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●『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』
気あるいは疾患と言うべきか、生まれながらにして老化が早い遺伝病がある。日本のTVがそういう女の子をずっと取材して、たまに特集番組をやっていたが、最近亡くなったというニュースがあった。



●『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』_d0053294_15393381.jpg何十万人にひとりだったか、そういう割合ならば日本でもありそうだが、取材拒否を受けているのか、ともかく日本のTV局は外国まで行ってそういう子どもの人生を追っていた。以前『おにおにっ記』に冗談で書いたことに、地球の自転がたまに逆方向になると、春夏秋冬の順序が出鱈目になって、服を着替えるのにややこしくてかなわないというのがあった。地球の自転が反対方向になっても時間が逆戻りすることはないが、録音や録画テープなるものを人類が発見した時から、時間を遡るという想像がより実感を伴った。そして、そういうことは小説よりも映像を誰にでも共通して見せる映画が得意とするもので、映画の始まりから特殊撮影は試みられた。デジタル時代になるとそれがなお現実的に見えるような映像処理が盛んに駆使され、新技術を争う会社が出現することになった。今のアメリカの映画産業はもっぱらそうした特殊技術に負って、どうにか映画先進国としての自負を保っていると言ってよい。だが、前にも書いたと思うが、そうした特殊な映像効果は最初から作り事であることがわかって見るので、迫力がいかに誇張されても、心のどこかが覚めていて、楽しめない。その点、非日常的な本当の出来事を撮影した映像の方がはるかに衝撃が強く、TVではそうした映像ばかりを集めて、衝撃云々といったタイトルで番組がよく作られる。それらは事件や事故、あるいはそれギリギリの出来事をたまたま撮影したものだが、現在のようにネット上に素人が撮影した映像を簡単に投稿出来る時代となると、どんなものでもとにかく見たい、見せたいという欲求が高まり、そのために映像を加工してまで現実らしく見せることも行なわれる。一般人が投稿した映像なので、まさか加工はないだろうと思っていると、時代は一般人も本物と区別がつきがたい特殊な映像効果を施すようになっている。そうなると、何が本当でそうでないかがわからず、映像はますます信頼のおけないものになるが、一旦何事も見ることで実感したいと思った人類は、今後も映像から離れることはない。今急に思い出したが、昨夜見た夢のひとつに、ある人物が生きて喋っている映像と、その人物が亡くなって棺桶に入っている映像がふたつ並んで同時に映し出されているものがあった。その夢を見ながら、生きていることと死んでいることの等価値を思い、今生きている人は必ず死ぬが、死ぬということは生きているからであって、死ぬことは不思議だが、生きていることはもっと不思議なことだなと感じた。なぜそんな夢を見たかだが、つい先日の18日に祇園会館で見たアメリカ映画2本のうち、よかった方の『ベンジャミン・バトン』について書いておこうと思っていたからだろう。
 この映画を見る気になったのは、先週だったか、たまたまTVを見ていると、数年前に亡くなった俳優の三橋達也の息子がアメリカにわたり、コンピュータ・グラフィックスの技術を学んで、映画の特殊映像処理で腕を上げて有名になっているという話があり、その彼が手がけた近作が『ベンジャミン・バトン』であったからだ。その技術とは、主演のブラッド・ピットの顔をデータ処理して、ピットの赤ん坊あるいは老人の顔を作り出し、それを別の役者が演じるのを撮影したフィルム上に部分的に貼りつけて、幼いピットや老人のピットが実際に動いているように見せるものだ。似た技術は以前からあったが、彼が開発した新しい技術は、その作り出した顔にどの方向からでも光を自在に当てることが出来るもので、画面が全く不自然でないように処理出来る。同番組では多少映画のそうした部分が映ったが、確かに気味悪いほどにブラッド・ピットが老人になったり赤ちゃんになっていたので、これは映画を見ておかねばならないと考えたのだ。