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●『無名の南画家』
然の出会いと言えばいいだろうか。ネット・サーフィンをしていて興味を持った本で、2年前に買った。一部の人からよく知られる本で、厚さ1センチに及ばないのに、古書価格は割合高い。



●『無名の南画家』_d0053294_026887.jpg図書館で借りて読むことが出来るが、筆者は買って読むことにこだわった。そのためなるべく安く買おうと考えて、1年近く機会を待った。一読後、あまりに素晴らしいので家内にも薦めたが、やはり同じ意見であった。これは文句なしの名著と言える。著者の加藤一雄は美術評論家で、代表作は『京都画壇の周辺』という分厚い本だ。筆者は図書館でパラパラと中身を覗いた程度で、まだ読んでいないが、「あとがき」を富士正晴が書いていることに少々驚いた。意外というのではない。なるほどという感じだ。富士は「あとがき」で、この小説『無名の南画家』を、月刊誌『南画鑑賞』に連載されていた昭和16年当時から注目し、連載終了後、全部切り取って束ね、事あるごとに読み返したと告白している。『南画鑑賞』はうすい冊子状の雑誌で、東京の南画鑑賞会が昭和7年から発行し始めた。筆者は1冊だけ古書店で買って所有するが、南画を中心に論文などを載せ、西洋画についての記述もある。この雑誌を富士が読んでいたことは、富士の画業を考えるうえで重要な気がする。戦後になって南画ブームは急速に過ぎ去ったので、『無名の南画家』は題名からしてもいかにも戦前の古い出来事のような印象を抱くが、この小説に登場する無名の南画家は、必ずしも狭い意味での南画家と捉えるよりも、洋画の知識も豊富な日本画家と考える方がよい。それはともかく、富士は物語に登場する女性に感心して、その顔を想像して木版画まで作ったことが『京都画壇の周辺』の「あとがき」に書かれる。一昨日の『狐のなった奥様』で触れた富士の版画とはそれを指す。重要な女性は前半と後半にふたり登場するので、富士がどちらの女性を描いたかだが、女性の顔を大きく捉え、それを見つめる男子学生の顔を小さく添えるので、この小説の語り手となっている「私」が大学生の頃、つまり後半に登場する女性と考えてよい。だが、前半に登場する女性も「私」に大きな影響を与え、人生の真理をさりげなく伝える。その女性は、「私」がまだ中学生の頃に結核であっけなく死んで行くため、後半の女性より影がうすい。版画の女性は目を大きく見開いた活力が表現され、その点からも後半の女性と言える。そして、富士がその女性に魅せられたのは、加藤一雄の描写がそれだけ迫真的であるからで、女性をそのようにうまく描写出来る才能からして、加藤は小説家にもなれたはずだが、小説は他に一篇を書いた程度であった。にもかかわらず、『無名の南画家』の後記に加藤自身が書くように、この小説を書いて以来、世間は加藤を学者として扱わなくなった。このさりげない言葉の裏には加藤のどっちつかずの身の置きどころに悩んだ様子が見えて来そうだが、学者にもいろいろあって、今ならばマルチな才能としてもてはやされたかもしれない。加藤は大阪の天王寺の出身で、京大の哲学科に学んだが、広く文学の才能があったため、こうした小説でも個性を際立たせることが出来た。この小説は加藤が書くように、主人公を初め、全部フィクションだが、あちこちに加藤の日頃の思いが吐露されているはずで、物語の展開や結末以上にそうした断片的なちょっとした箇所が鮮烈に記憶に残る。つまり、明瞭な一事を主張するために物語を利用したというのではなく、中心となる画家と、その画家のもとに通って漢文や詩を学んだ「私」、そして「私」の家庭教師である大木さんの奥さんの「おさよさん」、そして画家の死をみとった不良少女と形容される「お蕙さん」の4人を通じて、生とは何か、美とは何かの気配を伝える。
