青空だがまだとても寒い6日の昼過ぎに大阪の東洋陶磁美術館に行って来た。伊丹にも寄るつもりが時間と体力がなかった。

この展覧会のチラシやチケットに印刷される青磁色の模様は、上品であるがあまり大きく主張することがなくてなかなかよい。よく見ると、上下左右対照で、全体の4分の1だけ描いて展開してある。また、チラシ全面の図柄の横幅を圧縮してチケットの全面に使用しているが、周囲のところどころ抜いた白地の領域が左右上下でわずかに差があるので、上下左右対照には見えない。本物の青磁の器の表面に見られるガラス質のひび割れを模したデザインだが、第1会場の入口に人の背丈ほどに拡大したこの全体図があって、それを見てコンピュータで描いたものとわかった。こうしたデザインは全部外注に任せているのだろうが、昔ではなかなか実現しにくかったデザインが可能になっている。この展覧会が開催された東洋陶磁美術館には昭和58年の開館当初から企画展はほぼすべて見て来たし、また図録も数冊を除いて全部買って来たが、近年は明らかに図録表紙やチラシ、チケットのデザインに変化があり、その四半世紀の間にすっかりコンピュータ時代になったことがわかる。また、中国では新しい発掘が相次ぎ、中国陶磁の歴史の未知の部分が解明されたり、またそれに伴ってこの美術館の企画展の内容も多様化して来た。それはそうと、長年続いた館の前の工事はすっかり終わり、川沿いの野外ステージとして使える場所も白い石が敷き詰められて見違えるようになっていた。そのように土を見せない考えはヨーロッパの建築の強固さを感じさせて、いかにも大阪市役所近くの立派な施設であることを示しているが、夏場を考えると筆者は感心しない。太陽が照りつけて眩しく、また気温が40度以上にもなって、とてもその辺りで腰を下ろす気にはならないはずだ。理想的なのは多くの樹木が植えられて、木陰が出来ることだが、それをすれば落ち葉の掃除をせねばならず、かえって人件費が高くつくという考えだろう。石貼りの豪華さは人を寄せつけないところがあって、その付近で誰にもゆっくりさせない、つまりホームレスを追い払うのが目的でそのようにしたと勘繰りたくなる。実際、市の本音はそこにあるだろう。その付近には以前青磁色と言うには派手過ぎる青空色のビニール・テントがたくさんあったが、それらは見事に一掃され、ホームレスたちがどこへ行ったかと思う。先日のネット・ニュースに、大阪へ行けば生活保護が受けやすいとばかりに、他府県の生活保護課が生活困窮者に大阪行きを勧めているとあった。いかにも大阪が他府県からどのように見られているかを示す話だが、その大阪はとにかく街をきれいにして、観光都市を目指している。そういう思いがこの館前の石だらけの光景だ。ところがその石を喜ぶ連中がある。10代の若者たちが市役所横の大阪国際マラソンのルートにもなっている石を貼り詰めた道で盛んにスケートボードで遊んでいた。その連中は市役所が休みのたびにそこで遊び回り、またあまりに強く地面にボードを叩きつけるため、せっかくの立派な石畳はひび割れや欠けが目立つ。普通に人が歩いたり走ったりしてそのような欠けが生じるはずがない。税金を投じて造ったそうしたものを何とも思わずに破壊するそういう連中はホームレスより一掃されるべき存在だが、近くの交番から警官が駆けつけて、なぜ注意し、また弁償させないのかが何とも不思議だ。そのため、美術館前の白い石貼りの階段つきの野外ステージらしき施設も、1、2年も経てばあちこち破損するのはまず間違いがない。その破損で思い出した。この館は2階に展示場があって、チケットのもぎりカウンター横の階段を利用するが、その階段の半ばの中央のある1か所の石がかなり目立って欠けていた。誰かが何かを硬いものをぶつけたのだろうか。かなり目立つ欠けなので、セメントで埋めるなどの措置を早急にすべきだ。
