富士正晴の作品集を少しずつ読んでいる。全集は刊行されておらず、これはわずか5冊なので、その中に含まれない文章はもっと多く、それらは単行本などで読むしかない。

そうしたものも見つけられる限り読んで行くつもりでいるが、特に注目したいのは富士が中国に関して書いた文章だ。だがそれはまた別の話で、今日書くこととは関係がない。このカテゴリーはさっぱり充実せず、筆者がいかに読書をしないかを晒しているが、これだという本に出会えないことも原因だ。今回も本当は多少の不満があるが、ちょっと考えることがあったので書くことにした。実際はまだその考えは定まってはいないが、その定まらない原因を探る意味でも何か書こうと思う。まず、この『狐になった奥様』という翻訳小説を知ったのは、富士正晴作品集の各巻についている月報による。鶴見俊輔が「おそわった二つの小説」と題して、富士から教えられた小説について書いている。そのひとつがデイヴィッド・ガーネットのこの小説で、鶴見はこう書いている。「富士さんは、二つの小説の愛読者だった。……愛するということが、どういうことかを、この小説を読んで、まなんだと富士さんは言った。」、あるいは「自然を背景として動物として人物を見ており、それは、富士正晴の作風につらなる。」と、はなはだ簡単な紹介だが、富士がこの小説についてどこかに何か書いていることを思わせ、またそれを読まねばこの鶴見の文章もどこまで正確かわからないという疑問はあるが、ともかく富士はこの小説を好み、そして鶴見に伝えた。筆者はそのことだけでも面白いと思ってこの小説を読んだ。ところで、富士はどの翻訳本を読んだのだろう。この本の日本語訳本はすでに戦前の昭和10年にあったようで、それが原題の「LADY INTO FOX」を『狐になった奥様』と訳したものかどうかは知らない。筆者が読んだのは岩波文庫の安藤貞雄訳だ。これは2007年に第1版が出たばかりで、富士が読んだものではない。富士が鶴見と交際し始めたのは、手元の資料などを探るのが面倒でそのまま書くが、1960年代からではないだろうか。富士は鶴見に遠慮なく鶴見の人物評のようなことを言っていた様子が鶴見の文章からよく伝わり、その言葉の前でまるでおとなしい鶴見が見えて面白い。それは単に年齢の差から来る上下関係ではなく、富士が、相手がどんな権威を持とうが人間として見通す鋭い観察眼を持っていたことをよく示すようだ。つまり、富士の前では人物は裸にされた状態で値ぶみされるところがある。話を戻して、「LADY INTO FOX」の戦後の翻訳は、『狐になった夫人』と題して1969年に原書房から出ていて、富士はこれで読んだのではないかという気がする。ならば鶴見は『奥様』ではなく『夫人』と書くはずで、もっと以前の翻訳本かもしれない。原書房版は井上安孝の訳で、その単行本の後記には、「私たちの若い頃には、ハックスリやガーネット、あるいはT.F.ポウィスなどが、一種の流行のように大いに迎えられた一時期があった。……したがって、このガーネットの拙訳も、いわばその頃のたのしい思い出につながるものとなるであろう。」などと書いてあって、1907年生まれの訳者が若い頃、つまり戦前に訳しておいたものであることがわかる。そのため、富士が読んだのは、ガーネットの本を読むことが日本の文学青年にとって流行のようになっていた頃ということも考えられる。戦後は隠遁生活をしたと言ってよい富士で、情報不足だったように感じさせるが、戦前は外国の小説も含めて多読したはずで、『狐になった奥様』を読んだのも戦前である可能性が大きい。