 富士がこの小説を気に入ったのは、舞台が大正半ばから昭和10年代初頭にかけての京都市内にあるからとも言える。京都で学んだ富士にとって、その地理がよく実感出来た。京都に住む筆者もそうで、この点が他県の人々にとってどれほど小説の世界が実感出来るのか興味のあるところだ。筆者には大正時代の京都はわからないが、小説に登場する寺や地名はそのまま残っているし、空襲が皆無に近かった市内は道路幅が大正時代も今も変わらず、この小説の空気は全体として今なお漂っていると思ってよい。だが、小説に出て来る場所はごく限られる。この本で筆者が一番よく記憶するのは、まだ10代の「私」がおさよさんと一緒に今宮神社のあぶり餅を買って、その足で孤蓬庵に行って忘筌亭の縁側でそれを食べる場面だ。今宮神社や孤蓬庵は、筆者の母が育ったところから近い。筆者がその付近を初めて訪れたのは、残っている写真からわかるが、昭和20年代末期のまだ2、3歳頃だ。そして昭和30年代半ば頃まで仏教大学前を含めて近辺は竹藪や樹木で鬱蒼としていた記憶がある。それが今では家が建て込んで全く別の場所と言ってよいほどに風景が変わったが、今宮神社のあぶり餅は今も売られているし、孤蓬庵も変わらない。だが、大徳寺の西端に位置する塔頭の孤蓬庵は非公開になっていて、忘筌亭の縁側であぶり餅を食べるなどということは許されない。大正時代やこの小説が書かれた昭和10年代はまだまだのどかで、今宮神社から孤蓬庵への道は、今のようにバスが通らず、おそらく江戸時代とさほど大差ない鄙びた雰囲気であったことだろう。大正末期には市電が走っていたが、この小説には市電も出て来る。最後近くに、「私」が住む黒谷の近くの家に夜帰る場面がある。少し引用する。「電車を降りた岡崎から家までの間は暗い黒谷の横路である。私は溝の傍で立小便をするために立ち止った。……」 ここの出て来る電車道は平安神宮の北側を走る丸太町通りのことで、今は市バスが走り、「岡崎」は「岡崎道」というバス停になっている。ここを下車して北に入り、右に折れると黒谷の大きな境内で、高層マンションはないから、大正時代と大差ない雰囲気の家並が保たれているだろう。それで、「私」はその黒谷界隈に祖母とふたりだけで住みながら、近くの大木さんと南画家に家庭教師になってもらう。それは祖母が学校教育にいささかも信用を置いていなかったからで、このことは小説の最初から4行目に書かれる。筆者はそこを読んだだけでもその後の内容に期待出来ると感じた。大学が林立し、大学を出てもスーパーの店員程度にしかなれない日本の現実を思うと、学校教育の無益さを感ずるが、結局学ぶ意欲のある人間はどんな環境にあっても学ぼうとするし、そうでない人間はいい大学を出てもそれを役立てることは出来ない。ゴルフのはにかみ王子が大学に進学せずにプロになった時、TVである大学の女性教授はそれをやんわり批判しながら、大学は出ておくべきといったことを意見した。それは大学が存在するおかげで飯が食える人物の言いそうなことで、そういう人物に限ってろくな研究をせず、TVで顔を売って稼ぐことに関心がある。誰がはにかみ王子がプロに早々となって稼ぐことに意見する資格があるだろう。早い時期に専心しなければ物にならない分野はあるし、そういう分野では、大学を出ていなくても、いや大学を出ているとかえって手遅れになる。もういい加減その事実に日本全体が気づくべきで、頭でっかちの無駄な大学生やそれがいることで生活出来る大学の先生という無駄を削減する必要がある。
 話を戻して、黒谷の近くに、おさよさんと一緒に寺の離れに住んでいる大学生の大木さんがいる。「私」はその大木さんの紹介で50歳を越えている南画家の靄山(あいざん)先生に学ぶことになるが、寺は「法妙院」とある。これは実在するのだろうか。筆者の調べた限り、黒谷の近くにそれはないが、戦前まではあったのかもしれない。あるいは靄山は白川通りを挟んで東の鹿ヶ谷に住んでいたようで、亡くなった後、白川通り沿いの寺の無縁墓地に葬られるから、「法然院」のことかもしれない。白川通りから東の地区の黒谷界隈となると、真如堂近辺か。この真如堂も小説に出て来るが、結局この小説の舞台は黒谷から北が中心で、おさよさんは右京辺りの植木屋の娘という設定で、わずかに右京区が例外的にその一点にだけ登場する。それが興味深いのは、それほどに戦前の京都は右京区が発展しておらず、四条通りは西院より西は大工場がある程度で、ほとんど江戸時代そのままの田畑ばかりであったことを言外に示すからだ。この本の奥付によると、加藤の現住所は右京区嵯峨中通町となっているが、この小説を書いた当時すでにそこに住んでいたとすれば、右京の植木屋云々は加藤の自宅近辺のどこかがモデルになっている可能性がある。中通町は鹿王院から道を隔ててすぐ東隣にあって、筆者の家から散歩出来る範囲にあり、またそのすぐ近くに知り合いもあるため、昔からよく知っている場所だ。嵯峨のその辺りでは比較的古くから開発された住宅地で、加藤が住んだ平屋の家はまだそのまま残っているが、数十軒から成るその町内の一角を年末に撮影して来たので写真を掲げておく。そう言えば先の「市電を岡崎で下車して横路云々」は、「嵐電の鹿王院駅を下車して」と読み換えたくなるが、確かに町並みの雰囲気には似たところがある。
