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●『小野竹喬展』
教の美術展を見たのが最終日であったが、この同じ『小野竹喬展』は大阪市立美術館で最終日の12月20日に行った。



●『小野竹喬展』_d0053294_0502198.jpgやはり満員で、寒いさなか、大阪にこれだけ美術ファンがいて美術館に繰り出して来るのが少々意外だったが、筆者のように他府県から来ている人も多かったかもしれない。だが、京都人はどうだろう。京都では竹喬の展覧会は何度か行なわれて来たからだ。筆者が竹喬の作品を初めてまとめて見たのは、手元の図録に記してある購入年月日によると1981年6月7日で、京都市美術館での遺作展であった。半券が2枚挟んであるので、家内と一緒に行ったことがわかるが、そのことを先日言うと、記憶にないので誰か別の女性と行ったのではないかとの返事。筆者も正直なところ誰と見たのか記憶が定かではないが、竹喬の絵はよく覚えている。同展以降、96年6月に生誕110年、没後20年展として京都国立近代美術館でも開催されたが、その前年には京都文化博物館でも展覧会があった。生誕110年展を見たかどうか記憶にないが、今回は生誕120年展だ。この調子では10年ごとに大規模展が開催されそうで、この理由は竹喬が生まれた岡山の笠岡市に竹喬の美術館があって、そこにまとまった数が所蔵されることもあって、代表作を比較的簡単に効率よく集めることが出来るからだろう。その点、ムンクと似ている。それはともかく、竹喬の遺作展からすでに30年ほど経つが、その間筆者は図録をほとんど開いたことがない気がする。竹喬の作品が覚えやすいからで、またその作品を筆者は夢中になるほどでもないからだろう。そのため今回も見るつもりはなかったが、今年も残すところ10日といった押し迫った気分の日曜日、家内とぶらりと散歩がてらに大阪に出るのもいいかと思った。いつもは3、4つ用事を作るが、今回は珍しくも予定はこの展覧会程度で、もし気が向けば美術館を出た後、道教の美術展を見た後に踏み込めなかった界隈に足を延ばすつもりで、結局それを実行したが、その初めての興味深い経験はまた別の話としていつか書くかもしれない。それで、竹喬の絵は30年前に見た時と全く印象が変わらなかったことに驚いた。この30年、筆者はそれなりに多くのものを見て来たため、竹喬の絵の別の持ち味を発見出来るかもしれないという淡い期待を持って出かけたが、見事に30年前と同じであった。これは竹喬の絵にがっかりすべきか、あるいは筆者の審美眼の成長がないとしてそのことについてがっかりすべきか、何とも複雑な気分でもある。それでも、竹喬の絵を嫌うのではなく、ただ大変好むというのではないだけで、筆者には竹喬の淡白さが性に合わないのだろう。その理由は何かと考えると、まず風貌を思い出す。竹喬が10代で竹内栖鳳の門下に入ってから数年ほど経った頃に撮られたものだろうか、とにかくまだ若い頃の写真がある、それを見ると、いかにも田舎出の真面目で正直な青年という雰囲気があり、またそのまま老年に突き進んだような老年の顔であって、たとえば梅原龍三郎のような、どこかの社長か政治家のようなふてぶてしい貫祿とはほど遠い。それはそれでいいのだが、筆者は何となく物足りない。もし自分が竹喬と同じ年齢で、間近にいたとして、おそらく一番の親友にはならなかったと思う。それは案外筆者が竹喬に似ているからかもしれない。
 竹喬と一緒に京都市立の絵画専門学校に入った日本画家として土田麦僊がいるが、筆者は麦僊の方が昔からはるかに気になる。また、竹喬は麦僊よりかなり長生きしたが、戦後、つまり60歳頃以降の小野は画風をほとんど固定化させ、そのまま30年を過ごしたと言ってよく、こうした初期から最晩年までの作品を一堂に見せる展覧会では、どうしても後半に似た作品が集まり、そうした部屋はつい足早に通り過ぎてしまうことになるし、今回もまさにそうであった。晩年の作がどれも似るのは、ある意味ではムンクと同じと言ってよいが、油絵と日本画の違い、そして画家個人の資質の差もあって、ムンクと竹喬とでは晩年の一種の停滞気味となる絵画群は大きな絵がある。