命名がぴたりと決まるとその存在は世に出ることが多いように思うが、世の出た存在であるから、その名前がぴたりと決まっているように思えるとも言える。
ともかく、名前が印象深いものは人気が出やすい。短くて覚えやすいが理想だが、そういうものは出尽くしていると言ってよいから、なかなかいい命名と思えるものには出会えない。だが、あらゆるものに日々新しい名前はつけられ、その中からまた歴史を彩るものが定まる。「白樺」と聞くとどこか清潔な感じがするのは、「白」と北方の樹木ということによるだろう。これが「バオバブ」だったらどうか。いや、「バオバブ派」というのもなかなか捨てがたいではないか。それはともかく、雑誌『白樺』の命名もいろいろと候補があったことをこの展覧会で知った。図録を買わなかったので他にどんな名前が挙げられたのかもう忘れたが、いかにも日本的なものがあって、やはり変な感じがした。ハイカラなものをということで「白樺」に決まったと思うが、そうとすれば、その感覚は今も変わっていない気がする。そしてこの命名によってこの雑誌は14年間に全160号が発行される。創刊は明治43年で、関東大震災が生じて廃刊を迎えた。震災がなければその後も続いていたであろう。しかし大正時代を彩った雑誌としてその区切りはよかったのではないだろうか。ひととおりの役割は果たしたように思う。手に取って見たことがなく、全巻にどのような文章が掲載されていたのか、また震災直前頃に長く続く予定の連載があったのかどうかも知らないが、表紙の変化を示す展示から想像するに、最初の頃は西洋の大画家の作品図版が使用されていたのが、第9巻、つまり9年目から最後の第14巻までは岸田劉生がずっと担当した。それはそれでいいのだが、その固定化した様子は本文の内容に呼応していることを連想させた。
誰でも知る『白樺』であり、これまでも展覧会で紹介されて来たが、雑誌『白樺』を中心にその誕生100年を記念し、最新の研究成果を含めて展示する今回の機会は内容が充実していた。筆者は2回見た。最初は最後の部分が時間切れで見ることが出来ず、2回目も時間がなくてそそくさと見たので、結局全部をまともに見ておらず、消化不良に終わった。訪れた時刻が遅く、また絵画や彫刻よりも文字資料中心の地味な展示内容で、文字を全部読むのに時間を多く要したからだ。絵画におやっと思わせるものがあって、それをもう一度見たいためにまた出かけた。それは後述するとして、最初の部屋にはマックス・クリンガーの銅版画がずらりと並んでいた。その次にはビアズリーがあったと記憶するが、今でも渋いと思われているこうした作家の作品を『白樺』が紹介したことに驚く。クリンガーには作品を依頼して送ってもらったとされ、『白樺』の装丁に世紀末の象徴主義やアール・ヌーヴォー風が見られるのは、西洋の先端の美術様式に触れ、それを吸収しようとしたからだ。とはいえ『白樺』は美術雑誌ではない。西洋の最先端の美術を少しでも早く紹介しようという意識はなく、都会の芸術運動よりかは田舎の自然を感じさせるものを愛好したところがある。それは『白樺』の創刊者のひとりである武者小路実篤のその後の生き方からもよくわかる。これは大正時代に加速化する都会文明を否定したというのではないが、人間的ということを考えると、どうしても機械文明よりかは自然と人間が調和した文明の方に目が行くし、そういうものを表現しようとした芸術家を賛美することになった。そのため、『白樺』が震災で廃刊にならず、もう10年続いたとして、ダダやシュルレアリスムといった西洋の新しい芸術運動を紹介し、それを積極的に評価したかどうかは疑問に思える。そのことは『白樺』に影響を受けた美術家のその後の活動を見ることである程度わかることと言える。そして、次々に紹介される西洋美術に感化され続けて自己の画風を変えた者もあろうから、『白樺』が一概にダダやシュルレアリスム、あるいはその後の流派と無縁とも言えないだろう。ともかく『白樺』によって大正時代には西洋美術がどっと日本に紹介され、今の日本のゴッホやロダン好きの傾向を形成した。そのことだけでも『白樺』の重要性は強調されるべきだ。
