座り心地は悪いが、たまに気になる映画を上映してくれる京都文化博物館の映像ホールでしばらく映画を見なかった。ホームページを見て、この映画の上映を知り、9日に家内と見た。
3日後には今度はひとりで水上勉原作の『湖の琴』を見る予定でいるし、月末にももう1本見たいと思っている。文化博物館に向かう途中、家内がどういう映画を見るのかと訊ねるので、この映画の題名を伝えると、昔ふたりで見たと言う。20代半ば過ぎ、筆者は家内とデートして梅田でよく古い映画を見た。その中にこの映画が含まれていたと言うのだが、全く記憶がない。映画が面白くなかったのか、あるいはその後の人生のさまざまなことの堆積の中で記憶が消えてしまったか。映画は見た時に面白ければそれでいいのであって、長らく覚えている方が珍しいかもしれない。たくさん見るほどにおそらくそうなるだろう。あるいは映画を見る年頃の問題もある。20代半ばの筆者にはこの映画に描かれる世界がおそらく身近なものとは感じられなかったのだ。だが身近でないから、かえって印象深い場合があるから、そればかりが理由とも言えない。家内が見たと言うのであるからそれは確かだが、デートの記憶が時として曖昧になり、とんだことを口走ることはある。筆者の甥のひとりはかつて長年交際した女性があった。そして、彼女と別れた後、別の女性と結婚し、子どもを3人もうけた。家族5人で車でどこかへよく行き、そんなある日、甥は嫁に「この店は何年か前に来たことがあるな」と言うと、嫁は怒った口ぶりで「来たことないで!」と返事をしたそうだ。そんなことが何度かあったと苦笑して甥の母親が伝えてくれた。以前の彼女と長い交際をしていた間、甥の行くところはだいたい決まって行った。そうした場所へ今度は家族と一緒に出かけ、前の彼女との記憶が蘇ったわけだが、前の恋人とごっちゃにされた嫁の内心が面白くないのはあたりまえで、男は女性との交際の記憶をしっかりと頭の中で分類しておく必要がある。だが、そんな器用なことが出来ない男性の方がいいと言う女性もあるので、一概には言えないか。話を戻して、「名もなく貧しく美しく」という表現は今の日本ではどれだけ同調される文句であるだろう。バブル期の後だったか、「清貧」という言葉が流行して本もよく売れたが、一方でそれを時代遅れと糾弾する論調が新聞にあった。有名で経済的にも恵まれた人物が「清貧」を主張するのはどこか嘘臭いと言うのであったのかもしれない。「名」のない人はいつの時代でも大多数を占めているが、その大多数の人々が「貧しく」あるのは国家としては好ましくなく、政治家がもっとしっかりして国を豊かにしろというのが戦後の日本の進んで来た道だ。経済的な豊かさを手にすれば、自ずと「美しく」なるという理屈で、豊かであれば貧しい人に施すことも出来る(実際は金持ちが貧乏人に施しをすることはめったにあることではない)が、貧しければそれも出来ないと理屈だ。「貧しく美しく」という表現を今の若い世代に言えば、きっと彼らは「美形ではあるが貧しい人」と思うのではないだろうか。「貧しくても心が美しい」とはまず思わず、「貧しさ」と「美しさ」が合体する理由がわからないのだ。金品が豊かになることが美徳であるとする戦後の風潮からすればそれは当然で、かくてバブルが弾けても、「清貧」を主張して生きたい人は勝手にそうすればよいといった風で、それを見直す、讃えるという向きにはならない。「名もなく貧しく」はサイテーの人物のことであり、誰もがいい大学に進んで人より高給取りになることを目指す。学習塾はその最たる合理的機関で、知識を効率よく詰め込み、効率よく生き、立ち回ることが美しい生き方と認知される。
