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●『未来をひらく 福澤輸吉展』
澤輸吉が大阪生まれだと言ったところ、関西のある地方出身者は全く信じなかった。大阪からそのような偉人が出るはずはないというのが、現在日本の一般的な人々の考えのようで、大阪をお笑いと串かつだけの街と思っている。



●『未来をひらく 福澤輸吉展』_d0053294_18431043.jpgそれでもいいではないか、自分たちに人気があって、金儲けも充分出来るのであるからと、毎日必ずどこかのTV番組に出るヨシモトの芸人たちは思っていて、今回のような展覧会が大阪の美術館で開催されても全く知らないし、関心もなく、話題にもしない。先日、大阪の知事がヨシモトはがめついと意見した。それは今に始まったことではなく、明治からそうであったことは富士正晴が書いた桂春団治の評伝を読めばわかる。そのヨシモトのがめつさが今は大阪の象徴となって、学問をすすめるよりよく笑わせる男の方が格好よくて女にもてることになっている。福澤輸吉が大阪で慶応義塾を開いていたならば、人々が思う大阪は今とはもう少し違っていたであろうか。輸吉は江戸に行った後、大阪をどう思っていたのであろう。そんな興味も湧く展覧会であった。4日の金曜日に行ったが、平日であるにもかかわらず、押すな押すなの満員で、お笑いだけの大阪ではないことを実感したが、来ている人はみなそれなりに学に興味のありそうな真面目な顔をしていた。あたりまえのことだが、大阪にもそういう人がたくさんいる。ところで、この展覧会と連動した企画か、6月から9月下旬まで中之島の国立国際美術館で『慶應義塾をめぐる芸術家たち』が開催されていて、筆者は『やなぎみわ 婆々娘々!』を見た際についでに見た。その時はまだこの本番である輸吉展を見る気になれないでいた。それは輸吉が芸術、美術に無縁の人で、資料中心の展示のはずであるという思いからだった。実際にそのとおりであったが、今チラシを見ると、裏面に応挙や仁清の作品図版が掲載されていて、美術ファンを動員しようとの思いが強く出ている。だが、美術品の展示は輸吉の生涯を紹介する部屋が終わった後の一室にまとめられ、それらは輸吉の教えを受けた人々の収集品で、会場の埋め草として並べたという感が強かった。そしてその部屋では人々はほとんど素通りしていた。日本初の近代の国際人と言ってよい輸吉が欧米に何度かわたって大都市を訪問した時に、美術に関してどう関心を抱いたかの紹介が今回は全くなく、この展覧会は美術館ですべきかどうかを少々疑問に思った。輸吉は新聞を発行し、そこには漫画家に漫画を描かせるので、美術に関心がなかったはずはないが、それより重要なものがあると思っていたのであろう。輸吉全集は何冊もの分厚い本からなるが、そこに芸術や美術に関する考えが書いてあるのかどうか、これは全集を読破しないとわからないことかもしれない。
 館内に入ったホールでまず目に出来たのは、輸吉の大きく拡大された数々の写真だ。輸吉は無類の写真好きで、欧米を旅した時、機会があるごとに写真館で撮影してもらった。その後の研究によって今ではどこで撮影したものかかなり解明されているが、日本人の典型的な顔、姿としてヨーロッパのどこかの国の博物館では紹介された。ちょんまげで刀を持った姿は確かに19世紀後半の欧米では興味深く映ったはずだが、それよりも輸吉本人の骨格とその表情が日本的であることに、より人々は関心を抱いたのではないだろうか。しかも賢く見える点がよかった。以前、名のわからない侍が渡欧した際に写真館で撮影した写真を見たことがあるが、そこに見える彼らの表情と態度は、堂々としていると言うだけでは当たっておらず、不敵な笑みを浮かべて、とても傲慢に見えた。それが幕末の武士の典型とは言えないだろうが、そこに見える彼らの表情は、現在の日本ではほとんど見られないと言ってよい。強いて似る者を挙げれば、ヤクザの幹部といったところか。