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●『日蓮と法華の名宝-華ひらく京都町衆文化-』
●『日蓮と法華の名宝-華ひらく京都町衆文化-』_d0053294_11592126.jpg目する人がいるかどうかは問題ではなく、節目の気持ちから年末年始には長文を連日投稿しようと考えた。そして、ほぼ当初の予定どおりに松の内頃まで続けることが出来た。



●『日蓮と法華の名宝-華ひらく京都町衆文化-』_d0053294_0445676.jpg今日書くのは去年11月下旬に見た展覧会だ。気になっていたが、思うことがあったので書くことにする。同展は日蓮が「立正安国論」を北条時頼に奏進して750年を記念するものだが、この区切りのよい年度の催しがよく目につく。そのことが念頭にあって、先日東京のSさんと知恩院付近を歩きながら、仏教関係のことで「1300年記念」が何かあったはずと思ってこの展覧会と混同してしまった。後で思い出したが、「1300年記念」は今年の平城京遷都だ。ところで、その祭り初日までの開催日数をカウントダウンする電光掲示板が、近鉄奈良駅を上がった行基像のある広場の壁に取りつけられていて、それを以前撮影した画像を『おにおにっ記』の「おーナラっ記」のバナーに使用しているが、誰も気づかないはずなのでここに書いておく。さて、「1300年記念」を混同したのは、来年親鸞の750回忌があって、そのことが京都ではよく目につくことや、映画『レッドクリフ』が1800年前の物語であったりすることにもよるが、最近頭の鈍化が激しくなり始めたのか、いろいろと混線するためだろう。正月早々家内は半年分を買ったばかりで3回しか改札を通っていない通勤定期を紛失してしまったり、また町内の問題や自治会の会合など、次々と処理すべき事柄を抱えていることも理由と思うが、そう言えばSさんに会ってすぐ、前日にSさんが訪れた名古屋と大阪の感想を聞くつもりが、当日午前中の行動を訊ねた。そして、その1分後にまた同じ質問をして、「さっき言いましたように……」と言われてしまったが、その時に昨日のことを聞くつもりであったと返せばよかったが、エレベーター内に他の人がいたこともあって口を閉ざした。ま、そういうわけでSさんと会っていた時、筆者が多少上の空であったのは、多忙かつ老化の始まりとSさんに納得してもらいたいと思うが、それをわざわざ言わなくてもSさんは充分それを感じているだろう。そう言えばSさんと一緒に見た文化博物館での祇園祭の記録映画に面白い場面があった。ビルの高みから宵山の鉾が立つ歩行者天国となった四条通りを固定カメラで撮影した10数秒ほどで、画面上下に二段に分かれた人の波の動きがフィルムの高速回転によって段階的に急速になり、最後は血液が血管内を猛スピードに流れるように見えた。まるでアニメーションで、同様のアニメ的手法は、もう1本同館で見た京都の映画産業のドキュメンタリー映画でも、すでに無声映画時代に試みられていたことがわかるが、ともかく祇園祭の血液状の人の流れの印象は先日の『イジー・バルタ短編集』の感想を書くきっかけになった。そのように、筆者が書くことはその契機となるちょっとした思いがあって、それがたくさんあり過ぎて時々物事をよく忘れ、また勘違いする。そう書いたところで、たとえば今日書く『日蓮と法華の名宝』をなぜ取り上げる気になったかだが、11日に地元消防団の新年会に出席したからだ。百人近い人が大広間に集まっての2時間半の宴会で、筆者の座席の近くである人が困り事を話題にし、その時創価学会を非難する口調になった。集まった人の中に創価学会の信者がいるかもしれず、そうなればその人を傷つけることになるから、そうした話題を口にする神経がわからない。ともかく筆者は信心のことで人を色眼鏡で見たくない。
 筆者は去年春から15の組を束ねる自治会長を担当しているが、ある町内に夏の地蔵盆の寄付を拒否する人がいる。そういう人は他の区にいると耳にしたことがあるが、事情を知らない組長が集金に行くと戸惑うことが多く、「あの人はキリスト教さんですか」と言ったりする。だが、そうではなくて創価学会の信者だ。なぜそうした人々が子どもたちの無事を祈願する地蔵盆に寄付をしないかと言えば、教えに反するからという理由だ。それは後述するように法華教に多少関心のある人ならすぐにわかる。また、創価学会と日蓮ないし法華教の関係には込み入った歴史があって、それをここで書くつもりはないし、また門外漢の筆者には詳しくわからない。それに『日蓮と法華の名宝』展では「創価学会」という言葉も、また「宮澤賢治」の文字さえも出なかったから、ここで書くべき内容は江戸時代までのことに絞ればよい。話題を変える。家内の姉が、日蓮宗の信者が京都には少ないのかという質問を、月参りにやって来るお坊さんに訊ねたことがある。その時お坊さんは、「いや、決してそんなことはないです。