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●『イジー・バルタ短編集』
魔にならないと思っていると案外そうでもないのがチラシで、毎年10センチ以上に厚さになる。映画のチラシは美術館のものに比べて少なくて、またあまり取って来ないようにしているが、去年夏、強く目を引いた1枚があった。



●『イジー・バルタ短編集』_d0053294_0171568.jpg大きく印刷された横文字が「ジリ・バルタ」かと思うと、その下に小さな文字で「イジー・バルタ」とあって、チェコのアニメ作家だ。『屋根裏のポムネンカ』という長編の公開を機に、デビュー作を含む短編を一挙上映とある。裏面を見ると大阪のシネ・ヌーヴォで開催されるとあって、しかも会期は9月の15日間ほど。それで見るのを諦めた。この映画館には2、3度行ったことがあるが、大阪の九条にあって京都から行くにはかなり不便だ。この映画館は友人のNが最初に見つけて何度か行ったようだが、筆者は家内と一緒に行ったことがあるものの、Nとはついに一緒に足を運ぶことはなかった。チェコ語はドイツ語とは全然違って、発音ですらも筆者にはわからないが、それもあってか、同国の情報には何となく接しにくい。それに関して、かなり多いメモを取りながら、結局ブログに感想を書かなかった展覧会がある。それが長らく気がかかりになっているが、思い切ってそのメモと、そしてチケットの半券を探した。展覧会名は『チェコ絵本とアニメーションの世界展』で、2006年8月に京都の伊勢丹にある美術館で開催された。せっかくなのでメモから同展の各章の題名を書いておくと、1「チェコ絵本の「古典」となった作家たち」、2「アヴァンギャルドの潮流とチェコ・アニメーションの礎」、3「アニメーションが育むチェコ絵本』、4「チェコ絵本の現在」だ。20世紀前半から現在までのチェコ絵本の歴史をアニメーションと絡めながら、28作家の原画や制作過程の資料、絵本など約200点で紹介する展覧会であった。筆者にとっては初めて知る作家がほとんどで、図録がほしかったが、制作されていなかったか、あるいは売り切れで、メモをたくさん取ったのがよかった。だが、メモだけでは各作家の絵はわからない。また同展は絵本を中心にするので、アニメーション本位の作家の紹介はなく、イジー(イジィとも書く)・バルタの名前もメモには見えない。それにチェコにどの程度のアニメーション作家がいるのか、日本での紹介はどうなのかも筆者にはわからず、それもあって9月はシネ・ヌーヴォに行かないまでも、売られているはずのビデオを買ってチェコ・アニメの一端でも知っておこうと考えた。チラシ『イジー・バルタ作品集』の表側に印刷されるキャラクターはどの作品のものか不明だが、『屋根裏のポムネンカ』がいつ上映されるかの情報もチラシには見えず、ひょっとすれば東京だけの上映であったかもしれない。その後筆者が入手したバルタの中古ビデオ『闇と光のラビリンス』は4編のアニメを収めるが、シネ・ヌーヴォで紹介されたのはそれを含む10本で、筆者はバルタの全作を見ていない。DVDは2種出ているようで、それで10本を見ることが出来るが、気長にその機会を待ちたい。ちなみに10本を制作年代順に書くと、『謎かけと飴玉』(1978年、8分)、『ディスクジョッキ-』(1980、10分)、『プロジェクト』(1981、6分)、『手袋の失われた世界』(1982、17分)、『緑の森のバラード』(1983、10分)、『笛吹き男』(1985、53分)、『最後の盗み』(1987、21分)、『セルフポートレート』(1988、2分)、『見捨てられたクラブ』(1989、25分)、『ゴーレム・パイロット版』(1996、7分)で、このほかに日本で未紹介のものもある。
