百済は聖徳太子と同時代の朝鮮半島の国で、当時半島は他に新羅、高句麗があって3つの王国に分かれていた。このドラマは日本の聖徳太子に言及もする、李王朝から一気に古代に遡った韓国歴史ドラマで、全55話という長大なものだ。
去年秋から、いつもながら韓国ドラマをよく放送してくれるKBS京都で毎週見始めて、先月17日に最終回を見た。55回のうち2話程度は見忘れたものの、13か月の間、毎週見るのが楽しみであった。主役ソドンを演ずるチョ・ヒョンジェはこのドラマで初めて知ったが、このドラマを見ている間に従姉からもっと若い頃の彼が登場する『初恋』のDVDを借りて見た。そこでの気の弱い繊細な男としての演技はなかなか好ましく、それから『ソドンヨ』まで何年経ったのか、体格が俄然よくなり、すっかり大人になった姿を見ることが出来る。何よりも違うのは、ここでは甘いマスクに似合わず激しいアクションをよくこなすことで、何も付与するものがないほどの貫祿充分な俳優として育っていて、それが印象的だ。彼はかなり貧しい出のようで、家計を助けるためにアルバイトをするという経歴からやがて俳優になった。そういう苦労人としての事実、自覚がこのドラマの役どころとしては見事にはまっている。そのほかの出演作を知らないが、このドラマが後々まで彼の代表作になるのは間違いがない。相手役のヒロインである新羅王の娘で第三女のソンファ姫はイ・ボヨンという女性で、つい先日調べて、『ラストダンスはわたしと一緒に』に登場していることを知った。なるほどとすぐに思い当たったが、現代劇と時代劇では顔や雰囲気が全く違って見える。ちなみに彼女はミス・コリア出身だそうで、このドラマでの姫役は最初少し違和感があったが、見慣れるとかえって適役と思えるようになった。ソンファ姫を巡ってソドンと最初から最後まで敵対する悪役のサテッキル役のリュ・ジンは、当初チョ・ヒョンジェと紛らわしかったが、同じように長身でしかも若く、やはり彼なくてはこのドラマは成功しなかったであろう。以前に『夏の香り』に出ているようだが、筆者はまだそれを見ていない。もうひとり重要で最初から最後の回まで登場する人物は、百済の大学舎という技術研究機関の長であるモンナス博士だ。イ・チャンフンという男優が演ずるが、他に出演作を知らない。大河ドラマであるので登場人物はかなり多く、また他のドラマでよく目にする俳優が少なくない。そしてそれら脇役のどこかユーモアのある演技は、全体にシリアスな物語を娯楽として高めている。この点は韓国ドラマならではで、同じ脚本をもとに日本が作っても同じ味わいをかもし出せる俳優陣がいないように思う。また、韓国では週2回として放送されたと思うが、となれば半年少しにわたっての撮影になったはずだ。半分は室内などのセット、もう半分は野外ロケといった感じだが、山や川の自然の美しさはもっぱら秋から真冬のシーンが多く、かなり過酷な条件であったことが想像される。どこでロケしたのか知らないが、高い山頂といった雰囲気の場所が多く、百済の都があったプヨ辺りではないだろうか。まだ韓国に美しい自然が多く残されていることを味わえるが、その山河のあり様はドラマにリアリティを増加させている。
長編あるので、途中で中だるみが避けられないが、それをあまり感じさせない。初回の冒頭場面から最終回の内容が予想されるような布石がまず用意される。それはモンナス博士が土から彫り起こす香炉だ。そこにはそれで香を焚く者は王となって百済を興すという銘文が刻まれている。その言葉から予想されるように、当時の百済は国力が衰え、王もあまり力がなく、王の身内が王の命を狙って王座に就こうとしていた。こうした史実がどこまで正確にわかっているのかどうか知らないが、このドラマのホームページを見ると、当時の百済の王のことは一般にかなりよく知られているようだ。三国時代であるので、百済王朝の内部にさまざまな軋轢や葛藤があったのはよく想像出来るし、そうした条件のもとに史実としてわかっていることの空隙を埋めるように百済国王の武王の誕生から王座に就くまでの間、つまり西暦578年から610年までの間頃までを描く。「ソドンヨ」とは「薯童謡」で、これは「薯(芋)の童謡」ではなく、「薯とあだ名された童(わらべ)の謡」の意味で、朝鮮で初めて作られた四句体の郷歌とある。四句体とは4行詩のことだろうか。ともかく童謡のように簡単な歌で、ドラマでは子どもたちが歌う大人びた内容の歌で、子どもたちは意味をあまり知らずに、言葉のリズムだけですぐに覚えるに違いない。