人気ブログランキング | 話題のタグを見る

●『KAFKA カフカ 迷宮の悪夢』
宮という言葉がチェコに似合うと日本では考えられているようで、イジー・バルタ短編集のビデオの副題は「闇と光のラビリンス」と、迷宮(ラビリンス)という言葉が入っていた。



●『KAFKA カフカ 迷宮の悪夢』_d0053294_144265.jpgその関連で昨日思い出したのが今日取り上げる映画だ。プラハの小説家カフカを登場させるこのアメリカ映画の原題は『KAFKA』だが、それでは内容がわかりにくいと考えられ、邦題では「迷宮」が入り、「悪夢」も添えられた。カフカの代表作『変身』は悪夢のような内容であるし、カフカの他の小説もだいたい「迷宮」的な味わいが濃いので、この映画の邦題はカフカをよく説明し、また映画の内容にもふさわしいと言えるだろう。1991年の公開で、当時筆者は新聞で数段抜きの広告を見た記憶が今も鮮明にある。映画を見ないまま10年ほど経った頃、つまり今から10年ほど前、場所は記憶にないが中古ビデオを200円程度で見つけて買った。だが、すぐに見なかった。筆者は本やCDなど、買ったままで読んだり聴いたりしないことがよくある。ほしくて買ったのに、すぐに内容を確認する気分になれず、そのまま放ったらかしになる。時には買ったことを忘れ、同じものをまた買ってしまうことがあるが、いずれ必要になるかと思いながら、そのいずれがなかなかやって来ない時がある。そして、機会がやって来なければそれでも仕方ないという考えだ。だが、昨日バルタのことを書いた直後、「迷宮」つながりでこの映画のビデオを見ていないことを思い出し、それで二度と機会がないかと思って、昨夜無理して見た。結果を先に言えば予想とはかなり違った内容であったが、ビデオのケースを見ると、銀色の紙にヘヴィメタ風の文字で「KAFKA」と印刷され、また男が手足を装着された変な、そして安っぽい写真があって、文学的な作品と言うより、完全にSF映画で、それが正しいことを確認した。拍子抜けした退屈な作品で、200円で売られていたのが納得出来るが、その退屈な理由をいろいろと考えながら、ブログに何か書いておこうという気になった。91年の新聞広告を見てから約20年後に作品に接し、その感想を今から書こうというのであるから、人生は先に何が待っているかわからない迷宮のようなものではないかとも思う。ところで、昨日はバルタのアニメについて書きながら思い出していたのは、東京のUさんのことだ。Uさんは3年ほど前だろうか、プラハに旅行したはずで、その時の感想を何も聞いていないが、プラハに旅するのはチェコの芸術に関心があるためで、Uさんは絵本も作るので、絵本大国のチェコの雰囲気を確認しておこうと思ったのかもしれない。また、Uさんはザッパのファンだが、ザッパは90年1月、91年6月にプラハを訪れており、観光客が必ず見る旧市庁舎の天文時計を見たり、またモルダウ川に架かる有名なカレル橋からプラハ城を眺めもしたはずで、Uさんはザッパの足跡を追体験したかったのかもしれない。あるいはカフカの小説に詳しいのであれば、カフカがプラハの街並みを悉知していたことから、何でもないような街路のあちこちに踏み入ったかもしれない。そして、そこに迷路を感じたかと思ってみるが、プラハの町がヨーロッパの同じような古い街と同じように道が迷路のように入り組んでいるのかどうか、筆者は知らない。
 さて、この映画は最初に早朝の霧がかかったカレル橋が映り、やがてプラハの街路の場面になる。1991年としてはきわめて珍しい白黒映画で、そのことにまずいきなり引き込まれる。そして音楽が鳴り響くが、それはツィンバロンのミステリアスな音であるのがまたよい。ザッパはアルバム『ザ・イエロー・シャーク』や『文明、第3期』でアンサンブル・モデルンにこの楽器をよく使わせており、この映画とは時期がシンクロしているが、ザッパがアンサンブル・モデルンを自宅に招いて練習させたのは91年7月のことで、同年に公開されたこの映画がアメリカで何月封切りであったのか気になるところだ。それはさておいて、白黒の画面の採用は陰鬱な筋立てに合わせた形だが、それよりも20世紀初頭のカフカの時代の空気を演出するためには白黒しかあり得ないと監督は思ったのだろう。監督はスティーヴン・ソダーバーグで、『セックスと嘘とビデオテープ』という有名な作品があるが、筆者は見ていない。また、カフカの写真は白黒しか残っていないが、眼光鋭く、その顔を見ただけでカフカの人物像、その作品のすべてが直観出来ると言ってよい。