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●『瀧口入道』
がもつれたように、記憶がすっかり曖昧になってしまうことは年々増えるが、遠い過去でも、その断片は何らかの形で意識の底にあって、それが何かの拍子に思い浮かぶことがある。



●『瀧口入道』_d0053294_002576.jpg意識の底にあるそうした記憶の方が、そうでない記憶よりはるかに少ないはずだが、生きる意味は意識の底に記憶をとどめることにあるとも思える。それは死ととも誰にもわからなくなるが、そう思えば改めて生きる意味は何かと思ってしまう。さて、1980年代前半、筆者は染色工房に勤めていて、そこの主宰のような形となって若い連中と一緒に5、6年間仕事をしていたことがある。かつては寮として使っていた木造2階建ての大きな建物で、元来部屋が10個ほどあり、そのうちのいくつかは壁をぶち抜いて使ったが、筆者が辞めた後、閉鎖になり、その後建売住宅に変わった。筆者は工房1階の奥の部屋でキモノの下絵を描いていたが、毎日朝から夕方までNHKのFM放送を聴き、クラシック音楽ばかりではなく、古い邦楽(歌謡曲ではない)や朗読もそれなりに楽しんだ。朗読は午後2時頃だったと思うが、有名な俳優を起用して毎日15分か20分ほどあった。長い小説となると1か月で終わらず、それを毎日聴くのは、短編にはない楽しみがあった。当時の筆者は1日中部屋の中でひたすら花の図案ばかり描くのであるから、腰を落ち着ける覚悟が必要で、そんな時に長編小説が毎日決まった時刻に少しずつ朗読され、それに接することは仕事に向かう気分によい影響を与えた。時間の流れを毎日確認し、日々仕事が少しずつ完成して行く友禅の仕事は、あちこちかけずり回る営業マンとは全く違う資質が必要で、また耳だけが自由であるため、音楽やラジオ放送は気分の安らぎになる。朗読もまた音楽的なものと言ってよく、よい声でわかりやすく言葉を発音する様子を聞くのは、自分で黙読するのとは違う楽しさがあり、聞き手を引き込ませる朗読者の才能に感嘆したものだ。今でもNHK-FM放送はそのような朗読の時間を作っているのかどうか知らないが、30年近い前のことであるから、もうかなり番組内容も変わってしまったことだろう。だが、ラジオを楽しむ、あるいは職業的にラジオを楽しむしかない人はいつの時代にもいるはずで、そういう人たちのためにラジオ放送の基本的なプログラム内容には差がないと思う。筆者が毎日NHK-FMを聴いていたのは10年間ほどで、規則正しい生活によって仕事は充実していた気がする。今のように、自分の時間を100パーセント自分で好きなように使えるようになってからは、目指すものに最短距離で向かうので、無駄はないと言えるが、その無駄のなさは余裕のなさにつながりかねない。そのため、また毎日NHK-FMを聴く生活を始めるのもいいかと思うが、その踏ん切りがつかないのは、部屋があまりにもガラクタで占領されてしまって、もう自分の手では整頓が追いつかなくなったことにもよる。これを根本的にどうにかする時期に来ているが、そう思いながら、いい案がない。もう1軒家があればいいが、昔ある人から言われたことに、老いるほどに身辺のものを処分する必要があるし、また物が増えるのは性質によるから、仮に別の部屋あるいは家を用意したところで、すぐにそれもいっぱいになるという言葉があった。それらをたまに思い出してはなるほどと思うが、筆者の仕事はとにかく場所を広く専有する必要があり、また資料も増えるので、いつまでも同じ容積の空間ではそれが狭くなるのは当然だ。