「欠け」は陶磁器にはつきもので、そのためにも今回の企画展のチラシやチケットの周囲に白く抜かれた部分を見せている。これは発掘された陶片を継ぎ、しかもその陶片が足りない時に埋める石膏のつもりだが、今回はそのような復元された器が展示の中心となった。発掘に際しては徹底して陶片を集めるから、足りない部分のある理由がちょっとわからない。かつてその場所に捨てられた時に、器の一部のみ粉々になったのだろうか。ともかく発掘された陶器は通常欠けのない状態で復元されることはない。必ずどこかが足りない。それは恐竜の骨を考えればいいかもしれないが、骨は有機物であるから土に帰るであろうし、全体の骨格がそっくり出土しないことは当然であろう。陶磁器も土が成分だが、釉薬を塗って表面が腐食しにくくなった陶磁器のかけらのうち、ある部分だけがこなごなになったり、また土になったりすることは考えにくい。そのため、筆者にはどうも発掘された陶磁器が、いつも部分か足りない状態で復元する理由がわからない。今回展示されたもののうち、復元部分を青磁色で、しかも艶まで再現したものがあった。ぱっと見たところ、完璧な品物に見えるが、説明書きによると、手を加えたとある。足りない部分を石膏の白のままにしておくのではあまりに無粋なので、石膏ではなく別の何かを使って、表面的には本来の器の色や質感を模して充填しているのだが、説明書きを見た後で見ると、やはりかなり不自然だ。艶が鈍く、また多少表面がデコボコしている。人間で言えば整形手術を施したのだが、傷ついたものに後で手を加えると、そこが元とは完全には同じにはなりようがないことをよく示す。人間の場合は有機体であるので、自然と治癒して傷を隠すことにもなるが、陶磁器はそうではない。後から同じものを作り得るであれば、陶磁器の神秘性は最初からなく、名品と呼ばれるものの存在理由もない。名品は1回限りのものだ。それと同じものがどのような手段を使っても二度と再現出来ないから名品であって、その蘇ることのない命とでも言うべきものを陶磁器は最もよく内包している。それは中国人もよくよくわかっているのだろう。だが、かけらが完全には揃わない状態で、あまりにも美しい色の青磁を発掘した時、それを元の完全な形にしてみたいと思うのは人情で、石膏で白いまま充填するのが忍びないのだ。

汝窯の世界的名品として名高い1点がこの美術館にはあって、水仙を活けると美しいと思われたのか、「水仙盆」と名づけられている。長い直径が20センチほどの楕円形で平べったい脚つきの盆だ。実際はかなり小さいが、記憶の中ではもっと大きい。それは名品であるからだろう。今回初めて知ったが、この盆の上縁には欠けがあって、それを隠す意味で金属がぐるりと巻いてある。それは不自然ではなく、元からそのようになっていたかと思わせるが、日本で修復されたならば、その技術の高さとまた審美眼のよさをよく表わしている。ともかく、それは本来もう2、3センチ周囲が高かったが、そのような完全な品が台北の故宮博物館に4点ある。つまり、世界で5点しかないのだが、中国では「猫食盆」などと呼んで、猫や犬の食事用の盆とみなされているが、それと「水仙盆」とではあまりにイメージに差があり過ぎる。この盆は北宋の宮廷で使われたもので、用途はわかっていない。ともかく料理を盛ったのは確実で、それを水仙盆と名づけたのは、日本の華道の精神からの連想か。ちょうど今筆者の裏庭にも、去年秋に大山崎山荘美術館近くの古道具屋で買った水仙の球根が花をたくさん咲かせているが、昔筆者が作った青磁色と言うよりはホームレスのテントの青色を褪せさせた空色で、しかも同じ楕円ながら高杯型の器に水仙を活けてみた。それで納得したが、この美術館が所蔵する水仙盆に水仙を活けるときっと映える。だが、猫好き、犬好きからすれば、このようなきれいな器にペット・フードを盛って食べさせたいと思うだろう。中国でそのように名づけられているのは何らかの理由があるはずで、やはり宮廷で大切にされた犬や猫のための道具であるかもしれない。そして、そんな宮廷のんびりとした豪奢な姿を想像すると、この盆がそれなりにまた違った意味で優雅なものに見えて来る。