薯童(ソドン)は武王の渾名としての幼名で、ドラマで明確に描かれるが、芋を食べるしかない貧しい子どもとして登場する。ソドンは普段はチャンと呼ばれるが、『快刀ホン・ギルドン』と同じような設定だ。父は百済王で、母は宮廷の踊り子という身分の低いヨンガモ、そして王にとっては第四子に当たる。王はある夜、宮廷内を歩いていて、ヨンガモがひとりで練習している姿を見て魅せられ、一夜をともにする。かなり滑稽とも言える筋立てだが、現実にそういうことはしばしばあったろうし、王の弱さを見せつけてかえってリアリティがある。ヨンガモの恋人はモンナス博士だ。ふたりはいずれ結婚すると約束を交わしていたが、ヨンガモは王から強引に関係を迫られて拒否出来ず、そしてその一夜の関係でチャンを身籠もる。モンガモは悩んだ挙げ句に王にそのことを告げると、王は謝りながら、王として何もしてやれないと言いながら、王子である証となる青い宝石のペンダントを手わたす。ヨンガモはそれを受け取り、そして妊娠のことを伏せ、モンナス博士と別れ、親子で田舎に引っ込んで暮らす。そこでチャンは10歳を迎えるが、父を知らず、また母ひとりではろくな教育も受けられず、わんぱく小僧として育つ。そんなある日、モンナスは王室のいさかいから国を追われ、大学舎の連中と一緒に身分を隠して新羅に船でわたろうとし、そこでヨンガモに出会う。ヨンガモは王の子ということを隠しながらモンナスにチャンを託し、そしてモンナスを追って来た百済の兵士たちに襲われて死ぬ。一方モンナスはヨンガモの急激な心変わりが理解出来ず、またヨンガモが浮気して生んだチャンに対して冷淡な態度を取るが、チャンはモンナスを父と思って慕い、やがて新羅の山中に開かれた大学舎で少しずつ認められて行く。
このドラマの前半の見所はチャンが一休さんのように難題を次から次へと片づけて行く物語にある。その難題とは全部大学舎に関する、つまり当時としては先進技術に関することで、教養番組の側面をかなり負っていて、ラヴ・ロマンスの部分は影をひそめる。韓国において百済のことは高句麗や新羅に比べて不明なことが多いらしいが、日本と関係が深かった百済は高句麗や新羅になかった先進技術をいろいろと開発し、それを日本に伝えたという歴史事情を前提にこのドラマは想像力を駆使し、モンナス博士とチャンのふたりをその百済の最高の技術者として描いている。もちろんそれは全くの空想だが、そのような人物が何人もいたことは確かであるし、そうしたことだけを認識すればよい。また日本との関係のほかに隋との関係も描かれ、使者が百済にやって来て難題を吹っかける回がある。その難題は百済の技術力を侮ったゆえで、それに対してモンナス博士やチャンは見事に解決し、隋の使者をぎゃふんと言わせる。これは『ファン・ジニ』や『ホン・ギルドン』にも同じような場面があって、中国に対する朝鮮の意地がどのドラマでも共通して示される。さて、少しそれらの百済の技術について書いておく。たとえば金属関係の技術だ。これは仏像や鏡を作ったり、粘りがあって折れにくい刀を打ち出す技術を試行錯誤のうえに見出すことで、ドラマの筋にうまく利用されている。また生活に困窮している農民のために痩せた土地を有機物豊かな土地に改良すること、湿度の高さに由来する病気を治療するためにオンドルを発明すること、隋から高価な紙を輸入しなくてもいいように自国で製紙技術を発展させること、また華麗な錦の織物を独自に織ること、黄金色の鎧を作ることなど、ほとんど工芸に関することだ。新羅にわたったモンナス一行が、地元の貴族(サテッキルの父)から小さな仏像を鋳造出来るかと問われ、それを短期間で仕上げることにもさり気なく大学舎の役割が示されるが、小さな手仕事ばかりにモンナスやチャンの働きがあったのではない。農業用水のために貯水池を作るという、今で言うダム建設のような作業も物語の後半には登場し、モンナスやチャンはそこで奴隷として働かせられることになったりもするが、持ち前の知識によって工事の方法に異議を唱えたりしながら物語は進み、また味方も増やすことになる。つまり、知力こそが最も重要で、それが身や一族、国家を助けるという思いがこのドラマの最大の主旨になっていると見ることが出来る。チャンはどのような苦境に陥っても必ず解決策があるはずと信じ、重要なことは知識と勇気、そして体力ということを毎回示す。そこには現代朝鮮のひとつの思想が見えているだろう。また、このドラマでは取り引き、交渉術というものも見所で、相手の出方をどう読むかということの重要性がほとんど毎回のように示される。それは国政を司る政治家にとっては特に重要な資質だ。それを一番持っているのがチャンで、その次にサテッキル、そしてモンナスというように設定されている。つまり、敵としてのサテッキルはなかなかしぶとく、ほとんどチャンと互角の才能の持ち主として描かれるが、ふたりの生涯は正反対の方向を辿る。