どんな画家でも60歳までに画風は完成し、後は余生的な、つまり付録的な作品をだらだらと生み続けるだけと言ってよいが、それでも60歳と90歳直前とでは体力に大きな差があり、またその30年で世の中はがらりと変わるから、その間にコンスタントに描かれ続けた作品群をひとまとめに同じようなものと決めつけるのはまずい。だが、平和な時代であればたいていの画家は老齢になると世の中の変化にあまり関心がなくなり、それまで持っていた小さなこだわりなどを半ば意識し、半ば無意識に忘れ去って、表現はどんどん骨組だけの純化したものになって行くだろう。そういう意味で竹喬の晩年の30年の作品を見ると、個性の純化、完成化への一直線の道のりであり、たとえばモンドリアンの表現にとても近いと言ってよい。平和な時代と書いたが、竹喬の晩年の30年は丸ごと戦後に相当し、日本は平和であった。そして、その戦後の昭和に沿った絵を竹喬を描いたと言えるが、竹喬の戦争体験としては長男を戦死させるという大きな出来事があったが、遺作展図録の年譜にはそのことが書かれていない。竹喬50代のことであったはずだが、竹喬の晩年の晩秋や夕暮れをしばしば題材にしたことと、この長男の死はどこかで深いつながりがあるように勝手に思っているが、竹喬の作品を年代順に並べると、長男の死が明白な形で創作に表われているとは言い難い。おそらく竹喬は悲しみを押し殺し、それを奥深いところにとどめて戦後の画風へと変化を遂げて行ったのだろう。竹喬は西洋画のいい点を日本画に果敢に取り入れようとした栖鳳の門下で、また30歳を少し越えた頃に渡欧したこともあって、西洋画の本質と、それと日本画との違いをよくよく知っていた。栖鳳の門下にあった頃の初期作は、栖鳳がコローの画風を水墨画で表現したのと同じようなことをしており、西洋画の遠近法に関心もあったが、本物の西洋画を現地で見るに及んで、竹喬は西洋画家に転身するのではなく、日本画の優位性がどこにあるか、また日本画でしか出来ないことはどこにあるかに着目し、西洋画にない、そして栖鳳も含めて従来の日本画にないものをどうすれば表現出来るかという大きな問題を引き受けようとした。当時の同世代の京都の日本画家はみな同じ立場にあって、みなそれなりに独自の道を歩んだが、戦後の竹喬が目指した方向は自然を写生することを基本としながら、あらゆる形態を染色文様と大差ないほどに単純化し、細部を省略した単純な画面構成であった。作品の前に立つと、竹喬にとっての写生の意義は眼前に広がる世界の形の再現が目的ではなく、形が発散する、形を取り巻く空気であったことがわかる。
 栖鳳は最初「竹橋」という号を与えたが、30代前半に「竹喬」と変える。「竹橋」と署名される初期作は時代を反映してアール・ヌーヴォー的な香りや大正ロマンの雰囲気が濃厚で、それはそれで楽しいが、他の日本画家たちも同時期にはよく似た絵を描き、まだ竹喬の個性が明確化しているとは言い難い。つまり、竹喬が「竹橋」の号時代で夭折していれば、大きな仕事を成した人物とはみなされなかったに違いない。栖鳳がどういう意味で「竹橋」の号を与えたのかはわからないが、「竹橋」では竹と木があって、竹に木を継ぐを思い出し、あまりいい名前ではない。「小野竹橋」と書くと、「野竹橋」の3字はどれも左右に分かれ、その点でも落ち着きがない。ところが「小野竹喬」とすると、中央の2字のみ左右に分かれ、「小」と「喬」はひとまとまりでしかも左右対照的で、4字全体としてはまとまりがよい。この改変に関して栖鳳は文句を言わなかったであろう。栖鳳自身が渡欧後に「棲」を「栖」に変えて西方を意識し、画風を変えたのであるから、竹喬も渡欧直後に号の字を変えたのは師に倣ってのことと言える。竹喬は山にもよく登り、行動的に各地を写生し、かなり克明な描写をし、点添的な人物を含めながら建物や樹木、海や空などを複雑に構成する屏風作品などの大作を「竹橋」時代にいくつもものにするが、「竹喬」に変えてからはまず人物が風景から少なくなる、あるいは全くいなくなる。