採り上げてしまったのでこのカテゴリーでは紹介しないが、ここ10日ほどは毎日ラヴェルのピアノ曲、特に「クープランの墓」を聴いている。

モニック・アースの演奏で、彼女の横顔がなかなか渋くてよい。女優のような美人だが、筆者が知る1枚だけの写真は50歳くらいだろうか。どのような恋愛をして来た人かと、ついそんなことを思ってしまう。モニック・アースの写真をネットで探したいが、なかなか見当たらない。それはさておき、パソコンが魔法の箱のようだと思うのは、ネット・オークションで古いレコードが簡単に探し出せることだ。レコードはもう限られた人しかほしがらないものになっているが、筆者もCDの方が便利で、めったにレコードを買おうとはしない。だが古本でもそうだが、初めて発売された時のものをなるべく手元に置きたい。とはいえ、それも価格と相談で、また何でも初版に限るという厳密派ではない。シャルル・アズナブールのこの「イザベル」という曲を最初にラジオから聴いたのは、ビートルズを初めて聴いた頃であった。筆者が入手したシングル盤は1968年制作のマークがあって、まさかと思ったが、解説を読むと1964年の曲とあって、人気があったので4年後に再発されたのだ。1964はビートルズが日本で紹介された年で、つまり筆者はほぼ同時にビートルズとこの曲を聴いたことになる。当時筆者は13歳で、もう意識的には大人であったが、この曲を聴いた時の気分は今と変わらない。あまりにも同じなので、13歳から成長していないのではないかと思うほどだ。この曲は13歳の男子にとっては、あまり聴いてはならないような、大人の恋心の真実を感じさせた。どういう内容を歌っているかは全くわからないが、それでも歌声からは完全にその内容がわかった。イザベルという女性に向けての愛情を歌い上げるもので、男がひとりの女性を好きになれば、こんなにも苦しいほどの気分になるのだなという、妙な納得で、その一方で自分にはまだその気持ちは完全にはわからないといった感じであった。前に書いたことがあるが、筆者は中学1年の時にクラスのある女性から交際を申し込まれ、「ああ、いいよ」といった気軽な気持ちでつき合った。交際といっても、ただお互いの家に遊びに行ったり、またグループでどこか郊外へ出かけたりする程度で、いわゆる男女の秘密めいた間柄といったこととは無縁だ。それが今では意味合いがかなり変わっているようで、男女の交際は肉体交渉があたりまえで、中学1年生でもそんな連中はいるだろう。いや、筆者が中学生の頃でもそういう連中はいて、そのうち悪さをして退学処分になったりしていたが、そういう連中の行為がその後はごく普通の子どもでもするようになって来たのだろう。これは世の中が乱れているという簡単な結論で済む問題ではなく、世の中が変化して、セックスに対する考えが違って来たからとも言える。それを一番よく示すのは、ポルノが半ば公然と認められていることだ。先日、高名な日本の写真家が、裸の女性を公道で撮影したとのことで書類送検されたが、それはほとんど見せしめであって、現実的にはそうした写真とは違う、もっと露骨なものがいくらでもネット上に氾濫している。そういう時代であるから、子どもたちがそれらに汚染されないでいることの方が無理な話で、こうなれば避妊をもっと積極的に教える方がいい。だが、不思議なもので、子どもにしろ、あるいは大人にしろ、男女がお互い好きになって交際が進むとして、そのことでたとえばこの「イザベル」という曲に歌われるような男の気持ちがすっかり時代遅れのものになったかと言えば、決してそうではなく、それはそれ、これはこれだ。
これも以前に書いたが、1992年秋、ロンドンのサイモンさんと飛行機に乗ってフランクフルトに向かっている時だったと思うが、サイモンさんはイギリスの男女の生涯における肉体交渉を持つ異性の平均的数値を教えてくれた。確か5、6人だったと思うが、それが日本と大差ないということで、人間はどの国も同じだなと笑い合った。また、サイモンさんはその平均的数値に自分を重ねたようであったが、この5、6人という数値が少ないか多いかは当然人によって違う。今では女子大学生でも1年に数人の男と関係を持つのはごく普通であるだろうし、その一方で童貞のまま卒業する男子学生もいるはずで、人によって大きな差があるだろう。そして、関係を持つ異性の数が少ないからといって悲観することはない。ひとりであっても1000人であっても、心の満足には大差がなく、どれだけ心に残る関係があったかどうかだ。そしてそれは相手から与えられるよりも、与えることで得られる感覚で、自分がどの程度相手のことを内面に思いとどめたかで計られる。つまり、愛や恋は相手があっての話だが、相手とは関係なく、自分だけの問題と言える。そのことを13歳の筆者はこの「イザベル」で直観した。イザベルという名前の女性を繰り返し歌う様子は、ほとんど恍惚状態、痴呆状態にあるといってよいが、そのように歌うシャルル・アズナブールという歌手の凄さ、またそのような表現をするほどに愛する女性がいるという男の内面の重さは、13歳でなくても、もっと年下の子どもでもわかるのではないだろうか。