●『瀧口入道』_d0053294_0198.jpg それはさておき、最近たまたまの出会いがあって、高山樗牛の『瀧口入道』を岩波文庫で購入し、一気に読んだ。実に見事な小説で、読んでいる間のわくわくする気分は、ちょうど恋愛のそれのようで、ほかに比べるものがない。次から次へと読み手の心を導くのは、文章が巧みであるからだが、そういう小説は珍しいのではないか。筆者は小説を読まなくなってもう数十年も経つので、よくはわからないが、ともかく久しぶりに小説の面白さを堪能した。筆者が買ったのは昭和16年の第4版で、筆者が生まれる10年前の発行だ。古書店から郵送してもらったが、何と扉には「大山蔵書」という朱印がある。印の左上に「20」と鉛筆書きされているが、それはこの本が当時20銭で売られたたことを示すのだろう。今も発売されているが、筆者はなるべく古いものと考えた。それは樗牛が書いたのと同じ旧仮名使いで読みたかったからだ。その方が雰囲気が出る。樗牛の存命当時の単行本も古書店では売られているだろうが、安いという条件を考えると文庫本になる。それに、筆者はよく出かけるので、バスや電車で読みたかった。一読した後、また家内に勧めると、通勤の電車内で1週間程度で読み終えた。そして、同じように素晴らしいと感動の意見を述べた。読み終えて数日経った頃、筆者は急に遠い記憶、それも声が脳裏に響きわたった。それは全くの断片で、筆者には「横笛がかわいそう」という言葉と、それを発した時のその女性の笑顔しか思い浮かべることが出来ない。そして、それを30年ぶりに思い出したのだが、それを思い出した理由はもちろん『瀧口入道』に横笛という女性が出て来るからだ。そして、筆者がなぜ急に『瀧口入道』を読もうという気になったかと言えば、ひょっとすればその女性の遠い記憶が普段全く意識しないのに、何かの拍子、それはたいていと毎年巡って来る同じ季節の同じような日、あるいは同じような日差し、を感じてスイッチが入ったからかもしれない。いや、本当を言えば、先月日蓮宗の美術展について書いた時、樗牛が日蓮に大いに傾倒したことを知り、その樗牛についての著作を読みたくなったのだ。そして、『瀧口入道』を選んで買い、読み終えた後、女性の声の記憶を思い出し、そして今度はそこから30年前の染色工房でこの小説の朗読をラジオから聴いたことをようやく思い出した。つまり、昔ラジオで感動したものをもう一度自分で読み返した。そこで不思議に思うのは、確かにこの小説は言葉の運びに独特のリズム感があって、音として聞くのにふさわしい書き方をされてはいるが、言葉使いがとても古く、また漢字の字面からならば理解しやすいことが、ラジオで1回聞いただけでは意味不明ではないかということだ。たとえば「螺鈿の櫻を散らせる黒鞘に摺鮫の鞘巻指し添へたる立姿」や、「立烏帽子に稜長の布衣を着け、蛭巻の太刀の柄太きを横たへる」という表現を、こうして字面を見ると何のことかおぼろげながらも理解出来るが、これをラジオで聞いて即座にそれが表現する絵を想像することは、よほど平安時代の衣装や装身具に知識のある人でなければ難しい。そして、この小説はそういう箇所が次から次へと出て来て、それがまた何ともきらびやかな絵巻のような美しさとなっているが、それがよくわかるのは、筆者がこの30年、知識を蓄えたからとも言える。となれば、30年前に感動したのは一体何かということになる。だが、その時はその時で確かにこの小説に圧倒され、すぐにでも嵯峨野に行ってみようかという気がしたほどた。実際染色工房からこの小説の舞台になった嵯峨野のまでは3キロほどしかなく、その気になればいつでも小説をより実感することは出来たが、当時はそうしなかった。それはいいとして、30前の筆者がこの小説に感動したのは、前述の細やかで色鮮やかな衣装や装身具などが理解出来なくても、小説の中心である骨の部分だ。そして、それが理解出来れば、今なら細部までよくわかることはあまり意味がないようにも思える。つまり、筆者はこの30年の間、ガラクタの知識が増えただけということになる。
