵の伝統を近代絵画に中で追求する態度だが、誰が考えてもわかるように、歴史的に古い時代の人間や風物を描く場合、その頃の衣装や調度家具に詳しくあらねばならず、そのために学ぶべき時間や労力を、絵を描く以前の問題として画家に課する。それは眼前にある花や鳥を写生し、それを画題として描くとことよりはるかに大変なことだが、映丘のように明治1桁生まれの画家の周りには、まだそうした有職古実を学んでそれを作画に活かそうとする人が多かった。それは映画でも言える。時代劇では、描かれる当時の人々が見てもおかしくない様子が画面に求められるという監督の考えによって、時代考証専門の人間を置いた。それを甲斐庄楠音のように日本画家が担当したが、映画全盛時代が過ぎ、TVの大河ドラマで毎週放送するようになった時、時代考証は重視されなくなった。そのため、小袖の模様にしても玄人が見れば全くおかしいものでも平気で採用されているし、その分時代の香りが減じて、とても見られたものではないと思う人も少ない。そこには、衣装担当者が有名人で、その人物の個性を求めるあまり、またその人物が個性を主張するあまり、たとえば桃山時代、江戸時代ではあり得ないはずの小袖の模様ないしその配置、色合いが採用されることになる。だが、筆者はそれ以前に俳優たちの顔つきがあまりにも現代的、つまり漫画的で、中身がないように感じ、それが衣装と見事に合ってもいると思える。つまり、時代考証が高尚でなくても何の問題もないわけだ。また、映丘は明治以降活躍した画家であるから、その映丘が平安時代の人物を前に置いて写生したような絵を描くという行為は時代錯誤であって、そういう行為が理解出来ないという意見もあるかもしれない。筆者もどちらかと言えばそうだ。だが、時代が変わっても人間の思いに変化がないのも事実であるから、たとえば先の右大臣実朝にしても、筆者にはその顔が全く現代人の知識人、あるいは映丘の内面の投影に思え、また映丘がそういう表情を描きたいと思ったことの内実を知りたい気になる。絵もよいが、それを描いた映丘という人物に対する興味でもあって、結局どのような作品でもそれを味わうことはそのふたつを同時に思うことだ。
さて、今回の山本丘人展は生誕110年記念だ。確か100年記念が東京のみで開催され、その時のチラシには今回と同じ作品が使用されたような記憶があるが、筆者は見ていない。副題は「魂の抒情詩」で、それを今チラシを見ながら書いていて初めて知った。図録を買っていないし、またメモを取らなかったので、絵の題名を書くことは出来ないが、後半にとても心に響く作品が並んでいた。その経験はとても珍しく、また貴重なもので、さほど期待しなかった割りに鑑賞した後から重みをいよいよ感じる。丘人は1900年生まれで1986年に亡くなっている。映丘が1881年生まれであるので、19歳差がある。それを思うと、両人の画風があまりに違うことがとても信じられない。それは丘人が日本画を全く別のものにしてしまったからで、革新者、闘争者として捉えることが出来るが、結論を言えば、映丘にあった憂愁をそのまま受け継ぎ、さらにそれを深化させた。つまり、師とは全く何もかも違う画風や技法でありながら、精神性においてよく似ている。それこそが本当の意味での師弟だ。弟子と言えば師の画風をそのまま模倣することがあたりまえになっていて、また師もそれを認める、期待するほどに小物ばかり目立つが、映丘から丘人という流れを見ると、そこには明治以降昭和までの日本画を見事に1本でつなぐ変遷があって、理想的な師弟関係であったと思える。だが、誤解のないように言っておくと、筆者は映丘や丘人の絵画のみが日本画を代表して頂点に立つものとは全く思っていない。憂愁という言葉を持ち出したように、そこには一種の敗北への思いが見え、その否定的側面において日本画の存在意義があったとさえ思うほどだ。映丘はひょっとすれば日本が明治になって欧米化した時、日本画はもう終わりであると思ったかもしれない。