午後にJR京都駅にある伊勢丹百貨店で開催中の展覧会に行った。ミヒャエル・ゾーヴァは知らない名前だ。いつもなら前もってどこかで入手出来るはずの展覧会のチラシだが、入場の際にももらえなかったし、出口付近のチラシ置き場にももうなかった。

そのため手元に画像としてあるのはチケットに印刷されている1点のみだ。こんなことは展覧会にはよく出かける筆者には非常に珍しい。ほとんど数年に1回のことだ。それはさておき、今年から来年にかけて『日本におけるドイツ』と題して各種の催しが日本各地で順次開催されている。このことは去年、京都荒神橋のドイツ文化センターからの案内で知ったが、楽しみにしている割りにあまり関西ではめぼしいものが開催されない。それが少し不満だ。つい先日、東京ではシュトックハウゼンが来日してコンサートも開催されたが、関西にはやって来ない。どうしても東京中心になるのは仕方がないのかもしれない。そういう中で今日のミヒャエル・ゾーヴァ展は、ドイツとしても国を挙げての後押しの形で日本で紹介しようとしたのであろうが、ドイツ文化センターはこうした特別の年間を通じての大規模な行事とは無関係に、ちょくちょくと芸術家の紹介をしているので、筆者にはさほど待ってましたという気持ちはない。筆者は知らない画家のまとまった量の作品を見せる展覧会に行くのはとても好きだが、伊勢丹のこの美術館はここ数年、よく外国の絵本の挿絵画家の展覧会をやっていて、ゾーヴァのチケットの絵を見ると絵本作家であることは一目瞭然であるから、そうした一連の百貨店の美術館の得意ジャンルの延長上にゾーヴァが選定されたことは容易に推察出来て、行く前からおおよそ内容の想像はついた。作品はどうせほとんど紙に描かれているはずで、それらは輸送に便利でしかも保険も比較的安くて済むから、百貨店内の美術展としては打ってつけのものなのだ。そして百貨店は客集めをする必要があるから、誰が見てもそれなりに楽しめるようないわゆる毒気のあまりない絵の作家が選ばれる。一部の美術にうるさい客よりも、若い女性をターゲットに絞ったような見せ方をするのも常套手段で、結果的には全くそのとおりであった。客の99パーセントは10代後半から20代前半までの女性で、見事に百貨店の思惑は当たっている。そして美術館の付近には若い女性が買いたがるようなブティックがたくさん並んでいて、百貨店のあまりにストレート過ぎる商法が丸わかりという格好だ。
前置きはもういいだろう。筆者はドイツ美術は大好きだ。フランスのそれよりも好きだ。今、手元のチケットの半券の束を調べたが、去年の7月と8月に同じこの伊勢丹美術館でアンドレ・ダーハン展、そしてイアン・ファルコナー展を観ている。そして9月には四条烏丸の大丸百貨店のミュージアムで『リサとガルパール展』を観た。これらの絵本原画展はみなそれなりに面白かったが、特に『リサとガルパール展』はよかった。これは夫婦が絵と文章を担当し合って絵本を作っているのだが、絵はゲオルグ・ハンスベーレンという夫が担当していて、これは名前からしてドイツ人かドイツ系のフランス人だ。絵本は丸っきりフランス的なものであったが、絵の具のタッチがどこかドイツ的なものを濃厚に匂わせていた。夕暮れに黄色く輝く百貨店のファサードを描いた絵があって、それはとても情緒豊かでよかった。その絵1点だけでもハンスベーレンが並々ならない才能の持ち主であることがすぐにわかる。その絵は数か月して百貨店の地下ウィンドウの背景などに大きく拡大印刷されて使われたが、その時はニヤリとしたものだった。やはりわかる人はいるのだ。さて、ハンスベーレンが描くリサとガスパールは、色彩がいかにもフランス風に洒落ていて、しかも美術ファンにはよくわかる古典美術の引用がふんだんになされていた。