研修会の当日、新都ホテルでのバイキング料理は一般客も混じっていてどこに座ってもよかった。筆者は一緒に行ったの9割方、顔も名前も誰も知らないが、何度か言葉を交わすうちに打ち解けて、自然とそうした人同士が集まった。
そして何度か料理を取りに立っては座りを繰り返している間に、斜め向かいに座った筆者と同世代らしき男性の趣味が山歩きで、休みのたびに京都中の山をあちこち歩いていることを小耳に挟んだ。だが、筆者は真向かい側の人と話が弾み、その人から山歩きについてあれこれを聞く機会を逃した。つい先頃の20日、筆者は地元松尾山を家内とともに踏破した。そのことを2回に分けて書こうと思う。その松尾山の登山事情をその男性から聞きたかったのに、もうその人とは二度と顔を合わせず、また話をすることもないかもしれない。

ところで、一昨日の土曜日は雨がすっかり上がって天気がよいので、用事もあって従姉の家まで散歩した。用事のほかにいくつか別の目的があり、またあれこれと写したいものがあってカメラを持参した。まず、ここに掲載するために松尾橋から北部クリーン・センターの白い塔の写真を撮り、また橋背後の松尾山の全景も写しておこうと思った。前者はズーム・アップして撮ったが、それでちょうど筆者が橋上から見る大きさの感覚に等しい印象がある。写真からは山の中に白い塔、すなわち煙突がいかに目立つかわかると思う。煙突の右下にはクリーン・センターの建物が少し見える。この辺り一帯が夜になると白く光り、背後の山並みの中でぼんやりと浮かぶ。それは焼却場稼動中の照明だけではなく、隣接する民家の明かりも混じっていると思うが、かつては民家もなかったようなところが市街化している。松尾山からその梅ヶ畑の山辺まで行くには、途中で桂川(大堰川)をわたる必要があるので、猿や鹿、猪は松尾山とは行き来がないと思うが、上流の保津川では案外歩いてわたれるはずで、獣たちは京都市内を巡る山をニンゲンを見下ろしながらぐるぐると回っているかもしれない。そう言えば、そんなことも山登りが趣味な先の男性に訊いてみたかったのだ。それはさておき、松尾山の尾根は松尾橋から見れば間近に迫っているため、写真を撮ると一部がクローズアップされたような歪な形になる。そのため、橋をわたり切って右京区に入った地点からでなければ全景が収まりにくい。本当は四条通りの中央に立って写せばいいが、車の往来が激しく、それは早朝でなければ無理だ。結局、橋の下流側の山は橋の下流の歩道際から、また上流側は上流の歩道際に立って別々に撮影し、2枚を合成した。山の稜線を揃えたが、少し間が抜けている。また、これは厳密には少し違うが、写真の右端が嵐山で、左端が苔寺と思えばよい。ほぼ平らな尾根続きは全長3キロほどだ。これはわが家からほぼ毎日買物に行くスーパーのムーギョ・モンガまでの片道の距離より短いが、山道は地上より歩くのに体力も時間を要する。休みなく歩けばそんなに大差なくても、数年に一回程度も山歩きをしないような筆者ならば、何度も途中で休憩したから、その時間を考慮すれば2倍かかると思えばいい。それでも2時間あれば充分のはすで、その程度ならば毎日でも山登りをして体を鍛えるのもいいし、実際そういうことを趣味にする人がいるのはよく納得出来る。また、近くの山を登る程度ならば、たいしてお金もかからずにいい。それに空気のきれいなところを歩くのは、排気ガスが満ちる車道沿いの歩道を歩むよりはるかに精神的にもよい。また筆者は地元をよく知る意味で、松尾山も一度は歩いておいた方がよいに決まっているし、毎日眺めるだけの山の中に入ってみるのは、自分を客観視することにもなるかという思いもあった。
松尾山はわが家の裏庭の向こうに迫る。これが気に入って、また仕事場の広さにちょうどいいので購入した。毎月3階のベランダから山の景色の一部を切り取ってホームページに掲載しているが、この山から降りて来る野鳥が空庭の合歓木によく留まってさえずり、その声で目覚めることが多い。今朝は7時半頃、グーグル、グーグルと鳩が2羽鳴いていた。起きて窓のカーテンを少し開けると、すぐにそれを察知して鳩は飛んで行った。その瞬間に別の鳥がやって来て鳴き始めたが、野鳥に詳しくないので名前がわからない。また驚かせないようにじっと窓越しに見ていると、その鳥の頭上を同じ声の鳥が飛び去り、それを追いかけてすぐに飛び去った。合歓木越しに裏の畑に植えられている数本の白梅の花が満開に見え、それが朝日で輝いていた。朝日に照らされる松尾山は、まだ冬の色だが、それでも春を準備していることがよくわかる華やぎがあって、見ていて飽きない。とはいえ、都会派の筆者はそんなに山をじっくり見つめ続けることはない。この山は高さ300メートルほどと思うが、てっぺんではなく、中腹よりやや上方の竹林の中で、何年か前の夕暮れに1、2秒明かりが灯った。