その抵抗として、またレクイエムとして大和絵に回帰したとも考えられる。そして、そういう師を持つ丘人は、若い頃は盛んに油絵に対抗したような日本画の実験を行なうが、やがて老齢もあってのことだが、日本独自の情緒や個人的な思い出に浸るような画風に入る。そこには強固な西洋画に負けたという思いと、あるいは競争することが本来おかしなことで、日本画でしか表現出来ないものがあるという自信が相半ばしているように見えるが、晩年に至るほど、そういう闘争はもうどうでもよく、自分が感じたことをそのまま表現すればそれでよいという境地になった。それはある意味では映丘も抱いたが、映丘の絵は本画と同じ大きさの下絵をしっかりと作り、ほとんど工芸作品のように破綻のないように少しずつていねいに絵具を塗り進めることでしか生まれないもので、そこにはどこまでも姿勢を崩さないという禅僧、あるいは樗牛の小説に描かれる滝口入道時代の人物たちが持ったような強靱な思いに裏打ちされるが、丘人は師のような緻密に画面を構成することに早々と飽きた、あるいはそういう才能では人に劣ることを悟り、ほとんど表現主義と呼んでよい、生の思いの吐露を優先させて細部の仕上がりに執着しなくなった。それは映丘の画風からは完全に衰退と映るが、西洋画における個性の表現を思うのであれば、師と同じ画風を踏襲することは出来ない相談であるし、また丘人は師とは違って、あまりにも外国に目を向けたこともあって、日本画の範疇の中で自分の作品を位置づけるのではなく、西洋画と対峙してそこにどういう方法が可能かを常に思った。
映丘の絵は絵を専門に学んだ者しか描くことの出来ない完成度を持ち、ほとんど人を寄せつけない冷厳さがある。丘人はそれとは全く反対に、絵を学んですぐの人が描いたような素人さがあってその意味ではとても気安く見ることが出来る。だが、丘人の絵はやはり余人には真似が出来ない。そのことは絵の前に佇まない限りわからない。絵全体から感じ取るべきもので、それを感じ取った瞬間、絵の細部のアラは全く気にならなくなる。いや、そういうアラを含めて丘人の絵があって、その全体から丘人が何を感じ、何を表現したかったかが見える。そしてその表現したかったものは、丘人のどうにも表現しないではおれない内面であり、また絵に対して常に真剣に取り組む態度だ。前者は本当にかすかなもので、ふと心を逸らすとすぐに消え去って、二度と同じ情感を抱くことが出来ないようなところがあるが、その捉えようとすればかえってどこかへ去ってしまうような微妙な感覚を丘人は大切にし、それを静止した画像である絵画に留めようとした。それは実際はほとんど不可能なことだ。一瞬に過ぎ去るものを、ある程度の時間を要して画面に定着させようとする時、またさせ得たと思った時、その画面から伝わるものは、当の画家が本来感じたものとは全く違ったものになっている場合がしばしばであろうし、また鑑賞者にとってはもっとそうだ。だが、その不可能をどうにか絵にしようと苦闘したのが丘人で、それが晩年に至るほど見事に成功した。丘人は詩人になりたかったそうだ。そのことも丘人の絵の特質をよく示している。絵には造形性が必要だが、それよりもっと必要なのは、その造形性のうえに立ちのぼる詩情だ。そうでなければ、車やビルを眺めていればよい話だ。したがって、丘人の絵は、映丘のように破綻のない緻密な画面とは違って、ほとんど即興に近い感覚でまとめ上げられたところの奥に見える丘人の感動を感じ取ってそれに同調することにあって、その作品はその感情を伝えるためのたまたまの道具に過ぎないところがある。実際は丘人の絵が眼前にあるのでそういう感情が伝わるのであるから、やはり作品が大切なのだが、作品がふと消え去って、その前に丘人の感じた思いが浮かび上がって来て鑑賞者の心と響き合う。そういう絵画は日本画ではなかなか珍しい。いや、ほとんど丘人しかそういうことが出来なかったのではあるまいか。ともかく、西洋の激しい表現主義とは大いに違い、同じ内面を表現するにも、丘人はもっと憂愁を噛みしめていた。哀れと言ってもよい。