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●瀧口寺へ行く
山樗牛の小説を読んでいる最中に瀧口寺に行ってみようという気になった。そして家内も読んだ後、2月9日の天気のよい午後に出かけた。



自宅からはちょうどいい散歩といった距離だ。もう10年ほど前のこと、往生院三宝寺、今は瀧口寺と呼ばれている寺からすぐ南西にある二尊院まで、急に思い立って自転車で行ったことがある。京都市の主催で嵯峨野の各地に前衛的な現代彫刻が飾られたことがあって、その一貫で二尊院に作品が飾られ、それを見るついでに無料で入ることが出来たのだったと記憶する。確か梅の花が咲く3月上旬で、嵐山に観光客が押し寄せる直前であった。天気がとてもよくて、しかも寺にはほとんど人はおらず、それが静けさをなおさら強めていた。寺の奥まったところに、苔蒸した石造りの壁が連なる法然の大きな墓陵があった。その前にたたずむと、遠い歴史が凝縮されて手の届く眼前に裸のままあり、ひんやりと清らかな空気の中で、京都に住む重みを感じた。そう言えば、そこからもっと下がった一角に富田渓仙の墓もあるが、その時はそれを探さず、今もなおそれを見ていない。嵯峨野に住んだ渓仙が二尊院に葬られる有名人のひとりとして名前が挙げられているのは、渓仙ファンにとってはうれしい。帰りは二尊院の門前に停めていた自転車に乗って、一気にわが家まで戻った。小倉山から渡月橋の方面に向かっては下り坂で、ほとんどペダルを漕ぐことなく、走ることが出来たが、要した時間はわずか5分であった。観光客が多いシーズンはそうは行かないが、通行を遮るものがないとそんなに近いのだ。そのため、なおさら嵯峨野には足が向かないが、やはりたまに散歩するのはよい。だが、二尊院辺りまでは行っても、それから先にはほとんど行ったことがない。そのため、瀧口寺には行ったことがなかった。いや、大昔に一度くらいはその前まで行ったかもしれないが、もう記憶にない。瀧口寺よりも、すぐその隣の祇王寺が有名で、同じ『平家物語』に出て来る人物に因むが、平安時代はその付近は僧坊が多かったそうだが、応仁の乱などによって祇王寺と往生寺三宝寺のみが残ったそうだ。そしてそれも明治維新に廃寺となった。その後祇王寺が復興され、次に往生寺三宝寺も蘇ったが、高山樗牛の小説に因んで寺の名前は「瀧口寺」となった。樗牛の小説がよほど有名であったことがわかる。実際、この小説を読めば、一度はこの寺を訪れたいと誰しも思うだろう。筆者は30年前にその機会を思ったが、30年後にそれを実行したわけだ。この30年、寺の近辺はさておき、境内は少しも変化しなかったろう。今回時間はあったが、祇王寺には入らなかった。筆者らが祇王寺の門前に到着した時、タクシーの中から恰幅のよい初老の男性や西洋人の若い男性らが下り立った。そして、何やら説明しながら寺に入って行ったが、筆者らはそのかたわらにある細い道に入った。突き辺りまで50メートルほどあって、そこが瀧口寺の門だ。そこにかつて横笛が時頼を訪ねた。9月の夜だ。横笛は数時間ほど立ち尽くしたが、時頼は出て来なかった。そして、来た道をまた横笛は行き、ふたりは二度と顔を合わせることがなかった。横笛がその後どうなったかは諸説あるが、時頼は高野山に移った。そのため、瀧口寺に住んだのは1年ほどか。
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 二尊院から北上して祇王寺まで5分ほどだろうか。その間に家は建て込んでいるが、どの家も喫茶店やお土産店をやっていて、それが祇王寺門前から100メートルほどのところまで迫っている。その俗っぽさは渡月橋あたりと大差ない。名所に立地していることを狙って、観光客目当てに商売というわけだが、2月は京都の観光客は最も少ない時期で、どの店もほとんど客は入っていなかった。そうした店の落ち着いた雰囲気はそれなりに心地よいと思うが、地元に住む者としてはあまり入る気はしない。それに古女房では今さらという感じで、誰かを案内した時にはいいかもしれない。昔、藤本義一が、嵯峨野を訪れるのは晩秋の夕暮れ間近がいいと言っていたが、2、3月の天気のよい昼下がりものんびりとしていいと思う。藤本義一が夕暮れの嵯峨野を感慨深けに思ったのは、もう30年以上のことではないだろうか。