表現主義と言えば通常はドイツのそれを指す。20世紀の最初から第1次大戦頃に出現した芸術運動で、日本では明治末期から大正時代前半といった時期に相当する。

明治になって日本の芸術家が盛んに洋行するが、大正時代はそれが特に増え、欧米の最先端の芸術を体験して帰国する者が増える一方、先週このカテゴリーで取り上げたように、雑誌『白樺』によって、洋行せずとも海外の美術は写真図版やわずかな実物で知ることが出来た。そうなると、明治とは違って大正時代には一気に欧米との距離が狭まって、向こうで流行した画風や芸術様式がすぐに日本で咀嚼される事態が始まった。1920年代は欧米も日本も今とさほど変わらない都市文化が確立したが、芸術家には機械文明に反旗を翻す気分もあって、ドイツ表現主義のキルヒナーらのブリュッケはしばしば池辺に若い裸の女性という画題で描き、野性を思い起こさせるような行動に出た。ドイツ表現派の生々しい絵具の色合いやおおまかで激しい描き方は、いかにも「表現」という言葉がふさわしい、切羽詰まった意識を思わせるが、そうした若い世代の画家たちの情熱は、戦争体験が一方にあって、なおのこと真実味を帯びている。日本は大正時代に一気に西洋画を取り込んで、たとえば日本画家の冨田渓仙もドイツ表現派を学んだ跡があると言われるほどだが、大なり小なりどのような画家も新しい時代を感じて新しい表現を意識した。ドイツ表現派と同時代の日本の芸術のある傾向に見られる斬新な造形への試みが同時代感覚を共有するとみなして、「日本の表現主義」という言葉を適用して改めて大正時代の潮流をあらゆる造形分野から作品を集めて概観しようというのが今回の展覧会だが、これは去年の同じ兵庫県立美術館で開催された『南画って何だ! 近代の南画・日本のこころと美』とある意味では対をなす大きな企画展だ。このふたつの展覧会から見えるのは、ひとつは不況もあって、欧米から作品を借りるのではなく、ある一定の主題を設定して各美術館が所蔵する作品を横断して集めて合同の大規模展を開催するという資金節約的な思いと、また時代の変化に伴って、今まである面でしか見られなかった作品を、枠組みを見直して再定義しようという価値の積極的な再評価による。後者は美術史の再編成とでも言うべきもので、視点を変えればまた新たな魅力が作品が引き出せるという考えだ。芸術家はある時代を生きてその時代に則した作品を作りはするが、個々の芸術家はみなばらばらに思いを持って作品作りをしているから、時代で区切ってそれらの芸術家をまとめてしまうだけでは個々の芸術家の作品は決して見えない。ある芸術家は今を生きながら、数百年、あるいは千年以上前の別の国や風土で生まれた作品を敬愛し、それを製作の指針にしていることもあるから、美術史の再編成的な試みの方法はほとんど無限にある。そう考えると、大正時代に絞って、その時代に特に表現主義的な熱い表現をしたものをまとめて紹介しようという今回の方法は、まだ生ぬるく、ごくあたりまえと言えるかもしれない。企画展の趣旨もほとんどタネ切れして来ており、学芸員たちの苦労がしのばれる。
今回の展覧会でまず思ったのは、京都国立近代美術館が出来た時に開催された『京都の日本画 1910・1930』だ。同展で紹介された画家である岡本神草や稲垣仲静の作品が今回は並んだが、そうしてマイナーな作家の作品を見る機会は京都以外ではあまりなく、その点でもこの展覧会が他都市に巡回するのは大いに意味がある。同館の近くに星野画廊があって、同画廊主は『京都の日本画 1910・1930』に含まれるような、つまり京都の大正時代の日本画の表現派の、まだあまり評価されない画家たちの作品を収集して有名だが、そうした人々の地道な努力もあって、忘れかけられた京都の味のある日本画家たちの作品が少しずつ再評価されて来た。もうひとつ思い出すのは、この展覧会とほぼ同時期に京都国立近代美術館で開催された『京都学 前衛都市 モダニズムの京都展1895・1930』だ。同展についてはこのカテゴリーに書いたが、同展を記念して京都文化博物館の映像ホールでは1928年の日本の無声映画『十字路』が上映され、筆者はそれを見たが、その映画関連のチラシなどの資料が、今回の展覧会では第2章に展示されていたのが時機を得て興味深かった。