 樗牛の名前は誰でも十代の学校で知る。筆者もそうであった。それだけこの名前には印象深い語感と字面がある。だが、その意味となると、なかなか調べようとしないし、また調べる手立てもないが、ネット時代はその点便利だ。「樗牛」は『荘子』に由来するという。今その本を引っ張り出して調べるのが面倒なのでこのまま書くが、手元の漢和辞典を見ると、「樗」は役に立たない広葉樹とある。つまり瘤だらけで家具や建物には使用出来ないのだろう。『荘子』は反語的な書き方がなされているから、役に立たないものが実際は役に立ったりするというようにこの「樗」に意味を込めているに違いない。そして「樗牛」がそのままの形で『荘子』に出て来るのかどうかしらないが、役に立たない樹木と体全体が瘤の塊のような牛が合体している点で、その意味するところは誰にでもよく思うことが出来る。こうして書いていて画家の奥村土牛を思い出すが、ま、それは見当外れではないだろう。「土牛」をもっと凄味のあるように言い換えたのが「樗牛」と思えばよい。高山樗牛が天才的な人物であることを十代に学校の国語の先生から聞いたことを記憶しているが、当時は当然樗牛の文章を知らず、また読んでも理解出来なかった。だが、やはり大人からそういう天才的な人物について少しでも耳にしたというのは、後々まで影響を及ぼす気がする。これは青少年がかかりやすい暗示と言い変えてよいので、あまり大人の言うことを何でも心にとめるのはよくないかもしれないが、その点筆者は割合大人の言うことは何でもよく信用したし、また昔の学校の先生はそう思わせる貫祿があった。それで、自分が当時の先生以上の年齢になって、今頃樗牛の代表作でしかも一作しか書かなかった小説がいいと言っているのであるから、何とものんびりし過ぎて、これでは「怠牛」というところか。それはさておいて、その後の筆者が樗牛という字面を見たのは、美術における「樗牛賞」だ。これは20歳くらいにはもう知っていたが、今でもそれが何に由来するのかわからない。今本棚から『戦前の前衛展 二科賞樗牛賞の作家とその周辺……』と題する図録を引っ張り出した。蔵書印を見ると、1976年7月12日に購入している。はっきりと記憶しているが、当時美術館に往復はがきを送って、郵送で買えないかと質問して買った。関西に巡回しない展覧会で、仕方なく図録だけ買ったのだが、今その図録の解説を拾い読みしても、二科展になぜ「樗牛賞」が設けられたのか、またそれが高山樗牛に因むものかどうかはわからない。この賞は新人洋画家に与えられるものだが、賞が設置されたのは大正4年(1915)の第2回展からで、樗牛が亡くなって13年経っていた。この賞が高山樗牛に因むとすれば、樗牛の名誉を讃える団体などが設けたものと思える。だが、樗牛となぜ洋画の団体の二科なのか、その関係がわからない。樗牛と洋画は結びつかないからだが、樗牛は西洋のものを全否定はしなかったし、日本独自の洋画を目指した二科の方向とは根底では合致するとも思える。ともかく、「樗牛賞」を70年代に知りながら、今もなおその実体を知らないというのは、何とも筆者の怠慢をよく示し、ますます「怠牛」がふさわしい。
 高山樗牛はわずか32歳で亡くなっている。『瀧口入道』は読売新聞の懸賞に応募して1等賞を獲得した作で、新聞に33回連載された。当時樗牛は23歳で、3週間で書き上げたというから、ほぼ1日1章ずつということになる。新聞に掲載されるものであるから、1章分は短く、全部で100ページだ。樗牛は匿名で発表し、当時は誰しもが大家の手になると思ったそうだが、わずか23と知って驚いた。それは今読んでもそのとおりだが、その一方でこれは23歳でなくては書けない瑞々しさがあるとも思う。そして、この小説を書いた10年後に世を去る樗牛を思えば、この小説はまるでその短い生涯を予告しているように感じる。樗牛全集は分厚いものが5、6冊であったと思うが、それだけの文章を10年の間に書いたことは、どれほど凝縮した人生であったことだろう。そして、小説が『瀧口入道』のみというのは、以前取り上げた『無名の南画家』の場合と同じで、とにかく昔の人の文章の巧みさに感嘆する。