その頃と今では、祇王寺界隈の家の混み具合はかなり違う、あるいは店を経営する家が増えたはずで、夕暮れになるとそうした店がみな電気が灯って嵯峨野のさびれた雰囲気はぶち壊しかもしれない。京都はどんどん山手を削って家を建てるしかない。たとえば、ここ1年ほど前に気づいたが、松尾橋から北東の山辺を見ると、一番手前の緑色の山の頂上に真っ白な大きな塔が建っていて、それが異様に目立つ。一体何の施設なのか、毎日気になり、先日からは地図で場所を探し出そうとしているが、ネット地図の航空写真でもそれらしきものが見えない。いつの間にそんな塔が出来たのだろう。夜になるとその辺りがぼんやりと白く光るのが、町の灯だ。京都盆地からすればかなり山手の高いところに町か、あるいは学校か、宗教施設が出来たのだろう。左大文字山の東北辺りではないかと思うが、そこは昔は山だったはずなのに、今は道を通して住宅が建て込み始めている。筆者が鳥ならば、その塔まで飛んで行ってその場所を探し当てたいと思うが、地上を車で走っても途中できっと見失うだろう。6、7キロ離れているからこそ見える、あるいは本当の間近でない限り見えない。これは横笛の時頼、あるいは時頼の横笛に対する思いに似ていたのではなかったかとも思う。そして、時頼は横笛の顔見たさに何度も月夜に横笛の住む家まで行ったが、結局間近でもう一度見ることは出来なかった。それは横笛も同じで、おそらくちらりと1回見ただけの時頼に二度と会えなかった。
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 瀧口時頼が僧になったのは、横笛に何度手紙を書いても返事がなかったからだ。時頼は大男で、しかも無骨な武士の代表であったが、ある日清盛の宴で横笛の舞姿を見て恋心を抱く。当時23歳。初恋だ。自分がなぜ横笛に魅せられたのか、その理由がわからないほどに毎日横笛のことを思い、すっかりやつれ果て病人のようになり、その一方で今まで軽蔑していたきらびやかな衣装や武具を身につけてお洒落するようになる。恋は魔物で、どんな危険も怖くない時頼が全くの骨抜き状態になってしまった。横笛にひょっとすれば出会うかもしれないと思って、夜の散歩に横笛が仕える屋敷の前まで知らず知らずの間に歩を運んでしまう。それは恋をしたことのある人ならば痛いほどよくわかる行動で、人間の本能をよく描いている。横笛は一向に時頼に返事をよこさない。それは、同じ平家の他の男からも手紙をもらい続けたいたからだ。だが、横笛の心は本当は時頼にあった。時頼にすまないと思いながらも、ふたりの男のどちらかを失望させることを思えば、どちらにも返事を書くことが出来ない横笛だ。それもまた純真な女性を描いて美しい。何度手紙を送ってもなしのつぶての時頼は、ある日父親に横笛との結婚を許してもらおうとするが、父親は身分の低い女との恋を許さない。そして、憔悴し切った時頼は、ふとある日、自分が恋の虜になっていたことを自覚し、きっぱりと横笛を諦め、仏門に入ることを決心する。これも筆者にはよく理解出来る。若い頃の一途な恋はそれほどになるのが当然で、筆者に同じような思いを抱いたことがある。時頼はその決心を父に打ち明けると、父は大いに怒り、失望する。それはそうだろう。将来の家を任せるべき息子が恋に狂って世を捨てるというのだ。だが、時頼の決心は変わらない。その後、小倉山の裾、二尊院の北の往生院三宝寺に入る。時頼が僧になって世を捨てたことを知った横笛は驚き、そして自分のためにそのような行為をした時頼に、自分の心を伝えるために、ある日ひとりで家を出る。横笛は御所の北に住んでいた。そこから嵯峨野は西に5、6キロだが、現在のように歩きやすくはなく、すぐに暮れてしまう中、どんどんさびれた方角へと向かうのは、心細かったに違いない。その一方で、ようやく時頼に自分の心を伝えるのだというはやった思いもあった。その横笛の女心を想像するとよい。また、そうしたことを思わせる樗牛の表現は見事と言うほかない。そこには異様な熱がこもっている。また、樗牛は横笛が時頼に会うために歩む道筋を比較的詳しく書くが、それは京都をよく知る者にすれば実に鮮やかな場面で、自分が横笛になって歩いているような気にさせる。そして、横笛がどのようにして寺にたどり着き、どのようにして時頼に会おうとするのか、それを知りたくて、本からもう目が離せない。横笛はようやく時頼がどこにいるかを知り、その門の前まで行くがもうすっかり夜だ。扉を叩いて自分が横笛であることを伝えても、時頼はそれに応じない。横笛は傷心して寺の前から去る。