●『イジー・バルタ短編集』_d0053294_0175367.jpg 筆者がビデオで見た4作を順に書くと、『手袋の失われた世界』『見捨てられたクラブ』『最後の盗み』『笛吹き男』だ。どれも手法が違って、同一人物の作品とは思えない。この点はエロール・ル・カインの絵本に通ずる。前述の展覧会で紹介されたように、絵本とアニメの世界は関係が深く、チケット裏面の説明には、絵本の制作にアニメーションが影響を与えているとある。アニメーションは絵本の静止画像を動かしたものでもあるので、逆に絵本がアニメに影響を与えていると言うのが正しいと思うが、同展第3部が「アニメーションが育むチェコ絵本」と題される。また筆者のメモによると、1965年から毎日夕方に「ヴェルチェルニーク」と題する7分ほどの子ども向けTVアニメが放映され始めて現在まで続き、2005年には同番組誕生40周年展が開催されたとあって、さまざまな技法のアニメが65年以降に盛んになったことがわかる。それが絵本に影響を与えたようだ。ついでながら、そうした絵本/アニメ作家として、ズデニェク・ミレル(1921-)、アドルフ・ボルン(1930-)、ズデニェク・スメタナ(1925-)、エヴァ・シエデイヴァー(1934-)、イジー・ジャラモウン(1935-)、ウラジミール・イラネーク(1938-)が同展で紹介され、また短編アニメも上映されたが、大人向けの作品も含まれた。話が前後するが、同展第2部のメモにはこうある。「20世紀初頭にチェコ・アヴァンギャルドの芸術運動があり、その潮流にいた作家たちは本の創作にも実験の世界を映し出し、コラージュなどを用いたタイポグラフィによる前衛的作品が絵本に見られるようになる。第2次世界大戦後はプラハに国営のアニメ・スタジオが作られ、イジー・トゥルンカ(1912-69)は最初ドローイング・アニメの方法を模索した後、人形アニメ映画による国際低評価を獲るが、そのことでチェコ・アニメが世界的に有名になる。」 トゥルンカは絵画や彫刻も手がける芸術家で、絵本は子ども向けに作った。これまたついでに書くと、トゥルンカの後にズデニェク・セイドゥル(1916-79)、アドルフ・ホフマイステル(1902-73)、クヴィエタ・パツォフスカー(1929-)、カレル・フランタ(1928-)、エヴァ・ベドナーショヴァー(1937-88)の名前が続く。パツォフスカーは日本で何度か大きな展覧会があって筆者は作品をよく知るが、その後の世代として絵本とアニメの両方で活躍する第3部の作家たちが位置する。そして当初もっぱら子ども向けに作られたアニメが、大人向けの作品も出現して来ることは必然で、バルタはそのひとりとなるが、『屋根裏のポムネンカ』はタイトルからして子ども向けの作品ではないだろうか。子ども向けと大人向けの境は、セックス表現の有無、難解かどうかなどの条件を思えばよいが、筆者が見た4本は全部大人向けと言ってよい。また、有名なシュヴァンクマイエルはバルタの先輩格だが、筆者はその作品を見ておらず、いずれ見てその感想を書きたいと考えている。
●『イジー・バルタ短編集』_d0053294_0184037.jpg さまざまなアニメがチェコで作られて来たことを思うと、チェコ・アニメの特質を一括することは出来ないだろう。また筆者はバルタの作品の半分も見ていないので、それでチェコ・アニメの特質を云々する資格はない。だが、それでもバルタはチェコ人であり、その多様な作品の一部からはチェコ独特の雰囲気は立ち上っているはずで、チェコ、バルタ個人、そして80年代の空気を多少なりとも知ることは出来る。バルタは1948年生まれで、ザッパより年少、筆者より年配だが、チェコで現在教授をしている。『謎かけと飴玉』が処女作とすれば、30歳がアニメ作家のデビューとなって、これは早いのか遅いのかわからないが、筆者から見れば同世代のい才能ということで身近に感ずる。また、ザッパの音楽を知っている人からすれば、ザッパは再晩年の90年にチェコを訪れているから、ザッパの音楽とチェコ・アニメの関係とはまでは言わないまでも、チェコのアニメ作家たちがザッパの音楽をどう思っていたかの関心は多少あるのではないだろうか。ついでながらイジー・バルタのアニメ作品とザッパの動きの関係は、89年の『見捨てられたクラブ』だ。ザッパは88年に最後のロック・ツアーを行ない、89年12月はチェコスロヴァキアでハヴェルが大統領になってビロード革命があり、ザッパは90年1月にソ連経由でチェコスロヴァキアを訪問し、翌月に癌が発見される。シネ・ヌーヴォの短編映画特集からすれば、『見捨てられたクラブ』以後『ゴーレム・パイロット版』までバルタは7年の空白があることになるが、実際はどうなのだろう。93年にはチェコという新しい国家が誕生し、そうしたドサクサに作品を作っていなかったかもしれないし、作っていても完成しなかったか。いずれにしろバルタとビロード革命後、国家がチェコになって分断したことはひとつの契機になったと思える。