盗むことがネット社会ではあたりまえになっている。そのために右クリック禁止などの措置が取られるが、そんなことをしても盗む気のある者は方法を探して盗むし、ネット上の情報は盗まれてもいいと考えておく必要がある。
問題は自分独自の情報をネットに載せたくないのに、勝手に誰かが載せてしまうことで、この点は法の整備をすべきだが、そういう懸念があるので、筆者はネットに載せる情報とそうでないものとを分けている。そして、ネットに載せる情報は盗まれても平気という覚悟がある。先日そのようなことをある場所で初対面の人と話をしたが、初対面でもあるので筆者は相手の言うことを聞くだけで自分の意見を言わなかったが、以下はその言わなかった考えだ。筆者はネット情報を「盗む」ということは「模倣」という意味に捉えているが、実際は丸っきりのコピーもあるだろう。それはやはり気分はよくないが、「模倣」ならば誰しも大なり小なりしているので、あまり目くじらを立てるつもりはない。むしろ、模倣されても自分の独創性までは無理に決まっているという自負がある。そのくらいの自信のない人はネットで情報を発信すべきではない。だが、一方でネット・ライフに無縁で物づくりに携わっている人、あるいは多少ネットをしながら物づくりをしている人でも、ネットで何かを発信することに対して意義を認めず、自分のものが「盗まれる」からと言う場合が少なくない。だが、そういう人々はもとから盗まれるべき価値のある何かを生み出す能力がなく、また他人から盗みながらそれに気づかない鈍感であるのが相場だ。もちろんネットとは無縁で生活しながら創作している人は無数にいるが、新しい表現媒体の登場に対して挑みもせずに先入観を持つ場合、それは当人の創作の世界を狭めこそすれ、広げることはないだろう。ネットの利便性が創作にいい影響を及ぼすとは限らないという懐疑はあるが、利便性のいい面を積極的に自分の創作の何かに結びつけてこそ、新しい時代の何かも生まれる。また、ネットが表現媒体であり得るかどうかだが、こうして毎日文章を綴ることは表現であるし、それが積もればそれなりに山になる。また、それがガラクタの山としても、そうした習慣の中から本人は何かをつかむものであり、何もしないよりかははるかにいいに決まっている。そして、そうして獲得した何かは誰かに模倣され得ないものなのだ。
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2008年11月29日●第 121 話
マニマンとママーニは黄色いコロコロ・キャスターに礼服を詰めてオオエドに行きました。帰りは荷物が増え、両手がいっぱいになりました。帰宅後2、3日は引き出物のことを忘れていましたが、洋菓子や和菓子は賞味期限がまだ少々ありました。それで、昨日はまず和菓子を食べました。紅白の4個の小さな饅頭で、そのうちの白い2個は雪うさぎになぞらえた形です。残るふたつの紅色つまり桃色の饅頭は、実在の何かになぞらえることは難しいです。それで、ゴッタを偏平にした形で無地でしたが、どうせなら桃か宝珠のように尖らせるか、2か所尖らして鬼になぞらえればよかったのですがね。それにしても雪うさぎ饅頭は、たらこのような粒で赤い眼を表現してかわいらしく、マニマンは食べる前に2個をつなぎ眼のように並べて手に乗せ、写真を撮りました。かわいい存在をよく「食べてしまいたい」と表現します。マニマンはそのことを思い出しながら、桃色の饅頭より雪うさぎ饅頭を先に食べたのですが、かわいいものが口の中で粉々になってやがて雲古になるのは残酷な話ですから、どうせなら鬼か菱の形がいいのです。