それこそが日本というべきものだが、丘人は日本特有の精神性を表現したい思ったのではない。自己の内面に沈潜し、そこから表現することで、それが自ずと日本特有のものになった。映丘が大和絵によって日本の精神性を謳い上げようとしたことを、丘人は過去に埋没するのではなく、現在を生きる中で大和絵から続く日本の精神を表現しようと考えた。そして、その方法は師のように大和絵を描くものではないから、ある意味ではより困難な道で、下手をすると、その細い道から崖の下に落ちてしまいかねなかった。いや、大半の画家は崖の下にすでに落ちてしまっていてもそれに気づかず、自分は歴史的な大作を描いていると内心自惚れている。丘人の絵からはそういう自意識は感じられず、求道精神と言えばよいか、むしろ、ああでもない、こうでもないという苦闘の連続が見える。だがそうでありながらも、やはり若い頃から最晩年まで丘人のこうでしかないという思いが通って見える。そして、旅の途上でたまたま出会い、それをさっと描いたような作品の中に、見事に鑑賞者に訴えかける作品がある。つまり、小品的な作品に丘人の本領がある。それはほとんど絵を理解しない成金の部屋によくかかっている絵に近い雰囲気のものだが、そうした売絵とは違って、丘人がその景色を前にして瞬間に感じ取ったことがそのまま刻印されていて、気迫に満ちる。その売絵的な、つまりあまりに月並みな画題や色合いの絵であるところにおいて、丘人はぎりぎりの綱わたりをしている。たとえて言えば、映丘の作品は交響曲で、丘人の場合は流行歌なのだが、その流行歌が交響曲並みの真実味を帯びていることを思えばよい。そして、それは交響曲を書くよりももっと困難な道なのだ。最初から消耗されてしまうことをよくわかりながら、そこに自己のすべてを投入する態度は、これもある意味では禅僧のようであり、その捨て鉢になったところからしか得られないものがある。丘人はそういうことをやった画家だ。
今回は全3章構成で、第1章が1921年から50年、チラシから引用すると、「学生時代から画家として高い評価を受けるまでの、柔らかい色彩に写実的な画趣を加えて、平明で親近感のある抒情的な作品を制作した時代」。第2章は1951年から66年、「信州の山々や屹立する断崖など、力強く峻厳な雰囲気の作品を描いた時代、第3章は1967年から84年、「剛健な画趣が後退し、抒情的な心象風景が優雅に格調高く、蘇ってくる時代」。端的にまとめた説明なので、これにあまりつけ足すべきものはないが、筆者がこれはすごいと感じたのは第3章で、それは上記の筆者の思いに沿う作品群だ。第2章はほとんどどの絵も感心しなかった。それは今からみると、とても古臭いモダニズム調に思え、後の若い世代によくない影響を与えたとさえ思う。それは後述するとして、順に気づいたことを書いておくと、まず第1章は、最初婦人を大きく描いた絵が2、3点並んだ。東京美術学校時代の卒業制作で、このまま進めば人物画専門になったかと思わせるほど、顔の表情も含めてよく描かれている。だが、丘人はその後こうした人物画をいっさい描かなくなる。その理由はわかならいが、丘人は人間嫌いのところがあったのかもしれない。いや、人と交わることが嫌いではないが、それより自分ひとりで考えに耽るのを好むといったところが大きかったのだろう。1928年の大作に明るい雰囲気の「公園の初夏」がある。東京の上野公園の坂付近を描いたもので、点景的に多くの人物を描いているが、それらの人物には目鼻は描かれない。そのため、ほとんどこの絵は原田泰治の作品そっくりに見える。全体的に緻密に描き込んでいるように見えるが、斜面の草むらに点在する白いサツキの花は人間の頭より大きくざっと描かれ、映丘のような生真面目さはない。またこの絵は隅の方に絵具の剥落がかなり見られ、あまり大事にして来られなかったようだ。後年の丘人を感じさせるのは、画面右に描かれる坂で、鑑賞者の眼差しはそこで画面奥へと吸い込まれる。この画面の奥へと誘い込む手法は丘人のどの絵画にもほとんど見られる。