つまり、各地の展覧会が関連してあたかも大正時代回顧のような形を取っており、100年を経ようとして、大正時代の芸術をあらゆる角度から再評価しようというのであろう。ともかく、そうした機運の延長上に今回はあまり有名ではなくても、迫力のある作品を作った作家たちを多く紹介しようということで、140作家、350点の展示となったが、当然展示替えがあった。図録を買わなかったが、会場で無料で配付された作品名を列挙した目録が幸い手元にある。それを見ながら以下書いて行こう。会場は4つの章に分けられた。まず、「予兆」というコーナーだが、これは大正時代の動向を用意した明治の先人の仕事で、洋画の黒田清輝、版画として藤島武二、石井柏亭など、そして工芸では広川末五郎、建築の後藤慶二が選ばれたが、版画、工芸、建築はそれぞれ専門の分野の仕事ではなく、この章では本の装丁画や挿絵としての紹介だ。広川末五郎は筆者は80年代から作品を見て注目している作家だが、富山でふたり展の形で一度回顧展が開催されたことがあるだけで、まだ本格的にその全貌が広く紹介されてはいない。広川に注目したのは、友禅染作家であるからだが、そのデザイン感覚は全く洒落ていて素晴らしい。現在に至るまで彼を凌駕した意匠力のある友禅作家は存在しないと言ってよい。更紗を規範にしながら、それを独特の個性で変容した才能は、大正モダンという言葉だけでは片づけられないものを持っており、同じ意匠感覚を本の装丁などのデザインにも発揮した。一目で彼の作品とわかるその個性はもっと評価されるべきだが、柳宗悦の民藝に関係せず、また京都の呉服業界にも関係しない形で主に関東でよく知られた作家であるため、今回のような展覧会の切り口でなければなかなか取り上げにくい。たまに1、2点の作品が何かの拍子に展覧会に混ぜられて展示されるが、いわば今回もそれと似た扱いだ。話を戻すと、この展覧会は「予兆」に継いで2「表現1;生命主義」、3「表現2;影響と呼応」、3「表現3;生活」と分けられ、そのうち2が全体の9割以上を占めているが、広川の作品は3の工芸にも3点出品された。その3では似た仕事をした作家として藤井達吉を取り上げていたが、藤井の作品は広川の華麗で洒落たものとは全く違って、もっと土臭い感じのもので、意匠力の冴えはあまり感じない。そのほかに3で取り上げらた工芸家は京都で活躍した陶芸家が中心であるから、平面作品の作家のい筆頭として広川が位置づけられた格好で、これは筆者には嬉しい取り上げ方であった。これを機会に広川の大規模な回顧展の開催となればいいと思う。
さて、やはり表現主義となれば、どうしてもドイツのそれのように激しい画面を思い浮かべてしまうし、実際そういう形容にぴったりの画家が日本にはいた。彼らはドイツ表現主義を知っていたのではなく、また知っていたとしてもそれに大きな影響を受けずに、同時代的感覚によって、精神のほとばしりを表現する術を持っていたと見るべきだろう。その意味で、またそれを狭く捉えた意味で、多少絵画に詳しい人々が想起するのは、日本画では甲斐庄楠音であり、洋画では村山槐多であろう。どちらも当然取り上げられたが、そのほかに2に含まれた作家は、前回の『白樺派』で紹介した山脇信徳を初め、岸田劉生、河野通勢、木村荘八、関根正二、萬鉄五郎、秦テルヲなどで、また版画では恩地孝四郎、富本憲吉、長谷川潔、藤森静雄、田中恭吉などがいた。恩地孝四郎や長谷川潔は藤森静雄や田中恭吉とは全く違う表現をしたので、前者を表現主義に含めるにはやや抵抗があるが、後者を紹介してより有名で多くの仕事をした前者を紹介しないわけには行かないので、これは「日本の表現主義」という範疇の曖昧さを物語るとも言える。美術展となると、どうしても洋画や日本画を真先に思いがちであるし、またそれを中心にしなければ観客動員は見込めないので、どうしても外せない。そのため、今回も絵画が中心になったが、そのほとんどは今までにさんざん別の切り口で紹介されたものであり、珍しい作品はほとんどなかったと言ってよい。その中で2で取り上げられた牧野虎雄の「花苑」は初めて見る絵であった。