洒落た感じからはほど遠い、社会の弱者に焦点を当てた韓国ドラマで、その点で実に珍しくて印象深かった。不況の暗い雰囲気が蔓延する今の日本ではどのように受け止められるのか気にもなるところだ。
だが、『冬のソナタ』のように大歓迎されるのではないことは明白で、日本での放映料もかなり安かったと想像出来る。2007年制作、全22話で、いつものようにKBS京都で毎週欠かさず見て、去年11月だったか、ともかく全話を見たが、最終回をそうとは気づかなかった。翌週から『朱蒙』が始まり、いつもの時間帯にこのドラマが放映されないので、そこでようやく先週見た回が最終回だとわかった。だが、後から思えば、あのような終わり方しかなかったと納得出来た。それにしても暗い内容で、それで何か書いてこうという気になったが、たいていの韓国ドラマに登場する悪人はひとりも登場せず、後味は悪くはない。それがこのドラマの大きな持ち味だ。最初の回でいきなり交通事故の場面がある。その韓国ドラマ特有の月並みな手法にまたかと思わせられ、また、美人や美男が出るわけでもないので、期待は全くせず、最終回まで惰性で見たが、このようなドラマを制作するところに韓国ドラマの奥行きの深さがあるとも思える。結局のところ、TVドラマは男女の愛憎や人の情を描くが、製作者がドラマを見る庶民のどういう層を狙うかとなると、各TV局はいろいろと調査をして、以前のドラマと内容がだぶらないようにをまず前提に、現在どういう内容が好まれるかを考える。だが、もはやタネ切れであって、そのためにこのような一風変わったドラマが作られることになったとも考えられる。まず思ったのは、筆者が知らないだけかもしれないが、ほとんど知らない俳優ばかりを使っていることと、同じ場所を毎週映すという低予算性だ。そのためにドラマの印象がなおさらしょぼい印象をもたらしているが、おそらくTV局も大きな自信をもって作ったのではなく、ほとんど惰性と埋め草的な方針であったのではないだろうか。それが正しくても、一応はまとも、真面目、全力で作るのであるし、それなりの思いが込められる。そして、そのぎりぎりの制作者の思いを読み取ることで、やはり韓国ドラマの特徴が顕著に見えて来るし、それを日本の現状に照らすと日韓の差もまたわかると思える。ところが、筆者は日本のTVドラマをほぼ全く見ないため、そうした日韓のドラマ比較が出来ない。このカテゴリーに採り上げなかったが、同じKBS京都は以前に日本のドラマをリメイクしたユン・ソナ主演のものを放送した。そのドラマの韓国での評判は知らないが、日本のドラマが韓国ドラマに生まれ変わるほど、日韓の生活意識の差が縮まったことを示す一方、そのリメイク版が日本のオリジナル版と微妙にどう違うかを比べれば、やはり同じような経済的に豊かな国になったとはいえ、そこには国民の思いの差も認めることが出来るだろう。だが、筆者は日本のオリジナルを見ず、リメイク版もあまり面白いとは思わなかった。主演の2組の夫婦を演じた俳優の演技はそれなりに見応えがあり、またなかなか味があって、印象に深い脇役の若い女性も登場したが、何か書いておきたいというほどではなかった。
このドラマの『愛に狂う』というタイトルは、クォン・サンウの『愛に溺れて』によく似て、韓国ドラマ特有のトレンディなラヴ・ストーリーかと思ってしまいかねないが、全く別種のものだ。だが、交通事故で人が死ぬという最初の回からして、今までの韓国ドラマのさまざまな物語や設定の要素を抽出し、それらを元に組み立てた内容の、紛れない韓国ドラマであることは誰にでも想像出来るし、実際そうだと言ってよい。韓国ドラマらしい要素としてこのドラマで顕著な点は、主人公の男女が孤児育ちであることだ。孤児は日本でもいるが、TVドラマがそうした境遇の人々を主人公とすることがあるだろうか。韓国に劣らず日本に孤児が多くいるとしても、たいていの人々はそうした人々を見ないようにして暮らしているし、そうした人々をドラマの主役に設定した場合、物語の展開がどのように可能かをまず思い、結局スポンサーがつかず、脚本さえ書かれることはないのではないだろうか。社会的に底辺近くにいる人々を主人公に据えるより、TVは消費経済を活発化させ、経済的に豊かな世界が手を伸ばせば届くといった幻想を振りまく方が視聴率は上がるはずであることは誰にでも理解出来る。