京都には寺も多いですよ」と答えた。筆者は図書館、美術館のある岡崎によく行くが、その時日蓮の銅像が交差点から丸見えになるように建てられて10年ほどになる妙伝寺の横をいつも通り過ぎるし、またそこから西へ500メートルほどにある頂妙寺にも入ったことがあるが、全体に日蓮宗の寺院は大きいにもかかわらずひっそりとしている。これは観光寺院になっていないことが最大の理由だろうが、末寺を抱えずに地元の信者だけが支えているからとも言える。日蓮につながる大正期に出現したいくつかの大きな新興宗教団体の信者数を含めると、日蓮宗の信者は最大派となるだろうが、日蓮正宗となればごく限られると思う。今回の展覧会で筆者が疑問に思ったのは、江戸時代初期に京都の町衆には非常に多くの日蓮宗の信者がいたとして、その後明治や大正、昭和にどうそれが変化し、また変化したとしてその理由がわからない点だ。もちろんそうしたことを書いた書物があるのだろうが、宗教に関心のない筆者がにわかにそうした書物に行き当たることは難しい。日蓮は房総の拠点にした人で、佐渡に流罪になったりしたが、拠点は関東であったため、日蓮宗が京都に根を下ろすのは日蓮の弟子の時代のことだ。それは日蓮の時代とは違って政権が鎌倉から京都に移ったことにもよる。時の為政者に認められないと、宗教は大きな勢力にならないことを教祖やその弟子たちはよく知っており、日蓮が「立正安国論」を書いたのも当然そんな理由からだ。つまり教祖は売り込みの精神と策略、そして強大な自信を持っている必要があるが、教祖に限らず、世の中で有名になる人は大なり小なりそうした才能が欠かせない。なるべく政治とつながらないでいようとする宗派もあるだろうが、多くの信者を集めると、自然と為政者の目にとまるし、そうなればいやでも政治とわたり合う必要が生ずる。
 筆者は無宗教であるので、宗教についてはわからないが、信仰を突き詰めて行くと、純粋性を思わないわけには行かず、すると平等という考えに行き着き、僧の考えや行動が目につく。何が純粋でそうでないかは人の勝手のようなもので、たとえば先日富士正晴の小説を読んでいると、江戸時代のある僧が村の後家と肉体関係を持つのは罪悪でないどころか、その後家が他人の旦那と問題を起こさないように僧が面倒を見るのはみんなのためであるといった話があった。四方が丸く収まるようにするのが僧の立場であるという考えだが、それを汚れていると考える人もあろうし、宗教や僧の話は簡単に割り切れるものではない。「立正安国論」が書かれた時期、日本は蒙古の襲来や飢饉があった。日蓮は、それらはすべて為政者が他の法華教以外を信仰しているからと、自分にとってつごうのよい理由を並べたが、そうした全く強引とも言える思想を堂々と言い立てるところに日蓮らしさがあって、信者は大きく減る傍ら、強い味方になってくる人が少なからず現われて来るのも理解出来る。一徹にやっていれば何事もそういうものだ。それに日蓮は61歳まで生きたが、強運の持ち主で、佐渡に流されたり、何度か襲われたりした。そうした生涯は劇や映画に恰好で、そうした媒体によって日蓮は近代にブームが再来した感がある。日蓮は法然の念仏や禅を否定して、仏教の教典では最高のものと考える法華教を広めようとしたが、法華教は日本には仏教伝来とともに入って来た古い教典で、日蓮がそれに目をとめたのは比叡山に学びに行った時だ。大蔵経を全部読むという大変な勉強を通じて法華教を最高のものとして信奉するようになったが、「不受不施」や、また信者は教えを広めるべしという考えを持った。「不受不施」は、宗旨を同じくする者から施しを受け、宗旨を違える者には施さないという、きわめて団結心の強い考えで、これは為政者にとってはやっかいに映った。たとえば法華教を信じていない為政者が、法要を強要してさまざまな宗派の僧侶を集めることは当然あるだろうし、秀吉が実際そうであったが、そんな時、為政者に楯つこうとする立場は、妥協する立場があって、日蓮宗も日蓮の没後、弟子の時代になった時、いくつかの派に別れた。「不受不施」はどこかキリスト教を思わせるところがあるが、江戸幕府にすればそうした信者の頑なな、それだけ純粋な団結は許し難く、「不受不施」を守ろうとする派は弾圧を受け、禁制となる。それが日の目を見るのは明治になってからで、その時に日蓮の再評価のようなことが起こったのだろうと思う。さて、筆者にはよくはわからないが、創価学会の信者が地蔵盆に寄付しないとのは、「不受不施」の考えが関係しているはずだ。また学会の信者が一時よく勧誘を盛んに繰り広げたり、また信者がよく会合をしたのは、みな日蓮の教えに沿った行為なのだろう。そして、たとえば学会のことを悪く噂する人があっても、それを日蓮が数々の苦難に遇いながらも強靱に信仰を深めて行ったことになぞらえて少しもめげることなく、むしろ逆に信心を深めるようになることもよく想像出来る。日本は八百万の神を祀る国で、御利益のあるものを何でも拝みたがるから、「不受不施」と聞くと、そこに何か疎外されたものを感じてしまうが、江戸時代の日蓮宗が「不受不施」では表向きやって行けなくなった時、日蓮の教えとどのように辻褄合わせをした諸宗が出来たのか、またそうした宗教にどれほどの信者が集まったのか、それが現在の日蓮正宗とどうつながっているか、先の繰り返しになるが、今の筆者にはわからず、今後の関心事になる予感もある。
