土地勘というのは興味を持たない限り得られないが、以前TVで関東の各県の位置を芸能人に図示させるクイズ番組が以前にあった。東京を中心としてその周囲の県の位置は特に関西人にはわかりにくい。
東京を中心としてその周囲の県の位置は特に関西人にはわかりにくい。筆者は特に栃木県がよくわからず、同県と埼玉県や長野県の位置関係もそうだ。だが、関西人が関西のあらゆる場所をよく知っているかとなると全くそうではない。たとえば京都に住んでいても丹後や敦賀の方面は観光で訪れるか、車で何度か走ったことのない者にとっては距離感も位置もおぼろげだ。20年近く前、妹の旦那に車で美方五湖から若狭湾に連れて行ってもらい、帰りは足を延ばして敦賀まで走った。そこで寿司屋に入って昼食にしたが、有名な気比神社が目の前ほどの近くにあるのに、車に乗せてもらっている者の肩身の狭さもあって、そこに立ち寄ってくれとは言えなかった。そのため今でも敦賀と聞けば気比神社を見たくなる。同じように見たい場所は日本に限ってもあちこちあるが、車を運転出来ず、またひとり旅の時間的経済的気分的余裕もなく、ほとんど訪れないままになっている。敦賀ついでに思い出すと、そうした行きたい場所のひとつに滋賀では伊吹山がある。ここは夏場に京都から6000円ほどの日帰りのバス旅行があって、頂上近くまで連れて行ってくれる。高山植物が見物らしく、写生も兼ねて行きたいと思いながらそのままになっている。息子が野洲に住むようになってからは、息子の仕事休みに遠出してそこまで連れて行ってもらうと考えないでもないが、地図を見ると数十キロもあって、息子の仕事疲れを思うと遠慮してしまう。その伊吹山の西の麓に琵琶湖が広がるが、湖畔には北陸本線が南北に伸びていて、その長浜駅までは京都から日帰りの旅行で数年前に行ったことがある。その時、長浜港から船で琵琶湖を2時間ほど巡って、途中で竹生島の際を過ぎた。その竹生島も20歳半ばから行って上陸したいと思いながら、もう30年経ってしまった。長浜より京都寄りに彦根があって、ここは小学生だった頃の息子があるきっかけで知り合った名古屋の人に、車で少しだけ真冬に連れて行ってもらった。お城には上らず、その付近を短時間だけ散策したが、川が凍っていて、投げた石が転がって行った記憶がある。なので、彦根も改めてじっくりと訪れたいと思うが、やはりその後機会がない。彦根、長浜、そしてずっと北に敦賀があることはわかるが、その途中の土地は知識がない。20歳の頃、北陸本線は福井まで乗ったことがあるし、その後車で金沢を往復したこともあるが、どうも行きたいと思いながら北陸には縁がない。北陸から日本海沿いに西に進むと若狭湾があってこの辺りの県境は複雑だが、福井県の原子力発電の美浜、昨日初来日したオバマ大統領の小浜から京都府に入って舞鶴に至る。興味はあってもそれらの土地には訪れたことがないが、若狭湾は京都市内から近い印象がある。実際はそうではないが、鯖街道、鯖寿司という連想が働き、京都市内から海水浴に行くとなると、ほとんどは若狭湾であるから、身近に感じる。先に書いた妹の旦那に敦賀方面まで車で行った時は、滋賀回りではなく、京都市内北部から山辺を抜けて若狭に行き、そこから足を延ばした。今なら道路はもっと整備され、いくつものルートがあるのだろう。そのため鉄道も廃線になった支線があるかもしれない。
今日取り上げる映画は京都文化博物館の映像ホールで先月16日にひとりで見た。「光と影-日陰に咲く花」と題して4本が組まれ、そのうち『名もなく貧しく美しく』については前回に書いた。また、その後のシリーズとして谷崎潤一郎原作の4本の映画が上映され、先月の終わりに『春琴物語』を見たが、偶然にも『湖の琴』とは「琴」で共通する。『春琴物語』も実によい映画で、伊福部昭の音楽も印象深くてとてもよかったが、以前谷崎作品の『細雪』について書いたので、水上勉原作の『湖の琴』の方を選ぶことにした。水上勉の小説はあまり興味がなく、読んだことがない。