歴史に名を残す人はだいたいそのように顔が際立っている。男前や美人といった基準を越えて、とにかく一度見れば忘れられない迫力が漂っている。これが実際に会えばどうかと思うが、案外そんなオーラは感じないかもしれない。そう言えば矛盾になるが、とにかく作家のよく知られた肖像写真は、たまたまある瞬間を撮影したものであるはずなのに、そこに作家のすべてが含まれているような存在感がある。たまたま撮られたのがよくて、これが本人がどう写るかを強く意識して、ポーズを作り始めるとおそらく写真は迫力を欠くかもしれない。あるいはそのようにポーズをつける人格であることを正直に晒してしまう。ともかくカフカの写真からソダーバーグはカフカを誰に演じさせ、またどのような化粧を施せば本物に近づくかを実行することが出来た。そして、カフカのカラー写真はなく、カフカは白黒写真としてそのオーラが人々に感じ取られているから、映画も白黒がいいと考えたのであろう。また、カフカは膨大な日記や手紙を残しており、結核によって40歳で死ぬまでにどこでどう働き、どこへ旅し、どのような生活であったかはかなり詳しくわかっている。そんな生涯を映画化する試みがこれまでなかったのは、勤勉なサラリーマン生活の傍らに執筆するという平凡な人生であったからだ。また、カフカの小説を映画化する試みも今まであったのかどうか、『変身』や『流刑地にて』にしてもそれこそアニメで表現は可能でも、人物を使う実写は困難だろう。いや、バロウズの原作をクローネンバーグ監督が撮った1992年公開の『裸のランチ』ではリアルで大きな甲虫が出て来るので、『変身』の映画化は可能と思える。また、この『KAFKA 迷宮の悪夢』では『流刑地にて』について言及し、また明らかに同小説に着想を得た場面、すなわち前述のビデオ・パッケージ写真に見える機械に拘束された男が後半に登場するので、ソダーバーグは、カフカが自作の小説に見たイメージの映像化をこの作品である程度表現しようと思ったのは間違いがない。だが、『変身』や『流刑地にて』、その他のカフカの小説は、少なくとも2時間程度の商業映画にはまず馴染む内容ではない。たいていの観客が喜ぶロマンがないからで、カフカの小説はカフカ以前の小説らしくはない。
●『KAFKA カフカ 迷宮の悪夢』_d0053294_152187.jpg どんな小説でも映画化出来ると監督が考える場合、そこには映画が小説の下位に甘んじる思いが見えるが、百聞は一見にしかずで、映画が表現出来て小説には無理なこともある。それは映像の迫力だ。ソダーバーグはカフカに心酔しているのだろうが、カフカの世界を映像で置き換えようとする場合、それは一連の映像を見た後にカフカの小説を読んだのと同じような思いに達するべきだろう。そんな映像はアメリカの商業映画にはまず馴染まない。だが、ソダーバーグは妥協しながらも何とかカフカの世界をひとまず誰が見ても娯楽映画と思えるような作品に仕立て上げることを望んだ。カフカを使って何もしないより、その方がまだましと思ったのだろう。おそらくまだチェコのアニメ作品がカフカの世界を表現出来ると思うが、それはアニメ作家の作家性がより入り込み、やはりカフカ讃歌のみであることは難しい。もちろんソダーバーグは映像本来の力を使ってカフカの世界を表現しようと企て、カフカの小説の世界を見事に表現しているカフカの顔によく似た俳優を起用し、またカフカが生涯歩き回ってよく知っていたプラハの町をくまなく撮ること以外に、カフカの文章がかもし出す世界と等価な映像をいろいろと獲得することに腐心したが、前者においてかなり成功し、後者においては失敗した。カフカの小説は起承転結を必要とする劇映画とは違って、むしろ淡々としたドキュメンタリー映像の世界に近いが、カフカを紹介するドキュメンタリー映画ではカフカの本質はやはり直接的には伝わらず、ソダーバーグはカフカの小説世界そのものと等価な映像作品を撮る思いを抱いた。そのひとつの方法は悪夢を表現することだ。その悪夢性をカフカ本人(もちろんと俳優が演ずる)を登場させ、カフカの単調な実生活そのものが悪夢的であったという、娯楽的劇映画の常套的プロットを用いた。もちろん本物のカフカはサラリーマンとしての実生活をごく普通に生きたし、そうした生活を小説に描くことはなかった。この映画は、実際のカフカが退屈きわまる職場で抑圧を受け続け、命まで狙われるような危機さえ覚えることがあったといった、かなり無茶な物語を描いているが、それは1991年という制作年度、つまりソ連が崩壊し、共産主義が崩れ去った年を思う必要がある。