富士がこの本を好んだ理由は、文章もさることながら、何枚か挿入される木版画の挿絵でもあったに違いない。その版画はガーネットの夫人が手がけたもので、岩波文庫では版型が小さいので細部が潰れてしまってさっぱり味わいに乏しいが、原書房版では細部までくっきりと見え、断然単行本で読む方がよい。富士は絵や版画によく時間を割いた。そういう才能の持ち主がこの本に掲載されるガーネット夫人の版画を見逃すはずはなく、この本に接して富士は自著に自分で挿絵を描きたいという思いを募らせたのではあるまいか。明日以降このカテゴリーに採り上げようと考えている本に、富士が感心した日本のとある小説がある。富士はその小説を折りあるごとに読み返し、しかも版画で挿絵まで1点作った。その版画を筆者は所有するが、それを見ると富士の理想の女性像がうかがえるようで実に興味深い。富士のそうした女性観はたとえば『豪姫』で端的に表現されているが、小説家は女性を上手に描写出来る才能が欠かせないという、業界で昔から言われているようなことを自らに突きつけ、それへの返答として、たとえば『豪姫』を書き、また先の他人の小説の登場人物の女性を視覚化した版画を作ったように思う。富士のその版画は実際に会ったことのある棟方志功の描く女性像にかなり近い雰囲気もあるが、棟方の女性は仏像的で実際の人間を思い浮かべることが難しいのに対して、富士のものはもっと生身の人間をあれこれ想像させる。それは生臭いというのでは全くない。清らかという点では棟方の女性像と何ら変わらず、さらに現実的という意味だ。男は誰しもそういう理想的女性像があるのではないだろうか。それは、そうした女性に現実に巡り合ってどうこうしたいということとは違う。ある魅力的な女性が現実にいたとして、その人と初対面し、わずかに話をして、またひょんな機会に会った後、体内に湧き起こるほのかな感情といったものだ。そして、そういう女性に実際に出会った経験の有無にかかわらず、自分の頭の中で理想的と思える像を作り上げ、その像を思い浮かべるだけで何となく人生が肯定的、前向きになれるという気持ちが湧く。それは人間が動物であって、女性を生命の象徴と思っているからでもあろうし、そういう思いは雄としての人間の誰にでも遺伝子的に組み込まれている気がする。そして、そういう思いと実際の性交を結びつけたくなるかと言えば、そうとは限らず、理想は理想として頭の中にとどまり続けるところがある。となれば、性交相手の女性は、理想とは違う存在ということになりかねないが、そう断定出来るものでもまたない。ともかく、女はどうか知らないが、男は誰しもそうした神のような理想的女性像というものがあるのではないだろうか。
富士がガーネットのこの小説を愛読したとすれば、それは文章の巧みさというものではない。この小説は大学生程度の英語読解力があれば細部の綾まで読みこなせるはずだが、富士は英語で読んではいない。そのため、原書と翻訳本とを読み比べた違いをここで言及する必要はないし、また筆者は英語の原書を手に取っていない。筆者が日本語の翻訳調という文章の存在することを知ったのは中学2年生の時で、国語の女の先生が教科書に収録されるある文章で説明してくれた。その時はそんなものかなと思ったが、英語を自分で少しは訳すようになった時に、翻訳調ということを必然的に意識せざるを得なくなった。あえて翻訳調を残すという訳者の考えもあって、これは難しい問題であるため、永遠に解決するようなことではないが、翻訳文を読んでいて、元の英語の構文がそっくり思い浮かぶ場合、筆者は少々白ける。それは翻訳として間違いではないとはいえ、工夫が足りないからだ。そんな箇所は岩波版にも原書房版にもある。日本語ではまずそんな言い回しをしないはずなのにと思いながら読み進むが、その一種違和感が小説を読み終えた後に微妙にくすぶり続ける。そして、岩波版も原書房版も訳された時代の日本をよく反映していて、それはそれで訳者が好む言葉を使うため当然であるし、またそれでいいのだが、翻訳された異国の年代の空気に左右されない、書かれた時代の空気をそのまま冷凍保存される原書を一度は読む必要を思ってしまう。
