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●『イメージの魔術師 エロール・ル・カイン展』
術師という言葉がふさわしいほどに正体のわからない絵本作家で、エロール・ル・カインという名前は今回初めて知った。



●『イメージの魔術師 エロール・ル・カイン展』_d0053294_9244950.jpg展覧会のチラシやポスターに印刷される白黒の絵を見た時、ビアズリーと同時代のあまり知られない隠れた才能かと思ったが、もしそうならばビアズリーの二番煎じの画風で大したことはない。それで、あまり気乗りがしないまま、12月25日に見に行った。ところで、去年見た最後の展覧会は27日であったが、チケットを数えてみると、去年より多い75で、入場無料の日や無料のものを何度か見たので、80は見たはずだ。それはともかく、エロール・ル・カインという名前は不思議な響きがあって、国籍不明な雰囲気がある。短く言う場合は「ル・カイン」とするのが正しいが、ここでは「カイン」とする。国籍不明な雰囲気は会場で絵本の原画を見て実感した。そして、チケットのビアズリー的な絵が、ビアズリーにすれば背景の花模様がえらく装飾的で、ビアズリーのような研ぎ澄まされたシャープさに欠けることが納得出来た。ビアズリー風の模倣がビアズリーを越えられないことをよく示しているが、カインはビアズリーを古典と思って讃歌の気持ちから描いた。図録は販売されておらず、代わりにカインの画業を概観する画集が3000円ほどで売られていた。それならばいつでも本屋で手に入ると思って買わなかった。展示内容はカインのすべての絵本の原画ではないが、代表作はほぼ網羅されていたと思うし、絵本に採用されなかった没画やスケッチも含まれていたから、カイン・ファンにとっては意義の大きい展覧会であっただろう。筆者はカインの絵本を1冊も手に取った経験がない、あるいは息子が小さい頃に図書館で見たかもしれないが、記憶にない画家で、今回その作品数の多さに面食らいながら、カインの才能とその開花の方向を考えさせられて興味深かった。そのため、今日はカインの個々の作品について述べるより、カインの方法論について書く。会場の最後に、手に取って中を見ることは出来ないが、カインの絵本の原書が並べられていた。チラシによると生涯に48冊の絵本を出版したとあるので、それらが全部時代順に掲げられていたのではないだろうか。そして今回の展覧会はそれらの絵本から重要作を選び、1冊の絵本に対して少ない場合は1、2枚、あるいはほぼ全点というばらつきのある展示で、原画を見ただけでは絵本の内容が全部わかるのではなく、あくまでも文字を省いた絵、それも一部分であって、カインの筆の跡が間近で克明に確認出来ることに意味があった。そして作品を順に見て行くと、次々に異なる絵本の原画が姿を現わし、その画風のあまりの豊富さに目が眩む思いをさせられ、カインの才能の大きさを実感する。それは緻密に描く技術というよりも、むしろ資料をどれほど多く集めたか、またそれらの本質をいかに的確に把握する才能に恵まれていたかで、巨大なコンピュータのような頭を持っていたと思わせられ、そしてそれはいかにも20世紀のコンピュータ時代に出現した才能と言うにふさわしい。
 昨日はマイク・ケネリーのデビュー・アルバムについて書いたが、ビアズリー風であれ何であれ、カインの描く絵本の原画はマイクの音楽のようなところがある。先行するあらゆる音楽を分析し、それらを自在に応用しながらそれ風の音楽をたちどころに書く能力のあるマイクの本質は、まさにその点であって、そこにマイクらしさが出ていると見ればよいが、カインの絵本原画の方法もそれと同じと言ってよいだろう。カインの画風のビアズリー風は48冊の絵本のうち1冊だけであって、カインの全体像を知るには48冊すべてを見る必要がある。それは筆者の手にあまるし、また時間があったとしても絶版になっていたり、日本で未刊のものもあって、全部を入手するには数年はかかるだろう。そのため、会場で見た多くの原画から集合的に浮かび上がるカインの本質について述べることにするが、それはマイクの音楽の本質を理解するうえで役立つという思いも少しはある。それはつき詰めればオリジナリティの問題になる。カインはその点に関して、先行する人のイメージを借りているだけで、独創というほどのものはないといった意味のことを語っていたようだが、それはまさにそのとおりだ。