この映画は昭和36年(1961)の制作で、当時筆者は10歳であった。その頃の記憶として、国鉄環状線の京橋駅から京阪の京橋駅に向かう高架下の通路脇に、戦争で負傷して不具になった男性が白い装束に白い兵隊帽子といった格好で、前に箱を下げて立っていた光景がある。楽器を演奏していた者もいたように思う。足がない人、腕がない人、盲目の人、顔にひどい傷のある人など、自分たちは戦争の犠牲者で、生活が貧しいのでお金を恵んでくださいと主張してその場にいるのであった。筆者は戦後生まれであるので、戦争を実感出来ないが、その元兵士たちの痛々しい姿は戦争の恐怖や醜さの象徴となって記憶の深く刻まれた。だがそれだけのことで、哀れと思う心の余裕はなかったし、たいていの人々もその存在を無視したようにそそくさと通り過ぎていた。そうした元兵士の不具者たちが消え去ったのは70年代に入ってからだと思うが、その頃は日本は高度成長し、元兵士も福祉が行き届いて生活に困らなくなったか、あるいは老衰で死んだのだろう。だが、実際そうした元兵士たちは本当に生活に困窮し切っていたのだろうか。そうとはあまり思えず、むしろ自分たちの姿を多くの人に晒すことで、自分たちがまだ生きている実感を味わいたかったのではあるまいかと想像する。豊かに発展する日本の中で、不具になった自分たちは人々から同情されるよりもむしろ嫌悪され、忘れ去られたい存在であることを敏感に知り、そのための反抗もあって街頭にあのようにして立ったのではないだろうか。つまり、戦後の日本に苛立ちがあったと思う。シベリアや南方で何十万、何百万も死んだのに、遺骨を回収せず、その生死が確認出来ない人々が大勢いる。戦後はそうして無責任国家から出発し、その結果の高度成長であったが、街頭に立つ不具になった元兵士の姿が消え去ると同時に、人々はすっかり戦争を精算したと錯覚し、「名もなく貧しく美しく」の意味を理解せず、「貧しく」を嘲笑する本当の貧しい人間が増えた。この映画は脚本と監督が松山善三で、有楽町で靴磨きをする聾唖の夫婦を見たことがきっかけになっている。昭和36年頃は傷病兵の立っていた京橋駅通路近くに靴磨きもいたような気がするが、戦争が終わって10数年、日本はまだ経済的に困窮する人々がとても多かった。筆者も母ひとりの手で育てられ、そうした貧困はよくわかっているが、貧困は程度の問題だ。日本における貧困とアフリカの飢餓国家の貧困とは違うし、金持ちを自負する人はどこかの国のさらなる大金持ちに比べると貧しい。つまり、物は考えようであって、貧困を恥じることはない。餓死する心配がひとまずないだけ、日本における貧困の程度はまだ知れたものだ。この映画で描かれる聾唖夫婦の生活は当時の日本では最下層の部類に入るが、さらに障害を背負っているという点で生活は通常の人々よりさらに困難なものにならざるを得ない。改めてこの映画を見て、現在は公共の場に障害者用の設備が整い、その点ではるかに生活の困難さは表向き解消されたかに見える。だが、当の本人の生活の不便さがすべてなくなったわけではないし、相変わらずの偏見はあるだろう。
映像ホールでもらったパンフレットによると、当初木下恵介が監督をする予定だったが、松山善三とは意見が合わず、松山は松竹を出て東宝に移って自ら監督となって作品化する。その意見の対立がどこにあったか気になるが、その理由はこの映画の結末が2種類あることだ。今回上映されたのは、松山自身がアメリカ用に編集したヴァージョンで、最後10分が削除されているという。筆者が20代で見たのはおそらくアメリカ用ではなく、10分長いヴァージョンであったと思う。結末が異なる映画がこの時代に作られていたとは意外だが、パンフレットによればアメリカ用に編集したものの方が後味がよい。だが、映画を見ていて思ったが、その結末はやや尻切れトンボで、最後に「終」の文字が中央に大きく表示された時、どこか腑に落ちない感じがあった。やはり最初のヴァージョンを無理に作り直したので、そういうことになったのだが、松山がアメリカ側の意向を飲んだとすれば、それは木下恵介との意見の対立がどういう事情からであったかが気になって来る。