たとえば、まだ乳離れしていない子どもは、本能で母親を呼ぶが、それと同じような男性の本能がこの曲には赤裸々に示されている。そして、そんなことを歌って電波に載せるとは、当時のはやり言葉で言えば、何という破廉恥かとも思える一方、うらやましい気もした。それから筆者は40数年を生きたが、この曲と同じようなことを考えさせる曲には出会っていない。長年忘れていたものをなぜ思い出したのか自分でもわからないが、ごく自然にこの曲のメロディが浮かんで来て、そして数十年ぶりに聴いた。そして、何もつけ加えるものも、また引くべきものもなく、全く昔のままに聞こえた。40数年など一瞬で、その間に何をどう経験したというのだろう。確かに人並みに女性と交わり、子どもも育てたが、13歳の時に感じたまま、この曲が聞こえるのはどうしたことか。筆者は女性も愛も何も理解しなかったのかもしれないとさえ思う。
中学生の時にはもうひとりの女性と交際した。やはり同じようにお互いの家に行き来するような仲であったが、1年成長した分、女性の方はませていた。筆者は全く鈍感、あるいはそれを装って女性の積極的な気持ちに対して気づかぬ振りをして、手をつなぐ程度の仲に終わった。だが、筆者のそうした特定の異性との交際は、相手が好きでたまらないからするというものではなかった。相手が言って来たのでそれに応じたという感じだ。もちろん突き詰めると確かに好きではあったが、この「イザベル」に歌われるような切実さにはほど遠かった。ところが、たとえばクラスのS君はそうではなかった。Sは男前で運動能力に長けたので、かなりもてたが、Sの好きな女性は1、2年先輩で、しかも筆者にはどこがいいのか理解出来ないタイプであった。Sと一緒にいるところに、何度かその女性が通り過ぎたことがあるが、そのたびにSは筆者の学生服の袖をつついて合図をした。言葉をかける勇気がないほどにSはのぼせ上がっていて、クラスにもっと美人がいても、そっちには何とも感じなかった。それが恋の不思議というものだ。Sはとてもいい奴で、中学の卒業と同時に名古屋に引っ越し、そのまま音信も絶えた。あれだけの男前であるので、きっと数十人の女性を泣かせて来たと思うが、案外そうでもなく、ごく普通の女性にのぼせ上がってそのまま結婚したかもしれない。これも以前書いたかもしれないが、中学生の時に、別のクラスだが、美人でしかも運動神経の発達している女性がいた。やはり筆者は何とも思わなかったが、この女性にまた別のクラスのO君が熱烈に惚れた。そして、国語の授業の作文に、その思いのたけを書き、みんなの前で朗読した。その時、誰もがOの意中の相手が誰かを知っていて、えらくはやし立てたが、担任の先生はその様子をどう思ったことだろう。筆者は正直な話、Oの態度はフェアでないと思った。大人びて、どこかいやらしいとさえ思った。それはよくあるTVの告白番組と同じで、周囲の力を借りて自分の意気を高める、そしてその威圧を借りて相手を屈服させるという方法だ。中学生らしいし、開けっぴろげでいいと言う人もあるかもしれないが、男女のことは本来ふたりだけのことであり、他人に公言、あるいは助力を仰ぐものではないというのが筆者の思いで、それは今も変わらない。また、本当に好きでそれを打ち明けるとしても、筆者ならもっと別の手を考える。それにそうした勇気はなかなかないもので、その悶々としているのがいいのだ。ああ、そう言えば、中学生の時に交際したふたりの女性とは別に、筆者には好きな女性がいた。その女性と話すことは何度もあったが、いつも硬直してうまく話せなかった。それに、やがてきれいさっぱりに忘れて、あの時なぜあのような感情を抱いたのか、自分でもわからない。恋からすっかり覚めたということなのだろう。
「イザベル」を歌うアズナブールの男心は、今でも筆者には理解出来ない、いやしたくないところがある。それは恋の苦しみをよく知っていて、それに陥るのがいやであるからだ。そのため、恋は病気で、それにかからない方がよいとさえ思う。また、そのような恋心を抱くことの出来る女性が前に現われないために、そのような気持ちでいることが出来ているところがある。誤解のないように言っておくと、常にそうした女性の登場を待っているというのではない。それに、そういう女性とたまたま出会っても、自粛して気持ちを抑えるだろう。好きという感情を抱いても、それを抱いている間がよいのであって、それを相手に伝えてどうのこうのという関係はもう望まないところがある。不倫になることはさておいて、いい年をした大人がという気持ちがあるからだ。その点で筆者は滝口入道の気持ちにようやくこの年齢で到達したかなと思う。アズナブールの歌に戻ると、13歳の筆者がびっくりした箇所は、全部で4つある繰り返しのうち、その3番目の最後だ。アズナブールは語り口調で1、2、3番を歌うが、3番の最後では感きわまって、とうとう笑い声を発する。