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●『アイヌの美 カムイと創造する世界』
池契月展の会場に入って3、4分経った頃、50代の婦人がその母と一緒に騒々しく入って来た。思わず振り返ったが、母がどうやら耳が遠いらしく、娘は大声で絵を説明している。



●『アイヌの美 カムイと創造する世界』_d0053294_8544354.jpgその声は筆者の背後にある、最初から3番目ほどに飾られていた作品の前で一段と高くなった。その作品は六曲屏風の「近藤重蔵」で、向かって左にアイヌの人々、右にはふたりの武士を描く。武士のうちひとりが口髭を生やした近藤重蔵で、そのそばに若侍がしゃがむが、重蔵は折りたたみの椅子に座ってアイヌの男たちに自分の後方を指し示している。この絵には特別に説明書きがあって、重蔵が樺太や択捉など、蝦夷地を探検したとあった。娘は「この侍は悪い奴なんや、何も知らんアイヌを騙して土地を奪ったんや。その様子がここに描いたあるんや。……」と母に諭すように説明していたが、契月の思いを代弁していないのは言うまでもない。だが、アイヌと武士が対置して描かれると、現在の日本人はどうしてもこの娘のように思ってしまいがちであることもわかる。では契月はどのようにしてこの絵を描く気になったのであろう。1982年展の図録にはこう書いてある。「…重蔵は…4度にわたる航海によって樺太、千島、エトロフ島などを探検し、ロシア帝国の進出に対して北方の修備に盡力した。殊にエトロフ島では、ロシア人の樹てた十字架を棄てて「大日本恵土呂府」の標を樹てて去ったと言う。契月がこの作品を第10回新古美術展に出品した明治38年は、日露戦争も2年目を迎え、国民の間に反ロシアの感情も昂まっていたと想われる。契月が近藤重蔵の事績に着想したのも、当然のことながら、こうした時節に由来していよう。」 契月が反ロシアの感情を込めて描いたのかどうか筆者にはわからないが、契月が歴史画を得意とし、また沖縄を旅してその風俗を描きもしているところ、この絵はアイヌに注目した部分が大きく、しかもその眼差しは温かい。それはアイヌに同情的と言うのではなく、人間として近藤重蔵らと同じ重さで見つめている。となればそこには反ロシアの感情もないように思えるが、仮に契月が反ロシア主義者で、日露戦争を積極的に賛美していたとすれば、その後の日本の辿った戦争一筋の道、そして敗戦をどのように見たか興味深いが、昭和1桁時代の契月の作品が全体に悲しみの色合いが濃く見えるのは、その後の日本の命運を予期しているようにも思えたりする。それはともかく、この絵に描かれるアイヌの長老や若い女、子どもたちが、アイヌらしい顔をしていないところに欠点があるとしても、衣服や脚半は実物を観察して描いていることが確実で、京都にいた契月がそれらを間近に見る環境にあったことが想像される。アイヌの衣装は重蔵の時代から知られていたが、実物資料としてどれほどが京都にあったのだろう。柳宗悦は沖縄には何度も足を運んでその民藝についてはよく知っていたが、手元にある1997年の三重県美での『柳宗悦展』図録によれば、アイヌに注目するのは昭和16年(1941)に日本民藝館で杉山寿栄男の600点ほどのアイヌ・コレクションを展示してからで、契月の「近藤重蔵」から40年近く後のことだ。柳がアイヌの工芸をどう見ていたかは、誰しも想像出来るように、信仰そして真実の美ということだ。
●『アイヌの美 カムイと創造する世界』_d0053294_8552117.jpg