ふたつのヴァージョンを説明するために、まず粗筋を述べておこう。まず東京の下町が舞台だが、映画は戦争から始まる。寺の境内に空襲があり、寺が焼けたり、人が死んだりと、まだ10数年前までは実際にあった光景が映し出される。昭和36年当時の東京に戦争の焼け跡がまだ残っていたのかどうか知らないが、戦争中と大差ない光景は至るところで見ることが出来たのは確かであろう。今から10数年前は、筆者にすればつい昨日のような、まだ新しい出来事に思えるが、東京の空襲は昭和36年当時の今の筆者の世代にとっては、時代の変化の速度がまだ遅かった分、なおさらであったに違いない。今ならコンピュータで画像を加工するしかないような部分が、当時はまだロケで充分間に合った。そのため、この映画は戦後直後から昭和30年代半ばまでの東京の風景や庶民の生活の記録として貴重なものと言える。さて、ある若い母が赤ん坊を抱いたまま空襲に遇って死んでしまうが、それを見つけた主人公の高峰秀子演ずる聾唖者の秋子は子どもを助け、自分の子どもとして育てようとする。秋子は夫に先立たれた境遇で、子どもがいないのであった。その様子を見た身内は結局子育ては無理と勝手に判断し、子どもを孤児院に任せてしまう。ある日、秋子は小林桂樹演ずる同じ聾唖者の男性道夫と知り合い、結婚を申し込まれ、家庭を持つ。道夫は靴磨きなど懸命に働いて、夫婦は人並みに子どもを持ちたいと思う。最初に出来た子は泥棒が冬の寒い夜、夫婦がぐっすり眠っている間に侵入し、赤ん坊が布団から這い出してしまって凍死してしまうが、その教訓を胸にして夫婦はまた子どを作る。また男の子で、今度はしっかりと成長する。これを小学校低学年と高学年をふたりの子役が演じ分けるが、高学年の方の顔ははっきりと記憶がある。物語のすべてを忘れたのに、どういうわけかこの子役の顔を今回見た時、かつて見た顔であることを思い出した。この子役はその後成長して有名な俳優になったのではないようで、この映画のみで知られるのではないだろうか。
さて、夫婦はお互いを助け合いながら、名もなく、貧しく生きるが、ふたりめの子ども一郎は親が他の親とは違うことを察して、低学年の頃はかなりひねくれた子どもになる。これは甘やかし過ぎた結果ということも出来るが、子どもの立場になれば、親が話せないことがもどかしく、つい親に辛く当たってしまうのだ。この低学年時代の描写はかなり現実的で見ていて辛いものがある。その後どのように一郎が成長するかという不安があるからだ。だが、高学年になると一郎はがらりと性格が変わる。両親を支え、また人のよい母親に代わって堂々と大人とわたり合う。それはたとえばこういう場面だ。母は家でミシンを使って洋裁で収入を得ているが、ある洋服屋は腕がいいと誉めながら、いっこうに賃金を上げない。それを一郎が文句を言うと母は、「世の中はそんなものではない」とたしなめるが、一郎は承知せず、仕立て上がったものを洋服屋の親父に持参した時、その親父が母の人がよいことを理由に搾取していると訴える。洋服屋はその場は取り合わないが、考え直して菓子折りを持参して賃上げを伝えに来る。その時、その親父は奥の部屋にいる一郎に向かって謝るが、一郎の方も「さっきは言い過ぎてごめんよ」と言う。この場面は子どもがもう大人の社会をよく知るほどに成長していることをよく表現して、なかなかいい。そして、一郎は勉強もしっかりして、小学校の卒業式に総代となる。これは低学年の頃と比べると出来過ぎた物語という感があるが、現実にはそういうことはある。一郎は筆者と同世代であるから、その卒業式の場面はまるで筆者の卒業式を見るかのような気がしたほど、講堂の中も、また同窓生たちの服装も昭和36年を正確に表現していたが、そうなると一郎のその後の生活が気になる。