いや、悪人面をしていない分、それよりももっと傲慢で底意地が悪い人間に見えたが、輸吉には全くそういうところがなく、理想に燃える真面目でひたむきで清々しさを露にした表情がみなぎっている。だが2、30代ではそれは当然かもしれない。それに引き換え、現在の1万円札の肖像となると、苦みをたっぷりと持った中年の貫祿が出ていて、まるで別人に見える。それが悪いと言うのではないが、青年期の肖像を1万円札に使用すれば、日本の外国に対する印象はもっと違ったものになり、また国内でも輸吉の人気はさらに出るのではないかと思う。まさか近代化を果たした日本がちょんまげ姿の輸吉で象徴するのはないだろうという反対はきっと出るが、過去は消すことが出来ないし、ちょんまげ時代が長かった日本はその姿を現在も提示し続けるのはいいことではないだろうか。聖徳太子が紙幣に印刷されるのであれば、なぜちょんまげの輸吉が駄目なのか。それはさておき、輸吉が写真を好んだことは、ヨーロッパの新しい芸術に関心があったことになるが、欧米の最先端のもの、そして日本にないものを吸収し、それを日本に輸入することで日本が欧米に肩を並べる存在になることを目指した。輸吉のこの「脱亜入欧」の考えは現在もいろいろと国内外で取り沙汰され、評価が定まっているとは言い難いが、今回の展示は当然輸吉の生涯の客観的説明に終始し、それ以上のことは各自が掘り下げればよいという立場であった。展示物の中では輸吉自筆の書が目立っていたが、書から人柄をうかがえるという立場を取るならば、輸吉の書はまさに全集を読まずともその肖像写真から感じられる人柄そのものだ。その書は禅僧のようなアクがなく、かと言って柔和を装った偽善者風でも全くなくてとても好感が持てたが、ほとんど直観に類するそうした見方は、欧米人にはわからず、また漢字圏以外のアジア人にもわからないもので、輸吉は日本の近代史にもまれて誤解されやすいかもしれない。
 輸吉の名前の由来だが、輸吉が生まれた天保5年(1835)12月12日に父親は清の書「上輸条例」を入手し、その喜びから題名の一字を用いた。その本が展示されていたが、金に困っても輸吉はそればかりは売り払わなかった。ついでに書くと、翌年に坂本竜馬が生まれている。輸吉の父は豊前の中津藩(現在の大分)の下級藩士で、大坂堂島浜、現在の福島区にあった藩の蔵屋敷に勤務し、輸吉はそこで生まれた。だが、わずか1歳半の時に父は世を去り、輸吉は中津に戻る。したがって大阪生まれとはいえ、ほとんど大阪人気質は身につかなかった。だが、兄が父と同じ大坂中津藩に努めていて、20歳の時に兄を頼って大坂に出る。江戸に行くつもりが、兄からとめられ、藩に居候しながら緒方洪庵の適塾に学ぶ。そして、兄はすぐに亡くなってしまい、輸吉は家督を継ぎ、適塾で学ぶしか将来が見えない状況に置かれる。適塾は蘭医学を学ぶところだが、貧しい輸吉は学費を支払えず、その代わりに西洋の築城に関する書物を翻訳するという条件を建前に適塾に住んだ。苦学生でしかもオランダ語を熱心に学ぶことがやがて欧米に実際に赴くことにつながる。大坂で生まれたことが結局適塾での学びとなり、それは輸吉の生涯の考えをかなり規定したのではないだろうか。大阪人気質というのは、かなり自由で独立したものだが、輸吉が戒名にも組み込んだ「独立自尊」の言葉は、筆者には大阪的なるものに思える。最も多感な時に適塾で学んだことは、その大阪的な気質が身に染みついたことであり、そういう観点から見れば、輸吉の合理的な精神というものも、欧米に学んだものというよりも、大阪人気質がそのまま出たものではないだろうか。輸吉がそのまま大坂にいれば、大坂の歴史も多少変わって学問の街となったかもしれないが、その後輸吉は江戸に行くようになる。そして、やがて慶應義塾を開くが、これは適塾での経験があってこそで、輸吉は大阪が生んだ才能と言ってよいのだ。あるいはそういう言い方に不満がある人もあろうから、九州を含んだ関西と言い換えてもよい。輸吉の新聞『時事新報』はどこかの政党に偏った論を載せるというものではなかったが、拡大展示されたその紙面を垣間見て宮武外骨を思い出した。外骨もまた東京で活躍はするが、代表的新聞は大阪で発刊し、また四国の人であったから、関西人なのだ。輸吉の声は残っていないが、きっとそれは関西訛で、そのように見ると1万円札の表情はどこか大阪の大きな問屋の旦那にも見えて来る。