そして、この映画がアメリカの制作であることには意味がある。カフカなど登場人物が全員英語を話すのは、せっかくのプラハの街角やカフカのそっくりさんを起用している割に何とも滑稽さを露にしているが、その点には目をつぶると、ソダーバーグがかつてハリウッドが1950年から始まった赤狩りで有能な映画監督を追放したことをよく知り、共産主義から開放されたチェコスロヴァキア、そしてプラハを讃える思いを抱いたのではないかと思えて来る。そして、監督はカフカ時代にはスパイ監視を怠らない権力が一市民にとって迷宮のように複雑でしかも悪夢のような恐ろしい存在であったと、カフカに同情し、そう考えることで、カフカの小説の迷宮のような謎が解明出来ると考えたのだろう。あるいは1時間半程度の長さのでカフカの本質を、ドキュメンタリー的タッチとフィクション劇を混在させることで描くことは無理であると承知しながら、商業的成功を得るにはカフカを映画に必要な何か大きな事件に巻き込むという脚本が欠かせなかった。だが、この映画で描かれるような事件は実際のカフカとは何の関係もないし、カフカはそのようなアメリカ映画の脚本になり得るようなSF、サスペンス、ホラーなど通俗的と言える小説を描く気持ちさえもなかった。とはいえ、カフカの小説は時代ごとにあらゆる読み方がなされるものであるし、1991年のアメリカからすれば、長年憎いと思っていた共産主義が倒れて、乾杯の意味もあってカフカを持ち出しながら、カフカが置かれていた国家の内側にあっておかしくない人々に対する強圧を極端な内容の物語という形で暴露表現することは、カフカの曲解とは一概に言えないと思ったのだろう。実際カフカの小説は、文学の方法論の文脈でのみ読み解かれるのではなしに、そうした政治の暗黒面から読み取ってもいいものだろう。それも含めてカフカの小説の世界が「迷宮の悪夢」のようなものであったはずで、そこにはまたチェコの、プラハの歴史、そしてカフカのユダヤ人として、あるいは無理解な父親との葛藤など、多くのものが重層的に入り組んでいる。
 さて、カフカが巻き込まれる事件は冒頭からいきなり始まる。カフカが事務員として働く労働者災害保険協会は実際そのようであったと思わせられるほどに、毎日タイプライターで書類を作ることに追われ、またそうした事務員は大きな部屋にずらりと数十人もいる。それを見るだけで「体制」や「管理」という言葉が脳裏をかすめ、そうした仕事に生涯就いたカフカが何となく哀れに思えて来るが、同じような光景は日本のサラリーマンでも大差なく、それが給料仕事というものだ。そうした日々変わりない仕事をする一方で、カフカは帰宅後に執筆を続けたが、カフカのサラリーマンとしての仕事が、この映画で描かれるようにただ部屋で書類を作るばかりであったのではない。出張もあったし、友人と旅行にも出かけており、必ずしも白黒映像にふさわしい灰色の人生ではなかった。それはさておき、ある日の夜、カフカの同僚がプラハの街角で狂人によって誰かに殺されるが、狂人は薬漬けになっており、その薬と引き換えに狂人を操っている男がいる。カフカは同僚の死体を刑事から見せられるが、刑事は自殺だと主張するのに対し、カフカは事件に巻き込まれて殺されたことを悟る。そしてカフカは自分で調べ始め、とある迷路のような書類保管室で不思議な書類を目にし、事件の核心に接近する。一方、死んだ同僚の恋人であった女性ガブリエラ・ロスマンから誘われ、カフカは待ち合わせ場所に赴くが、そこには彼女の同志がいて、政府を転覆させるために爆弾を各地に仕掛けたりしていることを知る。カフカは文才を買われて仲間に入るように勧められるが、それを断る。この難を避けようとする慎重で臆病な態度は、本物のカフカがそうであったはずで、なかなか現実的でよいが、にもかかわらず映画ではその後も同僚の死の原因を追求するためにさらに深みに入って行こうとし、カフカの行動にはかなり矛盾が見られる。同志になることを断ったカフカだが、ある夜、彼らが殺されている場面に遭遇する。その時カフカは殺人者たちの姿を見てしまい、追われる身になるが、間一髪のところで別の同志に助けられる。そして、その同志は殺人者たちは「城」の住民で、その城に達する秘密の通路が墓地にあることを告げる。そしてカフカはその同志に遺言のように言葉をかけて「城」に向かうが、カフカについて多少でも知識のある人はその同志がカフカの友人であったマックス・ブロートを想定したものであることを知る。ブロートはカフカの遺言に背いてカフカの未完の原稿を公にし、そのことでカフカの名声は決定的なものとなった。墓地から「城」に続く通路を教えてくれた男が実際のブロートと何の関係もないのは言うまでもないが、カフカが今まで知らなかった通路がその男から教えられるというのはなかなか象徴的でよい。
