ぐずぐずしていて行きそびれていたが、ようやく最終日の2日前、一昨日の日曜日に行って来た。3か月に及ぶ会期で、それにふさわしい大規模な展示だ。今後2、30年は同様の展覧会が開催されることはないように思える。

図録はINAXのブックレットのように薄手小型のもので、会場にあるパネルの説明以上には書かれていないようで物足りない。あまり大人向きにしたくないという思いもあるからだろう。いつものようにバスで万博公園の東口まで行き、そこから真東へと歩いたが、途中で下水管の大工事をしていて、イサム・ノグチの有名な鉄製の噴水を兼ねた彫刻が3つ立つ人工池はすっかり水が抜かれて干上がっていた。あいにくカメラを持って行かなかったので、撮影出来なかったが、来年の2、3月までは同じ状態のようだ。その水がない光景は万博が始まる直前以来、つまり40年ぶりのはずで、底は数メートルもあって思ったより深く掘り下げ、万博会場がいかに至るところで大がかりな工事をしたかがわかる。ついでに書くと、その人工池の彼方に見えたかつてのエキスポランドのジェットコースターなどはすっかり撤去され、大きなクレーンのみが2基そびえていた。万博公園もかなり様変わりして、自然公園の内部に車を絶対に入れないと長年言い続けていたことも撤回され、今は日本庭園前の道路は車の列だ。それに、民藝館の前あたりでその車道を一時塞ぐ形で鉄製の門扉が出来ていて、無粋さはどんどん増している。おまけにその門扉の傍らの人が通る出入口は午後5時前に閉まる始末で、今回筆者が通り過ぎた直後にそれが閉められたが、5時にまだなっていないというのにひどい話だ。そこから閉め出されると、バスで帰ることは出来ず、大回りしてモノレールを利用するしかない。それはいいとして、会場には多くの人が入っていた。それに感心しながら、時間があれば本館の常設展示もと思いながら、ざっと見ただけでもう閉館間近になった。展覧会名に「カナダ先住民」と断りがあるが、それはこの展覧会がカナダ文明博物館の国際巡回展『カナダの先住民族-カナダ文明博物館の逸品』の展示品を中心としたものであるからで、会場のボランティアらしき中年男性に訊ねると、展示品の設えもカナダの同館から人がやって来て10日ほど要してやったという。そして会期が終わった翌日にはまた同館から人がやって来て跡片づけをするらしい。この展覧会は円形2階建ての特別展示館の全部を使用し、1階の大半がその国際巡回展で、2階はみんぱくがこれまでに収集した版画などを飾り、また映像や写真も含めることで、カナダ先住民の過去から現在までの生活や造形を詳しく紹介する。男性に声をかけたのは、展示物の制作年代表記がかなりわかりにくくかったからだ。たとえば、ある網籠の断片には「2000年前」とキャプションとあったが、これは現在つまり西暦2009年から2000年前のことと考えるしかないが、すぐ隣の別の展示物では「1649年以前」や「400年から500年」とあったりもして、年代比較が簡単ではない。もちろん「1649年以前」は西暦1649年より前という意味で、「400年から500年」も同じく西暦で言えば5世紀から6世紀のことだが、西暦で表示したものと、現在を基準に何年遡ったかを表示するものとが入り混じり、いくらカナダ側が設えたとはいえ、キャプションを訳したのはみんぱくであるから、学芸員はもう少し親切に西暦で統一すべきではなかったか。「2000年前」といった表示は、どちらかと言えば小学生向きで、その古さを実感させるのにいいであろうが、一瞬紀元前2000年のことかと思ってしまう。だが、そんなに古い物がカナダ先住民が作ったものには残っていない。その点で世界の古代文明と同じようには考えられない。とはいえカナダの先住民が同地に住み始めたのは、ベーリング海峡が陸続きだった頃で、その容貌からも想像出来るように、アジアから人々がわたった。それが南下してアメリカ・インディアンになり、もっと南下して南米にまで広がった。文字としての記録はないが、そうした民族の伝播は遺伝子レベルで今後はもっと研究が進むだろう。