●『無名の南画家』_d0053294_0265078.jpg

 また話を戻して、おさよさんは「私」を連れて散歩に出かけたりするが、「私」はおさよさんの美人ぶりについて何度か書く。最初はこうだ。「一生を享けて三十七年私は未だかってあんな綺麗な人を見たことがない。……」 男の読者はこの描写を通じて自分が理想とする女性像を脳裏に思い浮かべることになるが、それがまたよい。絵画ではその美を具体的に表現するが、文字だけの方がもっとセクシーで、美人のオーラだけが伝わって何ともぞくっとする。映画になると、新人の美人女優を使ったりするが、そうした美人は時代に左右され、また個人の好みの問題もあるので、やはり文字だけで読者に自由に想像させる方がよい。別の場所ではこう書かれる。「……その立ち居には流石に一種雅びな特徴があった。……勿論京都風の人形のような顔ではない。と云って現代ばやりの表情の多い活溌な顔だちでもない。この人には一抹投げやりで無関心の風があった。……おさよさんが、法明院の青葉茂る樹に凭れて、呆やり有明の月でも見ている図は、まさに世紀末が美しい人に化けて出た趣があった。」 「私」とおさよさんの年齢の開きは10歳ほどだろうか。思春期の男が年上の美人に言葉を失ってしまう様子は筆者にはよくわかる。これは以前に書いたことがあるが、筆者が大阪にいた頃、家庭教師をして何人か教えたことがある。その時、わざわざ京都から電車で通って来る男子があった。その姉が筆者の住む横丁に嫁いで来たことが縁であったが、男子は末っ子で、数人いた姉の中の長女がある日、笑顔で筆者に弟の勉強の面倒を見てほしいと言って来たのだ。その女性は筆者より7、8歳年長で、20代半ばだったはずだが、当時長女を生んだばかりで、やがて次女を生んで間もなく病気で急死した。いかにも裕福に育った感じの、匂い立つような背の高い堂々とした美人であったが、姑と折り合いがよくなかったようで、時々険しい表情をしていた。だが、筆者にはいつも笑顔であった。とても健康そうな顔色であったのに、その早過ぎる死は癌のためだろう。さて、おさよさんは「私」にこう質問する。「あなたは大きく成ったら何に成る積もりですの……あなたは勉強していますか」 これに対して「私」は「いいえ」と答え、すると「そう、それはいいわねぇ」と、「案外にもおさよさんは例の花のこぼれる様な微笑を浮べた。」と続く。この先はもっと重要なことが書かれる。それは小説の前半部では最大の山場ではないだろうか。そして、おさよさんは23歳で亡くなり、その訃報を聞いた時の「私」がどうであったかの描写は胸を打つ。ここには美しい人や美しいことが美しく表現される。それは美術評論ではなかなか無理な話だ。加藤に言わせると、小説か随筆か区別のつかないようなこの書物だが、美の意味を伝えるにはこういう方法が一番と考えた結果の産物であるように思える。美しい絵画よりもそれを生み出す、あるいは絵画以前にそれを生み出す総体としての人間の美しさを文章で表現しようとする時、研究論文や評論ではなく、随筆や小説になるしかない。それは評論以上に創作の才能が必要で、しかも美しい言葉を連ねるだけでは本当に読み手には美しい内容が伝わらないから、夢想し、なおかつそのイメージを正確な言葉に移し換える力量が問われる。それは卓抜な文章力というもので、同じことを思っているだけ、あるいはそれを口に出して誰かに話すだけということとは天地の開きがある。言葉をどう組み合わせるとどういう効果を読み手に与えるかを熟知し、なおかつそうした技巧性を読み手に感じさせない、また本人も技巧をほとんど意識しない境地にあって初めてそうした感動的な読み物が出来る。加藤は美しい作品を多く見て、それらについて書く一方、その作品を生んだ美しい心を持った人々から、それらを取り巻く無名の画家やさらにそれを取り巻く市井の人々へと目を移して行ったのではないだろうか。偉大な画家の作品ばかりに執心して文章を書くのではなく、そうした偉大な画家もまたかつては市井の人々に交わってそうした作品を生んだはずだという思いがあってのことで、加藤が内面でバランスを保つには、こうした小説を書いておく必要があったように思える。ともかく、美術評論家や学者はいつの時代にも大学の教授並みに無数にいるが、このような珠玉の小説を、雑誌社からの依頼に応じてさっさと書くことの出来た加藤の才能に驚く。