1890年生まれで1946年没、日本的洋画を目指したと説明にあったが、画面を植物で埋め尽くして印象深い。2では作品の半数が木版画が占めたが、それらはドイツ表現派の影響が大きいだろう。よく知る長谷川潔にしても、今回は珍しい作品が選ばれいてた。3ではフランツ・マルクやペヒシュタインの版画が紹介され、これは「日本の表現主義」を理解するのに、やはりドイツのそれが無視出来ないことをよく意味しているだろう。また、2ではよく知られる洋画や日本画、版画だけではなく、彫刻や写真も含んでいたが、その多角性は3ではもっと拡大する。学芸員にすれば、見慣れた絵画だけではなく、本当はそうしたものをこそ見てほしいという思いがあったのではないだろうか。そのため図録は価値があるが、筆者は中身を全く見ることもなかった。
写真に関しては、目下京都国立近代美術館が『野島康三展』を開催中で、やはり大正時代の写真家を今後積極的に評価して行こうとの機運が見られる。野島は富本憲吉や同時代の彫刻家とも深く関係し、また多くの仕事を残したが、日本の写真の歴史にあまり詳しくない人でなければ名前を知ることがない写真家が今回は多く紹介された。それは3のコーナーであったが、そのほとんどは筆者は初めて見る作品ではなかったと思う。ここに名を列挙しないが、20名が取り上げられた。どれも野島の写真と同様、ピンホール・カメラで撮影したかのような、どこか幻想味を帯びたソフトな写りで、絵画として、また絵画との関係において見ると面白い。だが、そうした静物画を意識したようなものばかりではなく、記録写真と呼ぶべきものもあった。野島の写真もそうだが、当時の写真はやはり欧米の写真の影響を受けたし、それは建築の分野では特に言えるだろう。「写真」の次にはその「建築」が展示されていたが、模型と実物写真によって大正時代の京都や東京の建築のいくつかが紹介された。現在も残るものもあれば残らないものもあるが、大体は曲線を特徴的に使用するもので、映画『スター・ウォーズ』に登場するダース・ヴェイダーの頭部を思い起こさせ、現在の直方体の味気ない合理的一辺倒のビルとは全く違う力と熱がこもる。そうした建築もまた専門家以外にはなかなか関心がないが、こうした企画に含まれることで時代性がより浮き彫りにされ、同時代の洋画や日本画を別の面から見つめ直す機会が生まれるだろう。「建築」の次に「舞踊・舞台関係」の資料が展示された。これもまた専門的だが、たとえば先に触れた映画『十字路』では、その映画の題名が独特の飾り文字としてデザインされており、それは当時の日本のみが生んだ卓抜な文字デザインで、ここに書いておきたい。それは誰もがどこかで見てよく知っている書体だが、実際は誰が初めて考え出したかがわからない。『京都学 前衛都市 モダニズムの京都展 1895・1930』ではマキノ映画のポスターなどの資料が多く展示されて、その際『十字路』に用いられるのと同じレタリングによる数多い映画のタイトルなどを見ることが出来た。先の建築と同じく、そうした手描きによる複雑な文字デザインは、コンピュータ時代の現在になっても自由に誰もが扱うことになっておらず、むしろ書体の発明はこの100年は衰退の一途を辿ったと言える。パソコンに使用される書体が固定化されることで、なおさら日本では新しい書体を生涯賭けて生み出そうという人物は輩出しなくなる。それを思えば、大正時代は漢字ひとつとっても、今までにはない新時代にかなった書体を作り出そうとし、また成果を充分見た。現在のデザイナーはそれを模倣しようというのだけではなく、模倣から進んでもっと時代を画すべき堂々たる新書体を生み出すべきだが、その機運はいっこうに見られないようだ。そう思えば大正時代の日本の大都市のモダンさは、現在のそれとは比較にならないほど人々に創造の力があり、またそれを受容する熱気が大衆にもあった。それを「日本の表現主義」と呼ぶのは、まさにそうとしか言えないと思える。どんな造形も表現には変わりがないが、それをあえて表現と呼ぶのは、その密度が飛び抜けて高いからだ。そういう真の意味での表現主義を日本が時代の潮流として生み出すことはもう今後は望めないのだろう。停滞し切った後にまた躍動すべき季節が巡って来るのは道理だが、日本の停滞はいつまで続くか。