ところで、ピット自身はそうした自分の加工された姿を見てどのように思ったのだろう。ピットは今何歳か知らないが、『ベンジャミン・バトン』では老人と赤ん坊だけではなく、中年から青年の姿まで登場し、そのいったいどれが現在のピットなのか、とても奇妙な感覚に襲われ、それはちょうど夢を見ているのに似ていると思った。化粧で多少若作りをしたり、また老けることも出来るが、ピットの20代や60代の姿がコンピュータを使って画像加工したものでないとすれば、ピットの演じ方は完璧であったと言ってよい。話が少し先走りするが、通常で言えば20歳くらいの肉体を持ったピットすなわちベンジャミンが、バックパッカー姿でインド旅行するシーンがあった。それはどう見ても大学生のピットであったが、それをどのようにして撮影したのだろうか。その場面のみは映像が荒れて、いかにも60年代末期風の映像に見えたが、おそらくそれも計算してのことだ。この映画はアメリカの20世紀をずっと順に描き続け、その時々の顕著な出来事に対応させてベンジャミンを動かせるが、20世紀は映像の歴史でもあったから、この映画では全く親切なことに、そうした映像の進化をそのままいくつもの挿入場面で表現していた。つまりインド旅行のベンジャミンは、『ウッドストック』の映像と同じように見えたのは、映像の質からよりベンジャミンの置かれた時代を表現しようとの監督の思いだ。もちろんそうした時代性の表現はファッションや化粧、インテリアなどでもっぱら見せるのだが、それだけにはとどまらない映像の質というものをこの映画は考えていた。話を戻して、ベンジャミンのインド場面は、60年代に撮影したインドを映像に、若いピットを画像加工して嵌め込んだものかもしれないが、とにかくどの映像も真実らしくてまた作りものめいた、ある意味ではとても気味が悪かった。つまり、それほどに現在の映画は、実際は存在しない生々しい映像を作り出すことが出来る。だが、このことは撮影、録画という技術が登場した時にすでに予想されたもので、それを人類は実現して来ているに過ぎない。そして、それは実際の物体として眼前にあるのではなく、あくまでも影のような投射映像の中で実現される世界であるので、何も不安を抱くことはないのだが、眠っている間に見る夢がしばしば現実化するのではないかという不安をよく知る人間は、自分たちが作り出した映像が現実化するのではという思いにもまたかられることはあるだろう。
 この映画のタイトルにある「バトン」は、日本語で言う「ボタン」のことだ。映画の最初のタイトル・バックにはさまざまなボタンが画面いっぱいに散らされ、そこに映画会社のロゴが隠し絵のように表現されたから、映画はてっきりボタンに深く関係するものだとばかり思ったが、案外そうでもなく、ボタンはほとんど重要な要素ではなかった。粗筋を言えば、20世紀最初の頃のアメリカのとある大きなボタン会社の社長夫妻に息子が誕生する。だが、妻はすぐに死に、夫は生まれたばかりの赤ちゃんを家の外に連れ出し、ある養護施設の階段に置き去りにする。若い黒人女性に拾われたその赤ちゃんはその施設ですくすく育つが、生まれた時から老人特有の病気をいろいろ患っており、しかも顔や体は小さいながら80歳の老人そのものであった。ベンジャミンと名づけられた赤ちゃんは老眼鏡に松葉杖姿で幼少時代を過ごすが、年齢を重ねるごとに若返る。10歳頃のこと、感謝祭であるデイジーという名の女の子と出会い、お互い意識する。ふたりは、青年期は若さゆえにお互い別の世界に進んで生活をエンジョイし、また数十年も経って出会い、結局老婆となったデイジーは赤ん坊になって、記憶も何もかも失ったベンジャミンを看取る。だが、映画はもう少し複雑に物語を組み込む。壮年時代にベンジャミンに出会ったデイジーはベンジャミンの子を宿し、それをデイジーはずっとその子が大きくなっても伝えずにいたが、病床でもう息を引き取るという時に、娘つまりベンジャミンとの間の子に、昔からつけていた日記を見せることで、娘の父がベンジャミンであることを告げる。なぜそれまで娘にベンジャミンが父親であることを言わなかったかだが、デイジーは若返り続けるベンジャミンとではなく、自分と同じように老いる男性との結婚を選んだのだ。