水上は5年ほど前に亡くなったが、最晩年は京都市内によく来たようで、筆者がよく通った平安画廊の北隣にあるヒルゲート・ギャラリーの開設に関係し、また同じ寺町通りをもっと北上したギャラリー・テラは水上が指導して漉いた竹紙を展示することで出発した。また、水上はかつて芸妓かに生ませた子を晩年に認知し、その子が信濃の有名な個人美術館の館長であることを知ったが、つまり筆者にとっての水上はまず美術に関係している。その一方で、開高健が水上の小説について短い、的確なコメントを何かに寄せていたことも水上観に影響を与えている。それは鯖街道を往復する昔の女性たちがよく悪漢に襲われ、鯖の何本かも盗まれたりしたが、そうし哀れな話を題材に小説を書く水上というのであったが、そうした女性に向ける眼差しはどこか悲しげな水上の顔にぴったりだと思ったものだ。そして、その時に水上が若狭方面に目を向けて小説を書いていることを知った。これはまた別のところから知ったが、瀬戸内寂聴とは反対に、水上が還俗した経験の持ち主であることだ。これは京都の相国寺のある塔頭に幼い頃に預けられて小僧になったが、修行があまりに厳しくて逃げ出したという話だ。その経験は小説のどこかに反映しているだろうが、筆者は読んでいないのでわからない。また禅の修行に耐えられなかったということも、根気がなかったという単純な問題ではなく、精神的に沿わないものを感じたのかもしれない。これは仏教嫌いというのではなく、相国寺との幼い頃の出会いに縁がなかったのであろう。なぜならこの映画では仏像が登場して大きな意味を持つからだ。以上がだいたい水上に関する筆者の前知識であったが、この映画にしても始まって原作者の名前が出て来てから水上勉の作品とわかったほどで、いつもながら前知識なく見た。だが、結果的に水上に関する知識が多少は増え、また筆者の頭の中では欠落していた長浜から北方の敦賀に至るまでの琵琶湖畔の町について認識することになったし、さらに日本の弦楽器に使用する絹糸の生産地がその付近であることも知った。もっと言えば、湖北地方に点在する有名な十一面観音が同地にあるという知識が、この映画によってより鮮明になり、また同地は琵琶湖の北にぽつんと隣接する余呉湖から近いことも改めた認識した。余呉湖の存在は昔から知っているが、琵琶湖ですら一周したことがないので、ここは訪れていない。今年の1月、息子が会社の同僚と一緒にこのごく小さな湖の北にスキーで訪れたことを聞いたが、息子が滋賀の人間になっていることを実感したものだ。ついでに書いておくと、息子は筆者が買って1回しか被らなかったマニ帽子をぶん取って帰り、そのスキーにかぶって行ったが、1回しか被らずに現地で失った。いかにもドジな息子にふさわしい話で、笑ってしまった。
文化博物館の映像ホールは数百本の映画フィルムを所蔵するが、先月とある染色の先生と個展で話をした時、同ホール所蔵の作品はいいものがないとの意見であった。筆者より10歳年長の先生で、古い映画について詳しいが、筆者にすれば知らない映画がまだまだ多く、このホールの上映はビデオで見るよりも断然よくてありがたい。『湖の琴』の題名はつい『湖の古都』のことかと思ってしまう発音であまりいいとは思わないが、水上の原作がそうなっている。パンフレットによると、小説は新聞で連載されたが、この映画が作られた昭和41年(1966)か少し前のことだろう。『五番街夕霧楼』に次いで2回目の水上文学の映画化とある。監督は田坂具隆で、筆者はこの映画以外には知らない。129分と長いが、カラー作品であるのは1966年という年を考えるとよく納得出来る。その年はビートルズが来日し、ポップス史上では革命的で、ビートルズの最高傑作『リヴォルヴァー』が発売されたが、当時湖北地方ではまだ養蚕が行なわれ、この映画の舞台になった木之本では和楽器用の絹糸が生産されていたのだろうか。