カインの絵本はグリムやアンデルセンの古典ものから創作した物語まであるが、大半は他人の書いた文章に沿って絵を描いたもので、その点でカインの絵本は新たな時代の新たな描き手の作品の登場によって必然的に古さを帯びて行くものと言ってよい。これがオリジナルの物語を自分を考え、そこに自分の絵を添えるといった絵本であれば話はまた違うが、カインはそのことをよく自覚して、自らの絵本の独創性の限界をわきまえていたと思える。そこで物語の方には触れないとして、カインは絵本の絵のオリジナリティはすでに出尽くし、それらを引用模倣して再構成する手法しか残されていないと考えていたふしがある。これは簡単に言えばミケランジェロの後に出たマニエリスムの画家たちの方法と同じと言ってよく、ミケランジェロが参考にした人体を含む自然を重視せずに、ミケランジェロの作品の方を見ようという態度だ。つまり完成されたミケランジェロの前にあって、もはやオリジナルな作品は可能ではないという一種の敗北主義だが、絵や音楽などの表現は自然から出発しながらも、その作品が人を打つほどに完璧なものとみなされた時、後の時代の作家はその作品を分析して、同じ方法によれば同じような普遍不滅の作品が出来ると考え始める。これは、作品が目で見たり耳で確認したりすることの出来る形こそが中心にあるもので、その形あるいはそれを生み出す鍵のようなものを取得すれば同じものを生み出し得ると考える立場だ。それは完全に正しいものではなく、実際ミケランジェロの後に出たマニエリスムの画家たちの作品はミケランジェロ的ではあってもミケランジェロとは違う空気を内蔵することになったし、それはそれでひとつの時代の必然的な絵画であったと、今は美術史に組み込まれている。そうしたマニエリスムは、印刷技術や雑誌、新聞、TV、映画などの進歩によってあらゆるイメージが簡単に入手出来るようになった20世紀になるとさらに大規模で複雑なものになった。そして絵本という、純粋絵画からは一歩離れたところに位置する商業美術の分野では、純粋絵画以上に自由自在、勝手気儘にあらゆるイメージの引用や組み合わせが行なわれるであろうことは誰にもよく理解出来るし、そうした才能のほとんど頂点にいるのがカインと言ってよい。そしてマイクの音楽もまたそういう地点を目指したものかと言えば、そうではなく、ザッパやXTC的な要素を特に好んでいるところにもっと限定的な印象があり、その分カインのような与えられた仕事を完璧にこなす職人気質ではなく、奔放な芸術家に近いと言えるかもしれない。
 チラシの裏面を今初めて読んだが、そこにこう書かれる。「……ル・カインの描くイラストレーションは、東洋と西洋、幻想と写実性、繊細さと大胆さ、ともすると相反するかのような特徴をあわせもっています。また細密に描かれた作品は、装飾性が強く華麗、絢爛そのものです。自身の中に吸収したさまざまな像を自由自在に引き出し組み合わせ、ひとりの作家が描いたとは思えないほどの多様な作風によって形にする器用さは、……」なかなか端的な説明に筆者がつけ足すことはないが、特に面白いと思うのは「東洋と西洋」だ。それをまず説明するためにカインの出自を知っておきたい。カインは1941年にシンガポールに生まれた。ザッパやビートルズと同世代ということになるが、そのことだけでもカインの画業の方法に納得が行く気がする。シンガポールで生まれたので東洋人と思いがちだが、カインは眼鏡をかけた痩せ型で、白人ロッカーのバディ・ホリーによく似ており、東洋人の血は混じっていないように見える。この辺りのことは展覧会では詳しく説明されていなかったが、インテリ型で優しく、真面目、潔癖、物静かな人柄が伝わり、その顔写真を見た後で作品を見ると画風がよく納得出来る。そして、毎回異なる画風の絵本を描き続けたことに費やした資料集めとその分析などの時間、そしてそれを元にして実際に描く時間を想像すれば、楽しくはあろうが、苦行のように身を削る日々であったと思える。カインは47歳で亡くなったが、ザッパと同じ夭逝であり、またそれだけ早死にするだけの膨大な仕事量であった。シンガポールに生まれたカインは幼少期をインド、香港、日本、サイゴンで過ごすが、これが「東洋と西洋」の「東洋」を表現出来る資質の取得の理由であったと見てよい。絵本の原画ではなく、カインが幼い頃に叔母さんと一緒にインドで暮らした時の思い出を着色のイラストで描いた1枚があった。確か叔母さんは布製の人形を作っていて、その横でカインが本の挿絵を見ながらそれを模写している姿を表現したもので、天井には新聞紙で作った輪の鎖が垂れ、梁にはヤモリが這っていた。