話は変わる。ひとつ残念に思ったのは、『白樺』のような雑誌が韓国や中国においてその後遅れた形で発刊されたかどうかということと、日韓併合時代に『白樺』が韓国の知識人にどのように受容されたかという疑問だ。そういうアジア的視点で日本の動きを紹介することは日本ではほとんど皆無で、それはなぜかと思う。韓国ドラマ『初恋』では、主人公のひとりのある青年は画家を目指し、ゴッホが大好きで部屋に小さな複製を飾っている。そして何年か経って、その弟がビジネスで頭角を現わし、日本を商用で訪れたついでに空港でゴッホの画集を兄のために買って帰る。その画集を弟は兄に手わたしながら、「アメリカのものより印刷がいいんだって」と説明する。それは集英社版の1970年代に発売されたもので、当時の韓国ではそうした絵画全集はなかった。今はどうか知らないが、その事実ひとつとっても韓国が美術印刷に関して日本よりはるかに遅れ、また西洋美術の紹介や研究も比較にならないほどに進んでいないことがわかる。戦後ずっと美術どころではないほどに国が貧しかったため、それは仕方がなかった。ところが韓国ドラマでは必ずと言ってよいほど画家や音楽家が登場し、韓国が芸術に無縁の国ではないことがよくわかる。儒教の国家であるから、画家はあまり優遇も尊敬もされなかった。そのことと絵画の奨励や紹介がないこととは別のはずで、また文学も含めて考えると、知識人に芸術の受容はあったはずで、それが「白樺派」のような形とならなかったのかどうか。そういう動きがなかったとすればそれはなぜかといった見方で白樺派を捉えることも出来るが、今回の展覧会ではそういう視点は全くなかった。なぜこんなことを書くかと言えば、白樺派のひとりである柳宗悦は韓国で韓国美術を収集して美術館を設立したほどで、それを当時の韓国の知識人たちがどう見たか、またその後、柳の意思をどう受け継いだかという素朴な疑問だ。筆者が無知なだけかもしれないが、そういうことを調べた文章は日本では全くと言ってよいほどお目にかかることはない。あるのかもしれないが、注目されない。そこには現在につながる何か本質的な日本の内向きのおそまつさが露呈しているように思う。白樺派は当時の日本における国際派を目指したと言ってよい。ならばそれはアジアにも開かれたものであるべきであったし、柳の行動にはアジアに対する蔑視はない。だが、文明的に遅れている中国や朝鮮には注目すべきものは何もなく、その一方で個人の自由な表現を標榜するのであれば、自然とヨーロッパのそうした芸術を鑑とすることに向かったことはやむを得ない。とはいえ、西洋一辺倒ではなく、前述のように『白樺』の後半期の表紙絵を担当する岸田劉生は、ヨーロッパ北方の絵画に魅せられる一方、中国美術にも心を寄せた。そこには脱亜入欧主義だけでは説明出来ない精神主義がある。筆者が興味を抱くのは『白樺』の西洋美術との関係はいいとして、それが日本以外のアジア国家にどのような影響を及ぼしたのか、また反発を受けたとすれば、それが当時の日本の美術がそのことにどう共鳴ないし反発したかということだ。それは当時の日本の若い知識人たちが西洋やアジアをどう見ていたかという問題につながり、そのことはお金持ちのぼんぼんといった『白樺』の創刊者たちの視野の広さを計る尺度にもなるように思うからだ。そこには当時の政治との距離の取り方が深く関係する問題であるので、なかなか研究が進まない面があるのはよく想像出来る。しかし今なお盛んな欧米を見習おうという意識の源を考える時、『白樺』の創刊者たちの考えをもっと別の観点から見つめ直す必要はある気がする。ごちゃごちゃ書いたが、簡単に言えば、アジア各国の知識人たちが自国に西洋の美術を紹介したとして、その時『白樺』が規範となったのかどうか、ならなかったとすれば、それはどういう形を取り得たかを見ることによって、現在の日本とアジア各国の差が浮き彫りにされ、また今後の日本のひとつの進べき道の可能性がそこから見えるのではないかということだ。