竹喬が人物画を描かず、また人物のいない風景画ばかり描くようになる理由は知らないが、昭和初期には池大雅や田能村竹田の南画を想起させる淡彩の風景画を描くようになり、小川芋銭や村上華岳に通ずる枯淡さを感じさせるが、写生を基本として組み立てたそれらの作品はやはり竹喬独自の空気が漂い、西洋画を意識していた大正時代の濃厚な顔彩による絵画にも実はその空気がすでに忍び込んでいたことを知る。この時期の代表作は「冬日帖」という6面の比較的小さな画面で、短い線をゆっくりとぼつぼつつないで岩や樹木、あるいは波濤など画面を構成するが、南画における型にはまったそうした各画題の描き方を自分なりに編み出し、そして写生を基礎としている点で、江戸時代の南画とは大きく異なりつつ、深い精神性を宿すものとなっている。つまり、南画の精神を、西洋画を通過した眼差しで、写生を通じた自然観察を背後にして全く新たに捉え直したものと言ってよいが、写生に囚われているという思いが竹喬には強かったのか、やがてその線描的な画法を捨てて、今度は色面構成重視の画風に進む。ここには南画以前の日本のやまと絵に向かうという思いがあった。そこがやはり京都で活躍した画家の面目であり、平安朝の絵画に連なろうという思いがあったのだろう。だが、竹喬は写生を基礎とする画家であり、写生を通じて得た形や色合いの表現を重視する。とはいえ戦後は、研究家が実際の風景と竹喬の作品を比較出来るといったように、ある特定の場所を克明に写生し、それを元に描くようなことは少なくなる。これは遠方に出かけることが億劫になったことと、身近な光景で充分に画題に昇華し得るものを見つけることが出来たからだろうが、若い頃の旅のさまざまな空気の記憶が個別化して普遍化し、それらの情感をいつでも想起することが出来たため、克明な写生を元にした細部再現的な絵を描かなくても、ごく少数の形と色合いで自分が納得出来るものが組み立てられるようになったからだ。これは画家にとって究極への進化の道と捉えることが出来ると同時に、偉大なマンネリ化への道とも言える。
●『小野竹喬展』_d0053294_0514277.jpg たとえばチケットに印刷される作品は昭和49年、85歳の「樹間の茜」と題する横長の絵で、チケットはその左端4分の1をトリミングしているが、ほとんどキモノの柄と言ってよい文様と配色であることに気づく。そして、これがキモノならば何の評価も与えられないが、竹喬のような日本画家が描けば、若い頃からの習練の積み重ねの果てにこの境地に至ったのだと、積極的で好意的な評価が下される。だが、この絵はある特定の場所の写生を元にしたものではなく、竹喬の脳裏にあった光景をいわばでっち上げたものだ。その点においてもまさにキモノの文様に見えるのだが、竹喬の当時の画風はこの作品に代表されるように、文様的に正面的に描かれる植物の葉、それとは無関係に伸びる樹木の枝、竹喬の代名詞となった茜色やそれと補色の関係にある水色や緑色など、いわば小野カラーだけで構成されており、人々は無名ないし無名同然のジャンルでしかないキモノの文様とは一線を画した芸術とみなす。だが、竹喬はキモノの文様世界を侮る思いは全くなかったはずで、むしろキモノの文様が平安朝から連綿と培って来た単純化の美を宿し続けていることに着目し、自分の絵画もそれと同じように命の長いものになることを願ったと思える。繰り返すが、竹喬は西洋画的な自然の克明な写生を一方で見据えながら、日本独自の絵画の歴史をも見て、結局後者の中に邁進して独自の文様的画語を編み出した。「樹間の茜」の前に立って筆者が面白いと思うのは、右端の一番太い樹木の幹で、そのほぼ中央にベージュ色の3本の短い横棒が引かれることだ。これは一旦そこに目が吸い寄せられると容易に離れ難く、また奇異に見えて仕方がないが、その横棒と同じ色が同じ木の左端にも塗られていることに次に気づき、そしてその色は太陽が当たっているように感じる。またその色合いや3本の短い線がなければこの絵は全体にとても暗く、それこそただのキモノの文様になってしまうことを発見する。