映画で最初に印象的であった光景は、山の上から撮影した琵琶湖と余呉湖で、カメラはまず琵琶湖を写してすぐに余呉湖に焦点を定めた。それは勇壮な眺めで、その同じ場所に立ってみたい気にさせた。場所は地図で見ると琵琶湖と余呉湖に近い国鉄の木之本駅付近の山辺と思うが、この映画の主人公の若い女性さくが若狭の寒村から山を越えて同地にやって来たという場面でそれが映った。水上は福井県の出身で、京都に出る時には北陸本線を使用したはずで、途中の木之本地域については詳しかったのだろう。同地が三味線や琴の弦を全国の9割を生産する地であったことはこの映画で初めて知ったが、その弦を作る家に雇われるためにさくは徒歩でやって来る。大正時代の話で、映画ではその古い時代をある程度映し出す必要があったが、昭和41年は田舎ではまだぎりぎりまだそうした時代の自然や家、町並みなどは残っていたであろう。そしてその後の40年ですっかりそれらが消失したことも想像出来るから、映画が想像の物語を描くという以外の、今となっては残っていない風景を見せてくれる点でもこの映画は貴重だ。その現実の風景の記録性はどのような映画でも大なり小なり持つと言えるが、題名からわかるように美しい自然を背景にした物語であるこの映画ではなおさらそうだ。そのため、この映画を見て同地を訪れても失望するだけかもしれない。あるいは、琵琶湖と余呉湖を眼下にみわたせる場所からの雄大な風景はまだあまり変わらないかもしれない。さくはその名前を連想させる佐久間良子が演じたが、当時何歳だったのだろう。映画ではまだ20歳半ばだろうか、匂い立つような美しさで、筆者はある場面の顔のアップで浄瑠璃寺の吉祥天立像のふくよかな美人顔を思い起こしたが、さくは太ってはいない。ともかく、当時では佐久間良子でなければこの映画は成り立たなかったのではないだろうか。この点、原作者の水上は彼女を見てどう思ったのであろう。さくが働き始めた時、同じ若狭の村から何年か前にやって来て働いていた先輩の、中村賀津雄演ずる宇吉がいた。ふたりはすぐに好き同士になる。蚕のために桑の葉を毎日摘みに出て蚕を育て、育った繭を熱湯に浸して細い糸を指で1本にし、それを黄色の染料で染めた後、何度も撚って弦を作る。さくの手はひどく荒れるが、繊維関係の職工はどんな分野でも過酷なものだ。ある日、宇吉に徴兵礼状が届くが、さくと別れることがいやで、宇吉は毎日醤油を飲んで体調を壊そうとする。それを見つけるさく、そしていやいやながらも金沢の連隊に配属される宇吉。宇吉の帰りを待つさくだが、そんなある日のこと、京都から高名な長唄三味線の師匠紋左衛門が木之本の弦を作っている工場に見学に来る。これを中村雁次郎が演ずるが、雁次郎の演技は今さら言うまでもない。紋左衛門には病弱の妻があるが、見学の当日は京都上七軒のある愛人の女将を同伴し、国宝に指定されている渡岸寺の十一面観音立像を見物し、痛く感動する。この仏像は湖北を代表するものとして有名で、木之本から少し南下した町にあるが、映画で映った門前の道路や寺の境内は、その後はかなり様変わりしたのではないだろうか。観音を見た後、紋左衛門は木之本の弦作り工場の主たちが一堂に揃って待つ屋敷で接待される。そして夕暮れになって風呂に入る時、庭先で手伝いに来ていたさくに目を止める。紋左衛門は最初庭に咲く白い夕顔の花を見ていたのだが、そこにさくの姿がだぶり、そして思いの中で昼に見た観音とも姿が重なる。同寺の十一面観音像は平安時代のもので、腰を少しひねってどこかインドの仏像のような官能性があるが、それをよく知っていた水上は、紋左衛門がまだ若いさくの内部に自分を恋焦がれさせるものがあるという設定を導いたのだろうが、それはもっともなことだ。先に浄瑠璃寺の吉祥天と書いたが、ともかくさくがどこか艶めかしくあるのが重要で、カメラはよくその様子を捉えていた。それは妖艶な美ではなく、まだ可憐な女性が恥じらいながら内に保つものだが、田舎娘の寡黙で朴訥とした雰囲気を佐久間はよく演じていたし、それはかなりの部分本人の性質そのままではないかと思わせられた。紋左衛門は思うところがあって、接待の席で三味線を持って来させ、即興で奏でるが、それはさくに魅せられた思いの発露であった。ここには水上の経験がかなり反映しているのではないだろうか。