サテッキルは新羅の貴族の長男で、ソンファ姫とはいいなづけも同然の間柄であったが、モンナスらとともに新羅に移住した少年チャンと同じく、まだ子どものソンファの間に恋心が芽生える。チャンはある日ソンファが踊っている姿を見て恋心を抱き、やがてソンファが姫であることを知って、ソンファを困らせるために歌を作って子どもたちの間にはやらせる。それが「ソドンヨ」だ。ドラマの終盤にもまたこの歌は登場するが、ソンファはチャンが好きだという内容だ。そういう歌詞を作ってチャンはソンファの気を引きたかったのだが、ソンファにふさわしい人物になるためにはモンナスに認められる学者になる必要があると思い、大学舎への入学をモンナスに頼む。だが、なかなかチャンは認めてもらえない。ソンファの儀式の夜、少年サテッキルは花郎としてソンファに捧げ物をする役割であったが、ソンファは、芋を食べて暮らることで庶民の苦しみを知っているチャンをその役割に就かせ、サテッキルは屈辱感を味わう。それがサテッキルの恨みの始まりで、その恨みがいろいろと形を変えながらドラマを最終回まで持って行く。そのチャンとサテッキルの知識、あるいは時には武力の戦いがこのドラマのもうひとつの骨格となっている。また、ソンファはサテッキルと同じ新羅人であるので、百済人のモンナスやチャンからすれば敵対関係にあるが、モンナスはソンファとチャンの恋をやがて認めることになる。だが、相変わらず燻り続ける事柄がある。それはソンファにとってはサテッキルが同国人であるという事実で、ソンファはサテッキルを完全に敵として陥れることが出来ない。この葛藤は後々まで続き、さまざまな場面で問題を引き起こす。つまり、チャンの恋人としてソンファは、個人的な愛と国家の間にあって、そのことがずっと尾を引き続け、最終回で苦い描き方がされる。つまり、一応はハッピーエンドではあっても、幸福は長続きしないという結末を迎える。そして、最後の場面には最初の回に登場した青銅の香炉と対になるような黄金色の香炉がソンファの命令によって作られ、ソンファ亡き後にチャンに手わたされるが、香炉という布石が最後にこのような形で決着づくのは、長いドラマをまとめるのに効果を上げている。話を戻して、サテッキルがこのドラマで重要な役割を演ずるには、モンナスやチャンと密接に関係し続ける必要がある。それを彼が大学舎に学ぶということで解決しているが、身分を隠してモンナスの門下に入ったサテッキルは、チャンよりも早くモンナスから技術者として認められる。だが、サテッキルの野望はモンナスの知識を全部吸収することであり、あくまでも新羅や自分の家柄の繁栄を思っている。サテッキルの父もなかなか曲者で最初の頃と最後近くに出番が多いが、結局家は没落し、父は無残に殺される。悪役であるので、そういう描き方がされるのは当然だが、サテッキル側に立てば彼らの生き方は当時としてはごく当然であったと思える。その自己保身の行為はたとえば百済の貴族でも同じで、このドラマのもうひとつの見物は、同じ国内の為政者の中にも、誰が王に就くかをいつも観測して容易に意見を翻す者が多いという実態だ。そうしたことは物語全体の3分の2が過ぎた頃、つまりチャンが王の第4子であるという事実がモンナス博士にもわかった頃から描かれるが、チャンの敵は新羅やサテッキルだけではなく、自分の父や異母兄弟を死に追いやった現在の王であり、またその王にしたがう貴族連中といった構図に変わる。またサテッキルが、チャンが第4王子であると知るのはモンナスよりもっと後のことで、ようやく最終回近くなってからだが、敏感なサテッキルがそれまでそのことに気づかなかったという設定はかなり苦しいところがある。結局チャンは王の隠し子であるし、チャンの方が勇気と博愛の精神において勝っていたため、サテッキルは最初から勝ち目はなく、それを知ろうとしないサテッキルは自ら墓穴を掘った。その点、田舎で没落したままひっそりと暮らそうとサテッキルを説得した父の方がまだ現実をよく知っていたと言うべきだ。