現在の文芸評論家や美術評論家にそれほどに文章が巧みな人がいるだろうか。マスコミに出て名前を売ることだけに熱心で、ろくに文章を書かない、またそれを公言する評論屋をを見るにつけ、明治や大正とはすっかり変わってしまった日本を思う。『瀧口入道』の解説で知ったが、この小説のリズミカルな言葉運びは馬琴に近いらしいが、それほどのマンネリズムに囚われていないとのことだ。樗牛は山形庄内で明治4年に生まれたから、馬琴に近い文章を書いたのは理解出来るし、馬琴の文章を読んだことのない筆者だが、それがマンネリというのも何となくわかる。馬琴の伝統や技術を明治が引け受ながら、それを明治になったばかりの頃にまだ20代前半の樗牛が、清新なものに変えることが出来たのもまた納得出来るが、そこにはやはりもうひとつ天才ということを考えなければならないだろう。だが、筆者がうらやましいと思うのは、その天才性ではなく、やはり江戸時代がまだ近く、古典の『平家物語』によく馴染むことの出来た環境だ。『平家物語』は今でも読むことが出来るが、明治の最初の頃ではもっとそれに没入出来る精神構造が人々にあったのではないだろうか。だが、それを言えば先の言葉と矛盾するかもしれない。この小説の骨となる部分は時代が変わろうが普遍的なものと言ってよい。若い男と女の悲恋であり、それはいつの時代でもどこにでも起こり得る。そのため、今でもこの小説が読まれる。
 筆者は『平家物語』を読んでいない。どういう内容か程度は知っているが、今まで読む機会がなかったし、これからもないかもしれない。『平家物語』には多くの人物が登場するが、樗牛がなぜそこから瀧口時頼と横笛の物語を引用し、そこに空想で穴埋めしながら書いたかだ。ここには樗牛の時頼に対する個人的な思い入れがあったのではないだろうか。23歳の樗牛はおそらく恋愛のひとつやふたつは経験したはずで、そのなかには時頼と横笛の関係のような、一度しか顔を合わせなかったにもかかわらず、時頼にとって横笛の面影が去らなかったのと同じような、熱い恋心を覚えた経験があったのではないか。それは時頼が横笛を見初めたのが23歳、つまり樗牛がこれを書いたのと同じ頃であったことからも言える気がするし、時頼が潔く横笛のことをあきらめ、そしてその3年後に結局死んでしまうことことを、樗牛がある意味では格好よい生き方と思ったのではないかとも思ってしまう。この小説を読みながら、筆者は映画化されたことがあるかもしれないと思ったが、どんな女優が演じてもこの小説の印象をぶち壊す。実際は時頼が男前ではなく、また横笛も絶世の美女ではなかったと思うが、そうであったとしても夢が壊されることはない。それは、このふたりが擦れ違いながらも恋心を抱き、二度と顔を合わせることがなかったという激烈な事実の前にあってはどうでもいいことで、そのように激しく生きたことに対する羨望を誰しも覚えるだろう。その激しい人生というものに樗牛はきっと憧れた。そして、夭折したからにはそれが実践されたと言ってよい。そういう生き方を望む者はいつの時代もいるが、23歳で古典の中からあるエピソードを引き出し、それを華麗に脚色して感動作にする才能は、さて今の日本の大学生の中にどれほどいることだろう。梅原猛は小説はあまり意味がないといった発言をしたが、後に文学博士となって文芸評論家として活躍する樗牛が最初にこのような小説を書いたことは、樗牛という人間を考える時、そしてその魅力を思う時、重要なことのように思う。『平家物語』を読んだことのある者ならば、時頼と横笛の話は周知の事実であるから、樗牛のこの小説は創作という点であまり意味がないと思う人があるかもしれない。だが、ぐいぐいと読ませる筆力は全く樗牛のものであって、その文章の力を筆者は眩しく思う。
by uuuzen | 2010-02-18 23:50 | ●本当の当たり本
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