精力的に展覧会はよく見る。今年はもう60回を越えた。その全部の感想をこのカテゴリーに書くことが出来ないのは、長文をと思っているからで、長文を書く時間よりも、長文にするほど考える時間がない。
その長文とは原稿用紙で15枚ほどで、いつも一気に書くのでさほど時間を要さないが、展覧会の内容が面白くないのではなく、図録などの資料がないと正確に書きにくい場合が多く、取り上げるのをつい躊躇してしまう。そのため、気になりつつも書かないで済ますものが多いが、今回は今京都国立近代美術館で開催中の展覧会を取り上げる。展覧会を見た直後に知ったが、アニメーション作家のウィリアム・ケントリッジは4日に京都会館で講義とパフォーマンスをしたらしい。それを知らなかったどころか、筆者はこの展覧会の会場を訪れるまで、ケントリッジがどういう作品を作るのかも知識がなかった。展示内容をよく味わうには前知識があった方がいいが、会場でドキリとする方がよく記憶に残る。ずぼらな筆者はそれを理由に前知識なしで出かける。だが、前知識のない展覧会は珍しい。筆者のような年齢になると、行く展覧会の95パーセントほどはどういう内容かよく想像出来るから、わざわざ見るまでもないと思うことも少なくないが、家にくすぶっていても運動不足になるので、散歩、気晴らしがてらに展覧会に訪れる。そしてその何分の一かはこうして感想を書いておくが、書いた尻から忘れているので、頭の運動にはなっていないだろう。と、こんな枕から始めて気がついたが、ケントリッジの作品もある意味では筆者のこうした文章に似ているところがあるかもしれない。「歩きながら歴史を考える」という副題はえらく高尚な感じがして、考現学に関係している雰囲気があるが、実際そのとおりだ。筆者なら「歴史を」を省いた「歩きながら考える」というのがふさわしく、貫祿が違う。だが、「歩きながら考える」は目的語が欠けて、外国人には理解しにくい表現かもしれない。その目的語の欠如が、きわめて今日的で日本的なところと思うが、ケントリッジの作品はもっと問題意識を明確化させ、何をどう表現するかをよく知ったうえでのものだ。その問題意識は「歴史」という大きな言葉が適用出来るもので、ケントリッジがいったいどういう歴史を作品化したいと思っているかは、会場を訪れて作品に接することでわかる。いや、正確に言えばはっきりとはわからないが、どういうことを表現したがっているかはわかる。
まず、ケントリッジは名前からイギリス人かと思っていたが、「イギリス」と「歴史」を結びつけてどんな現代美術が可能なのか、それが会場を訪れる前に筆者はぼんやりと不思議だなと思っていた。ところがケントリッジは南アフリカ共和国生まれだ。ならば、一気にその「歴史」の意味はわかるというものだ。だが、確かに南アフリカ共和国で、ケントリッジのような白人が大勢の黒人をこき使って贅沢な暮らしをし続け、それがマンデラ首相の登場によってどう変化したかといったことは、NHKでよく放送されたアパルトヘイト関係の特集番組を見ておおよそわかるが、その「わかる」は温度的にはかなり低いだろう。つまり、本国人でない限り、なかなかそれはわかりにくいし、また感情移入しにくい。日本でも現代美術は盛んだが、政治や歴史、時事問題に肉薄した作品化を目指す人はごく稀か、いたとしてもマス・メディアは無視する。日本はそういう問題に対して自粛するムードが歴史的に根強く、その点において今回のケントリッジ展がどのように評判になるのか、あるいはならないのか別の興味も湧く。会場は若い人が多かったが、南アフリカの歴史に関心がある人はほとんどいないであろうし、もっぱら政治色抜きで、単なるアニメーションや絵画の造形面で評価しようという人が大勢を占めたのではないだろうか。だが、ケントリッジの作品が日本では誤解されるとは思えない。充分にそれは同調されるものであると思えるが、同調して同じ政治的あるいは歴史的観点で日本を見つめ、そこに自分の表現領域を定める若い芸術家は稀と思える。