尼崎の商店街にある呉服店の主が白髪一雄で、洲之内徹が白髪に会うためにその店に行ったことが『芸術新潮』の80年代の「気まぐれ美術館」に書いてあった。

それからずっとその店がどこにあるのか気になっていたが、気になりながら数十年経つことはよくある。特に気になることは八方手を尽くして調べることになるが、さほどでもないことはそのまま記憶の底に沈みながら、何かの拍子に思い出される。筆者にとって尼崎はその洲之内徹の記述に結びつけられているが、阪神電車の尼崎を利用することは、尼崎市の総合文化センターに訪れる時しかなく、またJRではさらに無縁で、筆者は尼崎をほとんど全くしらない。また総合文化センターで見たいと思う展覧会が開催される機会は年に1回もなく、そのため、駅前の商店街がどこにあるかもわからず、20数年が過ぎ去たが、数年前に同文化センターでの展覧会を見た後、少し時間があって、駅構内の店舗をあちこち覗き込み、そしてそこから100メートルほど北にどうやら商店街があるらしいことを知った。それからその商店街を実際に歩くのにさらに2、3年を要したが、白髪の呉服店のある商店街はきっとそこだろうと思いながら、アーケードの中に入って行き、呉服店を探すともなく探した。その商店街は尼崎市を代表する大きなもので、大阪の天神橋筋商店街よりも長いのではないかと思わせられるほど西の神戸方面に向かって続いており、また途中の辻からも商店が連なっているという有り様で、とても全部を踏破することは出来なかったが、その下町めいた雰囲気は好きで、「ああ、こんなところで住むのもいいな」と思った。呉服店は何軒かあったが、呉服店があること自体、町が古くて老人が多く、そこそこ裕福な人が住むことを示している。だが、キモノ離れがはなはだしいこの数十年からすれば、そうした店が呉服だけを売ってやって行けることはもう珍しく、その数軒もやがて次々と閉店するだろう。それはさておき、同文化センターの4、5階が美術ホールになっているが、美術展専用のしっくりとした空間といった雰囲気ではなく、かなり安っぽい。そのためもあるのか、なかなかいい企画展は開かれず、神戸方面にたまに美術展を梯子する筆者にすれば、ほとんど重視していない場所だ。同ホールで美術展を見た後の楽しみとして必ずその商店街をぶらつくようになったが、展覧会を見た後はかなり疲れてもいて、そんなに歩く気になれず、アーケード口から1キロほど先には歩かない。なぜ疲れているかと言えば、神戸で展覧会を見た後、大阪に向かって帰る途中、尼崎で下車し、つまり当日の最後のおまけのような形で同ホールを訪れるからだ。そのため、商店街を歩くことになるのは決まって閉館した6時以降の夕暮れで、空腹もあって多くは歩く気になれないのだ。
この白髪一雄展には8月2日に行った。もうすでに1か月経つが、何となく書いておきたいので取り上げることにした。当日は先に神戸でふたつの展覧会を見たが、阪急阪神の共通1日乗車券が2、3年前から1200円で売られていて、神戸方面に出る時は必ずそれを利用する。というのは、筆者の住む最寄りの駅から神戸まで片道600円で、1200円の神戸を往復する値段で阪神電車も利用出来、しかも何度でも途中下車が出来るからだ。その便利さは実は昔から夢想していたものだが、思わぬ形で時代が筆者の思いに追い着いた。そのため、なおさら神戸方面にはよく行くようになり、また必ず阪急と阪神の両方を使うようになった。で、その日は往きは阪急を使って三宮に出て、帰りは阪神を使って尼崎で下車、そして尼崎から梅田に出て、また阪急に乗り換えて京都に戻るというコースだったが、これは習性になっていて、尼崎に寄る場合はいつも最後になる。そしてそれは同ホールの展示を見る時間がいつもごく少ないことを意味する。その日は阪神の三宮から岩屋で降りて兵庫県立美術館を見た後に尼崎に向かったが、電車が来た時には5時過ぎだった。ホールでの美術展は6時までやっていることもあって最後に見ることにしたが、入館は5時半までだ。それまでに駅に着くかどうか心配し、もし着かなければどうせ9月上旬まで開催しているのでまた出直そうかと思っていた。そして尼崎に到着すると、5時25分だった。5分でホールまで歩いて行くのが可能かどうかと思いながら、もう足は小走りになっていた。