アメリカ・インディアンが白人によってすっかり住居を奪われたのと同じように、カナダの先住民も今は100数十万人で、カナダ人口の3000万から比べると驚くほど少ない。これはもともとあまり多くなかったところに白人がやって来て、天然痘などの従来カナダにはなかった病気が広がって、ひとたまりもなかったことによることと、先住民が食べていた、たとえばバイソンのほとんど9割以上を白人が殺し尽くし、飢えから死んだことによる。白人の文明は合理的とよく言われるが、それは自分たちだけにとってそうであって、先住民からすれば悪魔同然の所業だ。バイソンは皮を取るために殺し、肉は捨てていた。先住民が決して獲り尽くすことのない動物を、歴史的スパンから言えばほんの一瞬で白人はほぼ全部消滅させた。原爆や水爆とあまり変わりがない。そういう白人が地球温暖化とやらを招いて、今では人類全体が合理的に滅亡しつつある予感だ。そして、そんな時代の現在、カナダ先住民が辿って来た歴史や文化を知ることは何とも胸が痛む思いがする。「カナダ先住民」を旧来の言葉でもっとわかりやすく言えば「エスキモー」だ。これはアメリカ・インディアンが「生肉を食べるやつら」という意味で使った言葉で、侮蔑的に響くので今は「人間」を意味する「イヌイット」と呼ばれる。これが使われ始めたのは20世紀からで、しかもカナダ先住民の生活はこの40年で大変貌を遂げた。その様子も今回は紹介されたが、居住区に住む現在のアメリカ・インディアンの生活と似たものを思えばよい。ところで、白人がやって来るまで、北米はアメリカ、カナダの区別はなく、インディアンやエスキモーはなだらかに住み分けていた。現在アラスカにもイヌイットがいるから、今回の展覧会は厳密には「カナダ先住民」と呼ぶのは誤解を招くが、「北米先住民」とやるとインディアンが含まれる。そのため「イヌイット」とすればよかったが、これでは「カナダ」が抜け落ちるので、イヌイットの生活を保護しているカナダ政府が許可しなかったのかもしれない。さて、インディアンを除く北米の先住民は、だいたい6つに分けられる地域に住む。バンクーバーから太平洋岸をアラスカまでたどる細長い北西海岸地域、バンクーバーから東に広がる高原地域、そのさらに東の北米大陸の中央部を大きく占める平原地域、五大湖周辺の東部森林地域、そしてカナダとアラスカの大半を占める亜極北地域、北極に近い極北地域で、今回の展示物はそれぞれの地域から集められたので、かなり多様だ。平原地域はインディアンの住む地域と重なるため、その造形はインディアンとさほど区別がつかないが、代表的なものは18世紀後半に白人がもたらしたガラスのビーズで作ったモカシン(靴)やマント、弓入れなどの道具で、きれいな鳥の羽も使用している。ビーズの縫い込みの精緻な技術と独特の幾何学模様や花模様、そしてその色使いはほれぼれするほど美しい。ビーズの縫い取りがほとんど欠けていないのは、それだけ高価なもので大切にされて来たからだが、底までビーズでびっしりと模様のあるモカシンは普段履きではなく、また普段に地面を歩く必要のない、つまり馬でいつも移動する金持ちが所有したものだ。これは先住民に貧富の差があったことを示す。後で書くが、その貧富の差は、白人社会のそれとはかなり様相を違える。また、筆者が気になったのは、そうしたビーズを交易によって白人から入手した時、先住民がどれほど搾取されたかだ。たとえば彼らは金属文明を持たなかったが、肉や氷、木材を切る時、石や動物の骨より鋭い金属の刃物の方が便利であったが、そうした刃物としてロシア人との交易で入手したものが展示されていた。その刃物1本とどれほど多くの動物の皮を交換したのか、素朴なイヌイットたちは、魔法の道具のような西洋文明社会の産物を前にしてコロリと騙されたのではないだろうか。
イヌイットの造形を見せる展覧会として、大阪の今はないキリン・プラザで1992年4月に開催された『超自然 イヌイット・アートの神秘 イヌイット彫刻展』を見たことがある。これは筆者が知る限り、まとまったイヌイット芸術の最初の展覧会で、それだけに印象深かったが、手元にある図録を見ると、今回の展覧会の2階に似たような彫刻がかなり展示されていて、ほとんど同じ形のものもあったことに気づく。それらの彫刻は地元に産する主に御影石を彫ったもので、表面は磨かれて光沢がある。どれも高さ数十センチまでの小さなものだが、生活に根ざした味わいがあって、一度見ると忘れ難い。そして柳宗悦が見ればどう思ったかと気になる。民芸と呼ぶにふさわしい造形で、素朴でありながら力強く、そして邪念がない。あるいは日本の民芸品にはないスケールの大きな自然を感じさせるが、その自然は日本とは違ってもっと過酷で畏敬すべきものであって、彫った人物の強靱で優しい精神や自然観がよく伝わる。