それは、そんなことをしても食べて行くことが出来ないという理由からではなく、本当は格好いいことが格好悪いと思う屈折した態度による。だが、日本の芸術家がケントリッジのように政治的歴史的な立場を取らないと言ってしまうのはあまりに紋きりであって、日本は日本なりの方法による主張があると言い換えるべきかもしれない。それはケントリッジの作品を見ていると、自国の歴史をいろいろとアニメ作品として表現しているとしても、そこは団体でデモをするという単純で明確な意思の表現、行動とは違って、やはり芸術家であるから、もっと象徴的で、あくまでも鑑賞作品として自立した創作を目指したもので、また国家といった大きな正体不明の何かを槍玉に挙げるのではなく、個人の内面に入り込んでそこから自国の歴史を垣間見るという態度に貫かれているように見えた。その態度は日本の作家とさほど差がないと言う人もあろうし、やはり大きな差があると言う人もあるはずで、ケントリッジの作品に接することは、日本を客観的に見ることにつながって、多いによいことに思う。結論から言えば、ケントリッジのような、日本にはまずいない作家をどんどんと国立の美術館は紹介すべきで、わかるわからないは別として、誰しも大きな刺激を受けることは間違いがない。その刺激は「ああ面白かった」といった単純に割り切れるものではなく、妙に澱となって心の底に染みつく何かで、正確に書くことが出来ないのは承知のうえで、そういう体験をしたことをここに書き留めておきたいと思う。
ケントリッジは1955年にヨハネスブルグに生まれた。同市の大学で政治学を学んだというから、そこからも彼の作品の本質が見える。同大学の後はパリに出て演劇を学んだが、俳優としては成功せず、1980年末から素描をコマ取りしたアニメ・フィルムを製作、発表し始める。演劇を学んだ経験は、そうしたアニメ作品によく反映されていて、本人が登場するものが少なからずある。アニメ作家となったのは年齢的には遅いし、しかも芸術系の大学を出ていないにもかかわらず、この世界的評価は驚く。そういうことは日本では絶対にあり得ない。日本では自由を標榜するはずの芸術でも学歴を持つものが顔を利かせ、そうでない者を侮る。そしてたまにそうでない者が有名になると、こぞって陰で悪口を言うか、無視を決め込む。日本では大きな意味の芸術は育たない。それは学歴をつけ、生活を安定させ、また有名にもなるということを成功と思い込む小さな精神ゆえのことだが、その点でケントリッジがこつこつした地味な作業で、売れるかどうかわからないアニメを何年にもわかって作り続けていることにまず脱帽すべきだろう。1997年頃から各国の大規模展で作品が注目され始め、今回の展覧会は3年越しで美術館と話し合って実現したものだが、日本が真先に見出したのではなく、海外で有名になったのをコンタクトしたから、そこには日本の美術館が海外に遅れを取ってはならないという思いが反映しているように思える。素描のコマ取りアニメは日本の若手にも例がある。去年同じ館で開催された『エッセンシャル・ドローイング』では、辻直之だったろうか、名古屋市美術館が確か映像権を所蔵している白黒の同じ手法の白黒の木炭を使用して描いたアニメが上映された。そのアニメについてこのカテゴリーで少し書いた覚えもあるが、とても印象に残る作品で、いかにも日本的なところが面白かった。その日本的という意味は、先に書いたように、政治や歴史とは無縁の、閉ざされた個人の内面だけを覗き込んだ、エロティックで「かわいい」感じのものだ。取るに足らない夢物語と言えば全くそうなのだが、夢的という点はケントリッジの作品もそうだ。また、辻のそれは日本の大量に描かれている娯楽マンガにきわめてよく似たもので、ケントリッジの意図するものとは対極にあると言えるが、ケントリッジの作品もまた社会告発といった側面だけでは割り切れない、鑑賞に耐える作品をあくまで前提としている点で、そうした日本のアニメに通ずるところがある。