 さて、兄を早く亡くしたことは、輸吉が体を大切にし、健康第一と考える後の行動につながるだろう。だが、そんなに健康に気を配って運動も欠かさなかった輸吉であるのに、60半ばの年齢で脳溢血が原因で死ぬのは、当時の平均寿命かもしれないが、そのような死を若い頃から予想もし、そのために健康に気を配っていたと考えることも出来る。健康に気を配り過ぎる人ほど病気になったり、早く死んだりする例は多く、輸吉もそうであったかもしれない。もうひとつこの青年時代に重要なことは、父が不遇のまま死んだことだ。父の遺した「上輸条例」を輸吉は生涯手離さなかった。展示の説明ではそれは原本ではなく、後の刷りと書かれていたが、それはさておいて、輸吉が父を思う気持ちはその後の輸吉の行動の大きな規範になったはずで、輸吉が父のように勉学を好む人間になったこと以外に、父の無念を思えば、それに何らかの形で報いるという覚悟を決めたと考えることは許されるだろう。どんな偉人でも、何かに邁進するその最初の契機に、個人的な思いがあるものだ。輸吉の父が不遇であったのは下級の藩士であったからだ。それはいくら勉学しても家柄が違えば出世の道は限られるという階級社会ゆえのことで、その背景には儒教がある。後の輸吉が教育者とはなっても、政治家とならなかったのは、幕府の政治をよく知っており、近代化の日本となっても政治の内情がわかっていたからであろう。とにかく輸吉は政治とは一線を引いたところに身を置き、教育に政治の介入を許さなかった。輸吉は、幕府の要人であった勝海舟が明治政府でも要職に就いたことを批判したが、そこにはうまく立ち回る人間を嫌う潔癖な性質が見て取れる。そういう輸吉であるから、地方の人物が選挙に資金をさんざん使って国会議員に当選し、議員になれば国費を使って宴会を開く現実を卑しいと思ったが、そういう醜い人間を多く見ることで、1万円札のような表情になって行ったか。ところで、輸吉が1万円札に登場する一方で、伊藤博文が千円札から消えたのは、日本もちょっとはましな方向に来ていると見ることが出来るが、先に書いたように、輸吉をある意味では伊藤博文と同格視するアジアないし知識人の見方もあって、輸吉論は今後はますますアジア規模、世界規模に発展して行く運命にある。
 輸吉が江戸に行ったのは三十歳頃に江戸の中津藩邸で開かれていた蘭学塾の講師になるためで、その塾が現在の慶応大学の創立年とされている。江戸に行った翌年、つまり安政6年(1859)に日本はアメリカと通商条約を結ぶ。横浜は外国人居留地区になっていたが、輸吉はオランダ語がそこでは通用しないことに衝撃を受ける。そして通商条約批准のために日本から使節団が渡米することになり、輸吉は勝海舟とともに咸臨丸に乗ってアメリカにわたる。現地で辞書を買い込んで、帰国語は英語を独学し始めるが、展覧会ではあるアメリカの本の対訳本が展示さていた。英語の文章の各単語の上に日本語訳を載せているのだが、それはまるで中学生が辞書片手に直訳したもので、苦労の跡がしのばれた。オランダ語を学ぶのでさえも大変なところに新たに英語を視野に入れたのだが、輸吉はは10代で漢文の書物を多く読破しており、語学のこつというものはよくわかっていた。その漢文の素養が今はすっかりなく、英語は会話から始めてそれで終わりというのがもっぱらの日本のムードだが、簡単な会話をするということだけのためではなく、外国の立派な専門書を深く理解するという目的が幕末の知識人にはあって、通訳はいわば馬鹿にされていたところがある。同じことは今でも言える。英語を学ぶと何十億人の人と話が出来るというが、同じ日本語をしゃべる人であっても、生涯出会うはずのない場所にいる人は多くいるから、肝心なのは日常会話が出来ることよりも、むしろ何か主張すべきことがあるかどうかだ。