つまり、人々はしみったれた話よりも豪勢さを求めがちで、日本も孤児をドラマ制作のひとつの重要な要素として確立して来たかもしれないが、それは韓国よりも率は低いだろう。筆者が見た範囲での話だが、韓国ドラマでは孤児という要素がきわめて目立つ。これは韓国に孤児が多いという理由からではなく、孤児に対しての人々の関心の高さを示すだろう。もちろん、その関心は優しい眼差しで見つめるといったものから、その反対に偏見や差別というものもあるはずだが、いずれにしても、孤児の存在を国民レベルで意識していて、きわめて簡単に言えば、弱者に対する眼差しが日本より熱いのではないかと思わせられる。もちろん、眼差しが熱いだけで、実際の社会的状況は日本と同様、あるいはさらに不利かもしれないし、おそらくそうであろう。だが、孤児を無視しないという点は日本以上ではと思わせられるほどに、孤児がよく登場する。そのことは韓国ドラマを分析するうえでの大きなテーマと言ってよいが、ドラマからではなしに、韓国における孤児の社会的地位から研究すべきことかもしれない。そう考えると、筆者のこうした雑文では全く手にあまる気がするが、ドラマの主役に孤児を据える制作者が何を発信したがっているかを考える時、この『愛に狂う』はひとつの重要なサンプルになっている。
結論から言えば、このドラマの主人公の男女ふたりは、不幸の連続で、最終回に至ってもなおそれが去らず、むしろふたりの将来は通常の人ではとても抱え切れないほどの苦労の中に埋没して行くことが予想される。だが、そうした悲劇の中にいても、当人たちは自分たちの境遇に一抹の光を見ることは出来るし、また人間としてはそうあるべきだろう。そして、そのような不幸な者同士がお互いを支え合うという物語が、いわゆる玉の輿に乗るといった結婚とは違って、本当の意味での愛ではないかと問う脚本家や監督の思いだ。だが、そうした社会的な幸運に恵まれない男女の愛情は、このドラマによって教えられずとも庶民の間ではごくまともなものであるだろうし、他人には知られないままに似た生活を送っている人々は多いはずだ。そして、自殺者が増加している日本は、ある意味ではこのドラマから学び、韓国ではどういう社会が理想とされているかを知るべきとも言える。金満になる以前に、もっと大事なことがあるという、人間、社会、国家として最大の目的が何であるかということを、そっとこのドラマは教えている気がする。韓国ドラマは雲の上のような華やかな生活を描くドラマの一方で、こうした限りなく一庶民の不幸で貧しい話を描くことで全体としてバランスを取っている。もちろん視聴率は前者が圧倒しても、後者から前者を見ると、あまりにも内容に乏しく思える。だが、前者が無意味というのではない。最初に書いたように、このドラマは格好いい美男美女が皆無で、セクシーさはゼロだが、その分、現実的であり、その現実的な人々の生活の中で、何が一番大事であるかを見事に描いている。その大事なものというのは、簡単に言えば「思いやり」だ。それをこのドラマでは全く冴えない人物でさえも持っているよ設定し、主人公の哀れな男性に彼らはそれを打算なしで与える。それはドラマだけの作り事的な理想であるかもしれないが、そうだとしても、そうした「思いやり」という愛情を不幸な者に進んで与えるという態度の重要性を説くこのドラマの趣旨は重要で、またそれが日本のドラマ事情とはいささか違うものと捉えたい。そして、その韓国ドラマ特有のと言ってよい弱者に対する愛情は、儒教あるいはキリスト教の力によるものかどうか、筆者にはそれがとても興味深い。このドラマの基本はそのままにしつつ、主人公にある意味で敵対する人物たちが主人公に最後まで冷淡の立場を取るように描いたとしても、ドラマとして充分成立したはずだ。だがそうはせず、究極の悪人や冷たい人物は誰もいないという設定にしたところに、韓国の現実がこのドラマに描かれるようなものとは正反対の殺伐とした傾向にあると読み取ることは可能であるし、実際かなりの割合でそうと思えるが、せめてドラマではそうは描かず、人としてあるべき理想の姿を示している点で、日本のドラマとは著しく異なるものとなっていると思える。
