槍を振り回す場面が非常に多い『レッドクリフ』だが、血の吹き出る場面はほとんどなかったと思う。
あまり残虐な印象を持たせるのではなく、『少林サッカー』にどこか似たような痛快な格闘ゲームのようなものにしたかったのだろうが、それはアメリカ軍が暗闇でも百発百中で機関銃を敵に打ち込んで殺傷出来るようになったコンピュータ時代の戦争とどこか似たところを持ちつつ、一方で日本のかつての時代劇映画にも似る。つまり、日本の往年時代劇を参考にしながら、現在のコンピュータ時代にも則した作品となっている。そう言えば、『レッドクリフ』が『少林サッカー』に似るのは、曹操の陣営でサッカーのような球技が余興で行なわれる場面があることからも言える。日本の時代劇は70年代になると、手足が切り飛んだり、血が勢いよく吹き出すリアルな作品が登場するが、それは幕末から明治に向かって浮世絵が血みどろの表現をよくするようになったことに通じ、映画産業が末期に近づいたことを意味するだろう。これまた一方だが、つい先日、TVで『武士の一分』をやっていた。大して興味がないままに見たが、予想どおりスケールの小さな映画であった。それは映画のタイトルがいみじくも示しているから別段文句を言う必要もないが、70年代の末期的時代劇の延長上に何が出来るかの見本であり、また『レッドクリフ』のような大型の娯楽作を実現する実力が日本にすでにないことを示し、わびしいことこのうえない。さて、昨日書いたように、8日は文化博物館の映像ホールで記録映画を見た。筆者は前から2番目中央のいつもの座席に座ったが、筆者の斜め前に見覚えのある初老の男性がいて、映画が始まるまでの5分ほど、背後の男性とよく通る声で話をしていた。筆者は以前その初老の男性から同じように話しかけられたことがあるが、8日は奥さんが隣にやって来ず、しかも男性はかなり酒を飲んでいたようだ。「東映にお世話になった」と話していたから、昔は撮影所にいたのかもしれない。筆者には、酒好きでよく飲みよく仕事をしたと話し、こっちが問わないのにどんな映画が好みかも言ってくれたが、8日は同じことを背後の男性相手に繰り返しながら、その好みの映画が以前筆者に話してくれたものとは違っていたから、名作と呼ばれるものはたいてい見ているのであろう。そして8日は、『シェーン』の最後のシーンがいいとか、『武士の一分』もよかったと話していて、最近の映画も見ていることがわかる。そうした映画通が『武士の一分』がいいと言うのは、どういう理由からかと問いたいが、黄金時代の名作とは違って、「現在の時代劇としては」という限定つきの意味かもしれない。日本ではさんざん時代劇が撮られ、もうそのジャンルでは名作は生み出せないと思うが、その理由は江戸時代の自然を残す場所がほとんど残っていないために満足にロケが出来ないこと、名俳優がいないこと、時代考証を充分に出来る才能がないことなどが挙げられるが、『武士の一分』でもその苦労がありありと見え、またそれらが成功しているとは言い難い気がした。有名タレントを主役に据えるのは、映画が少しでも大勢の人に見てもらうことで経済的に成功するためには欠かせないこともわかるが、TVに頻繁に出るタレントはかつてのようなスターと呼ぶにはかなり抵抗があり、その分映画はどうしても安っぽくなる。そのため、TV時代の映画は『レッドクリフ』のように100億の費用をかけたといった豪華さを競うしか道がない。映画は娯楽であるから、お金を払って映画館に足を運んでもらう分は、制作者はきちんと返す覚悟がいる。それは、『ロック・スクール』でポール・グリーンがザッパの例を持ち出して語っていたことで、ザッパは自らの音楽を娯楽と呼び、客がライヴ会場に足を運んでくれるからには、1秒たりとも退屈させないという覚悟で日々の練習をし、本番に挑んでいた。その点、筆者のブログは無料であるから誰もありがたみを覚えないが、もしお金を払って読むとなると、それが違って来る。感動は支払った金額に比例し、無料のブログに感動しないのは人情として当然なのだ。そしてその理屈で言えば、『武士の一分』は映画館で見れば感動が違ったかもしれない。