こうした一種のパロディとも言えるかもしれない手法は筆者は好きだが、ハンスベーレンは揶揄の意味合いで引用しているのではなく、あくまでも賛美であることが絵からは伝わった。また、自分の絵もいつかそうした巨匠の作のように美術館に並べられるであろうかといった、ちょっと傲慢かもしれない願望がのぞいてさえもいた。これはわからないでもない。画家なら誰でもそうであろう。絵本画家は印刷を目的にした絵を描く意味で、画家と呼ぶよりはグラフィック・デザイナーと言われるべきものだが、これは当の画家にとってはある意味では屈辱に内心思えているかもしれない。絵本画家が誰でもそうだとは言わないが、古典となった画家の作品をしばしば引用する絵本画家の場合は、かなり屈折した内面を持っていることが予想される。
そして今日観たゾーヴァもまさにそうしたひとりであった。屈折度はハンスベーレンの100倍以上と言ってよい。毒気もぷんぷんだ。絵本でありながら、かわいいと言うよりもちょっと不気味と言う方が当たっている。それがいかにもドイツの伝統そのもので、それが面白かった。そうか、絵本でもやっぱりドイツは完全にドイツ以外の何物でもないという思いと、最先端で活躍する絵本画家もやっぱり自国、そして自国周辺の国々も含めて伝統をじっくり学んでいるという、ごくごく当然なことを再確認した。ゾーヴァの絵はほとんどがグァッシュかアクリルで描かれている。アトリエの写真も何枚が展示されていたが、ハンスベーレンのそれに似てかなり小奇麗に整理されていた。ゾーヴァは1945年生まれであるので60歳になるが、顔はあまり印象的ではない。こうして書いていて筆者は同じドイツの画家のホルスト・ヤンセンを思い出しているのだが、両者を比較するのはあまりにも無茶と言われるかもしれないが、ゾーヴァの絵の中のドイツ性はヤンセンにも全く同じように流れているものであり、つい連想してしまうのも無理はない。ヤンセンは年齢もゾーヴァより15、6上で、近年亡くなったが、ヤンセンのアトリエならきっとゾーヴァのそれとは驚くほど違うはずで、しかも風貌も全然違う。画家の顔やアトリエを見ればおおよそどのような絵を描くかがわかると言ってよいかもしれないなとふと今日は思ったのだ。話を戻して、ゾーヴァが影響を受けた画家や流派は容易に推察出来る。それは18世紀から20世紀に至るドイツやフランドルの、たとえばフェルメールやルネ・マグリット、それにオランダの海洋画家だ。アクリル画ではあるが、可能な限り18世紀の油彩画のタッチを再現し、そこに絵本独特の、子どもから大人まで万人になるべく好まれるようなかわいい、しかしどこか周囲とは違和感のある言えばいいようなキャラクターを登場させるのがゾーヴァの得意とする方法だ。これは参考にする先駆の絵は違えどもほとんど先のハンスベーレンと同じだ。その絵本として成立する条件のキャラクターを取り除けば、そのまま古き時代の油彩画そのものに見えるから、ゾーヴァは本当は絵本画家、つまり挿絵画家ではなくて、絵のみで独立した画家になりたかったのかもしれない。しかし、古い時代のタッチを再現出来た程度で画家になれるはずがない。そうした才能ならばごまんといる。そこには絵本画家として立つだけの独自のものがあるということだ。しかし、ゾーヴァの古き油彩を模したタッチはあまり上手なものとは思えない。どこか舞台の書き割りじみて、味わいが乏しいのだ。実際ゾーヴァは1998年だったか、フランクフルトの歌劇場での『魔笛』の装置の絵だったか何かを担当しているし、イギリスのシリーズアニメ映画『ウォレスとグルミット』(筆者はこの映画は好きだ)の今秋開催のものに背景画を担当したという。これらはみなどこか書き割りじみた絵のタッチを思わせることをそのまま納得させる仕事と言える。細かく丁寧に描いてはいるが、それでも18世紀の巨匠の絵とは全然格が違ってオーラがない。