この本は1922年に書かれた。当時を思えば、この小説における現実にはあり得ない設定は納得出来る。そして、ヨーロッパの小説界というものを思わせられ、さらには小説というジャンルにかかわらず、広い意味での物語の歴史にも思いを馳せることになる。写実的な絵画でさえも、それは画家がひとつの枠内の作り上げた世界であることを思うと、小説が現実にあり得ない事柄を描くことはあたりまえだが、そう思いにくい人はあるだろう。だが、20世紀の小説は戦争も影響し、現実そのままを描写するより、寓話を好んだところがあって、たとえばカフカの『変身』は、ある日突然男が大きなカブト虫に変身し、妹たちからリンゴを投げつけられるなど、疎外されたあげくにそのまま死んで行く。人間がカブト虫になることは現実にあり得ないから、カフカのこの小説のいったいどこが面白いのかと思う人は今でもあるだろう。だが、20世紀を代表する重要な小説家のひとりとして数え上げられるカフカであり、『変身』はすでに100年前に書かれ、人間が動物に変身するという小説の手法はもう古典的なものとなっている。そして、ギリシア神話にもあるように、そうした変身譚は人類にとって普遍的なもので、古代から存在したことにも気づく。『狐になった奥様』はLADYがFOXになる話だ。イギリスにおいて狐がどういう存在として一般に認識されていたかをまず知る必要があるが、それは詳しく調べなくても、日本でも同じようなものだ。稲荷神社では狐を祀るので、イギリスとは若干の違いはあるかもしれないが、狐はだいたい人を騙す狡猾な存在として古今東西、どこの民話にも描かれる。この小説でもそれは同じで、たとえばガーネットはイソップ童話を引き合いに出しながら、狐となった妻の策略について書いている。この小説の内容を簡単に書くと、物語の語り手は、召使を何人か抱える上流階級の知識人といったテブリック氏で、23歳のシルヴィアという妻がいるが、子どもはない。ふたりが森林を散歩していると、突然シルヴィアは狐に変身する。そのまま狐を家に連れ帰ったテブリックは召使たちに即座に暇を出し、狐と同居することにするが、シルヴィアは少しずつ野性に目覚め、ついには家を飛び出る。テブリックは妻がそうなってから森に通い、やがて妻が5匹の子どもを生んで暮らしていることを確認し、その子どもが大きくなるまで森に通い続ける。そして猟の季節となったある日、シルヴィアは犬に追われてテブリックの庭に駆け込んで来るが、犬に噛まれてテブリックの腕の中で死ぬ。たったそれだけの話だが、それをテブリックの側から描写している。筆者はこの小説を読みながら、映画になったことがあるのではないか、またなければ今後あるかもしれないと、とにかく映像を思い浮かべて、そのイギリスらしい自然の空気を楽しんだ。そして富士正晴にかこつけると、富士が住んでいた茨木市の安威の竹藪の多い場所はこの小説の舞台となったような場所に近かったのではなかったかと思う。この小説はガーネットの処女作で、しかも発表当時大絶賛され、代表作にもなっている。カフカの『変身』みたいなものだが、カフカの方が10年ほど早く書いた。しかしガーネットは『変身』を読んでヒントを得たのではない。
ガーネットは両親のひとりっ子として生まれ、文学者の血筋を祖父あたりから引いていた。そして父からは文学や出版に手を染めるなと言われたが、この理由はわからない。結局ガーネットは父の反対した方向に進んでイギリス文学界の大御所になる。親に反対してまで小説を書いた点はとても興味深い。親子間の葛藤がそこにあったのかどうか、また文章を書きたいとして、なぜカフカと同じように小説という形を取ったのか。そしてこの寓話的処女作で言いたかった本質は何かといった疑問が次々に湧くが、この最後の件については発表当時からいろいろ取り沙汰されている。富士の場合は、「愛するということがどういうことかを」学んだが、筆者が面白いと思うのは、「妻を」という言葉が鶴見のこの言い回しから欠けていることだ。テブリックは、狐が以前の人間の妻であるからという理由で狐に心を惹かれ続けるのではない。岩波文庫にはこういう下りがある。「奇妙なことに、こういう日々を通じて、テブリック氏は、あれほど愛していた妻のことを哀惜したことはただの一度もなかった。そうだ、今、だれのために嘆いているかと言えば、ただ、去っていったかれの雌狐のことだけだった。」 これは、狐そのものを愛しているのであって、狐の中に妻の姿を求めようとはしていない。あるいは、以前の妻が全然別の人格(狐格と言うべきか)になっても、そのまま愛し続けるというように読み取ることも出来るかもしれないが、やはり無理がある。つまり、森を一緒に散歩していて、妻が狐に変わってしまい、テブリックは狐を妻だとは思わず、狐を今度は愛するようになったと読み取るべきであろう。