 さて、この展覧会は今年最初に見たもので、さきほどチラシを30分ほど探したが出て来ない。それで取り上げるのをやめようかと思ったが、幸いチケット裏面に簡単な説明がある。3項目あって、まずその初めの『世界が注目』には、「江戸時代の終わり頃からアイヌ文化はロシアやヨーロッパ各国の注目を集め、明治時代になると、多くの研究者や収集者が北海道を訪れ、アイヌの人たちから民具や工芸品を求めました。現在、それらは、ロシアをはじめとする欧米の博物館や美術館に収蔵されています。」 となると、契月が20世紀に入って間もない頃にアイヌの衣装を見ることが出来たのも納得出来るし、杉山のコレクションもそうしたアイヌ熱の一端であったのだろう。杉山コレクションが健在であるかのどうか、またほかにも日本人によるまとまった数の収集があってどこかで常設展示されているのかどうか、筆者にはわからない。それほどにアイヌの民藝は馴染みが少ない。昭和30年代には、よくアイヌの夫婦像や熊の木彫り人形があったが、その後それらもすっかり売られているを見かけなくなって、アイヌを意識することはほとんどなくなった。また、アイヌは元は本州に住んでいたのが、徐々に北方へ追いやられ、ついに北海道の果てにまで住処が限定されたと思っていたが、樺太や北方四島にも住んでいた。現在の日本はロシアとの間で北方四島の領土問題が解決しておらず、その陰にかつて大勢のアイヌが住んでいたことをつい忘れがちだが、アイヌの資料をロシアが収集していたことは知らなかった。今回はサンクト・ペテルブルクにあるロシア民族学博物館が所蔵する2600点の民族資料の中から215点を借りての展示で、1912年から13年にかけて、つまり契月の「近藤重蔵」が描かれてから7、8年後に北海道や樺太で収集されたものだ。収集年度がわかる点で貴重というが、ロシアから借りての展示は、日本で有名なまとまった収蔵がないのかと思わせられる。日本民藝館ではさほど数が多くないはずだが、ひょっとすれば民間にかなり所蔵され、たまにオークションに登場しているのかもしれない。いずれにしてもロシアほどには所蔵されておらず、またあまり公開されないとすれば、そこに日本がアイヌをどのように見て来たかの意識が微妙に反映している気にもさせられる。それはアイヌの民藝がさほど珍しくない、あるいは価値を認めないというのではなく、あまりアイヌ問題に関わりたくないという態度ではないだろうか。単一民族と言いたがる日本は、沖縄やアイヌ、在日外国人の民族的問題はおおっぴらにしたがらないところがある。また、その反対に、たとえばエジプト人がイギリスやフランスの大博物館に自分たちの祖先の民族芸術品が展示されていることを快く思わず、返還要求運動を起こすといったような近年の動向を見ると、現在も残るアイヌの人々は、自分たちの先祖が使ったものが日本の博物館などに展示されることを好まないこともあるかもしれない。アイヌは原日本民族であるから、徐々に日本という国家に同化して行ったのは自然な流れであるようにも思えるが、北海道や千島列島など、江戸時代には幕府の手が及ばない地域に住んでいたことを思うと、簡単に原日本民族と言い切ってしまえないところがあり、インディアンやイヌイットと同じような捉え方をした方がよい側面もあるだろう。今回の展覧会を見たのは、去年秋にみんぱくで開催された『自然の声 命のかたち-カナダ先住民の生みだす美-』の後ではちょうどいいのではと考えたからだが、予想はほぼ的中し、アイヌの造形はイヌイットの生み出す美とよく似ていると思った。極寒の風土であるので、それも当然かもしれない。話す言葉や風習の違う民族であっても、風土が似ていれば生み出す美は似た様相を呈する。それは柳宗悦的に言えば「用の美」だが、イヌイットにもアイヌにも共通するのは、それだけにとどまらない「飾る」という本能だ。