老人として生まれ、赤ん坊として死ぬという荒唐無稽な話からして、筆者は最初漫画のような喜劇かと思ったが、実際はそうではなく、大人の苦みと快楽を描いた、なかなかの秀作であった。原作はスコット・フィッツジェラルドの短編らしいが、彼の小説の映画化は『華麗なるギャツビー』を知っている程度で、それから予想される映像や男女関係は酷似している部分が多いが、老人として生まれ、赤ん坊として死ぬという小説を彼が書いたのであれば、これは本格的に読む必要があるなとも思う。ネットで調べると、この小説は1970年代にスピルバーグ監督が映画化を考えたらしい。だが、当時の特殊撮影技術では映像化は困難であったという。そして90年代にはトム・クルーズを使ってまた映画化が考えられたが、やはり頓挫した。先に書いたように三橋達也の息子の技術があってようやく実現したが、確か1秒単位で物凄い金額を要したそうで、それほどの資金を投入するだけの価値がピットの赤ん坊と老人の時代の部分にはあった。だが、エンドロールを見てもそういう特殊技術を駆使しましたとは大きく謳っていないようで、そのさり気ないところが好感が持てる。このような特撮効果の使い方が今後はもっと多くなるはずで、おそらく筆者が予想したように、たとえばマリリン・モンローが現代の俳優と共演するといった映画もやがて作られるだろう。そうなった時、何が最も大切と思われているかと言えば、一時代を画した他には代えられない個性だ。マリリンより魅力的な女性が大量に出現するなら話は別だろうが、そうでない現実を見れば、マリリンを画面上に新たな動きで蘇らせたいと人々は考えるだろうし、映画ビジネスは算盤を弾いて、ではコンピュータを使ってリアルにそれを出現させましょうということになる。
 ベンジャミンの父は地元では代々続く有名なボタン会社だが、ますます若返るベンジャミンをたまに陰で見ながら、ついに自分の死期が間近に迫ったある日、全財産をベンジャミンに譲る。ベンジャミンはそれを得て大金持ちになるが、会社経営に興味はなく、それをさっさと売り払って、放浪の旅に出る。船員になって世界を巡り、戦争を体験したり、また年配の女性と毎夜性交渉を持つなど、人並みにさまざまな人生経験をする。この青年時代の放浪場面が映画の中核を成していて、娯楽作品とは見応えがある。特に驚いたのは、小さな船が戦争のために徴用され、夜の海の真っ直中で、ドイツの浮上した潜水艦と銃撃戦を行なう場面だ。一直線に飛び込んで、るいは飛び立つ銃弾のオレンジ色の破線の跡は、あまりにリアルで、戦争映画もここまで特殊撮影技術が使えるようになっているのだなと何だかわくわくした。一方のデイジーだが、ダンサーを目指し、アメリカ女性では初めてボリショイのバレエ団に入るなど、またダンサー仲間の男性と楽しい享楽の日々を過ごすなど、自分の夢を叶えながら絶頂の青春を送る。だが、ある日のことパリにいたデイジーは自動車に接触して足をひどく骨折し、ダンサーの夢を絶たれる。この場面は先の戦争場面と同様、ひとつのブロックとして独立させ得る撮り方と場面の組み立て方で、しいて言えば推理映画でよく使用される手法によっている。つまり、この映画はいくつもの顔を持った独立しながら関連した小作品を多く並べた構成をしている。さて、事故に遇ったデイジーは病床にあり、ベンジャミンは見舞いに訪れる。ちょうどその頃はお互い40歳で、やや老けた様子のデイジーはベッドの傍らに立つベンジャミンを見て「パーフェクト」と呟く。この一言が実に印象深い場面で、正直な話、筆者が最も記憶するのはその場面だ。女性から「完璧だわ」と呟かれる男性のそういう時期はごくわずかだと思うが、それは言い換えれば文句のつけようのないほどにセクシーだということであり、人間は結局肉体を離して考えることが出来ないものと捉えるそういう女性の表現もまたセクシーで、そういうセクシーさをこそ、アメリカ映画は描くことに躍起になって来たと思う。そして、この映画もまさにそこをよく押さえていることが面白い。実際40歳のベンジャミンは遺産を手にし、また航海生活を経て肉体も逞しくなり、惨めなデイジーにはなおさらそれは完璧な男の姿に見えたのだ。そして、デイジーは自分はますます老いて行くのに、ベンジャミンが若返って行くことにうらやましさも感じている。
