観覧無料の「文化の日」、まず国立国際美術館でのこの展覧会を見ることに決めていたが、電車が大阪に接近したところで予定を変更して、先に天神橋筋商店街で昼食を済まして東洋陶磁美術館を見ることにした。
そして時間があれば梅田に戻って、阪急電車で豊中に出て、「文化の日」だけ見ることが出来る西福寺の若冲の襖絵に2年ぶりに対面するつもりであったが、長澤英俊展で予想以上に時間を費やし、会場を出たのはほとんど閉館間際の5時であった。美術館を出ると、西に見える夕日に輝く雲が素晴らしく、カメラを持って出なかったことを悔いた。その黄金色の縁取りの雲をもっと大きく見たいと思って、北進して土佐堀川沿いに出たが、高いビルが邪魔をして雲は少しも大きくならず、しかもわずか数十秒の間に輝きは減少した。その夕暮れの輝かしい雲は同じようなものを見たことのある人ならば想像力を働かせて感動を疑似体験出来るが、そうでない人にはどうすればいいだろう。写真を見せるのがベストとしても、それがない場合、言葉に頼るか、それとも絵に描くか、あるいはそれを象徴する作品を作るか。芸術家はいつもそんなもどかしさを覚えながら、一種の妥協策を探る。だが、似たような光景が繰り返される自然の風景を再現したいと思うのではなく、芸術家個人の内なる思いを見える形で表現したい場合、その表現された形は、題名や芸術家の説明がなければ理解出来ない場合がある。あるいはまた題名や説明があっても、ほとんど誤解することもある。それでも芸術家はいいとあきらめるしかないし、鑑賞者の勝手な思いを修正する方法はない。その意味で芸術作品は見る人の数だけ思いを喚起するし、その自由があるからいいとも言える。逆に、そのためにたいして意味がないと主張する人もあるだろう。筆者はと言えば、自然の石の中に人間が描こうとするあらゆる絵画が誰にも見られない形で表現されていると、最晩年のロジェ・カイヨワが思ったことを心の片隅でいつも凝視していると言えばよいか、芸術作品の限界のようなものを感じながら、言わば暇潰しと運動がてらもあって展覧会を見続けているが、もうひとつ理由を言えば、このブログのネタ探しの意味合いもある。筆者も物作りをするが、年齢のせいもあるか、他の人の作品を見て触発されることがない。そして作品に感動すると言うより、作者の生活やその経済状態をつい想像してしまう。作品は結局のところ人柄であるから、作品には直接関係しないようなそうしたことは案外重要だ。長澤の紹介が以前TVであったが、5分ほどしか、しかもまともに見なかった。また、基本的には予備知識なしに展覧会を見ることにしている筆者は、そうした番組で情報を得ない方がいいと思ったのであえてその番組を見ようとしなかった。地下2、3階を使っての大かがりな展覧会であった割りに、作品がみな大きいので鑑賞時間はさほど要しない。2時間近くも美術館に滞在したのは、出口の部屋で長澤の作品を紹介する1時間ほどのビデオが上映されていて、それを全部見たからだ。
それは長澤のイタリアでの活動をつぶさに紹介したもので、DVDとして数千円で販売されている。今回の企画展と併せて見ると、長澤作品の全容がわかると言ってよい。いや、この映像を見なければ理解が及ばないとも言える。つまり、説明が必要なのだ。そうした説明がなくても、眼前に投げ出されている作品を味わうことは誰にでも出来るし、またそれが鑑賞の基本だが、物を言わない作品とじっくりと対話をする前に次の作品に移動するということになりかねない。今回は作品のそばに題名を記したプレートがなく、最少限の言葉の情報すらも剥奪された形で作品と対峙するしかなかったから、なおさらだ。美術には「無題」と題された作品は少なくないし、それはそれでそのように鑑賞者は見るが、長澤の今回の展示は表向きはその「無題」になぞらえながら、実際は多弁とも言える長澤の思いが張りついていて、それをひととおり知ったうえで改めて見ない限り、作者の意図の理解に到達出来ない。