さて、文化博物館の映像ホールではいつも無料のプログラムが用意され、『血槍富士』の解説が載ったものを確かもらって帰ったはずだが、探しても出て来ない。見たのは去年11月だが、2、3年前にも上映され、その時は機会を逃した。そのため、今度こそと考えた。それは片岡千恵蔵が出演するからだ。千恵蔵のファンというのではないが、駄作はないだろうと思い、それにタイトルがえらく血生臭く、どういう内容か知りたかったのだ。また、まだ見ていないが、去年夏に千恵蔵主演の『大菩薩峠』のビデオを入手してたこともあって、その関連で千恵蔵の時代劇を見ておくのはよいと思った。『血槍富士』はロケ・シーンが多い。富士山が大きく映る場面があるが、それは完全に絵とわかり、いかにも喜劇じみた演出だが、富士山をくっきりと撮影出来なかったはずはない。だが、本当に富士山の近くでロケをしたのだろうか。全然別の場所であるかもしれない。1955年12月の公開で、当時筆者は満4歳であった。当然まだ家の中からほとんど出ず、この映画を親と一緒に見ることもなかった。それがこの歳になって見ると、細部まで味わい深く、また1955年という時代もわかって面白い。内田吐夢監督が戦争から戻って来た後、東映が全力を投じて作った作品で、名作と呼ぶにふさわしい出来になって当然であろう。「吐夢」は英語の「Tom」も思わせ、同監督が戦前からアメリカ映画をよく見ていたのかと思わせる。また「吐夢」は字面がいかにも映画監督にふさわしく、思いのたけをぶちまける覚悟が見える気がする。それに映画はしょせん夢物語であり、暗闇の中で2時間ほど現実を忘れることにある。そしてその時間が、現実に戻った時に何か前向きの活力のようなものを引き出してくれるものならなおのこといい。映画館に足を運ぶ人の大多数はそういう思いによるだろう。筆者はこうして感想を書かない限り、ほとんどすべての映画はきれいさっぱりと2、3年も経たないうちに忘れてしまうが、その2、3年後にかすかに覚えているごく些細な場面、本筋とは何の関係もないような場面の空気といったものを、記憶し、あるいは何かの拍子に思い出し、それを確認したいためにまたその映画を見たいと思うことがしばしばある。だが、たいていは思うだけにしている。見たところでその気配が思っているのと同じように把握出来ることはおそらく稀で、思っているだけでいい気がするからだ。だが、確認したいとの思いが勝る場合がごく稀にある。
『血槍富士』は94分の白黒映画で、東海道を旅する武士や町人、芸人、孤児といった人々の人間模様を軸にしながら槍持ちの奴(やっこ)の活躍を描く。奴は権八(片岡千恵蔵)と源太(加藤大介)のふたりで、若い主人の酒匂小十郎のお供をして江戸まで上ろうとしている。酒匂小十郎は、その名前が暗示するように普段はきわめて温和で権八や源太にも親しく接するが、一旦酒が入るとがらりと人柄が変わる。このことが映画の最初の方で明かされるが、映画を見る者はそこですぐに先にどんな暗雲が待ち受けているかを悟る。だが最初はあくまでも喜劇タッチだ。好天気の下、東海道をのんびりと散歩する権八ら一行だが、権八は足に豆を作っていまう。小十郎は印籠を権八に手わたしながら、その中の薬を塗って、後からゆっくり追いつけばよいと言うが、薬を塗っている間に孤児の男子がそばに寄って来て、自分も連れて行ってほしいと懇願する。それを否定して去る権八は、印籠を置き忘れ、それを後から来た旅芸人の母子が見つける。