ホールの入口に着いた時は、透明なドアが閉まっていたが、ちらりと係員が見えたので、手招きして事情を説明すると中に入れてもらえた。「6時までしか見れませんよ。」「ええ、それでもいいです。」わずか25分で4階と5階の作品を全部見るのはかなり無謀だが、結論から言えば、15分で会場を後にした。白髪一雄の作品はよく知っているし、またじっくり鑑賞して味わうものでもない。ほとんどそれは一瞬でよい。そのぱっと見の出会いを後でいろいろと考えるところに白髪の作品の面白さがある。図録は、展示されていない白髪の作品を数センチ四方の大きさでたくさん載せるなど、カタログ・レゾネ的なものであったが、買っておこうかと迷いながら、次に来た時にもまだ残っているに違いないと思って買わなかった。そのため、ここに書くことは、ここまで書いたことからわかるように、ほとんど展覧会の感想というより、尼崎に絡めた漠然とした白髪への思いに過ぎない。だが、近頃は図録代わりに多少なると言える作品目録がたいていの展覧会では無料で常備されていて、今回もそれを一部もらって来て今手元にある。それを見ると、どういう章立てで作品が分類され、また何点出品があったかもわかる。ないのは絵柄と学芸員などによる論文だけだ。
洲之内徹は白髪に会って作品を買ったのだろうか。白髪の作品はみな大きく、また家に飾って楽しむものではないから、洲之内がどういう理由で白髪に会うために尼崎のあの商店街を歩いて呉服店まで行ったのかはわからないが、関西を代表する有名画家のひとりであるし、白髪の作品が洲之内好みであってもそれはよく理解出来る。ここで「好み」と書いたが、絵画はしょせんは好みの問題だ。歴史上有名で市場価格が高い画家ばかりが誰にとっても好みとは全く限らない。むしろ筆者のような年令になると、そんな世評とは無関係に面白いと思う画家がいるし、かえって有名でない画家の方に加担したくなる。誰しもが持ち上げる画家の肩を持つのは能のない話で、まだあまり有名でないような作家の価値を見出す方が創造的だ。それはさておき、白髪の作品が好きか嫌いかとなると、筆者は好きと言う。それは他の誰もやらなかった作品であり、またいかにも日本的な土壌から生まれて来たもので、その重要性は今後ますます評価されると思う。白髪は足で描いた。手が不自由であったのではない。床にキャンヴァスを置いて、天井からロープを1本吊るし、それにぶら下がってキャンヴァス上に絵具をぐにゅぐにゅと動かしたのだ。それが絵と言えるか、子どもでも出来ることではないかといった意見はきっとある。そうした意見は白髪の作品の成立を聞いた後のものであり、コロンブスの卵と同じだ。白髪の作品は簡単な行為かもしれないが、それを最初に見出すために白髪はそれなりの思考を費やし、またそれを持続させた。アクション・ペインティングと呼ばれるそうした絵画は日本だけのものではなかったが、関西の具体美術協会では白髪が独創性の高い仕事をしたことでいち早く世界的に名声を得た。今立ち上がって本棚から図録を1冊引っ張り出した。昭和60年に大阪国立国際美術館で開催された『絵画の嵐・1950年代-アンフォルメル/具体美術/コブラ』だ。「アンフォルメル」はフランスの評論家のミシェル・タピエが中心となって組織された前衛美術運動で、「コブラ」はベルギー、オランダ、デンマークの作家たちが結成した団体だが、50年代にヨーロッパと日本とで似た絵画の動きあったということを示す展覧会であった。白髪の作品はミシェル・タピエに注目され、作品として売るためにはキャンヴァスに描いた方がいいという助言を得て、白髪はそれにしたがった。おそらく白髪の50年代の作品はフランスでかなり売れたのだろう。当初白髪はそうした作品を形として長く残すことに関心がなく、それがまた芸術だと思っていたようだ。それは後のハプニングと呼ばれる行為の芸術に通じた思いで、白髪は一瞬の火花のような行為に芸術が宿り、その残骸のような、たとえば絵画に重きを置いていなかった。つまり、白髪の絵画はそのままでは美を感じないもので、どのような思いで作られたかという想像を働かせることで白髪の美意識がうかがえる。絵画の表面上の美ではなく、その向こうにある精神を鑑賞するというものだ。また、どういう色の絵具をどのように使うかや、また絵画として壁にかける時、サインによって上下が決められ、また題名もつけられるから、一応は通常の絵画と同じように鑑賞を目的としてはいるが、絵画として成立する過程に偶然が支配する割合が多く、画家の計算的に構築された美意識を楽しむという作品ではない。白髪の作品の面白さは、大きな画面に絵具がのた打ち回った迫力と、画面と格闘した白髪の思いが全身的で直接的によく伝わるところにあって、それは生々しさと言えばよい。小手先の巧みな技術というものではなく、思いを一瞬で表現しようとした、またし得たところに芸術の純粋な閃きを感じる。