とはいえゾーヴァ独特の世界がないというのではない。それは歴然とある。たとえば会場で筆者がしばし佇んだ作品がある。それは縦が20センチ、横は40センチにも満たない紙にアクリルで描いたものだ。絵は、高さ10メートルほど上空から市街を見下ろしたもので、その風景は京都の人ならわかるが、三条蹴上の都ホテル前付近とそっくりだ。雨上がりだろうか、道路は濡れていて、絵の中央下に路面電車がやって来て、男が乗ろうとしている。道路はカーヴしながら向こうにまで続いていて、遠く煙る町並みの空は下の方がほんのりと紫色に染まっている。電車の右側の歩道には人がふたりほど歩いていて、石造りの建物にぽつんと1軒ある店のウィンドウは温かく輝いている。また電車の左は地面が下がって歩道になっているが、そこに老婆がひとりいる。街頭は銀色に小さく光っていて、やがて町は真っ暗になるだろう。この風景画は『エーリカ-あるいは生きることの隠れた意味』という題だったと思うが、その名前の絵本用に描いたもので、小豚がキャラクターとして登場する。しかし、この横長の絵には小豚は描かれておらず、物語には無関係に純粋に絵として楽しめる。どこか暗くて湿気があって冷たいドイツのこの街角の風景画だが、ひょっとすれば写真を参考にして描かれたのかもしれない。それはどうでもよいが、とても味があって感心した。それに、どこか夢のような感じが漂っていて、やはり絵本画家特有の物語性がその絵からたくさん伝わった。たとえばフランスのピサロやマルケといった画家の絵に似ているが、彼らの絵にはこうした物語性はない。また、夢のような感じを与えるということは、ゾーヴァの絵がどれもシュルレアリスムの影響を大きく被っていることと共通するもので、周りとは違和感がある小動物のキャラクターを除けば、そのまま普通のタブローとして見えてしまうことをよく説明もする。
会場出口の売店で確認すると、図録の販売はなく、またこの夕暮れの街角の絵の絵はがきもなくて残念だった。だが、ペーパーバックの原書や邦訳本が他のゾーヴァのたくさんの絵本とともに並んでいた。邦訳本はハードカヴァーであるので、ドイツ語の原書より500円ほど高く、1600円ほどしていた。原書も日本語訳本もこの絵は見開き2ページにわたって印刷されていて、絵が大きいのはいいがページの綴じ口では絵が切れている。また印刷の色は本物とは遠いもので、実物にはある艶っぽさとでも言うべきものが全然感じられなかった。また、実物はアクリル絵の具のタッチや盛り上がりがリアルで、その味わいは実物に接することだけによって楽しめるこうした作品のほとんどすべての命とも言えるが、残念なことに印刷では表面がぺらぺらの平らになってしまい、味わいも何もなくなる。この絵を観てゾーヴァの才能をまざまざと感じたが、もう1点、顎ににきびを1個生やした若い男の子の丸顔を画面いっぱいに大きく描いた絵もとても感心した。これは絵はがきでは背景が黒になっていた。白だったはずなのになぜかなと思ったが、ひょっとすればゾーヴァは2点描いたのかもしれない。髪がほんの少し違っていたからだ。きっと2点描くほどの自信作なのだろう。それはさておき、この男の子の顔は全くドイツ人そのもので、そこにはドイツのすべてが表現されていると思えた。それは究極的には賛美だが、ただ賛美するのではない。何しろにきびをはっきり描いているのであるから、ゾーヴァの意地悪さがわかる。つまり、真面目さも愚かさも含んだ人間の本性そのものをゾーヴァは描こうとしたのだ。それはゾーヴァのどの絵にも共通して流れているものだ。