この母と小さな娘は映画では別段大きな手柄を立てることはないが、権八と同じ方向を旅するので、先の旅籠で一緒になり、言葉を交わす間柄になる。道中物であるから、ほかにもそのような味つけ役が何人も登場するが、権八の最後の活躍とは直接の関係はなく、あくまでもバイ・ストーリーとして映画を面白くすることに意味合いがある。いや、正確に言えば、そうした庶民の生活を小十郎はやがてうらやましく思うという筋立てで、やはりそのようなさまざま種類の庶民が織りなす人情話は欠かせない。旅芸人の母子のほかに大金を所有した謎の人物や、また人相書きが出回っている大泥棒、盲目の按摩、身売りをする娘とその爺などが登場する。これら一見ばらばらの人々が、泥棒を捕らえるということでつながったり、また身売り娘が大金を所有する謎の男から助けられるといったように、当初は正体がわからない人物たちが、意外な展開で結びついて人情話が展開する。たとえば主人の印籠を忘れた権八は、そのことで小十郎からひどく叱責されることになるか、あるいは孤児の男子がそれを盗むのかと思わせられるが、意外にも印籠は物語の布石にならず、肩透かしの気分を味わう。だがその分、別なところで物語が動いて、肩透かしの気分は充分に満たされる。映画の前半は泥棒の話が中心になって進み、やがてその泥棒はみんなの機転もあって、旅籠にたまたま帰って来た権八の突き出す槍によって逃げられなくなるが、泥棒を捕獲した手柄を小十郎が役人から受ける。集まるみんなの前で小十郎はおもむろに書状を開くと、褒美はそれだけで、金封はなく、小十郎もみんなもがっかりする。そこで小十郎は武士の横柄な態度と、それに引き換えて邪念のない旅人たちを思う。ここまでで映画は3分の2以上が終わっていて、結局はほのぼのとした道中物であったのかと思う反面、『血槍富士』という題名を思い出して、胸が騒ぐ。この映画の凄いところは実はこの後だ。その展開の意外さ言おうか、とにかく予想に反したことが多く、その点に通俗的な映画のみに終わらない斬新さを感じる。そうした意外な展開の時代劇がほかにあったろうか。その破天荒な筋運びは後で考えると充分最初に伏線があると言えるが、それでもそのような展開はなんとはかないものかと思う。
原作は井上金太郎という当時亡くなっていた人のものだが、おそらく原作では前半部の描き方はもっと違っていたのではないだろうか。内田吐夢は最後の展開を鮮やかなものにするために、あえて前半をのんびりほんわかムードに仕立て上げた。内田は戦争体験者であり、この映画にはそれを通過した者だけが盛ることの出来る、意外でも何でもない筋運びと、その迫力がある。つまり、戦争はもっと大きな力であり、昨日までの平和を一変させ、今そこにいた人を死に追いやる。そのような無情をこの映画はよく知ったうえで描いている。小十郎は身売りしなければないない娘を旅籠で見て、権八に持たせている昔からの家宝を近くの質屋に持参して換金しようとする。だが、槍は贋物とわかり、身売りで得る金額に満たない。そこで断念して戻って来ると、前述のように、その娘は謎の男から助けられる。男は何年か前に身売りさせた自分の娘を買い戻すために大金を苦労して貯め込んだのだが、女衒から娘が死んでしまったことを聞いて、その金を今度は身売りしようとしていた娘のために役立てる。いかにも芝居じみた話だが、娯楽とはそういうもので、そういう話を庶民は好む。小十郎はその様子を見た後、酒好きな源太を誘って近くの居酒屋に行こうとする。権八からかねがね小十郎には酒を飲ませてはならないと聞いていたにもかかわらず、源太は拒否することが出来ず、ついつい酒は進む。そんな時、6、7人の武士が商売女を連れて居酒屋に入って来る。そして傍若無人に振る舞う様子を見て酒に酔った小十郎がたしなめるが、すぐに斬り合いになって小十郎は殺される。