それはいいとして、ケントリッジのアニメは、最初に素描があって、それを描き直している間に、もっと動かして変化をつけ、ひとつの物語に拡大しようとしたものだろう。素描は素早く出来るが、それを何十分かのアニメに拡大するには膨大な時間を要し、その間に最初の素描を描いた時の思いは醗酵変化し、そのことがつまり「歩きながら歴史を考える」という表現なのだろう。アニメは「走り」だが、それを作るのは「歩き」なのだ。最初にアニメ全体の物語の流れを決めておいたとしても、おそらく途中で変更があるに違いない。そこが商業的アニメ作品と違って芸術的なところで、筆者に日本の商業アニメ映画がいくら世間で評判はよくても、全く時間の無駄と思って見る気がしない。それがいかに思想的に深いものを持っているかと宣伝されても、そういう思想を持っている者が商業アニメを表現媒体に選ぶだろうかと思う。
ケントリッジは素描や絵画の腕をいつどういう形で磨いたのだろう。木炭で描く素描の一部を描き変え、それを順次コマ撮りしてアニメを作るには膨大な時間を要するが、そのアニメをより面白くしているのは見事にシンクロした音楽が添えられることだ。その音楽はアニメの動きに応じて効果音を挿入したもので、映像を見ながら作曲したのか、あるいは音楽が最初にあって映像を作ったものだろうか。デューク・エリントンの音楽を使用した作品があったから、後者と思えるが、既存の曲ばかりを使用するのではなく、フィリップ・ミラーという作曲家と手を組んで、アニメ用に作曲してもらっている。今回の展示の最初の作品として、正面の階段を上がって中2階踊り場にパソコンが1台置いてあった。そこで5分程度の実写と素描を合成したカラーのアニメが上映されていたが、音楽はザッパの「ウトサイド・ナウ」のミニマル音楽的リフに似た、静かでゆったりとした、またどこうメランコリックなメロディが始終奏でられていて、それがなかなかよかった。フィリップ・ミラーのCDがあればその音楽をもっとよい音で聴くことが出来るが、アマゾンで調べたが発売されていない。会場は最初はほとんどモノクロの素描ばかりが展示され、しかもそれらは人物が描かれてはいるが、タイトルと照らしても意味不明であった。だが、それは次の大きな暗い部屋に入ると氷解する。その部屋では、壁面をスクリーン代わりに大画面の映像が5つ同時に上映されていて、鑑賞者はそれらの画面の前の床に座って適当にある画面を見つめるようになっていたが、そこに映し出されるアニメの原画が最初の部屋の素描群なのだ。まず部屋に入る前にヘッドフォンを各自手わたされるが、ダイアルに5つの数字があって、その5つは画面の5つに対応している。つまり、ある画面を見る時に、その画面の端に小さく記されている数字と同じ数字にダイアルを合わせて聴くと、映像と音楽がシンクロしていて、途中から見てもその画面にぴたりと応じた音が聞こえる。映像はエンドレスで映し出され、しかも5画面が同時上映で、どれを最初に見ていいのか戸惑うが、仮に1番の映像から順に見ても、物語の途中から見て一旦終わってまたその途中まで見てようやく全部ということになるので、理解がなかなか及びにくい。セリフがあるのではなく、たまに文字が映し出されて物語の背景を簡単に説明してくれるが、商業アニメとは違って、ケントリッジはアニメ製作過程で自動筆記のように内容を予期せぬ方向に変容させることもあったろうし、その作品は理解を求めるというものではなく、鑑賞者に自由に感じ取ってほしいというものとなっているから、ある意味では、理解しようと努力する必要はなく、その自分だけに届く音と、眼前に広がる大きな画面を見て、その状態に一時身を置くことだけでよいと言える。それで、1番をともかく全部見た次に2番に移ると、それがまた途中から見ることになって、全部見るのにまた時間を要する。映像はひとつがだいたい20分までだったと思うが、俳優が演ずる映像ではなく、次にどう画面が展開するかわからないアニメを注視するのはかなり疲れる。