惰性と感じると何事も面白くない。この『おにおにっ記』も少々書き過ぎたという思いがあるが、もうそんなに長くは続かない。
ほとんど1年遅れの投稿で、気の抜けたビールのようだが、投稿時に改めて読むと、筆者の経験した日常のほんのちょっとした心の動きどころがよくわかって興味深い。海外旅行したといった、おおげさな体験ではなく、毎日同じような淡々とした生活がかえっていとおしいという思いもある。それは平凡、平安が一番ということかもしれないが、筆者は何もしないでぼんやり過ごして退屈するより、自分でいろいろと楽しむことが好きで、そのためにも『おにおにっ記』を始めた。そして、始めたならば変化がほしいから書く内容を工夫しようとするし、そうなると、今までとは違う経験を進んでやろうという意欲も湧く。その軌跡が『おにおにっ記』には刻印されていると思う。書くことは自分を見つめるのにいい機会だが、『おにおにっ記』によって文章力を鍛えることを目論んだというようなことはない。今さら文章力でもないし、鍛えたところで本番にそれを駆使する機会も筆者は少ない。それがよくわかっているだけに、『おにおにっ記』は自分が楽しい遊びと位置づけた。もちろんこのブログのほかのカテゴリーもそれは同じだが、自分が楽しくなければ他人が読んでも絶対にそうであるし、面白くないものは存在の意味がない。だが、この楽しい、面白いということを文章で他人に伝えるには、鍛えた文章力の裏づけが必要で、それを少しでも獲得するにはやはり多く書き続けるに越したことはない。ある人物が後世にその人柄を伝える手段として、文章や絵画、他の表現媒体があるが、くだらないものを多く遺したところで恥をかくだけであるし、またすぐに誰も顧みなくなる。それを思えば何も遺さないのがかえっていいという腹のくくり方もあるし、犬や鳥が何も残さないのと同じように、大多数の人はその幸福に恵まれている。何かを残そうと思うのは案外心がどこか病んでいる証拠であって、本当に後世まで伝わる続けるものは、残そうとという思いなしに作るものではないだろうか。
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2009年01月18日●第 171 話
●おわりやっ記 2
高速バスが高速道路を降りて中心街に向かう時、マニマンは数年前には見かけなかった高速道路が頭上を走っていることに気づき、空が小さく見えることに失望しました。都会はどこでも高速道路だらけで、頭上を車が走ります。有害な排気ガスの降り注ぎにニンゲンはなぜ平気なのでしょう。排気ガスが大量に切れ目なく排出されれば、いずれニンゲンはおわりです。そんなことを思いながら、マニマンはバスを降りて行動開始しました。すでに街は行動開始全開で、見わたす限り、どこもニンゲンだらけ、きっとこそっとおならをしているおわりな人もいるでしょう。で、まず地下鉄に乗って美術館へ向いましたが、最寄りの駅に着いてまずマニマンはママーニを空が小さく見える場所に連れて行きました。高速道路が覆っているのではありません。水が空中に溜まっているのです。それを見上げると、水は透明ですから空が透けていますが、風が時々波を生じさせ、水の皺が見えることがあります。ただし、そのためには皺を目立たせる物が背後に必要です。マニマンは電波塔を背景に据えて写真を撮りました。