そして、そう考えると『見捨てられたクラブ』は国家の社会主義が変化する激動期に生まれた作品で、そのように解釈するのがいいかもしれない。それでまず『見捨てられたクラブ』について書くが、筆者が見た4作の中ではこの作品はザッパに最も関係が深いと言ってよいイメージに彩られ、ビロード革命をよく暗示していると思える。ザッパと関係が深いと言うのは、まずこの作品がマネキン人形を主役にしている点で、それはザッパの1969年発売の『バーント・ウィーニー・サンドウィッチ』のジャケットを思わせる。ただし、同アルバムではマネキンの手首は血糊がついているが、バルタのアニメには暴力は描かれても血は登場しない。また、同アルバムのジャケットはカル・シェンケルのオブジェを撮影したもので、直接的にはザッパの創造ではない。だが、当時ザッパのアルバムはカルのそうしたジャケットに強く印象づけられ、またザッパ自身がカフカの小説について言及し、また作曲もしていたので、チェコスロヴァキアとザッパはザッパのデビュー間もない頃から深い関係があり、その点を当時のチェコスロヴァキアの敏感な芸術家が反応したであろうことは想像に難くない。つまり、ザッパは初期からチェコ・アニメとは表面下で何らかの接点があったと見てよく、そこにはザッパのアニメ好みと、チェコの風土やシュルレアリスムを需要した絵本やアニメを長年育んだ歴史の双方が浮かび上がり、そうしたこともあってザッパが90年によくぞチェコスロヴァキアを訪れたものだと思わせもする。
●『イジー・バルタ短編集』_d0053294_01920100.jpg 『見捨てられたクラブ』は、ビルの一室に捨て置かれたさまざまなマネキンが毎朝目覚まし時計を合図に活動を開始し、老若男女が集まって会食をしているという生活がまず描かれる。同じ画像を繰り返し使用してかなりくどく、また手間を省いて上映時間を引き伸ばしていると最初は思わせるが、その後の展開が意外で、その饒舌と思える前半部は必要不可欠なものと納得出来る。その古い部屋に、ある日別の数体の、しかも新しいタイプのマネキンが運び込まれる。そしてそこで新旧のマネキンの死闘が始まる。古いマネキンは毎日団結して幸福な生活を送っていたのであるから、当然勝負は古いマネキンのものとなって、新マネキンは殺され、つまり無残に破壊される。ところが旧マネキンは新マネキンのもたらした新生活を好み、それまでの生活を一新して、顔形はそのままに、衣服や使用する電気製品などを新マネキンのものを採用する。そこにはチェコスロヴァキアが民主化してビロード革命を迎えることの予兆がある。新マネキンがもたらした黒人音楽などのアメリカ文化は、90年1月にザッパが同国を訪問したことにまさに呼応するし、チェコスロヴァキアがそうした西洋文明に一気に洗われることをバルタは予想したのだ。古いものに新しいものが一気に押し寄せた時、文化はどうなるかというひとつの思いをこの作品に見ることが出来るが、バルタはそれを肯定も否定もしておらず、ただ新旧が混ざるしかないと考えた。マネキンを使ったアニメにした点はかなりのレトロ感覚であり、また不気味でもあるが、セックス・シーンがわずかにあるのはやはり大人向きだ。だが、この作品は10歳の子どもにもよく理解され、また笑いも誘うはずだ。旧マネキンは今では日本の地方都市の小さな市場の片隅にしかないような古いもので、その点がこの作品を1960か70年代のものかと思わせるが、チェコスロヴァキアはそれほど日本より文化が遅れていたのかもしれない。そのため、この作品はとても懐かしい雰囲気に満ち、筆者のような昭和20年代生まれにとっては忘れ難い印象を与える。そして、もう少しこの作品の背後を考えてしまうのは、新しいライフ・スタイルを獲得したマネキンがその後どうなるかだ。というのは、筆者が京都に出て来た当時に健在であった京都の有名なマネキン人形会社はその後業績が振るわず、2年前にはすっかり壊され、そこに大きなスーパーが建った。もはやマネキンを昔のように必要としない世の中になっている。となれば、チェコの古ぼけたビルの一室にガラクタのように放り込まれたマネキンたちが団結して密かに静かな生活を営むことも許されず、ゴミ捨て場に埋められるだけかもしれない。