 「飾る」は「お洒落」と同じと言ってよい部分が大きいが、一方には宗教的意味合いがある。アイヌの宗教性はアニミズムで、今回の副題にある「カムイ」もそれと同じと思ってよい。アニミズムは自然への畏怖やまたその恩恵から本来どのような人々にもそなわり得る。一方、都市文化はこの自然を捩じ曲げて管理するから、そこに住む人々は宗教性を見失いがちになる。信仰したいのは金であり、それのみが恩恵を与えてくれるもので、つまり畏怖すべきものだ。となると、都市においては「飾る」ことと宗教性は無関係で、どんな色や形のものでもTシャツにプリントして着用し、すぐに飽きては次のものをまとう。そしてそのことが豊かさであり文明の力と思っている。江戸時代はそうした文化が一気に巨大化した。そしてそういう文化を背景にして、たとえば近藤重蔵が北方を探検し、アイヌにも会った。アイヌはそうした都市の文化を知らないから、そこで生み出される無数の「飾り」の品々を目が眩むような思いで見たことだろう。そして大きな船でごっそりと荷物を日本中に運搬していた当時、北方で採れるものは大消費地の上方や江戸に運ばれたが、アイヌの人々がほっしたのものは、より猟や漁のしやすい道具類であり、また「飾る」ための素材、あるいは完成品、そして一旦覚えればやめられない中毒をもたらす酒や煙草といった嗜好品であったことは容易に想像出来る。そして、小さな子どもの手をひねる以上に簡単にアイヌの人々を搾取することが出来たに違いない。あるいは、アイヌの人々が内地の文化に強く憧れたため、自分たちから同化を求め、以前のような生活を捨てたというのも何割かは当たっているかもしれない。ともかく、アイヌはロシアや日本に抵抗して国家を作ることにはならなかった。カムイはめくるめく都市文明の産物に負けたということか。柳宗悦がアイヌの衰退をどう思っていたかだが、ひとつのヒントは朝鮮にある。日本に併合された国家の美術を柳は積極的に評価し、また白磁の白を朝鮮民族の悲しみの色と表現したが、アイヌや沖縄に悲しみを見ずに、朝鮮にそれを見たとすれば、そこに柳のどのような見方があったのかと思う。悲しみを言うのであれば、アイヌや沖縄もそうではないのだろうか。柳は李朝の白磁が「飾る」精神に乏しく、そのことが「生活の余裕のなさ」、そして「悲しみ」といったように連想したのかもしれないが、白磁以外の朝鮮の工芸や美術を見れば、朝鮮王朝が「飾る」ことに乏しかったとは言えないことを知っていたろう。あるいは柳は朝鮮人が喪服に白い麻地を用いることを知って、その連想で白磁に悲しみを見たのかもしれない。それはともかく、「悲しみ」というあまりに文学的な言葉を用いると話がそれ以上進まなくなる恐れがある。どんな民族でも人でも悲しみは知っているし、またそれを乗り越えようとする思いも知っている。そして、アイヌの人々もそうで、悲しみとその克服の両面が、言い換えれば祈り、信仰心が、手で生み出すすべてのものに表現されているに違いない。
 契月の「近藤重蔵」に描かれるアイヌの男女はみな誰もが知っているアイヌ独特の模様のついた衣装を着ているが、筆者が不思議なのは、その模様のパターンだ。その一単位は左右の親指同士、人差し指同士を突き合わせた時に出来る4本の指で囲まれる形と同じだが、これを分割あるいは繰り返すことで衣装の模様が構成されている。そうした模様を切り伏し細工、つまりアップリケの方法で刺繍した藍染めの布を、生成りの麻、あるいは逆に藍染めの地に生成りや淡い色の布を縫いつけている。見頃や袖、型など、模様の取り方は例外なく左右対照の構図で、衣装の形も模様の配置も桃山時代の小袖に近い。この独特の模様や配置は、最初に誰かが考えたはずだが、それがいつであったかはわからない。そしてその決まったワン・パターンを江戸幕府やロシアと交易するようになっても何世代にもわたり、また膨大な数の人がその縫い物の作業に従事し、守り続けたことは、そこに人々が共通して守った宗教、あるいはそうした思いを考えなければ説明がつかない。ロシアやビザンチンのイコンと同じで、それは完成したものであって、単なるお洒落的な「飾り」の意味から時には違った風にやってみるという融通性がない。もちろん、入手出来た内地の珍しい布や、作り手の個性によって、細部は差が出来るし、それはお洒落的「飾り」と呼んでよいものだが、全体として立ち上る味わいは昔からのものと変わらない。