富士正晴は京都の画家の榊原紫峰の息子の家庭教師を一時していたことがあり、その点で加藤と縁があったが、美術や小説が東京勢を中心として語られるようになった戦後、この小説や富士の存在は、一般的には日本全体から見れば遠い過去のものとなった感があるだろう。だが、筆者には決してそうは思えず、加藤のような才能が京都にあったことを再認識する必要を感じる。また、富士は南画家、文人画家として独学者であったが、それは加藤がこうした小説を書いたこととどこかで通じている。それは好きなことを好きなようにやるという独立の精神によるが、この小説に登場する靄山先生もまたそういう人格として描かれていると言ってよい。
 この小説の主人公は靄山だが、同じような画家は現在でも多数いることを思わせる。無名ではあるが、絵を描くことでとにかくどうにか生活している。そして理想は高く、自作に対して常に厳しい判断を下して、なかなか代表作と呼べるものが出来ない。そして、そういう浮世離れした少年のような画家を町内の人々は揶揄しながらも、内心はどこかで尊敬している。靄山は生活のために包装紙のデザイン画を描いたりしているが、それは注文者からすれば名前が売れていないので安価で引き受けてもらえるという商売根性からだ。だが、それにもかかわらず靄山は全力でそうした仕事に向かう。そのため靄山の代表作はそうして消費されて行った消耗品と言ってよいが、現在では商業デザイナーという専門があって、靄山のように漢文的素養に裏づけられた詩情を包装紙の絵に盛ろうとする考えを持つ者はおそらく皆無だろうが、この小説では絵というものすべては、詩情がなくてはならないという南画の立場から見つめられている。靄山ば貧乏暮らしで独身だが、酒が好きで、ある日酔って溝にはまり、病床に就く。その看病を、大木さんは家主の石屋の娘であるお蕙さんに命じる。お蕙さんは小説後半に出て来る、富士正晴が版画で表現した女性で、加藤はこう表現する。「彼女が十五六になるや否や、その馥郁たる匂いは忽ち諸方の兄ちゃん連を引きつけた。彼女自身も色気とともに甚だ実践力に恵まれた娘だったから、勿論兄ちゃん連に呼応して、町内にお蕙さん在りとは、夙に吉田から白河にかけて鳴響いている有様だった。石屋の親爺は商売柄堅蔵だったから、彼女を真面目なミッション女学校に入れはしたが、彼女にしてみれば宗教や教育は、元来その異教的な本性に背馳するところである。女学校を出るや否や、待ってましたとばかり、未だセーラー服姿のまま、ある金物屋の若旦那と駈落して了った。何んでも東寺の狐塚通りでよろしくやっているのを親爺は汗かいて連戻って来たが、その後お蕙さんの色恋沙汰は彼女自身も忘れる程、数において多く質において千変万化だろう。……かほどの令名あるお蕙さんだが一無名画家のため快く看護を引受けてくれた。……」 この下りの後は最後のクライマックスに雪崩込むが、正直なところ、センチメンタルな作り話に過ぎて、あまり感心しない。最初からそのような結末をわかって書き始めたのかどうか、加藤に多少の迷いがあったように感ずる。それにしてもお蕙さんは、「あばずれ」の一語で片づけられそうな奔放さだが、周囲の眼差しは温かいし、加藤はそういう女性を否定するどころか、どこかで男性の理想と思っていたふしがある。それは富士も同じであったはずだ。それにお蕙さんはただの色情魔ではなく、学もそれなりに入ったうえで人生の真実を見通しているところがある。お蕙さんにとって靄山は父親ほどの年長者だが、お蕙さんは靄山を生活能力が皆無の実に頼りない男と思いながら、世話を焼かずにはおれない母性本能を感じる。加藤や富士だけではなく、男はそういう動物的な母性と奔放な雌性を持った女性をついも夢想している。加藤が学者から学者としてみなされなくなったのは、そういう本音を書いたからではないだろうか。だが、学者はそういう女性に憧れがあるにもかかわらず、それを文字で表現する才能がないだけなのだ。学者とは何とも味気ない人種だが、加藤はその点で名誉を持った学者であった。加藤がどんな顔をしていたかを想像するが、きっと粋で格好よかったはずだ。
by uuuzen | 2010-01-04 00:27 | ●本当の当たり本
●『愛に狂う』 >> << ●ビ-トルズ・リマスターを聴く

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