芸術に生きる紋左衛門はたちまちさくのことが忘れられなくなり、京都に帰ってから、改めてさくに三味線を教えたいと工場の主に申し込む。木之本の弦作り稼業にとっては、田舎の娘が京都に呼ばれ、しかも自分たちが作っている弦を用いる三味線の師匠から直々に教わることは誇りでもある。さくは宇吉のことが気になりながらも説得されて京都に行く。そして練習の日々だが、紋左衛門の妻は間もなく死に、愛人の女将はさくに嫉妬する。そうこうしている間に宇吉は除隊してさくが京都に行ったことを知り、休みの日には京都に出てさくと茶店で会いもする。さくは清水の五重の塔近くに住んでいるという設定で、ロケではなくほとんどスタジオでの撮影であったが、これは1966年にはもう大正や昭和初期の面影が京都にはなかったからだろう。宇吉は恋しさのあまりさくに手紙を送るが、それを勝手に受け取った女将は紋左衛門は当てつけるように手わたし、やがてさくを巡って女将と紋左衛門は喧嘩別れをする。邪魔者がいなくなったとばかりに紋左衛門は夕顔の柄を友禅染で染めさせたキモノと、繭に糸が絡む柄の西陣織の帯をさくに与え、自分の演奏の発表会にそれを着用させることを伝える。そして、そのキモノを自分の目の前で着るように言うが、恥ずかしいさくは襖を開け放った隣の部屋の片隅で着替える。そしてその夜、紋左衛門はついに階下にひとりで寝るさくのもとに行き、言い寄る。このあたりが映画のクライマックスだが、悶々とする紋左衛門の気持ちは男ならば誰しもよくわかるだろう。美をいつも意識している芸術家であればなおさらで、美しい作品を生むということとは別に、その美の大きな源である女性の官能美を前にして、正常でいられる方がおかしいかもしれない。だが、その観音のように汚れのない美しさを持った美女を犯すと、肝心の芸もまたはかなく消えてしまうことをうすうす感じてもいる。その葛藤の中で、女に手を触れてしまう紋左衛門の気持ちは悲しい。だが、それを言えば、愛する宇吉がいるのに、無理やり京都に呼ばれたさくはもっとそうだ。さくの手の荒れはきれいになりはするが、三味線の技術は思うほど伸びず、結局は老いた紋左衛門の愛玩物だ。紋左衛門に犯された後、さくは夕顔のキモノと繭柄の帯を締めて木之本にやって来る。そしてその夜に宇吉と思い出の小さな倉庫で結ばれるが、宇吉が工場に戻った後、さくは宇吉の作った弦で首を吊る。この場面は一切さくの姿を映さないが、美しいものしか描かないという監督の美意識だ。さくの死をひとりで知った宇吉はさくを木箱に詰め、そこに自分の体を結びつけて余呉湖の底に深く沈む。こうして粗筋を書くと、月並みな物語のようだが、映画では映像の美しさがそれを補う。たとえば夕顔を淡墨で染めたキモノやそれを着るさくの美しさや、さくを犯した後の紋左衛門の夢のシーンだ。紋左衛門は十一面観音を眼前にしながら舞っていると、そこに天女の姿をしたさくが現われる。ふたりは一緒になって舞うが、やがて天女が消え、十一面観音も消える。この象徴的な劇中劇は紋左衛門の新曲発表になぞらえたものだが、映画を芸術的に高めるのに大いに役立っている。この物語をたとえばTVドラマでもっとリアルに描くという方法もあるが、原作にそうした劇中劇が描かれていたとしても、よけいなものとして省かれるのではないだろうか。今では宇吉がさくを追って自殺しないでもよいではないかとドライに考える人もあるだろうが、この小説は映画の最初の方で紹介されたように、余呉湖に伝わる悲しい乙女の伝説など、水上は単に大正昭和の絹弦産業の哀れな職人の話に終わらせるのではなく、普遍性を盛りたかった。その有無が古典となる文芸作品か通俗小説かの別れ道だ。同じことは谷崎の小説にも言える。