白髪は1924年生まれで2008年に亡くなったが、この展覧会を楽しみにしていたらしい。これまで何度かこのホールで展覧会をしたようで、それは地元の画家として有名であったことをよく示すが、尼崎という地が白髪を生んだことは何か因縁があるだろうか。今後はそういうアプローチによって白髪論が書かれる時代が来ると思うが、それは関西が具体美術を生んだこととは別の根源的な問題だろう。尼崎について詳しくない筆者にはよくわからないものの、そこには江戸時代にまで遡って禅を考えてみる必要も思う。尼崎は江戸時代は大阪や京都と川でつながっていて、禅寺もあった。白髪の絵画は禅からかなりの部分が説明出来る気がするが、それを、つまり日本性を敏感に感じたのがミシェル・タピエではなかったかと思う。一方、ヨーロッパではアンフォルメル以前にダダイズムがあって、それが日本では禅と通ずるものとみなされもしたが、これらは「否定」や「虚無」という言葉である程度説明出来るもので、禅の精神は戦後の欧米ではよく理解された。禅は否定の精神に彩られたものだが、新しい絵画は先行するものを否定する度合いが大きいほど斬新なものになり得るし、白髪はそのことを絵画を始めて間もなく感得した。今回の展示では白髪の初期の風景画などがあったが、それらは大阪の淀屋橋界隈のごく普通の写生で、後の白髪を思わせるものは何もないが、40年代末期から白髪は抽象画を描くようになる。それは絵具の質感を重視したもので、佐官の仕事に見えるほどだが、そうした日本の伝統的職人の技を連想することはごく正しいだろう。油彩絵具は水彩絵具とは違って盛り上げることの出来る物質で、それは土が化けたものに等しいと言える。何年であったかは知らないが、白髪には土の中でのた打ち回る行為の作品があった。それは足で描く絵画とつながっていて、白髪の思いが人間の根源性に強く結びつけられているものであることをよく提示している。白髪は頭がスポーツ刈りの痩せ型でいかにも精悍な感じがするが、若い頃の写真を見るとなおさら真面目で優しい日本男児という雰囲気がある。その一途なところからああいう絵画が生まれたことをいかにも実感させるが、筆者が白髪に思うのは現代の禅僧画家とでも言う潔さだ。
今手元に岩波新書の鈴木大拙の『禅と日本文化』がある。これは欧米人向けに英語で書かれたもので、それを別人が日本語に翻訳し、1940年に初版が出ている。白髪が16歳の頃であるから、白髪は発売された当初読んだであろうか。この最後の章に面白いことが書かれる。引用すると、『画家のなかには、自分たちの筆触がみる人にどんな風に受取られようとも、それは大したことではない、事実、誤解されればされるだけ結構だ、というほど極端なものもある。その筆触や塊はいかなる自然物を意味してもいい、それらは鳥・山・人・花、またそうでないものであってもいい、自分たちにとっては、まったくどうでもいいことなのだ、と彼らはいう。……彼らは自分たちの内的に強く動かしたものをその作品によって示そうと思うのだ。自分たちの内部の動きにいかに明白な表現を与えるべきかその方法は彼らにも判らなかったらしい。感嘆の声をはなつか筆を走らせるかだけである。これは芸術ではないかもしれぬ。なぜかというにこういう行為には芸術はないからである。また、芸術があってもそれはきわめて原始的なものかもしれぬ。これは真実にそうであろうか。われわれは人工性を意味する「文明」において進歩しても、つねに無技巧ということを努めて求める。それがいっさいの技巧的努力の最後の目標であり、基礎であるように思われるからだ。いかに多分の芸術が日本芸術の外観的な無技巧さの背後に隠されていることか! 