それはある意味では将来への期待であろうし、また人生の旅への思いでもあるだろう。「公園の初夏」と似ていながら、それより絵具をもっと厚く塗った同じほどに大きい風景があった。「青い海」だったろうか、題名を忘れたが、漁村に写生に出かけ、描くものがないと諦めていた時、ふと村から向こうに海が見えた時の光景を描いたものだ。その啓示的な出会いは、絵を見るものにもよく伝わる。両側に村の家、そしてその向こうに青い海と、半分だけ姿を見せた黒い船、そして浜には褌姿の少年がふたり描かれる。両側の家は逆光であるため、全体に暗く描かれ、それとは対照的に向こうの海は真っ青で、夏の漁村をうまく表現するが、描いた丘人の位置を想像すると、やはり「公園の初夏」と同じく、眼前の対象に同化せず、そこから一歩下がって孤立している。画面両側の家は、海に対する額縁的存在で、その一種の聖性を意図した表現は、形を変えてどの作品にも見られる。
丘人は創造美術を結成した。それは創画展となって今も健在だが、そう言えば今の同展には丘人風の作品が目立つ。それは映丘から丘人という流れを思う時、全くの堕落と言ってよいだろう。丘人がやらなかったことを今の人がなすべきだ。だが、日本画特有の画材を使って、また切実なものを表現しようとすることは、丘人の時代より困難になっているのかもしれない。今さら映丘のような大和絵を描くことも出来ないが、それは技術的にも知性的にも無理な話だ。それち引き換え、旅をして画題を探し、そこに自分が感じた情緒を投入するような丘人の態度は今の若い人にはよく理解されるものだが、丘人のように一作ごとに形を変えてそれをやろうとするほどに果敢に絵画に挑む人は少ない。第3章で筆者が驚いたのは、丘人の画題が豊富なことで、ほとんど筆者の理解を越えている絵もあった。横長の画面の両端に仁王が立ち、その中央の向こうに寺が見える作品があったが、仁王の変な表情といい、また若い頃から変わらないその奥行きの表現は、いよいよ熟して強烈な存在感を放っていた。まさに表現主義と言うしかないそうした作品だが、その表現が一作ごとに違う。これは丘人が一作を仕上げると、またまっさらな気持ちが絵画に挑んだことを示し、70を越えての老境でのその壮絶さはどこか悲壮感も漂う。それほどに絵画に真剣に打ち込んだのだ。筆者が最も長い間立ち止まって見たのは、題名は忘れたが、モノクローム調の縦長の絵で、画面上部には金泥による細い雨筋が見えていた。画面両側は林で、深い緑に挟まれた形で中央に道が描かれる。その道の上には傘を指した女性らしき人物が小さくひとりだけ描かれ、その後ろ、つまり鑑賞者からすればこちら側に1台の自動車が去って行く。その車は女性をやがて静かに追い抜くだろう。筆者はその女性の思いと車に乗る人の思い、そしてその様子を見つめる丘人の思いに浸ってみた。その絵は実写ではなく、丘人が頭の中で作った光景だろう。だが、何という詩情だろう。そして日本的なそれであることか。その湿り気たるや、西洋人が目をつけなかった画題であるし、また目をつけてもそのようには決して表現出来なかったのではあるまいか。その絵もそうだが、丘人は金泥をほとんどどの作品にも使用した。それは第2章の作品から目立ち、最初はあまり意味がないように思えるものが、見慣れるとなぜ丘人が金泥を使用せねばならなかったのか、その理由も何とはなしにわかって来る。金泥は丘人にとっては光のつもりなのだろう。光の表現は西洋画では欠かせないものだ。だが、丘人は陰影を用いずに、金の光によって光の存在を暗示した。日本画特有の画材の特質を考えた場合、それは必然な行為でもあったし、また日本人からはそれが理解され得た。第3章で丘人は人物をたまに描き込むようになるが、それでも顔は見せない。その点や、また丘人特有の額縁的構図に囲まれた内部の向こうに視線を移させる構図は、カスパー・ダヴィッド・フリードリヒを思い出させるが、日本的ロマン主義を思えば自ずとそうした西洋絵画に着目したとしても不思議ではない。