 さて、墓石の下の通路に入った場面から映画はカラーになる。その後は「城」内部の物語で、それまでの保険協会の建物やプラハの街角とはがらりと違って、閉鎖的なスタジオのセットになる。面白いのは秘密の通路の「城」側の出入口が、大きな引き出しで、同じ形のものが上下左右にたくさん連なった文書部屋にカフカがまず入り込むことだ。保険協会その他の場所で日々書かれる無数の書類はみな「城」に集められ、そこで人々を管理しているという設定だが、それは共産主義のような管理社会の視覚化だ。だが、必ずしも共産主義ではなく、資本主義社会でも同じかもしれず、ザッパが言うブレイン・ポリスを思い出す。この「城」という組織は、カフカの未完の長編小説『城』を想定したもので、この映画はカフカのさまざまな小説に言及しながら、『城』に最も結びつけている。小説における、あるいはこの映画における「城」は、ひとまずカレル橋から見えるプラハ城と考えてよいが、昔から権力の象徴で現在は大統領が住むが、共産主義時代は人々にとって勝手に内部を歩き回ることの出来ない怖い存在であったろう。ユダヤ人のカフカはチェコ語ではなく、ドイツ語で小説を書いたが、マイノリティの立場からも「城」は立ち入ることの出来ない、またそんなことを考えもしない場所であったと思える。小説では主人公は城内部のことは最後まで何もわからず、それは読者も同じだが、この映画では同僚が殺されたのは、どうやらその城の内部の住人の仕業で、そこに何があるのかカフカは調べようとする。そして象徴的にソダーバーグは言いたかったのだろうが、観客に面白く見せる、つまりジャンル分けの必要もあって、「城」内部の場面では一気にマッド・サイエンティストが人間の脳を管理する実験機械を作って、反体制の人々を捕らえて実験台にしているという物語にした。マッド・サイエンティストはカフカの小説の実写であるかのように、自分が作った機械に挟まれて死んでしまうが、機械に装着された反体制の男は目だけを動かすことが出来て、その目が機械の超顕微鏡によって瞳孔が拡大映写され、そのことで男が目力を発揮して機械を狂わせるといった、よくあるホラー映画風の筋運びも見られる。また、どこかに消えたガブリエラはマッド・サイエンティストの管理下にあり、さまざまな薬品で神経が侵される描写もあるが、これはカフカ時代の共産主義の恐ろしさを伝えるだけではなく、たとえば『カッコーの巣の上で』にも見られたように、現代のアメリカでも同様のことが行なわれるという、体制不信が根本にあると見てよい。ともかくカフカは「城」内部の悪行を目にし、追われるままにまた大きな引き出しに入って墓穴から地上に出て来るが、当然映像はまたそこで白黒に戻る。そして以前と変わらない事務の仕事に従事するが、父親に手紙を書き、そこで自分の今までの行為を反省し、喀血する場面で終わる。カフカが父親に長い手紙を書いたことは有名で、その中にこの映画の結末と同じ文章があるのかどうか知らないが、カフカが「城」あるいは父という大きな存在に対して自分が全くの取るに足らない存在と考えたと、この映画は言いたいようで、その敗北主義がカフカの世界の本質であるとソダーバーグは思いたかったのだろうか。そしてそれはカフカだけではなしに、どんな人々でも同じであるかもしれないと思わせられる。そんなことやカフカの小説のことを考えていると、筆者はつい自分のブログの方向を考えてしまう。本当はそのことを考察することで締め括りたかったが、またの機会にする。
by uuuzen | 2010-01-13 01:05 | ●その他の映画など
●『イジー・バルタ短編集』 >> << ●マイク・ケネリーのアルバム『...

時々ドキドキよき予告

以前の記事/カテゴリー/リンク
記事ランキング
画像一覧
ブログジャンル
ブログパーツ
最新のコメント
言ったでしょう?母親の面..
by インカの道 at 16:43
最新のトラックバック
http://venus..
from http://venusha..
ファン
ブログトップ
 
  UUUZEN ― FLOGGING BLOGGING GO-GOING  ? Copyright 2023 Kohjitsu Ohyama. All Rights Reserved.
  👽💬💌?🏼🌞💞🌜ーーーーー💩😍😡🤣🤪😱🤮 💔??🌋🏳🆘😈 👻🕷👴?💉🛌💐 🕵🔪🔫🔥📿🙏?