きっとアイヌの人々はそうした先祖から伝えられた同じ模様を身にまとうことで、同族意識を持ち、また自分たちは大きな自然の力から昔から同じように守られていると考えたのだろう。そして、単純ではあるが長い歴史を持ったそうした模様に対して、都市文明人は普遍的なものとして憧れを抱くが、柳がアイヌの民藝に注目し、それを評価したのもそこではないだろうか。柳はキリスト教や仏教と美を結びつけて考えることを常としたが、アイヌの美にも同様の宗教性を感じ取ったのだ。そして、それは教祖がいない原始的宗教で、自然崇拝と呼ぶべきものだが、そんな自然に馴染み、沿い、そこから生み出される用の美、また「飾る」ことを忘れない美であるところが、柳の考える民藝に一致した。そうした美はインディアンやイヌイットにもある。過酷ではあるが豊かでもある大自然に住む人間はみなそうした美を生み出す能力を持つ。そして、そうした美は現在の日本を含む大都市を抱える国家はみな生み出せなくなった。柳はアイヌよりも沖縄の民藝に力を入れたが、その理由が沖縄の民藝の方がはるかに多彩で作品もヴァラエティに富むからであったとすれば、「飾る」という意識をどう捉えていたかがほのかに見えそうだ。沖縄はアイヌより暮らしやすく、その分人々を強く結びつける宗教も不要であったと思えるが、柳はその点をどう思ったであろうか。宗教の美を問い詰めて行くと、沖縄よりアイヌではないかと思うからだ。そして目に鮮やかで楽しませてくれるものを多数生んだ沖縄は、アイヌよりもより現在の文明日本の美の状況に近い。
 アイヌの人々は青いトルコ石が好みで、それを使用した首飾りが展示されていたが、その鮮やかな青は空と海の色であり、それを最も好むところにも自然の中で生きる民族であることがわかるような気がする。見慣れた色の石ではあるが、それをアイヌが好んだと知ると、途端にその色が今までとは違った雄大なものに見えて来る。そして、その色を好んだアイヌの人々の思いの中に入ってみると、やはりそのような美しいものを生んだ自然への畏敬が顔を覗かせて来る。実際、そうした宝石類は自然の神秘を最も単純かつ永続的に覚醒させるもので、そうした宝石を身にまとって自然の霊力を得ようと考えたアイヌの人々の思いがよくわかる気がする。チケット裏面の3つの項目は『日本で初公開』で、ロシアのオムスク市にある同造形美術館所蔵のアイヌ絵12点について触れる。これは江戸時代の終わり頃から明治のはじめにかけて活躍した絵師平沢屏山の作品で、近年所在がわかったものだ。色紙より少し大きいほどのサイズで、細密にアイヌの風俗を描く。同じような絵は多く描かれたようで、写真代わりの売り絵を思えばよい。最も印象に残ったのは、アイヌの子どもたちが大きな部屋に集められ、医者から種痘を受けている様子だ。江戸時代の武士がアイヌの人々に天然痘を蔓延させまいとしていたことがわかるが、契月が「近藤重蔵」を描いたのはそうしたことも知ってのうえであったであろう。またある絵には現在の同じ場所を撮影した写真が添えられていたが、海辺で作業するアイヌの背後に滝が落ちる崖が描かれていた。北海道に行ったことのない筆者には馴染みがないが、その地は現在観光名所になっているようだ。かつてはそこでアイヌが漁をして生活していた痕跡は何も残ってはいない。博物館の資料として、あるいは民藝品として衣装や木工の生活用具などが残るだけで、アイヌの人々が現在ごく少数生きているとしても、かつてと同じ風習はもう残されてはいない。そのようにしてどんな民族も長い歴史の間に姿を消すであろうが、アニミズムも仏教もうすっぺらになってしまった日本がどんな強靭な美を残して行くことが出来るのか、あるいは出来ないのか、たまにはそんなことを考えてみるのもよい。
by uuuzen | 2010-01-24 08:55 | ●展覧会SOON評SO ON
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