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 現在の読者には、時頼の決心の固さが理解出来ないかもしれない。横笛は時頼が僧になったことを知った時、自分のせいであるとばかりに泣き暮らしたが、どのような気持ちで時頼に会いたいと思ったのだろう。時頼は横笛への思いはもう過ぎたこととして、きっぱりと僧としての生活に迷いはなかったのだが、それが男というものだろう。いや、『平家物語』の時代は女もそうであったことは、祇王と祇女、そして祇王の代わりに清盛のそばにいることを許された、同じ白拍子の仏という若い女もまた、実にきっぱりと世を捨てて尼になった。そこには仏教という強い存在があって、人々がそれを心底信じていたという世情がある。仏教は今も日本で健在だが、平安時代のような信心はもはやない。となれば時頼や横笛の考えも理解出来ない部分が大きいだろう。樗牛の時代はその点はどうだったろう。これは明治半ばと現在の社会がどの程度違うかという問題に還元出来そうだ。樗牛は小説の題名を『瀧口入道』としたのであって、横笛の生涯について書くことが目的ではなかった。そして、時頼がその後どのような人生を歩んだかを樗牛は書くが、そこには忠義への思いが強く表現されている。その忠義もまた現在の日本からは限りなく失われたものではないだろうか。忠義の心を強調しているように見える『瀧口入道』は、やはり明治の産物で、この小説が当時歓迎された別の側面を想像させる。だが、人間はしょせん死ぬ存在であり、各自がどのように死ぬかは各自に任されており、時頼の行動を批判することは出来ないだろう。平安時代に現世もあるが、あの世もあると信じられていた。また武士はいつ死ぬかわからない覚悟を常に持っているべきで、最も見事なと他人から思われる死に方をすべきだ。そこにはどう言えばよいか、いつも恰好よくいたいという思いが見えている。だが、それが男というものだ。いつの時代でも男はそうありたい。その意味かすれば、時頼の生涯はこれほど見事で恰好いいものはない。そんな恰好いい時頼に樗牛は憧れたのではないだろうか。そして小説は『瀧口入道』一編のみを書いたが、これまたとても恰好がよい。そして、その恰好よさは、他人に示すものという域を越えている時に、真に恰好よいもので、『瀧口入道』に示される時頼は確かにそういう境地に至っている。
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 瀧口寺に入ると、ひとりの若い男性がいた。『瀧口入道』を読んだのかもしれない。間もなく筆者らだけになったが、30分ほどいた間に誰もやって来なかった。横笛は寺の中に入らなかったのであるから、この寺の見所は、門にあるのかもしれない。そこにかつて横笛が立ち尽くしたことを思うと、胸が張り裂けそうな気がして来る。本堂の中には、ある日本画家が描いた横笛の俯き顔を見せて歩む姿があったが、それは筆者の横笛像とは全く違う。筆者なら横笛の顔を描かず、その後ろ姿を描く。横笛の顔は誰にもわからない。誰もが勝手に想像出来るからこそよい。その絵の隣の部屋の床の間には、横笛と時頼の木彫り像が並んでいた。それはせめてもの人々の思いだ。死んであの世で一緒に並んでいる姿なのだ。その前に座って庭を眺めると、門間近の樹木のてっぺんあたりから、耳慣れない鳥の大きな声が聞こえ始めた。がま蛙のような、あるいは板をばたんばたんと叩くような変な声で、初めて耳にした。それほどにこの付近には野鳥が豊富なのだ。それは時頼や横笛の時代からあまり変わっていないと思いたい。いや実際に変わってはいないだろう。小倉山は筆者の家の窓からもよく見えるし、嵐山駅前からはその全体が眺めわたせる。平安時代から有名なその山を毎日眺めて暮らしているというのち、筆者は全くと言ってよいほど当時の文学に関心がない。それが樗牛の小説によって、ほんの少しは魅力を知った気がする。
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by uuuzen | 2010-02-21 23:39 | ●新・嵐山だより
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