そのため、どこか恐ろしくもあるイヌイットの彫刻は、脆弱で無抵抗精神の表われである「かわいい」文化の日本には受け入れられ難いだろう。キリン・プラザで見た当時に感じたもうひとつの思いは、エルンスト・バルラッハの彫刻に非常に似ていることだ。ヘンリー・ムーアはイヌイットの彫刻を見て、「こういうものを作りたかった」と語ったというが、それはムーアの彫刻を見ればよくわかる。ムーアは動物の骨の形を好み、それから着想を得て作品を作ることが多かったが、イヌイットはアザラシなどの生肉を食べるために解剖学的知識は経験上豊かであった。その動物の体内をよく知ることが造形に結びつけば、レオナルド・ダ・ヴィンチではないが、写実的な表現に進めば西洋に比肩する作品を可能にしたかもしれないが、人体の、しかも女性の裸体を写実的に描くという思いがなく、またそういう思いがあっても極寒地方ではそれは難しい。そのため、体内の構造をよく知ってはいても、作るものはアザラシや白熊、鳥といった周りにいる、主に獲物としての動物に限られる。そしてムーアが惚れたように、特徴を把握した抽象性に富んだものになるのは当然であろう。また、そうした動物は苦労して捕獲するもので、そこに神からの授かりものという意識を抱き、その敬虔な思いが造形に反映したが、その敬虔さの点でバルラッハの彫刻と似たものになった。つまり、20世紀のヨーロッパの一流の彫刻家の作品にきわめて似た印象を持つ点は、イヌイットの彫刻が20世紀後半になって注目され、また目ざましい作品を生み始めたことを一方でよく説明するだろう。

敬虔はイヌイットのどの部族も抱き、それがインディアンと同じくトーテム・ポールという造形になったが、今回の展示では入口を入ってすぐに、高さ2メートルほどのずんぐりした保存のよい、大小の模様的な顔を彫り込んだ着色の木彫りが展示されていた。それはトーテム・ポールの一種で、家の壁面や玄関あたりに置かれたものだろう。木彫りであるので、木の生えない極寒地方のものではなく、北西海岸地域特有の造形だが、その独特の顔面模様はメキシコやインカあたりの造形ときわめてよく似ていて、北米と中米、南米がなだらかにつながった人種が支配する地域であったことをよく伝える。この顔面模様は筆者は最初に仮面でよく知り、その後、新潮社が70年代に発売した『想像の小径』の1冊であるレヴィ・ストロース著の『仮面の道』を読んだが、それによってアメリカやカナダという国境に関係のない先住民が、北に行くほどに少しずつ表現を変えることを知った。ストロースのその研究は現地調査を重ねて得たもので、そうした探検と収集分析の行為の延長上にたとえばみんぱくの万博以降の資料収集作業があったわけで、今回の展覧会はそのひとつの成果だ。このトーテム・ポールや仮面などに顕著に見られる独特の顔面模様は、今回2階の随所で常備してあった説明チラシによく説明されていた。その中の1枚に『北西海岸先住民アートの特徴:「分割表現」』や『「合体と繰り返し」』などと題したものがあって、会場ではこれを図解した映像も上映されていたが、これは一見複雑に見える顔面模様が、実際は卵型、ひとみ型、U字型といったごく少数の基本図形を元にひとつの顔面を作り上げ、それを大小揃えて組み合わせることで複雑な模様を作り出すことがわかる。そして、このチラシの下端に、図版出典として1922年の文字があり、ストロースの研究よりもっと以前にアメリカで注目し、しかもほとんど基本の研究が確立していたことがわかる。会場に展示された写真には、この顔面模様を彫り込んだトーテム・ポールが10本近くも川沿いに立っているものがあったが、半ば倒れて朽ち果てているものが見えていたのが印象深かった。この顔面模様は彼ら先住民の大きな遺産だが、現在はそれをシルクスクリーンの版画にして販売している。原画を先住民が描き、刷るのは白人が都市部でやるようだが、それもまた時代の流れだ。会場2階はそうした現代の作品が展示されたが、最初に書いた6つの地区ごとに表現の差があって、抽象としての顔面模様も面白いが、亜極北地区のイヌイットの木版画やステンシル版画がどこか日本的な味わいもあって楽しかった。それもそのはず、彼らに版画を教えたのは、アメリカの白人で、日本の平塚運一の版画を例に示したらしい。イヌイットたちはそのアメリカ人が持っていたタバコの箱を見ながら、それが印刷とは知らず、どの箱もみな同じで、そのように描くのは骨が折れると言ったところ、アメリカ人は印刷というものがあって、同じ絵を量産出来ることを説明した。