 こうして書いていると面白い、そして印象深いシーンがいつくも思い浮かぶが、この映画がいかにも現在の作品であると感じさせるのは、ある壮大なドラマを一本筋を通して写実的に描くという立場にはなく、基本的にはそうであっても、随所に異質な場面を挟むことで、多彩を面を持つ万華鏡のような作品としていることだ。それはとりとめのないという欠点になりかねないが、筆者はそれとは反対に、ちょうど食べ放題のビュッフェのように、気軽に好みの場面を味わえばよいものと思えた。つまり、さまざまな仕組みが凝らされていて、その仕組み全体を味わうと同時に、ひとつずつの細部を各自が楽しめばよいという作り方がなされ、それは押しつけがましくなく、いかにも忙しい現代人向きの映画なのだ。赤ん坊が老人として生まれて来る筋立てにしても、全くの荒唐無稽とは言えず、ひとつの象徴と捉えるべきだ。赤ん坊は生まれ立てはしわくちゃの老人さながらであるし、また死ぬ間際の高齢の老人はまるで赤ん坊のようにおとなしく、記憶の多くを失っている。そういう事実を改めて思えば、この映画はごくまともな人生劇場をテーマにしたもので、人間は生まれて恋をし、あちこち移動したり、いろいろな人と関係を持ち、そしてやがて動けなくなって死んで行くということをごく平均的に描写したものに過ぎないことを再確認させる。映画の中でベンジャミンが語っていたと思うが、ひとりの人間が幼年から少年,青年と順次変化して行くことは、そういう各段階に自分が進んで移動するのではなく、そういう新しい世代(段階)が別の場所からすっとやって来て、自分がそれにそっくり自動的にはまってしまうという感覚に近い。同じことは筆者も以前に書いたので、なおさらこの映画は人生というものをよく知った人物が見れば楽しいだろうと思う。
 若返るベンジャミンは乗りになり、その船長から売春宿に連れて行ってもらって童貞を失う。その時ベンジャミンは生まれて20年ほどで、60歳の老人であったが、売春婦はベンジャミンが初老であるにもかかわらず、20歳の精力を持っていることに驚き、あまりの激しい腰の動かし方にベッドの上で悲鳴を上げるという場面があった。そういう笑いもまた大人向きだが、船乗りになっている間、ロシアのペテルブルグだったろうか、あるホテルで毎夜金持ちの妻と逢瀬を楽しむといったシーン、またデイジーと再開するまでに何人かの女性は遊んだといった短い場面の連続など、たいていの男性なら似たような女性遍歴をするはずで、感情移入はたやすい。またベンジャミンは遺産を食い潰す形で放浪するのだが、そういう生き方もまた清々しくてよい。これが父の工場を継いで、家業をそのまま反映させたでは、全く小説にも映画にもならない。お金に執着しないベンジャミンの生き方が格好よく、そしてそういうベンジャミンが老いて記憶を失った少年、そして赤ん坊になってデイジーに保護されるシーンは、悲惨な人間の末路を思わせるが、人間は老いればみな大なり小なりそれと同じになるのであって、であるから、若い頃に思い切り人生を謳歌しようというわけだ。先に書いたように、この映画はベンジャミンやデイジーという人物の生涯を一貫して描きながら、各世代ごとの出来事は、どんな人にも起こり得るものといった描き方をしているので、映画全体が面白いというよりもむしろある場面が特に印象に残る。それはもちろんどんな映画でもあてはまることだが、人間の各世代は、ひとりが連続して経験するにもかかわらず、やはりそこには世代特有の様相があって、そうした様相を次から次へと着替えるようにして人生を過ごすということを実感するのは、ある程度年齢を経てからだ。格好いい完璧なベンジャミンがいて、何もかも忘れて惨めに死んで行くベンジャミンがいるが、壮年時代のベンジャミンとデイジーが人生を楽しんだように、映画を見たあなたも人生を受け入れなさいと言うわけだろう。この映画を楽しめない人は、人生への冒険が足りない。
by uuuzen | 2009-08-22 23:59 | ●その他の映画など
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