だが、長澤の思いを知ったうえで、なおも最初の「無題」状態で接して得たなにがしかの感情は、その後も鑑賞者の内面に居座り続けるはずで、それもまた長澤は尊重したいということなのだろう。そのなにがしかの感情が、長澤の意図したものとどれだけ隔たっていようともだが、その隔たりはDVDを見た後では、作品それ自体とは別に、長澤の容貌や人生といった、作品と実際は大きく関連しながら、一方ではどうでもよい猥雑と言ってよい事柄が絡み合うことで、新たな局面を展開させる。ところで、会場の入口で3つ折りのパンフレットがもらえた。全部で19点の展示で、その簡単な題名と説明が書かかれている。だが、筆者はこの説明を読まずに作品を見た。今その説明を読みながら、2、3の作品を思い出すことが出来ないが、長澤の作品を見ずに説明を読んだだけで作品がどれほど推察出来るだろうか。説明は長澤の考えを別人がまとめたものだが、あるいは長澤は本当はそうした説明抜きで作品を見てもらいたいのかもしれない。長澤の風貌を見ていると、何となくそう思える。映像を見てまず目に飛び込んだのは長澤の顔だ。スキンヘッドで、恐面の頑固な居酒屋の親父といった感じがある。1940年満州生まれで、埼玉に育ち、多摩美に学んだ。画家になることが当初の夢だったが、人々のためになる建築などの方面に進むなら学費を出すと父が言ったので、デザイン課に入った。学生時代から旅が好きで、66年には自転車で戦争をしていたヴェトナム戦争など東南アジアから中近東を横断、1年後にミラノに到着してそこで住みつく。お金が乏しかったのだろう、イタリアでは公園など野宿をしたようだ。長澤のその行為は当時の若者にありがちなことだが、日本を脱出したまま戻って来なかった例は珍しいのではないだろうか。満州に生まれたことが、そうしたユーラシア大陸横断やイタリアでの作家活動という生活につながったのかどうか、同じような行為をした若者は何人もいて、またその後も多くいるはずだが、長澤のように活動を持続させ、しかも年々評価が高まる場合は珍しい。映像によれば、本当か嘘か、ミラノに止まったのは同地で自転車を盗まれたからだ。日本で住んだのは20年、ミラノは30年在住なので、もうイタリア人と言ってよいが、やはり現地人の偏見はあるらしい。そこを逆手に取るつもりでもないだろうが、表現を考える時、否応なしに自分の出自を思うであろうし、また意識しない間に、20歳までに味わった、あるいはその後意識して遠くから見つめる日本文化の特質を考え直すことにもなるだろう。外国で日本人が表現者になる時、外国人はその表現に日本の姿を認めようとするし、そうした日本性を表現しないことには受け入れられないという事情もある。そして、その外国における日本人が表現する日本の特質は、日本に住む者から見れば、ジャポニズムの安直性に見えてしまいかねない場合がしばしばある。その意味で、外国で成功する日本人作家は日本では批判されやすいが、長澤の活動場所はイタリアであって、日本を向いていないから、そうした批判にも晒されることは少ないだろう。
映像の中に70年代であったと思うが、長髪でまだ若い長澤が撮影した自写フィルムが少し紹介された。それは映像番号1と題されているものだそうで、その後の長澤のさまざまな活動の原点がそこにすでに暗示されてもいると説明があった。その映像は、本当の卵か、あるいは卵型の大理石か知らないが、長澤が掌でしばし転がしていて、それを突如真上に放り投げたところ、落ちて来ないまま、長澤がしばらく上空を見つめるというものだ。この反重力性を表現した短い映像は、地と天、引力といったことへの問いで、確かに後の長澤彫刻のひとつの思想に連なるものを思わせる。また、長澤の作品はあるひとつの厳密な思想にしたがった変奏というものではなく、ひとつずつの作品がゼロ地点から出発し直したものと言ってよい。