最終回の最後の無常感は、やがて滅びた王朝という史実を念頭に置いたからであろうが、これがなかなかよかった。出生の秘密や幼少時代のことから詳しく描き始め、それが後々までドラマの核に絡み合って行く運命論的な描き方は韓国ドラマ特有の手法だが、少し難を言えば、子ども時代のソンファ、ソドン、サテッキルの3人は、長じてからの人物とあまりにも顔がかけ離れた子役を使っている点だ。ペ・ヨンジュンの『初恋』ではそれがよく吟味され、不自然さははるかに少ない。『チャングム』でもイ・ヨンエとその子ども時代の女の子とは落差があり過ぎたが、日本の『おしん』も同じようであったので、あまり目くじらを立てることもないか。このカテゴリーに前回にも書いたが、日本の大河ドラマは時代をせいぜい戦国時代までしか遡らず、聖徳太子のあまりに古い時代などはドラマの対象にならないと思っているようなところがある。それに対するひとつの答えが『ソドンヨ』だ。もちろん他の韓国ドラマと同じように、男女の恋愛を大きな軸に据えているが、このドラマはそれ以外に見所がいくつもあって、それらが複雑に絡み合って物語を構成し、脚本家の粘り、撮影の苦労がよくしのばれる。聖徳太子の時代の日本に同じような味わいのドラマを求める声が日本には少ないのかもしれないが、人間はいつの時代でも変わらず、平安朝貴族の男女の恋愛と同じようなことが飛鳥時代やそれ以前にもあったはずで、そこを想像、そして創造する脚本家の才能がない、あるいはいてもそれをドラマ化しようとするTV局がないのはさびしい。もちろんそのような古代では日本は中国や朝鮮に比較すれば先進文化が遅れていたから、わざわざそうした時代の日本を取り上げて歴史ドラマを作る必要はないという意見もあろうが、今後の時代を思うと、古代における中国や朝鮮との関係をあえて見据えた壮大なドラマが作られてよいし、またそうあるべきだろう。『ソドンヨ』では聖徳太子に兵士を送ってほしいなどといった場面があるだけで、聖徳太子や当時の日本が登場するわけではないが、そのような方法にしろ、他国に言及することは当時の海を隔てた国際情勢を示して興味深い。同じ手法を使えば、聖徳太子時代の日本を描いた歴史ドラマも深みが増すはずで、日韓の歴史問題云々とは別に、そうしたドラマを日本は積極的に作っていいのではないだろうか。だが、それには当時人々がどのような家に住み、どういう衣装を着てどのような調度に囲まれていたかという時代考証がまず問題となり、そのためにはセットを含めて経費が大がかりなものとなる。それがドラマ作りに二の足を踏ませている理由のひとつとも考えられる。『ソドンヨ』で興味深かったのはやはりそうした時代性の再現で、まるで清時代のものと思えるような色合いや文様の陶磁器が部屋に飾られるなど、時代考証のいい加減さはかなりあちこち目についたが、制作費が限られ、また長編ドラマとしてはそれも仕方のないところがある。だが、冠や衣装など、全体的には当時をよく思わせるもので、さほど違和感はなかった。プヨを流れる川だろうか、水辺に百済の王宮のセットが作られたようだ。これは儀式の場面にあちこちの一角がよく映し出されたが、なかなか見事で、経費のかけようや制作者の意気込みがよく伝わる。筆者はそうしたTV局の裏側の知識には詳しくないが、このドラマで使用されか王宮は『チャングムの誓い』や『ファン・ジニ』『ホン・ギルドン』に出て来るものと同じで、どこかに作られた半恒久的な映画村であるのかもしれない。つまり、一度大きな資本を投入して作り、後はそれを使い回ししているのかもしれないが、それぞれの時代劇を見ながら、同じ建物だと明確にわかるようなことは今までになかったので、ドラマごとにある一定の建物は新しく作っているのかもしれない。その点、日本の時代劇で江戸時代を描いたものは、いつも京都太秦の映画村にあるのと同じような、小川に沿った短い家並が映って全く規模が小さくて安っぽい。『ソドンヨ』は韓国のSBS創立15周年記念で撮られた。15周年とはえらく歴史が浅いが、それにもかかわらずこのような意欲作を生み出すところ、韓国ドラマがアジア全般で力を得ていることがよくわかる。『チャングム』を作った制作陣が携わったが、時代をそれよりうんと遡らせて三国時代の百済としたのは、ドラマの制作がそれだけ困難になるのは目に見えているが、あえてそれに挑んだところにも制作側の気迫が見える。