そこにガーネットはどういう思いを込めたのだろう。富士の解釈を知りたいが、富士はただ「愛すること」を読み取った。だが、それはあたりまえであって、解釈とは言えない。テブリックは「何を」愛したかだ。以前の妻ではなく、狐というのだが、その狐は妻とどういう関係にあるのかないのか。この小説を世に出す際、ガーネットの妻は版画を彫ったが、妻は夫に対して、この小説の言わんとしていることの説明を求めたかどうか気になる。妻は、自分がたとえ狐になろうとも、夫から最期まで愛し抜かれると単純に思ったであろうか。筆者はそうは思えない。ガーネットの女性関係が、カフカのそれと同じように克明に調べられているのかどうか知らないが、通常、親の期待に反してあえて小説を書く、しかもそれが処女作の場合、何かよほどの決意のような信念があるはずだ。そうした熱気があるからこそ、それが大評判を得て、代表作にもなる。その信念や熱意はほとんどの場合、異性が関係するだろう。
岩波版の解説には、「……ガーネットのむかしの愛人へのラブレターとかの読みも可能である」とある。この下りを読むよりも前、小説を読んでいる最中にその思いを強くした。そのため、以下はそれを前提に書くが、もうひとつの読み方として、妻がある日たとえばアルツハイマー病になったということも可能かもしれないと思ったが、それでは物語のある部分に無理が出る。ともかく筆者が思うのは、狐はガーネットとは身分の釣り合わない労働者階級の女性で、夫人と交際する何年か前に関係があったのではないかということだ。また、この小説で特に印象深いのは、狐が5匹の子を生んで育てる場面だ。その狐の生息する穴にテブリックは通う。最初は妻が狐の雄と交わったことを悲しく思うが、やがて5匹の子それぞれに名前をつけ、観察し、楽しい思いで見守る。これは、ガーネットがかつて交際した女性のその後の生活を意味しているように思える。だが、残酷であるのは、そのかつて妻、今は母である狐がテブリックの腕の中で事切れることだ。これは、たとえばガーネットに昔愛人がいたとして、その愛人が死ぬことになる。そうした現実がなかったとすれば、ガーネットはそのような設定のこの物語を作って、愛人のことを忘れようとする決心の必要があったと読み取ることが出来る。そのように愛人を死なせる設定は残酷だが、自分の腕の中で死なせたのは、ガーネットが娶った妻に対するひとつの倫理的けじめと思ったからだろう。そして妻は、ガーネットが過去の愛と訣別するためにこの小説を書き、次からは夫の愛をひとり占め出来るという期待もあって、喜んで版画を彫ったとも見ることが出来る。そのため、妻としては不足はないことになるが、ガーネットは昔の愛人を自分の腕の中で象徴的に死なせる物語を書き終えたことで、本当に昔の愛人を忘れることが出来たであろうか。実際はそれとは反対に、昔の愛人への思いを普遍化したかったのではあるまいか。ガーネットは文学的血統の中で坊ちゃんとして育ったが、野性に魅力を感じ続けたであろう。それはイギリスの知識人階級ではよくあることで、猟をするのもそういう思いからだ。原書房版には『動物園の男』という、別の小説が後半に収録される。そこでも上流階級の男女が描かれ、また管理された野性として動物園が登場する。『動物園の男』を読むと明確にわかるが、ガーネットが労働者階級の女性と結婚することは全く現実的ではなかった。ガーネットはそうした階級の女性に魅せられたとしても、そこに狡猾さを含めた野卑さといったものを感じたし、かといって一方ではそれを否定するほどに狭量な精神でもなかった。であるからこそ、父の思いに反して小説を書いた。だが、やはり上流の出であり、そこに20世紀を代表するカフカのような存在になれなかった限界もあったような気がする。男は動物的な女性にしばしば参ってしまう。富士正晴が理想として描いた女性もある意味ではそういうところがある。筆者は知的な女性が好きだが、奔放な何かを持つ女性はもっと好きかもしれない。少なくとも若い頃のガーネットは狐のような女を好んだということか。きっとそうだろう。小説家はそうでなければ書くことは出来ない。