そのため変化に富むが、ある思いつきを温め、それを大規模な作品に結びつけているため、一瞬で作品の本質が味わえる。そうした思いつきは物作りをする人ならば、ほとんど誰しも何らかの形で持っているものだが、それを作品にする行為が大変で、そこには莫大な資金と時間を要する場合がある。特に長澤の作品はイタリアらしく大理石をよく使用しているが、そこに木材や金属を併用し、機械を使わねば移動出来ない大きく重いものがほとんどと言ってよい。そうした作品は、発想だけで断念してしまう人が日本ではきっと多いと思うが、大理石の本場ではそうではないのだろう。石を動かしたり、それを所定の形に切ったりすることは職人がしてくれるから、資金さえあれば長澤のような作品は案外実現しやすいのかもしれない。だが、長澤が小さな模型だけ作って後は職人にみな任せているというのではない。むしろ長澤本人がすべて手作りすることの方が圧倒的に多いだろう。そのことは映像からよくわかった。そして長澤が手作りする場合、そこに必然的に登場するのは日本の佐官や表具といった手仕事で、土や紙という素材を効果的に用いた作品が目立った。たとえば土だが、イタリアのある古い街に日本の茶室と短い土塀をいくつも迷路のように築造するものがあった。土は現地のものを使うので違和感が減じられているが、かなり際物、キッチュ的な作品に見えた。だが、イタリアでは歓迎されるのだろう。大理石の彫刻の一方でそうした日本的特質を援用したインスタレーション的彫刻を見ていると、長澤の在伊日本人という立場がよく見える。そして、土や紙の素材から長澤の作品を見ると、大理石もまたイタリアの物というより、日本の物に見えて来る気がする。
これは先に書いたTV番組で見た作品だが、「詩人の家」と題する作品がある。これは映像で長澤が実際に作っている場面が紹介された。真鍮で出来た襖の枠に障子紙を糊張りし、襖を組み立ててひとつの茶室のような小さな部屋を作る。それを会場の壁面の天井近くに上げて、底部から3本の細い鉄を下げて壁に固定する。壁から飛び出た形の小さな部屋という作品だが、障子は全部跳ね上げられて部屋の内部は会場の空間とつながっている。欧米人が喜びそうな作品だが、この作品は日本的とばかりは言えないだろう。筆者はシエナの画家ロレンツェッティ兄弟の描くシエナの町に見られる建物を思い出した。中世のイタリアには長澤のその彫刻のような、階上部が張り出した住居があったのだ。長澤はそれを意識したかもしれない。日本的な形ではあるが、イタリア的でもあり、また扉を開いて内部を見せたり、部屋を頭上高く据えつけるなど、羽ばたきや天のイメージを連想させる普遍性もあって、何を味わうかは人々の経験に任せるというところがある。「詩人の家」とはうまく言ったもので、この作品をよく味わうには鑑賞者が詩人になるべきという意味に捉えてはどうか。映像の中で長澤が柔道着を身につけて空手か合気道かの練習をしている光景があった。毎日1時間ほどそうした運動をしているそうだ。それは長澤に日本人性を見たがる外国人向けのサーヴィスに見えなくもないが、イタリアで長く暮らしながら、イタリア人に同化し切らず、またし切れない葛藤を思わせる。長澤に言わせると、そうした運動をすることが気分にもよいからだが、気迫を希薄化させないためには必要なことなのだろう。そこからは日本の禅につながる精神を長澤が常に求めている様子がうかがえそうな気がするが、禅でなくても芸術すべてがそうしたはっとさせる何かが最も大切だ。だが、長澤の作品すべてがそのような気迫重視の思いに貫かれているかと言えば、案外そうとは思えないものもあった。たとえばパンフレットを今読んでようやくわかった作品に「二つの輪」がある。これはフラフープのような形のふたつの金属の輪が床に併置され、どちらも表面に彫りが施されている。片方が人が手で作ったもので、もう片方がそれを原型として鋳造したものだ。区別がつかないという点がミソらしいが、それだけのことならば別段珍しくもない。同じような傾向の作品として、「二つの石」があった。これは丸めたティッシュを思い起こさせる大理石の塊をふたつ並べたもので、同じ形をしていながら大小の差がある。どちらが本物の自然石か知らないが、大きさを変えて片方を彫ったのだ。これも現代美術にはよくある手法だが、長澤は初期にはそうした作品を作っていた。