竹喬は頭の中でこの光景を作り上げた時、まだ紅葉しない楓を中央に、数本の樹木が遠近に配される様子と、それらの奥に夕日が照らす茜雲を見、さらに画面にはない太陽を感じさせるために右端の太い樹木の肌をベージュ色に塗ったが、それだけでも足りずに3本の短い線を幹の内部に引いたのは、本当は左端の2本の樹木が桜だろうか、幹に横縞模様があることに呼応させるために、つまり造形上の均衡から不可欠と判断したからであろう。だが、いずれにしてもこの抽象的な3つの線がなくてはこの絵はごく月並みなものになる。並みの画家ではこの3本の線を引くことを思いつかず、また思いついたとしても描く勇気がない。なぜならそれはどこかわざとらしく、真先に目に飛び込むものであるからだが、自然というのはそのようにどこかわざとらしく真先に目に飛び込んで謎めいた形に満ちるものであることを、写生を欠かさなかった小野はよくよく知っていた。
 旅好きであった竹喬が芭蕉に思い入れがあったのはよく理解出来る。また芭蕉の俳句を好んだことは竹喬の画業に余分なものを排して単純で本質的なものだけを描くという思いを深めさせた。そうした方向は福田平八郎や熊谷守一にも見られ、また葉をつけない樹木に茜色の雲を描く竹喬の絵を見ていると、筆者は中村岳陵の同種の作品を想起してしまうが、戦後の日本画のひとつの方向として、大正時代の緻密な表現に対してもっとおおまかで平面的に描く方法が流行したと言えるかもしれない。それはモダンという言葉を適用してもいいが、昭和のモダニズムは現在見るといかにもずっしりすっきりとして古風に感じられるほどに竹喬の絵もやはり昭和時代のものという気がする。それはあたりまえの話で画家は時代に則した絵を描くが、その老齢も手伝ってのあまりに単純な絵を見ていると、何か物足りないものを感ずる。また、今回は間近で彩色ぶりを確認出来たが、晩年の竹喬は細部を完璧に塗るという考えはなく、かなり荒い箇所などが目についた。それは視力の衰えもあるが、総体としての絵がある情感をかもし出しておればよいという考えであって、細部に神経質にこだわらないというところが、絵全体のおおらかさのようなものにつながっている。また、仮に色面をフラットに塗ったようなパソコン画面のような彩色にすれば、漫画や商業的イラストになって、ありがたみが飛んでしまう。やはり絵具を筆ず少しずつ置いて行ったという仕事の跡が見えるのがいいのだ。竹喬の晩年の代表作は芭蕉の俳句に取材した「奥の細道句抄絵」の10点で、これは絵の寸法は統一がなく、また俳句は竹喬が好みで選んだ。娘婿に予め取材に行かせ、撮らせて来た写真を元に画想を練り、それが煮詰まったところで実際に現場に出かけて写生をこなした。写真を元にした後に写生して思いを修正するというのは、体力の減退から仕方のないことであったのか、あるいは体力があってもあえてそうしたのか、先の「樹間の茜」のように、芭蕉の俳句からイメージを思い浮かべ、写真を見ずともある程度どのように何を描くかは決まっていたのだろう。そうでなければある程度竹喬の指示どおりに娘婿が写真を撮って来ることは出来なかった。俳句を元に絵を描くことは、最晩年の池田遙邨が山頭火の俳句に想を得たことにもつながるが、ここにも戦後の日本画のひとつの方向性が見える。「奥の細道句抄絵」は芭蕉の俳句のそのままの絵解きというのではなく、竹喬の語法の集大成をものをもくろんだものに思える。山や空、水(川の流れや海の波、水田や湿地、路上の水たまり)、雲、太陽や月、花んそして風といったように、自然を構成するものを全部動員して10点に収斂させる思いがあったのではないだろうか。筆者はそれら10点全部が必ずしも成功しているとは思わないが、ひとりの画家の最晩年のしめくくり作として、これだけ象徴的で完成度の高いものは珍しい。そしてそれらはあまりにも単純な絵だが、その単純な世界に到達するためにはさまざまな絵画を試し、また90歳近い年齢に達する必要があった。こういう幸福に恵まれる画家は少ないが、それは戦後日本が辿った平和な国あってこそで、その意味で竹喬は昭和を代表する画家の大きなひとりとして今後も評価されるだろう。
by uuuzen | 2009-12-31 00:52 | ●展覧会SOON評SO ON
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