カインの記憶の中に叔母さんと暮らしたのんびりとした生活があって、それが絵本の仕事に就く遠い契機になっているかのようで、筆者はこの1枚を特に興味深く思った。絵を描くことを職業とする者は誰でもそんな幼少の頃の絵を描いていた頃の周囲の空気を覚えているもので、カインの場合はそれがインドであったことが重要だ。インドはイギリスと関係が深いが、カインは晩年にイギリスでアニメーションの背景画の仕事に精力的に携わったことがある。今回はその仕事の紹介はほとんどなかったが、カインの精緻なイラストを見ているとそれはよく納得出来る。そして、アニメの背景画は登場人物のキャラクターとは違って、より写実的になりがちだが、そうした仕事をカインが手がけたことは、カインが自然観察をよくこなしたことを意味し、必ずしも先人の画風の模写ばかりをして自分の画風を確立しなかったことがうかがえる。前述のイタリアのマニエリスムにしてもそうで、ミケランジェロの絵だけを模倣するだけでマニエリスムの画家たちが画風を作り上げたのではなく、ミケランジェロを手本にしつつ、ミケランジェロ的特徴をより際立たせる、あるいはミケランジェロに引きずられながらもそこから脱しようとするもがきもあって、ミケランジェロに似ながらも全く別の画風を確立することになった。そのことはカインのビアズリー風の墨1色のイラストもある意味では同じだ。それはチラシ裏面の説明にある「装飾性が強い」という側面だ。
 カインの装飾性は模様的という意味で、空間の隙間を模様で埋め尽くす手法だ。ビアズリー風イラストで言えば背景の黒い空間を埋め尽くす花模様だ。そしてその花模様は人物の衣装や人物が捧げる果物と同じ筆致による同じ重量性があって、画面全体が平面的に仕上がっている。つまり、背景の花模様は染織作品風だが、人物を含めたイラスト全体がそう見える。もっと重要なことは、カインが空間充填模様に絵の主役である人物と同じほど力を入れていることで、絵本を手に取る注意深い人は、絵の主役だけではなく、絵の隅々にまで目を行き届かせることになる。そして、その充填模様はカインの想像によるものと言うより、絵本の物語の国と時代に応じた模様をまず徹底して習った後で、それ風にアレンジしたもので、そこにカインの知的さと驚くべき研究熱心、そして良心を思わないわけにはいかない。良心というのは、どうせ埋め草的な模様であるので、適当に描いて色づけすればよいという態度ではなく、その物語を生んだ国の知的な人が見ても全くおかしくないほどの正確さを前提としながら、なおかつそこからカインらしさを発揮しようとした工夫だ。これは手本が存在するため、簡単な行為のように思われがちだが、実際はそうではない。カインの場合は、いかに物語を生んだ各国のあらゆる造形に詳しかったかを示しつつ、なおかつその膨大な模様からカインの、そしてその絵本の個性を発揮するために、どれほど絵模様を工夫しようと試行錯誤を重ねたかが伝わり、決して手本そのままではなく、また手本となる模様の出自が仮によくわかる場合でも実にそれを巧みに消化している。チケットのビアズリー風のイラストは『キューピッドとプシケ』の物語の絵本で、残酷な人物が描かれるが、カインはその物語からサロメを連想、そしてサロメを描いたビアズリーと思いを馳せたのであろう。そしてビアズリーの真価を子どもたちに後々にわかってもらいために、その画風を模倣したのだろうが、ただビアズリー風でないことは、空間を埋める花模様から明らかで、そこにカインの特徴、創造性を見るべきと言える。筆者はカインの絵を次々と見ながら、同じように緻密な装飾的絵本を描く瀬川康男を思い出していたが、瀬川の場合はカインとは違って、空間充填模様そのものに独自の作風があって、カインのように絵本ごとに画風を変化させる才能はない。どちらがいいか悪いかの問題ではなく、カインはより国際的でしかもボロを出さなかった。たとえばカインは日本の十二重の衣装を着た姫を主人公とした『竹取物語』にそっくりな絵本を描き、それは会場の説明では「無国籍風の絵本」となってはいたものの、筆者にはカインが充分に『源氏物語』などから、日本の十二重の衣装の構造を理解し、単にエキゾティックな狙いだけで描いたものでないことがわかった。そんな才能はカイン以外にはいないだろう。驚くのはそれだけではなく、たとえば住んだことのあるヴェトナムを題材にした絵本では、登場人物たちの顔がどう見てもヴェトナム人そのもので、しかもカインはそうした特徴を持つ人物を他の絵本には使用しなかった。