話を戻して、輸吉は今度は欧州の使節団に加わることが出来た。そして西洋の事情を見聞して来てそれを『西洋事情』という本に書いたところ、たちまちベストセラーになる。そこに書かれることが中国思想、つまりアジアから脱して欧に入るであったが、確かにこの140年ほど前の著作は日本のアジア蔑視の始まりであったと言うことが出来るかもしれない。だが、当時の輸吉の欧米を見た時の驚きからすれば、早く日本がそれに追いつかねば日本の将来は危ういと思ったのも当然ではないだろうか。だが、当時の中国も朝鮮も儒教に凝り固まったままで、自分たちが世界の中心という意識を捨て去ることが出来なかった。
 慶応義塾を設立した輸吉はそれを徳島や京都にも開設したが、学生が集まらず1年未満でそれを断念する。学校運営はとにかく多大の費用を要する。輸吉はその資金について生涯悩んだようだが、積極的に資金を援助して研究を助けたり、あるいは朝鮮から両班の子弟を多く日本に呼びよせて勉強させたりもした。韓国ドラマで馴染みの両班が被る帽子を被った民族衣装の100人程度の朝鮮の男子の集団写真が展示されていたが、朝鮮の近代化を思った輸吉は、朝鮮を蔑視し、日本だけが脱亜入欧をと考えたのではないことはそうした行為からも明らかではないだろうか。輸吉より10数歳年少の朝鮮の金玉均が輸吉に贈った書の掛軸や品物が展示されていたが、金玉均がいかに輸吉を尊敬し、その思想に共鳴していたかがよくわかる。だが、金玉均のあまりに開明的な思想は当時の朝鮮には受け入れられず、国賊と見なされて暗殺され、しかもその死骸が凌辱されて切り刻まれる刑を受ける。いかに朝鮮が儒教の古い思想でがんじがらめになり、世の中がどのように動いて行くかが予想出来なかったかがわかる。輸吉は朝鮮を併合することに反対であったと言われるが、それは併合してもあまりに前近代的な朝鮮であるため、日本が損をするという思いからであった。そのあたりのことが、輸吉が現在も韓国から批判され続ける理由になっているが、会場ではアジア諸国で翻訳されている輸吉の著作がかなり多く並べられていて、輸吉の評価はそうした著作を通じてまた変わって行くのではないかと思う。ともかく今は中国も韓国も近代化を果たし、日本が近代化を遂げる時に輸吉が海外を見聞して日本にもたらしたものを客観視出来るようになっていると思うが、この近代化は、当時の欧米の列強の動きを思えば、一歩間違えばアジア全体が植民地化されかねず、日本にしてもそう簡単に手に入ったものではなく、それなりに血を流した。日本は侵略戦争によってアジア諸国の人々から多くの血を奪ったが、輸吉はそうした戦争は政治家が始めたもので、国民も勝利を手放しで喜んでいることを快く思っていなかった。血を見たり、戦ったりすることが嫌いな輸吉ならばそれは当然だろう。輸吉は男女を同等とみなし、子ども男女合わせて9人あったが、全部が女子であってもかまわないと思っていた。その点は儒教精神とは大いに違っていたが、輸吉は儒教だけではなく、神仏にも関心がなかった。その意味で現在の日本人の最初の典型であったと言ってよいが、その儒仏や神の欠如が明治から現在に至る日本の発展にどのように関係し、またそれがよかったのか悪かったのかは一概に言えない問題で、輸吉は今後もさまざまに論じられる対象であろう。アジア全体が近代化を遂げた後、今度は何が重要になるかと言えば、聖徳太子の言った「和」か。輸吉は「独立自尊」の思いによって、心身の独立を全うし、人の品位を保つことを言った。これは、誰かに媚びへつらわず、金がないならないで我慢してやって行けばよいという意味にもなるが、日本は今後もそのようにやって行けるのかどうか。
by uuuzen | 2009-09-09 23:59 | ●展覧会SOON評SO ON
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