この映画は聾唖夫婦が助け合う愛情が見所だが、それとは対照的に描写されるのが、秋子の家族だ。母は秋子に同情的だが、弟はヤクザな遊び人で、秋子が苦労して買ったミシンを軽トラックを横づけして奪って行ったり、また道夫の給料をそのままふんだくるなど、刑務所に出たり入ったりする。また妹がいるが、世の中は金が一番と考えていて、たまに母親が訪ねて来ると、お金をせびりに来たと思っていい顔をしない。中国人の妾となって豪勢な生活をしているが、聾唖の姉がいることは自分の人生にとって迷惑と思っている。秋子夫婦は老いた母を引き取って一緒に暮らすが、ここには老人問題も描かれている。同じように育てたはずでも、子どもはさまざまで、結局一番幸福なのは貧しい生活をしている秋子だと母は優しく見つめるが、そういう母であるから秋子夫婦も救われる。人並みに子どもをと思った時、母は反対したが、一郎はすくすく育って総代にもなる優秀さで、この映画は名もなく貧しい者でも清く美しい心を持っていると、やがて救われるという教訓を描いているように見える。
映画の最後は一郎の卒業式で、秋子は出席する。桜が満開の晴れた日だ。その時、学校に秋子を訪ねて来る青年がある。加山雄三が演ずるが、その男性は秋子がかつて空襲から救った男児アキラであった。秋子はアキラの母がアキラの衣服に縫いつけた名札を大切に保管し、アキラはそれを持って施設に移ったのだった。母の顔を知らない戦災孤児のアキラは立派に自衛隊員に成長して秋子に面会に来たという筋立てだ。そして校庭がふたりは走り寄って対面するが、そこで「終」の文字が出た。だが、日本で封切られたヴァージョンはアキラの訪問を嬉しがった秋子が学校から大通りに出たところ、耳が聞こえないためにトラックの接近を知らず、トラックにはねられて死んでしまう。そして1年も経たない間に道夫は風邪をこじらせて秋子の跡を追ってしまう。このあまりに悲惨な結末をアメリカは歓迎しなかったのであろう。映画は作り話であるので、どのような結末でもそんなものかなと思うしかないが、松山が当初脚本をそのように書いて撮影したことは、当時の日本や松山の思想を考える時に重要であるような気がする。主人公の夫婦が聾唖者という設定であるので、結末もその聾唖という要素を何らかの形で反映したいと思ったのは、物語の作り方としては理にかなってはいるが、後味から言えば、ふたりを死なせない方がよい。人はそのように簡単に死ぬ者であるという考えは、この映画の最初でアキラが簡単に戦災孤児になってしまうことと照らすと全く妥当だが、アメリカの映画会社はアメリカ軍の空襲が冒頭に描かれ、その悲惨さが形を変えて聾唖夫婦の死となっていることに、アメリカに対する一種の批判を見たのかもしれない。パッフレットによると、残された一郎は両親が名もなく貧しとも、美しく生きたことを思い、希望を胸に生きて行くというところで終わるようだが、小学生の卒業式で母を亡くし、中学1年生の時に父を亡くして天涯孤独になった一郎がその後どういう人生を歩むかを考えると胸が痛む。アメリカ用ヴァージョンでも118分という長さだが、それを感じさせないほどにテンポがよかった。20代で見た時とは違って、今回はしっかりと記憶に刻み、こうして書いたことによってもう死ぬまで忘れることはないだろう。古い映画をこの年齢になって見ると、理解がより深いと思うが、昨今の娯楽一辺倒の映画が30年や40年後にそのような感動を与えてくれるかどうかの保証はない。戦争直後の日本の立ち上がりの見事さがこのような映画ひとつ取ってもよく表われている。丁寧で緻密な仕事をしようという意欲にみんなが満ちていた。貧しくても充分吟味、工夫することを怠らなかった。金持ちの日本になったのに、映画は面白くなりなり、立派な監督や俳優がいなくなったように思う。「名もなく貧しく美しく」はすっかり死語になった。