また『ハイワサのちいさかったころ』はアメリカ・インディアンの少年を主人公とする絵本だが、そこでもカインはアメリカ・インディアンが作る工芸品を徹底的に調べ上げ、その特徴を把握したうえで模様を効果的に使っている。そうした行為は当然かもしれないが、その調査の密度と表現のセンスによって絵描きは一流にも三流にもなる。カインは古今東西の名画はもとより、いやむしろ古今東西の工芸品の模様のすべてを把握して自在にそれを描くことを目指したと思える。それは純粋な画家ではなく、子どもが楽しむ絵本としては理想的な態度だ。子どもたちは1冊の絵本からその物語の起承転結だけを喜び記憶するものでは決してなく、むしろ何気ない細部に引きつけられ、それを大人になるまで記憶するものだ。カインが叔母のそばで絵を描いていた幼少期がそうであって、天井からぶら下がる新聞紙で作った輪の鎖やヤモリなど、いわば瑣末な事柄がその絵を見る者に印象訴えかける。そのとこをよく知っていたカインは、自分の絵本でも同じように細部を疎かにしない。その細部にこそ子どもが無意識のうちに魅せられることをよく知っていたのだ。
●『イメージの魔術師 エロール・ル・カイン展』_d0053294_9252714.jpg 会場で最初の方に展示された原画は、『こまったこまったサンタクロース』や暗闇がどこに消えるか不思議に想う少年の物語など、ほのぼのとした内容の書き下ろしのものが印象深く、これは『ぼくのいもうとみなかった?』にも見られ、間違い探し的に絵を見比べて細部の変化を楽しむ工夫が凝らされている。一方、古典の物語に絵をつけたものとして、『美女と野獣』『おどる12人のおひめさま』『魔術師キャッツ』『雪の女王』などがあるが、『おどる12人のおひめさま』はどのページも四方に額縁のような枠を描き、その枠内の模様が12人の姫の衣装と呼応して変化に富んで、空間充填模様の手法の最たるものと言える。『魔術師キャッツ』は最後の絵本であったと思うが、猫の表現が実に動きがあって、本物の猫を飼うなりして、その特徴をよく把握したものだけが描き得る自在性に富む。これは先人の絵本を模倣する一方で写生を欠かさなかったためで、消極的な意味合いでのマニエリスムと捉えることがはばかられる。その自然観察の態度は『ぼくのいもうとみなかった?』ではもっと明らかで、ここでは自然の光や植物などの観察がよく行き届いており、カインが装飾性だけの画家でないことをよく示している。筆者が最も興味深かったのは『LITTLE DOG OF FO』で、日本版が出版されていない。中国の狛犬を主役にした絵本で、原画は墨1色だが、印刷段階で色指定が行なわれ、カラフルなものに仕上がった。線描表現のみで仕上げられいて、中国の陶磁器を思わせる絵だが、狛犬は装飾的かつ躍動的で、しかも他の中国的要素は中国に馴染みのない人が描いた不自然さが全く感じられない。現在ならまだしも、カインはそれを70年代に行なったのだ。インターネットがない時代にすでに時空を越えてそうした絵本を発表していたカインは国際人と呼ぶにふさわしい。残念ながらアマゾンで調べると同絵本は絶版で入手出来ず、代わりに同じ中国を主題にした1978年発表の『ね、うし、とら……十二支のはなし』を入手した。これは同じく線描主体ながら、動物などに着色が行なわれ、それカラフルに仕上がっている。つまり同じ手法を使わなかったことの例を示す。カインの絵本の日本語版は、文字が絵と乖離しているように見える点で、もっとどうにかならないものと思うが、これは海外の絵本の日本語版すべてに言えることであって、日本の絵本は絵と釣り合うように文字の書体から工夫する必要がある。それはともかく、カインの才能は『ね、うし、とら……十二支のはなし』の表紙からでもよくわかる。「東洋」の、しかもほとんど馴染みのない中国ですらこれであるから、西洋を主題にした絵本でどのような才能が発揮されたかは言うまでもない。そしてついでに言っておくと、ザッパでも東洋のイメージを音楽で表現する時に、あまりにも紋切り型のメロディを貧弱にしか持っていなかったことを思えば、カインの偏見のない、当の国に対する真摯な態度が改めてよくわかる。
by uuuzen | 2010-01-08 09:25 | ●展覧会SOON評SO ON
●マイク・ケネリーのアルバム『... >> << ●ウィロー・パターンのコーヒー...

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