そして、ややこしいことに、画面の数字が順に並んでおらず、3と4が場所的に入れ代わっているので、3の画面を見ながら4の音楽を聴く羽目になった。途中でそれに気づいてまた3を3の音楽で見直したが、えらく印象が違ってしまって面食らった。結局全部見終わらないうちに5時が来て、会場の半分を見残すことになった。そのため、機会があればもう一度行ってやろうかと考えているが、二度見たとしても、印象はさほど変わらないだろう。また、近年の展覧会の特徴として、映像作品がはやっているが、今回も小学生が先を争ってヘッドフォンを受け取っていた。だが、小学生が見ても理解出来るアニメでは決してない。それは映し出される文字が英語で字幕がなく、またエロティックな場面がままあったり、また南アフリカのある程度の歴史を知る必要があるからだ。帰宅してネットで調べると、この5つのアニメのある作品は全体を見ることが出来るようだ。(筆者のボロ・パソコンでは無理だが。)また、この5つのアニメを見る大きな部屋を出ると、また別のアニメを上映する小部屋が2、3あって、さらに小型の映像を絵画のように展示したり、またステレオ視する絵画作品や、蟻を撮影して白黒を反転した映像に、素描アニメを重ねた作品など、別の傾向の諸作品があったが、それらはほとんどじっくり見ることなく終わった。ネットによれば、19の映像作品、35点の素描、64点の版画という展示だ。
最後に5つのアニメについて感じたことをざっと書いておく。これは「ソーホー・エクスタインの連作」と呼ばれるもので、最初の作は1989年に作られた「ヨハネスブルグ、パリ以後の2番目に偉大な都市」で、最後の5作目は2003年の「潮表」だ。ソーホー・エクスタインは実在の人物らしく思えるが、ケントリッジの創作だろう。彼はヨハネスブルグの半分を所有する大資本家で、ブルドッグのような顔をして、ストライプ・スーツを着ている。ヨハネスブルグの鉱山を開発し、多くの貧しい黒人を使って資産を増やし続けている。このエクスタインには妻がある。だが、その妻は若い芸術家で逞しいフェリックス・タイトルバウムと恋に落ち、裸のエクスタインの妻の映像が映し出されたりする。そのことを知ったエクスタインは失意に沈み、やがて会社は崩壊する。それはヨハネスブルグの街に差別や貧困に苦しむ労働者たちがデモを頻繁に始めたことをもうひとつの契機にしたものであった。フェリックスを主役にした作品「亡命のフェリックス」は何番目であったか忘れたが、そこではフェリックスはもはやエクスタインの妻とは別れて外国のとある部屋でひとり住んでいる。部屋には水が進入するなど、映像は夢のような雰囲気を漂わせる。それはいかにもアニメの強みを思わせるもので、進入する水を木炭ではなく、水色のチョークか何かを使って、白黒画面に水色を加えることで鮮烈さが増している。フェリックは部屋の鏡を見ていると、そこに黒人女性が見える。彼女の名前は表示されないが、フェリックスが思いを寄せる恋人のようだ。だが、彼女は悲しげで、フェリックスの手には届かない。フェリックスがなぜ亡命することになったかだが、エクスタインの妻を寝取ったからだろう。そのエクスタインの妻は結局はフェリックスと別れて夫の元に戻る。「潮表」はエクスタインが病院に運ばれ、多くの医者に囲まれながら死んでしまう場面で終わる。5つの画面が同時進行し、それらが完全につながった物語でもないため、5つの全体から何か核となるものを見出そうとする見方は正しくないかもしれない。大資本家のエクスタインは黒人を抑圧した白人ということで、ある意味ではケントリッジの内面の投影であろうし、また亡命するフェリックスもまたケントリッジの分身ではないだろうか。南アフリカ共和国という国の歴史や政治を背負って、それを表現に盛り込むことで世界的に有名になったケントリッジを思うと、日本では政治とどう向き合った芸術が可能なのか、ついそれを思わざるを得ない。