さて、ドラマの内容だが、孤児育ちのある若い男性チェジュンが同じように家庭的にも経済的にも恵まれない若い女性ミニと交際している。そして、ミニの、全く冴えずまた不甲斐ない父がまとまった金額の借金を抱えており、それを返済するためにチェジュンは夜も別の場所で働く。その仕事は友人チョンホの店での運転代行だ。つまり、描かれるのはソウルに住む下層階級の人々の現実が中心だ。だが、それだけを描いても視聴率を稼げないから、いつもの韓国ドラマのように上流階級を登場させる必要がある。それが、航空機のパイロットであり、そのパイロットと婚約して結婚を控えた航空機の整備士をしている女性ジニョンというふたりだ。ジニョンもまた孤児育ちだが、婚約者の古くからの友人で、同じパイロットの男性ヒョンチョルからも密かに恋心を抱かれている。さて、大晦日の夜、仕事疲れから居眠り運転をしていたチェジュンは、ジニョンの婚約者を車で轢き殺してしまうが、これがドラマに必要な下層階級と上流階級の出会いだ。チェジュンは服役し、5年後に出所するが、恋人のミニは上昇指向からチェジュンを見捨ててスチュワーデスになり、パイロットのヒョンチョルに接近する。ミニは上昇志向一辺倒の打算的な女性のようだが、スチュワーデス仲間からあからさまにその成り上がり志向を指摘されて我に返り、思いはチェジュンとヒョンチョルの間を揺れ動き続ける。そして結論を言えば、ミニはヒョンチョルと一緒にならない。これは現実的な描写であり、このドラマのリアリティを高めている。一方、出所したチェジュンはまともに働くことを決意し、航空会社に入社して飛行機の整備士になる。そこでジニョンと出会うが、お互いに面識はない。それでジニョンはかつて自分の婚約者を殺した人物がチェジュンとは知らず、またチェジュンもジニョンにそういう過去があることを知らないが、やがてふたりは恋心を抱くようになる。ここでふたりを取り巻く脇役たちに触れておく必要がある。ジニョンは婚約者が死んだ後、その両親と暮らし、チェジュンは食堂のおばあさんを慕ってそこに通っている。おばあさんは子どもがいないこともあって、不幸なチェジュンをやがて養子にするが、ある日ジニョンの婚約者を轢き殺したのがチェジュンであることを知る。
やがてジニョンを初め、周囲の者はみなチェジュンのかつての事故を知り、自分が恋していた男が自分の婚約者を殺したと知ったジニョンは、チェジュンを許さず、またチェジュンは自責の念から、自分が殴り殺されてもいいと思うようになって、チョンホが経営するボクシング鑑賞スナックで試合に臨み、相手にノックダウンされる。韓国にそうしたボクシングを鑑賞しながら飲み食いする場所があることをこのドラマで初めて知ったが、国民性の違いがわかって興味深い。ジニョンはチェジュンの試合を見ながら、「殴り殺されればいいのよ」と残酷に叫ぶシーンがあるが、婚約者を殺された5年前の恨みが消えていないこと、また婚約者が死んでから知り合って愛し合うようになった男が自分の婚約者を殺したことを知った衝撃を晴らす鬱憤をよく伝える。ジニョンの引き裂かれるような悲しみを思えば、その悪魔的な叫びと表情は理解にあまりある。この場面はかなり難しい演技を強いられるが、イ・ミヨンはなかなかの役者で、このドラマでは彼女の演技が一番光っていた。さて、かつての過去が因縁的に尾を引きずり、せっかく新しい生活に入ったチェジュンは会社を辞めざるを得ず、5年前の事故当時以上の不幸に陥る。だが、ジニョンはチェジュンを忘れられず、それはチェジュンも同じで、やがてふたりはまた会うようになる。この時、10数年も密かにジニョンを思い続けて来たヒョンチョルは、自分より社会的身分の低いチェジュンとジニョンの恋愛を許すことが出来ず、今こそ自分がジニョンと結婚すべきであると思い、ジニョンの了解も取るが、婚約式の当日、結局ジニョンは踏ん切りがつかずに会場に現われない。ジニョンが同居するかつての婚約者の両親は、ジニョンがヒョンチョルと結婚することを望んでいるが、ジニョンがチェジュンと結婚するならば、ジニョンとは縁を切るとまで言うが、ジニョンは愛情を感じないヒョンチョルを選ばず、チェジュンを選ぶ。この点が現実的かどうかだが、お互い孤児育ちであり、響き合うものがあったと理解すべきだ。また愛情や恋心とは、ミニの例でも示されるように、経済的打算や玉の輿に乗る思いが優先するとは限らない。ヒョンチョルは両親がアメリカに住んでいて、何ひとつ不自由のない男だが、思い続けたジニョンと結婚出来ないというのもまた現実的であり、このドラマは持てる者が持たざる者より常に幸福とは限らないことを描く。