また映像の話に戻るが、シチリア島での作品があった。それは川辺の岩山に彫った大きな部屋に、長澤の作品のひとつの大きな要素になっている「舟」をかたどった彫刻を天井から吊り下げたもので、市長だったか、観客も含めて大勢の来客者が見ている間にその部屋の鉄の扉を溶接工に扉を密閉させ、蝋で封印して内部を封じ込めるという儀式を伴なったものだ。封じ込める前に観客たちには薄暗い内部を歩いてもらうのだが、その時にそこにいあわせた人たちのみが中の空間を経験出来た。それは60年代の赤瀬川源平らのハイレッド・センターの連中が考えそうなインスタレーション的作品だが、暗い内部に彫刻を閉じ込め、誰も見られないようにするという行為は、神社の御神体、あるいは開かれることのない日本の古墳内部を感じさせる。だが、それも日本独自のものと見るのは正しくないだろう。ブルトンらシュルリアリストがそうであったが、ヨーロッパにも内部が見えないものをそのまま神秘として味わうという思いはあるし、たとえばデュシャンの遺作なども思い起こさせる。このシチリア島でのプロジェクトは今回の展覧会の題名になった「オーロラの向かうところ-柱の森」につながっている。これはチケットに印刷されるように、ほとんど真っ暗な部屋に大理石の柱が10数本林立し、それを徐々に暗闇に慣れて来る目で鑑賞するものだ。部屋は縦が20、奥行きが10メートルほどあって、出入口の反対の奥に1センチほどの縦の隙間が開いているため、ほんのわずかに光が差し込んでいる。部屋に入ってからは左手の壁伝いに先へと進むが、これがかなり怖い。人によってはなかなか目が慣れず、突き当たりの壁に激突して音を立てている人もいたのがおかしかった。壁は板なので怪我はないが、その板壁ということが、お化け屋敷的な安っぽさを思わせるのがいささか惜しい。ともかく、目が慣れないままに突き当たりまで行くと今度は壁から手を離して出入口に向かって引き返す必要があるが、その途中で大理石の柱がおぼろげに浮かび、また触ることにもなる。本当は触ってはいけないものかもしれないが、暗闇なのでどうしてもぶつかってしまう。そんなに太い柱ではなく、直径20センチほどだ。こうした体験型の遊園地的な作品が近年の現代美術には多く、また人気もあるが、長澤はそのあたりの事情もよく知っているのだろう。大理石つながりでもうひとつ言っておくと、これも映像にあった作品に、イタリア各地のさまざまな種類の大理石を10数個集め、それを加工してひとつの輪につながるようにしたものがあった。つなぎ面は割れた自然の形状のままで、そのほかの面は加工してつるつるに仕上げている。別々の場所の物を一か所に集めて調和させたというもので、長澤はイタリアに住み着いて大理石の美に遭遇出来て幸福であった。本当に大理石は美しく、「夢うつつのセリエンヌ」と題する今年作られた作品は、さまざまな色の筋が混じった背丈ほどの大理石を包丁のように尖らせて立たせ、その裾をふたつの曲がった形状の白大理石が包んでいる。セリエンヌとはシチリア島の街の名で、長澤は同地を訪れた時、夢うつつのような世界を感じたという。もっと神話的な何かをこじつけることも出来るのだろうが、そうしていないところがいい。立っている大理石は、加工しなくても本当に夢うつつのように美しく、やはり筆者はカイヨワが晩年に到達した自然石の神秘と美を思ってしまう。