 そんな末路を予告するが『手袋の失われた世界』だ。この作品は最初実写で始まるので、アニメという気分がしないが、バルタの作品はそのように実写を含む場合がしばしばある。それは手抜きではなく、現世と別世界とを対比させるために必要な手段なのだ。『手袋の失われた世界』はバックホーが地面を掘る場面から始まる。そして、地面からは以前埋められた手袋が手袋に出て来るが、それらのさまざま手袋がドラマを織りなすという内容だ。これは人間の手指が人間の両脚に似た動きをするというところから着想されたもので、同じことは誰しも考えたことがあるので、作品に感情を移入しやすい。面白いのは、手袋が安物の軍手から女性が着用する高級なものまであって、それらがそのまま性格づけされ、あらゆる手袋が出会って人間らしいドラマを繰り広げるという思いだ。簡単に言えば手袋の種類を人間の身なり、そして社会的階級に置き替えていて、人間をそのまま使って表現するのではなく、手袋の動きで人間社会をたとえるという作品だ。また、指が両足のように動く姿は下半身だけの表現となって、かなりセクシーだが、バルタは当然その効果を最大限に考えている。本物の手袋を駒撮りした作品で、要した日数を思うとアニメ作家、そして特にチェコのそれはかなり抑圧状態にあったと思えたりもするが、俳優を使うのではなく、モノを使ってアニメを作る行為は限りなく個人のみで可能であって、その個人の思いがそのまま強く投影され、その分最初から閉鎖的な印象の作品になりやすい。つまり、それは社会主義国家であったからこそ発展した手法と言える。そうした伝統がビロード革命以後にどう変化したかは興味深い問題だが、いずれそうした著作も登場するだろう。バルタは社会主義国家とその後チェコとスロヴァキアに国家が分断したことを経験しており、その点で将来特別視されるだけの歴史の転換期を生きた作家と目されるかもしれない。『最後の盗み』はアニメ作品と言えないだろう。白黒で撮影したフィルムに着色した作品で、筆者は4作のうち、最も早くその内容を忘れ、思い出すことが出来ないほどであった。だが、ビデオのパッケージで題名を確認した途端、その映像をまざまざと思い出し、今ではむしろ最も印象に強い作品となっている。その分とても不思議な気配を持つ作品だが、内容は簡単だ。ある古い屋敷に侵入した泥棒は、屋敷にいる人々と賭博をして大金を儲けるが、実は屋敷の人々はみな死人で、泥棒も最後はその仲間になるというものだ。白黒映像にほんのり色をつけた点が実に巧みで、その効果と物語の内容が見事に相乗効果を上げている。また、この作品は静かな音楽もよく、いかにも東欧で作られた作品であることを納得させる。『笛吹き男』は5年の制作期間を要した大作で、筆者はこれが一番よかった。1200年代のハーメルンで起こった少年少女たち100数十人が町から消えた事件である「ハーメルンの笛吹き」を描きながら、文明を痛烈に風刺している。結末は希望を感じさせ、バルタは中世を描きながら、実は現在の文明を批判し、またそこに一抹の光を見ている様子をよく伝えるが、文明批判を堂々と行なうまでに成長したこと、そしてそうしたことを訴えるのにアニメが最適であることを思わせる。それはアニメが本来子どものものであるという理念に基づくが、大人も子どもも鑑賞に耐えるものとして、本作はバルタのひとつの頂であろう。材木で作られた顔の小さな登場人物はどれも灰色が主体で金属質に見えるが、そのヨーロッパならではの味わいはバルタの飛び抜けた造形の才能とヨーロッパ文明への誇りも伝え、この作品に賭けた意気込みがどの細部からも伝わる。日本が逆立ちしても絶対に模倣が不可能なもので、ヨーロッパの作家であることの誇りがびしびしと伝わるが、日本のアニメ作家がこの作品を見た後、どういう手段で対抗すべきかとなると、ひとつの着想としては平安時代以前の風俗を描くしかないと思える。そして、筆者はぼんやりと折口信夫原作・川本喜八郎製作の『死者の書』を思い出すが、線描アニメではなく、人形などの物体を動かせるアニメをもっと日本が発信してほしいと思う。だが、川本のアニメ映画『死者の書』はイジー・トゥルンカの影響を受けたもので、日本のアニメはチェコを追い抜けないのかもしれない。
by uuuzen | 2010-01-12 00:19 | ●その他の映画など
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時々ドキドキよき予告

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