それが恋に狂った男の感情を見事に表現していて、13歳の筆者はそこに大人の真剣な恋というものに恐れおののき、そしてそれがよくわかる気がした。先に書いたように、男がそのように感情を露にするのは、幼児の頃までであって、それが大人になっても出るとすれば、それは本能からだが、そこに本能の恋心の凄さを思う。Sのように、親しい者全員に自分の好きな先輩女性のことを言う、あるいはOのように好きな女性讃歌を作文に書いたりすることも、ある意味では恋心の本能なのかもしれないが、アズナブールのこの歌は独白であって、突発的な笑いは自分で自分がわからなくなる瞬間があることによる。恋の恐ろしさと、その犠牲になっている男の心をこれほど鮮やかに演じて歌った曲はない。そして、もうひとつ筆者が印象に深くとどめたことは、第4番目になって、突如アズナブールの歌が真面目に変貌することだ。それまで伴奏に載せてほとんどアドリブの語り口調で囁いていた歌詞が、一気に歌としてのメロディを帯びる。その襟を正すような転換によって、それまで狂っているとしか思えない男心が、きわめて真摯な、そして美しいものに変貌し、それによってイザベルという女性の素晴らしさが空想の中で倍増される。この曲はアズナブールの作詩作曲だが、これほどの曲を書き、また歌える歌手は天才以外の何者でもない。そして、どれほどの深い恋心を抱ける女性がいたのだろうかと思う。実際の女性への思いなくして、このように歌うことはまず不可能だ。それほどにここには純粋で一途なものがある。だが、やはりどこか演じ切っているのであって、ただ特定の女性が好きでたまらないだけでは、これだけ人を感動させるように歌うことは出来ない。アズナブールがある女性への思いに触発されてこの曲の霊感を得たことは確実だが、その思いをぎりぎり客観視出来る余裕のもまたあった。それが大人というものなのだ。
筆者が入手したシングル盤は、ジャケットのカラー写真やタイトルのレタリングが1968年という時代をよく表わしている。鞍を持つアズナブールの写真はあまりこの曲には似合っておらず、もっとましなデザインにしてほしかったが、1964年に発売されたジャケットはモノクローム調であったはずで、それがどのようなデザインをしていたかは知らない。ジャケット裏面の解説にあるように、アズナブールは子どもの頃から舞台に立ち、やがてピアフの援助によって世に出た。さすがピアフということで、才能を見抜く力があった。また、その解説には書かれていないことがネット検索ではわかるが、アズナブールの両親は移民で、グルジアやトルコの血だ。名前がフランス風なのは、そのように芸名をつけたからだ。ここで興味深く思うのは、芸能の道に進むのは、どの国でもそうした移民など、どちらかと言えば虐げに遇う下層階級の人々で、芸術の国フランスでは特にそうであったのだろうなと納得する。シャンソンは人生の、ことに愛のドラマを歌うのが常であるから、芸術と高尚にかまえるより、人生の荒波に苦労して男女が出会うといった筋立てが好まれるし、また実際そのようなところからしか本当に人々を感動させる愛の歌は生まれない。だがこの曲で面白いのは、イントロかと締めくくりにバロック調の弦楽器の響きが高らかに鳴りわたることだ。それはイザベルという女性の冷徹なと言ってよい美貌さをよく表現しているが、アメリカ音楽にはないヨーロッパの伝統を見せつけるという点で、ピアフのシャンソンを受け継ぎ、そこに端正な美を添えて新しい現代性を生み出そうという思いがよく伝わる。また、バロック音楽風だけでは現代的ではないので、そこにジャズをプラスしているが、そこで思うのがジャック・ルーシェの音楽であり、また後のジェスロ・タルだ。タルの「ブーレ」はこの曲が遠くで影響を与えたと言ってもいいかもしれない。ともかく「イザベル」は、弦楽器の華麗なメロディとは別に、シンコペーションを強調したドラムやベースの控え目な繰り返しがとても特徴的で、筆者の散歩の速度にちょうど合って、この曲を思い浮かべながら歩いていると、周りの景色がいつもとは違ったように見える。よくぞこの単調な伴奏にアズナブールは語り、笑い、そして真面目に告白するように歌ったと思う。シンコペーションはバロック音楽とジャズを結ぶ要素であるし、それをよく知りながら、こうした新旧の音楽を合体させた伴奏のアレンジを施したのだが、伴奏よりもアズナブールの歌声が何倍も印象的でまた誰も真似出来ないほどの演技力をたたえている。筆者は彼の他の曲を知らない。だが、この1曲で充分才能がわかる。それにシャンソンの何たるかもよくわかる。歌詞について説明しようと思ったが、対訳を見ていると、「ぼくの心体も心も悩ます」という大人っぽい表現があることに今気づいた。それに対応する箇所は「Elles troublent mon corps,autant que ma pensee」で、3番目の最後、笑い声が入る直前だ。直訳すると「それはぼくの思考と同じほど、肉体を混乱させる」となるが、これは事実で、滝口入道の例からもわかるように、恋に深くはまると心身が狂う。また、それほどでない限りは恋をしたことにはならない。