展覧会の副題にもあるように、今回は中国が発掘した成果を見せるものだ。汝窯(じょよう)は官窯、哥窯、定窯、鈞窯とともに北宋五代名窯のひとつとされるが、長年どこにあったかはわからなかった。1950年、河南省の宝豊県清涼寺村に窯跡が発見され、77年に汝窯に類似した陶片が見つかった。そして87年に試掘が始まり、2000年には6次調査が行なわれ、汝窯の中心焼造区がわかった。そして伝世品にはない器形が大量に見つかって、中国における100か所の重点保護大遺址のひとつに認定された。汝窯の器は世界で70数点しか存在せず、20世紀に知られるようになった。それほど数が少ないのは、宮廷のために焼いた期間が短かったからだ。そのために南宋時代すでに「近尤難得」との記述がなされた。宝豊県清涼寺村の窯跡が1950年に発見されながら、なぜ77年になってようやく汝窯らしき陶片が見つかったかと言えば、窯からは北宋以後の金や元の民間向けの製品も出土し、また青磁だけではなく、白磁や柿釉、黒釉も含むからで、おそらく土中に陶片がかなり重層化して、汝窯の陶片が出土するまで少しずつ掘っては選り分ける作業にかなりの年月を要したからだろう。窯跡は付近で良質の土が採れるのであれば何百年にもわたって使い続けられるから、王朝の交代があってもやきもの職人は新しい王室の好みに応じて焼き続ければよく、無名の仕事ではあっても最低限の生活は保証されていたと考えられる。それはどこの国でも同じだ。権力者が殺し合いを際限なく繰り返している傍らで、その権力者たちが用いる日常の道具、あるいは住居、武具など、すべてのものは無名の職人が毎日こつこつと作り続けたもので、そうした職人がいなければ権力者は権力を示す手立てもなく、また文化も育たなかった。筆者がよく思うのは、たとえば鉄人28号や鉄腕アトムにしても、漫画では簡単にそれらが博士の手によって作られたかのように描かれるが、実際は無数と言うべき職人や技術者が存在しなければそのようなロボットが出来るはずがない。華々しい主役、あるいは物語の陰にそういう無名無数の人々をいつも想像してしまう。
汝窯が短期に終わったのは、北宋が100年少々で終わったからであろうが、それ以外にほかの窯から達することが多かったためか。その辺りのことは筆者にはわからないが、汝窯の青磁が理想の色合いを恒常的にかつ大量に供給するのが難しかった理由も考えられるか。今回は80点ほどの展示で、第1室には焼成のための支え器具や色合いを試すテスト・ピースが並んでいた。後者は縦横2センチほどの破片に釉薬を塗って、それを10数個溝を刻んだ土の台に挿して窯の中で発色を見るものだ。同じことは現在の陶芸家もやっているが、自然の不純物が多く混じる釉薬や、また温度管理のための測定機器がない時代、いくらテストして理想的調合を見出したとしても、その色のとおりにいつも焼成出来て、しかも傷のないものが得られるとは限らない。そのロスの多さから汝窯の青磁が短期に終わったとも考えられるが、後述するように青磁の色合いは出土品から見る限り一定からは遠い。あるいは一定しなかったものが破棄されたかもしれない。汝窯の焼成温度は1200度プラスマイナス20度と言うが、1200度に対してその20度は薪の1本よりもっと少ない木材で容易に変化し得るものではなかったろうか。それに胎土や釉薬の化学的安定度にも発色は左右する。