同居する両親の反対を押し切ってまでもチェジュンと一緒になろうと思ったジニョンで、物語はそのままハッピーエンドになってもよいし、また悲しいふたりのためにはそれしかないようだが、ふたりにはさらに不幸が訪れる。チェジュンがかつてチョンホの店で運転代行をしていて事故を起こしたのは、チョンホに大きな責任があったのだが、そのことをチョンホはずっと内心引きずってチェジュンに負い目を感じている。このチンピラのチョンホは一風変わった役柄で、ひとまずはチェジュンに敵対する悪人として描かれるが、それはチョンホがミニに片思いをしていて、チェジュンとミニが恋人同士であることを快く思わないからだ。だが、何やかや言いながら、チョンホはミニの頼りない父親を雇っており、またチェジュンが服役したことを内心気の毒に思って自責の念にかられている。そんなチョンホがある日、チェジュンとの因縁を決着づけようと思い、チェジュンに喧嘩を申し出る。恋人とも別れ、希望を失っていたチェジュンは抵抗もせず、チョンホに一方的に殴り倒されて意識を失う。慌てたチョンホはチェジュンを病院にかつぎ込むが、かつてチョンの店でのボクシング試合で殴られたこともあって、チェジュンは脳に障害を起こしていた。そして記憶喪失が始まる。そのまま放っておけばやがて廃人になるので早急の手術が必要だ。そして手術を受けても100パーセント治癒する可能性はなく、障害が残ると医者から言われる。手術を受けるチェジュン。退院の日、治療費を支払いに駆けつけたのは終始ジニョンを巡ってチェジュンを敵視していたパイロットのヒョンチョルだ。悪役顔のヒョンチョルだが、この場面で彼は本当は優しい人物であることが描かれる。そしてヒョンチョルの支払いが終わって去った直後、ミニの父親とチョンホもやって来て支払おうとする。この場面はコミカルだが、とても印象深く、感動的だ。チェジュンは周りの者全員から深く思われていたのだ。一方ジニョンは深い悲しみに包まれながら、手術後、チェジュンの記憶の中から自分が消えているのであれば、チェジュンとの結婚を諦めると決心する。そして、頭に包帯を巻いたチェジュンがひとりで向こうからやって来る。それに接近するジニョン。ふたりは無言で擦れ違う。失望するジニョンだが、通り過ぎた背後からチェジュンの声がする。「あのー、あなたがぼくを知っている気がするんですが。」 その言葉に笑顔でうなづくジニョン。それがこのドラマの最後の場面だ。ジニョンはかつて自分の婚約者を殺した男を愛するようになり、そしてその男が不具者になってもそれに添おうとする。チェジュンがそのような体になるという設定は、過失ではあっても人を殺したことの報いとして神の定めであると納得することも出来るが、ジニョンはあまりにも不幸の連続だ。彼女の行為は他人からは狂っているとしか思われないが、許すという思いと愛が同居し、チェジュンと行き着くところまで行くことになるだろう。孤児は日韓ともにいて、また交通事故死が全く珍しくないから、このドラマに描かれる各条件、設定は必ずしも韓国ドラマ特有のご都合主義的な、そして常套的なものとは言えない。そして、そう思わせるほどに、このドラマではそうしたいかにもあり得ない設定がさほど気にならない。それよりも大事なことは、このドラマで脚本家や監督が何を最も伝えたかったかだ。それはやはり弱者に対する眼差しで、そうした人々には周囲の者が手を差しのべるべきというメッセージではないだろうか。あるいは、社会的な弱者は世の冷たさをよくよく知っており、そうした人々はお互い集まり、支え合うという現実、あるいは理想を改めて言いたいのか。そして、愛は打算ではなく、運命的な出会いと本能の察知ということか。それが、理性から見れば狂っているといしても、その理性という奴がそもそも狂っていないと誰が保証出来るだろう。