意味と暗示力に充ち、しかも完璧な無技巧さ-……』とあるが、ここからは白髪の仕事以前に白髪的な仕事があったことが想像出来る。それは大拙が書くように、墨絵なのだが、白髪は墨絵の伝統がすっかり途絶えた戦後に、その精神の神髄を油絵具という日本にとっては異質な物質を扱うことによって、もっと大きな画面に、もっと強固に、もっと激しく、もっと生の形で表現した。白髪が国際的に認められたのは、禅が欧米に紹介されていた理由が影響しているのではないだろうか。欧米は欧米に元からあるものを日本が器用に咀嚼したところで、それを本流とは決してみなさないし、日本の芸術には必ず日本的な本質の何かを求めようとする。そして、日本の画家はそういうことを知って、あえてそれを策略としてジャポニズムを表面的に打ち出す場合もあるが、それは皮相的な行為に終わるだろう。白髪はおそらく大拙の禅に関する本など知らなかった。知らずに足で描くという行為重視の絵画を作ったところにタピエの驚きがあった。白髪が知らなかったのに、なぜそれが日本の伝統に深く結ばれたものであったかは、白髪の家業が呉服店で、また尼崎という、上方の地であったことである程度説明がつくのではないか。白髪の芸術は関東では恐らく生まれなかった。
白髪の作品には漢字がずらずらと並んで難解なものが多いが、それらは『三国志』などから取ったことを今回知った。目録には、「初期作品」「血のイメージ」「密教シリーズ」「歴史への憧憬」「アプローチの多様性-題材・技法・画材」、そして「資料」として初期の風景画などの項目が記される。今回のチケットは赤を主体にした作品から選んでデザインしているが、チラシ裏面の背景も赤で、白髪に血のイメージが似合うことをよく伝えている。今回展示されて久しぶりに見た作品に、猪の皮を張りつけたものがあった。その屠殺のイメージによって、初めて白髪の作品を知る人にとってはかなりの悪趣味に思えてショックを受けるだろうが、画面と格闘した白髪にとって、血生臭いイメージが内面にあったとしても当然だ。泥の中でのた打ち回る行為は母の胎内での動きの隠喩を思わせるが、胎児が出生するにしても出血を伴う。白髪にとって赤い絵具を選ぶことはごく自然であったに違いない。今回の図録をぱらぱらと見ながら気づいたが、最晩年の白髪は、白いキャンヴァスに白の絵具で同じように足で描いていた。それは白髪の名字そのままの、スポーツ刈りした頭がすっかり白髪になった様子を想像させるに充分であったが、その無垢で神々しいとも言える画面の小さな図版を見ながら、白髪は充分にやるべきことをやって、最後はそれにふさわしい仕事をしたと思えた。また、会場の最後には白髪が使用したロープが天井からぶら下がっていて、触ってもいいと書いてあった。銀色でところどころにさまざまな色の絵具がこびりついている。筆者はそれを触りながら、白髪が全体重をこのロープに委ねながら絵具の海にのた打ち回った様子を思い浮かべてみた。その無茶苦茶なと言ってよい絵画行為は、よほど何かがなければ思い切って踏み出すことは出来ない。そこには絵具やキャンヴァスを無駄に消費してもかまわないという一種の豪勢な思いが必要だろう。そうした画材を買うことさえ出来ない貧しい者は、ちまちまと、そしてごくまともな絵しか描こうという気にはなれないものだ。それを思えば白髪は呉服店の主である程度の収入や生活の保証もあったのかと思うが、実際はそういうものが一切なくても、白髪は同じ行為に挑んだに違いない。そこにはやむにやまれない決心があったはずだ。15分で会場を眺め回した後、アマゴッタの近くのベンチに座って自動販売機で買ったジュースを飲んだ。そして駅前の噴水のところに行ってしばし休憩し、次にアーケードの中を目指した。家内が一緒だったが、とある呉服店で家内向きと思えるプリントのシャツを選んだ。そこが白髪の店という気はしないまま、アーケードの奥にさらに向かい、今度は若者向きの衣料品店でこれも家内のTシャツを1枚選んで。家内が支払っている間、商店街の度真ん中で待ったが、なかなか家内が出て来ない。ようやく来た家内が言うには、店の若い女と話をしてわかったが、その店が以前白髪が経営していた呉服店であったそうだ。白髪展を見た直後、20数年ぶりに気になっていたことが氷解したのだ。