どちらも二酸化硅素が6割、酸化アルミニウムが2、3割といった含有量とのことだが、それをいつも職人は試験の繰り返しと勘に頼って作業した。そして一方では造形的な才能も欠かせない。また、うまく焼き上がるかどうかの運も左右しての伝世品の少なさだ。さて、またチラシのコンピュータによる模様だが、線模様で細かく区切られた各領域にはさまざまな色合いの青磁色が着色されている。汝窯が理想とした青磁色は「水仙盆」に見られるような水色と言ってよいようだが、これは西域のガラスの器の色合いを模したものだと言う。貴重品であったガラスを陶磁器で再現しようとするのはなかなか中国らしい発想だが、青磁のむっくりとした色合いはガラスの透明さとは全く違うもので、もっと温かく、より夢幻的だ。青磁にはさまざまな色合いがあって、人によって好みが違うし、今回展示されたように、青磁を専門に焼いた汝州張公巷窯址から発見された器の色合いは汝窯とは違ってもっとくっきりと濃く、そのために力強い。これは発注者がその色合いを好んだからだ。それに比べると汝窯の青磁の色合いはいかにもはかなく、それが稀少品で貴重なイメージと結びついて美しさを倍加させさているところがある。そして、現在ならば容易に汝窯の色合いは出せると思いがちだが、それが不思議なことに一見似てはいても、やはり味わいが全く違うと言うしかないものしか生まれ得ない。科学が発達して、汝窯の化学的特質がいろいろてとわかったとしても、それだけでは同じものを作り得ない。そこに芸術の不思議があるが、それは実際は不思議でも何でもない。人も世も1回限りで、二度と同じものは出現しない。

伝世品の少ない汝窯が発掘によってさまざまな形を焼いていたことがわかり、また色合いも水色に近いものから灰緑色もあって、全体に淡いが、多彩だ。また、高麗青磁にそっくりな形のものが多々あり、高麗青磁が汝窯に倣っていたがわかる。だが、色合いは微妙に違い、高麗青磁はまたそれなりに味わい深く、風土の差を感じさせる。発掘品から判別して汝窯の器形として最も多いのは「碗」だ。これが全体の28パーセントを占める。次が「洗」と「套盆」で、15パーセント、そのほかは「梅瓶」が7、「盆類」3、「盞」3、「盞托」2、「壺」1、「鉢」2となっていた。「盞」と「盞托」は対になるもので、円形のケーキのような台である「盞托」の上に「盞」を載せる。これら全部で100パーセントにはとても足りないから、いかに多様な形があるかがかわる。だが、大きな書き写し洩れがあるかもしれない。たとえば「香炉」があって、高麗青磁に見られるような「鴛鴦形」のものが展示されていた。これは発掘された中でも代表的なもののようで、中国で出版された汝窯発掘品の本の表紙にも採用されていた。また、その表紙には「宝豊県」の「豊」が「羊」の頭の二画を取り除いて、縦棒を「三」の第一画の上に突き抜かせた形であったが、なぜそんな簡略な字形にしたのだろう。あまりに簡素でとても「豊」には見えない。それはともかく、「鴛鴦形香炉」は欠けがあちこちあって惜しいが、精緻な造形は見事で、汝窯が色合いと造形の合致した味わいであったことがよくわかる。また香炉の断片として龍の足など数点が展示されていたが、そうした破片があるからには、完成品はもっと多くあったに違いない。発掘によって予想外に豊富な形が見出されたとしても、それが当時の実情どおりとは言えない。それにしても陶磁器はまだ土の中でそのままの色合いで長年保てるからよい。それに比べれば染織品はあまりに脆弱で、色さえも数十年で変化してしまう。水仙のような花の命はもっと短いが、どうせ毎年同じように咲く。そうした繰り返しの可能なものは名品とは言えないかもしれないが、水仙は水仙という完成形が名品なのだ。水仙の匂い芳し青磁空