報せを受けた権八は急いで槍を持って駆けつける。そこからはチャンバラ映画ならではの立ち回りだが、居酒屋は玄関が広く、そこを入った広い前庭の端には人の背丈以上の大きな酒樽が数個並んでいる。酒の飲む部屋はその奥に開け放たれているが、権八が槍を振り回して武士のひとりずつを突き刺して行く間に酒樽を突き、そこから酒が庭にどんどん零れ出るため、地面でのた打つ武士はどろどろになる。そうした立ち回りのシーンの大半は樽を見下ろす高みから撮影され、その今までにないカメラ・アングルもあって、この最後の死闘は異様に際立つ。中年を過ぎた片岡千恵蔵はそれまで小十郎のお供で端役のひとりと言ってよい存在だが、優しい主人の仇を取ることとなって形相を一変させ、そして槍で人と戦ったことがないにもかかわらず、がむしゃらに暴れる。この時、権八もまた切られて死ぬかと思わせられるが、長い槍は刀より有利なのか、迫力負けしたのか、武士はみな不甲斐なく死んでしまう。つまり、小十郎も含めて全員犬死にだ。
権八が全員を殺した後、短いエピローグが来る。槍持ちに殺された武士たちは恥晒しということで権八には咎めがなしで、権八は遺骨を胸にまた江戸へと経つ。淡い恋が芽生えたような女芸人は別の街道を行くためにその旅籠で別れ、また後をずっとついて来た孤児の男子は権八のような槍持ちになりたいと相変わらず訴えるが、権八はそれを拒む。男子が権八の小さな後ろ姿を見ながら叫ぶシーンで終わるが、これは『シェーン』によく似ている。『シェーン』は2年前の1953年の作で、内田吐夢は見ることが出来た。この映画は明らかに武士階級への風刺が見られる。映画の中で旅芸人の母子が神社境内の縁日で芸を披露する場面がある。その時、10歳ほどのその娘は母の奏でる三味線に合わせて踊るが、その最後は「奴さんは辛いね」という、よく知られる歌で、それを人陰で見聞きしていた権八が苦笑する場面がある。武士のお供をする奴さんなんぞになるものではないと、権八は孤児の男の子に言い聞かせたが、それを戦争に当てはめると、平の兵隊なんぞになるものではないと読み取ることが出来る。反戦映画と言うことも出来るし、また世間にとって無用同然の武士が威張っていた時代をばっさりと切り、人民主体の時代到来を歓迎する作品と見ることも出来る。『武士の一分』は、殿様の食事の毒味をする下級武士の話だが、そこに山田洋次監督の武士に対する皮肉な見方が反映している気がする。そう考えれば、『武士の一分』は『血槍富士』の跡を継いでいる。そこで思い出すのは『レッドクリフ』で、民衆の群れが登場し、また何度も言及される。中国がいくつかの国に分かれていた古代、支配者を嫌って人々は国土を捨て、別の国に逃げ込んだりしたことがあり、民衆を大事にしなければ意味がないという武将たちを『レッドクリフ』は描いていたが、その部分をもっと拡大し、支配階級よりよりも前面に出したのがこの『血槍富士』でもある。映画は作りごとであり、同じ原作、脚本であっても、監督によってどこに力点を置くかは異なる。そう考えると、民衆を全く登場させない『レッドクリフ』もあり得るし、また武士讃歌として『血槍富士』を描くことも出来るだろう。となれば、映画は夢のようなつまらないものと思えて来るが、『レッドクリフ』も『血槍富士』も完成したひとつの作品であり、それは時代の、そして国の好みをよく反映している。そんな作品に意味があるとすれば、そうした枠の中に固定されながら永遠に魅力の光を放っていることであり、その光を感じることで鑑賞者が生きる実感を確認出来ることだ。それでもなおそうした作品がどのような形にでもなる夢のような他愛ないものと思うのであれば、それはそうなのだろう。だが、そのように思える自分を確認出来ることもまた楽しいと思えば、やはり作品に接してその光を味わえることは意味がある。