 それはさておき、今回の展覧会では京都の町衆、特に芸術家に法華教が根づき、そうした作品を最後にまとめて展示するものであった。図録は買っていないが、手元には作品目録がある。各章の題を書いておく。1「法華文化の展開」、2「日蓮とその時代」、3「京都開教と西国への展開」、4「京都受難の時代」、5「復興と近世文化の開花」。日蓮宗で最も大事にされるのは、日蓮が書いた「日蓮曼陀羅本尊」という書の掛軸だ。これは誰でも一度は見たことのある日蓮の独特の書で、中央に「南無妙法蓮華教」と縦書きし、数箇所のハネを長い釘のように飛び出たせているが、この文字の両側にさらに多くの大小の文字を書き連ねて、文字による曼陀羅となっている。日蓮は同じ書をたくさん書いて、現在120ほどが伝わっているが、これは作家の限定サインのようなもので、信者にとってはこのうえなくありがたいものであることはよくわかる。しかし、絵ではなく文字であるところに日蓮宗の地味な様子が出ていると思える。その分、日蓮宗は京都の町衆の信者から芸術家を輩出し、それによって華やかに彩られていると言ってよい。「京都の町衆」という言葉は何か特別の響きがあるが、それは堺、あるいは大坂のように町衆が経済力を持って、ある程度の自治を任されていたことを想像させる。祇園祭にしても町衆の力があってあのように豪華で規模の大きな鉾や山が巡行出来たし、五山の送り火にしてもそうだろう。その五山の送り火のひとつに「妙法」があるのは、日蓮宗と町衆の結びつきを端的に示している。さて、日蓮は亡くなる直前に6人の弟子に後を託したが、全員2文字の名前で最初の文字は「日」だ。京都で法華教を広めたのは日親だ。彼は最初に布教した人物ではないが、日蓮より200年ほど後に生まれ、足利義教に法華教を説こうとして赤く焼いた鉄鍋を頭に被せられるという拷問を受けた。その様子は今回出品された絵巻「日親徳行図」で特に目を引いたが、よほど有名な話であるらしく、日親を語る時に必ずその鍋かむりのことが言われる。実際はそんも拷問を受けると死んでしまうし、為政者は僧をそのように殺すと祟りがあると内心恐れたので、なるべく殺さなかった。日親のそうした危機は日蓮に通ずるところがあって、当時としてはとても珍しい出来事で、その分日蓮宗にとっては大きな宣伝になったと思える。また日親の人柄がよほど人々に感銘を与えるものであったらしく、獄中にいた日親に刀の鑑定などを行なっていた本阿弥陀家が面識を得て信者となり、それから町衆に帰依する者が増加する。そこで本阿弥陀光悦や宗達、光琳といった琳派の作家が法華教の信者となって行くが、5「復興と近世文化の開花」の部屋がそうした人々の作品で埋められたのは言うまでもない。最も京都らしいと言ってよい芸術品が日蓮宗に深いつながりがあることを知ったとして、具体的に教義がどのように作品に活かされているかは、おそらく当時の日蓮宗についてよく知る必要があるが、それを通じても見えて来ない部分は残るだろう。それは現在という時代が仏教を深く信仰する人が少なくなっているからで、作品は昔と同じように見えても、作者の内面を理解出来る度合いは減ったと思える。芸術品を味わうのは今でも盛んだが、その味わい方がまるでおいしいものを眺めるような接し方では限界である。宗教と芸術の結びつきという観点を再確認させる意味で、今回の展覧会は筆者にとって意味があったが、展示作品はすでによく知っているもので、今さらと言う気がした。ひとつ書いておくと、重文で宗達下絵、光悦書の「鶴下絵三十六歌仙和歌巻」の展示は、9月に神戸市立博物館での『シアトル美術館所蔵 日本・東洋美術品名品展 美しきアジアの玉手箱』に出品された、元は一体であった「鹿下絵和歌巻」を見たばかりであったので、どうせなら同じ会場でそれらが全部並べられないものかと思った。一旦海外に流出した重文級の作品は、ほとんど買い戻すことが出来ず、異なる会場でほぼ同時期に見られることが幸運と言わねばならない。それはいいとして、琳派に支持された形の日蓮宗がその後どういうように町衆に受け継がれ、その信仰を保って造形活動を行なった作家がどれほどいたのかの説明が、簡単なものにしろ会場にはなかったのが残念だった。
by uuuzen | 2010-01-16 00:45 | ●展覧会SOON評SO ON
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