そして平塚の木版画を例にして技術を伝えたところ、イヌイットたちはたちまちそれを習得して独自の絵で作品を作るようになったというが、木版画独特の温かい表現にイヌイットの生活感が合わさって、チケットに印刷される作品を見てもわかるように、とても魅力的な作品に仕上がっている。それは民芸と呼ぶよりも、一作家の個性的な作品だ。ステンシル技法は木版画よりもっと単純で、穴空きの紙を当てて色を刷り込むだけだが、刷り込みの時にぼかし表現が可能で、木版画とはまた違った味わいが表現出来る。アザラシのぬぼっとした丸みのある体を表現する時、ステンシルの方がよりリアルになるだろう。また、石を彫った版を使用したものもあったが、これは木材よりも彫りにくい分、より硬質の表現となって、イヌイットの風土に似合っているように思える。こうした版画はキリン・プラザでの展覧会でも展示されたが、図録には、数人が石版を取り囲み、版画をはがして刷り上がりを見ようとしているなかなかいい写真が1枚掲載される。こうした版画は戦後に起こったもので、特に70年代以降に盛んになったが、今後安っぽい民芸品に堕して行くのかどうか、それが気にかかる。
それは彼らの生活が激変したことだ。朝日新聞が40年前に、みんぱくの学芸員がこの亜極北地域を旅してイヌイットに混じって生活した様子を連載したが、今回全く同じ地域を旅してこの40年の生活の変化を写真で伝えるコーナーがあった。犬橇は消滅し、スノウモビールが氷上を走り、人々は木造のしっかりとした家屋に住んでスーパーで何でも買うことが出来、衛星放送を大画面のTVで見るという生活だ。40年前の生肉と尿のひどい臭いが漂っていた狭い小屋のような家屋はもうどこにもない。だが、現在の生活は廃棄されたスノウモビールなどの写真からも想像出来るように、エコの精神からは逆行し、運動不足から肥満が増え、生活は昔より退化していると見ることも出来る。鯨を捕獲する映像が流れていたが、カナダ政府がそれを長らく禁止していたのが、近年緩和されたようで、イヌイットたちは久し振りに鯨を獲り、数十人で陸に引き上げ、全員で分けて食べ、捨てる部分は全くなかったと説明文が流れた。日本もかつて鯨を食してそのようであったが、捕鯨禁止を叫ぶ白人たちはかつて数十万頭のバイソンを一瞬で殺して肉を利用しなかったのであるから、全くいい気なもんだ。イヌイットは捕獲される獣は、自分たちを生かすために進んで死んでくれるという思いがあったが、これはある命が別の命を支えるためには必要であって、動物に犠牲になってもらわねばならないという悲しみや感謝の気持ちが裏打ちされている。白人が気晴らしにやる狩猟とは意味が全く違うし、無闇に殺戮をするという意味ではない。もうひとつの映像は、ある金持ちが紹介されていた。イヌイットは小集団を形成しているが、獲物がいつ手に入るかわからない過酷な自然ではみんながまとまる必要がある。そうしたことはこの半世紀で著しく変化してしまったが、たまにかつての仲のよい集団を思い起こす祭りが行なわれる。集会には現在は体育館のような場所が使用され、そこに100人近い部族の人々が集まって、主宰者から食事や贈答品などさまざまなもてなしを受ける。そして、集まった人の中には、お返しとしてもっと大きなプレゼントをする人があったりするが、今度はその人が部族の中心である金持ちとみなされる。つまり、金持ちとは、いくらお金を持っているかでは計られず、いくら金を他人のために使ったかで評価される。これは分かち合うことで生きて来たイヌイットならではだ。白人たち、特にアメリカではそれとは全く反対の思想が横行し続け、人口の1パーセントの人がアメリカの資産の90パーセントを所有している。これを異常と思わないのは、精神が間違った常識で麻痺しているからだ。ところで、キリン・プラザでの展覧会図録を見ていると、1991年3月のチラシが挟んであった。ロバート・フラハティが10年の間、イヌイットとともに生活をして撮った『極北のナヌーク』と題する1922年の65分の音楽つきのドキュメンタリー映画の上映を告知するもので、主宰者は「オルフェの袋小路」の山下信子さんだ。この人は当時さまざまな面白い映像を京大の西部講堂や彼女のマンションなどで上映していて、筆者はまだよちよち歩きの幼い息子を連れて何度か見たことがあるし、言葉も交わしたこともあるが、今どうしておられるのだろう。