カメラのストロボかと思ったが、オレンジ色だったのでライターの火かもしれない。ともかく、そこに人がいるのは確実で、その姿の見えない人がもうすぐ真っ暗になる山になぜいるのか、それがちょっと不思議でもあり、またそうした人がこっちを見下ろしていると思うのはあまりいい気分ではなかった。普段こっちから山を見るばかりでも、筆者は山中から部屋にいる自分を思い浮かべることが簡単に出来る。だが、実際は想像とは事情が大なり小なり異なるはずで、そのズレをいつか確認したいと思いながら、それを試すことがないままに終わってしまうことは人生には無数にある。だが、こうして書いていてもすぐ首を横に向ければ見える山であるから、その気になれいつでもその山に入って、わが家を見下ろすことは出来るし、それを実行してみたいと思ったのが3か月ほど前のことだ。自治会の集まりに、嵐山から松尾にかけての歴史的史跡などを、西京区が制作するパンフレットにまとめた人が出席した。その人物は昔から顔馴染みだが、そのような趣味を持っていることは知らなかった。そのパンフレットをまとめたことで、その人は市民新聞でその後顔写真入りで紹介されてもいたが、パンフレットの内容に筆者はひとつの不満があった。苔寺や鈴虫寺はしっかりと紹介されているのに、そのすぐ近くにある地蔵院が無視されている。そのことをやんわりとその人に伝えると、ああそうですねの一言で終わりだ。地元の人々が訪れるべき場所を示した案内パンフレットであるから、市販のものとは違って特色を出すべきであるのはわかるとしても、地蔵院よりもっと有名でない場所が紹介されているのに、地蔵院がないのは問題であろう。まとめる人の知識や好みによって、本来盛られるべき内容が見落とされる。そのため、市や区が印刷して発行するそうしたパンフレットは何人かの目をくぐるべきだ。ブログとは違うということをもっと役人は知るべきではないか。

それはさておき、その人に次に訊ねたのが、松尾山を歩くのは簡単かどうかであった。そのパンフレットには山歩きのコースは記されていないが、嵐山から松尾にかけての数キロの山裾を紹介しているからには、おそらく山を歩いたことがあるのではないかと思ったのだ。答えは、歩きやすく、よく歩いているということで、それで筆者は近いうちに歩いてやろうと決めた。一方、歩いてみようと思った直接のきっかけは、どこから山に登ればいいかがわかったからだ。それを見つけたのは、自治会長をして数日おきに配り物をするようになったからだが、筆者は家の近所のどの道もまんべんなく歩くかと言えば、決してそうではない。また比較的よく歩いても、見落としているものはある。その見落としていたもののひとつに登山口があった。それに気づいたのは、ある日の昼下がり、十数人の保育園児が保育師に引率されて筆者の眼前で山手の方に向かって入っていたことによる。その出入口に立て看板があって、松尾山ハイキング・コースと書かれている。3.3キロの長さがあって1時間半ほどで苔寺に至ると書かれる。保育園児が歩くほどであるので、これはとても上りやすい山に違いないと思った。だが、保育園児たちは苔寺まで行かずに、ちょっと高台までであったかもしれない。そう思いながら数か月経ち、何度も配り物でその前を通りかかった時、今度は中年のいかにも観光客といった身なりの夫婦らしき人がそこを入って行く様子を見た。街中を歩くようなコート姿で、そんなに気軽に登れる山かとびっくりした。いや、その時もひょっとすればその道を上がったところにある誰かの家を訪れるのかもしれないと思った。そうして少しずつ気になった山登りで、いつか山伝いに苔寺まで行ってみようとまともに考え始めた頃、家内が急に鈴虫寺に行ってみたいと言い出した。それは今月の中旬だ。地元にいるにもかかわらず、ふたりともまだ行ったことがない。筆者はその寺の長い石段上までは行ったことがあるが、拝観料を払って中に入ることもないかと思って引き返した。家内のその言葉で筆者は山登りを決めた。そして、雨が上がって2日ほど経った比較的天気のよい土曜日、今から鈴虫寺まで歩いて行くから、運動靴を履くようにと家内に言った。山を登ると言えば絶対について来ないので、そこは無言かつ騙しながらだ。それでわが家のすぐ裏手にあるそのハイキング・コースの出入口に立って、ここから山伝いに苔寺を目指すと言って、そのまま筆者は山を登り始めた。当然家内はいやいやで、ものの数分で帰ると言い始めたが、文句を言いながらも50メートルほど遅れてついて来る。1時間半ほどというのはさほどの距離ではない。登山口を入ってすぐ左手、100メートルほどの間に廃屋が数軒あった。戦前の建物だろう。それが半分樹木に押されて倒れかけている。現在人間の手が山裾からかなり上がったところにまで及んでいるが、人が住まなくなると、また自然はその人の住んだ跡を浸食し始める。