『白樺』に関係した人物はとても多い。武者小路実篤や志賀直哉、有島武郎といった小説家が中心になって創刊したが、絵を描いた実篤の例からもわかるように美術をよく紹介し、毎号海外の美術作品の写真図版を掲載した。有名な話ではロダンに彫刻を依頼し、それが日本に送られて来たりもした。また、ゴッホのひまわりを描いた大きな油彩画も日本にもたらしたが、焼失して今はない。幸い写真に撮影されていたので、現在の技術でどうにかどういうものであった復元出来るようになった。西洋美術の写真図版掲載は日本の若い画家たちに大きな影響を与え、そうした複製図版だけの展覧会が開催されるほどであった。それほどに日本は西洋美術の吸収に貪欲で、洋画家日本画家にかかわらず、そうした西洋絵画の流派を学んで自作に取り入れることが行なわれた。この傾向は現在も続いていると言ってよく、今では日本が模倣から出発したものが欧米にはかえって新鮮に映ってそれを模倣することにつながり、それがまた日本に輸入されるという複雑な関係に至っている。その観点から言えば、大正時代の西洋に学んだ日本の洋画や日本画は今頃になって欧米で評価されるべきと思うが、どうもそうはならず、日本の造形で歓迎されるのは、大衆文化に関係の深いマンガやアニメといったところで、これは喜んでばかりも言っておれない気にさせられる。そこで思うのは、日本は今まで日本の芸術を積極的に世界に紹介しようとして来たかどうかだ。ロダンに彫刻を注文した時、ロダンが求めたのは浮世絵であった。そこにそもそも文化的なギャップがある。当時日本では浮世絵をとっくの昔に捨て去ったも同然で、むしろ浮世絵を恥じるところがあって、木版画は自分の絵を自分で彫って摺ることを創作とみなす運動が活発化する。個性の表現を第一とするその考えも『白樺』に負うだろう。そして、『白樺』の同人たちはロダンやゴッホを最上位の芸術とみなしてその実物を日本にもたらし、それを範として日本の芸術を進化させようとの思いは大正時代にある一定の成果を得たものの、そうした作品は日本で評価されるのみで、海外は何の関心も示さず、また評価もしなかった。向こうから見れば、急に洋服を着始めた東洋人が、われらの芸術の模倣を始めたと言いたげで、古くからある独創的な芸術であるたとえば浮世絵の木版画を捨て去るとは何事かとも思ったかもしれない。そうした見方があろうとも、今まで日本は日本だけの充足して評価される絵画があってよいと腹を括って来た。それがここ10年か20年は風向きが変わって来て、海外で売れなければどうしようもないと考える画家が登場していることは誰しも知るとおりだ。そして、そういう動きを見る時に必ず思い出すのが、『白樺』が発行されたことで触発された多くの画家たちの作品だ。そうした先人の行為があって今の日本の美術はあるはずだ。ところが現在の芸術家たちがそうした先人たちと歴史的につながっていることを意識しているかどうかとなれば、はなはだ疑問とも言える。
さて、展覧会は3章構成であった。1「西洋芸術への熱狂」、2「白樺派の画家たち」、3「理想と友情を求めて」で、1は先にも触れたように、誌上での図版紹介と、白樺派が企画した展覧会で紹介したヨーロッパの美術家たちの作品展示だ。最初に書いたように、クリンガーという、今でも玄人好みの作家を白樺派がすでに直接接触して作品を送ってもらい、紹介していたことに驚く。戦後ますます盛んになる日本での啓蒙的教養主義的な西洋美術展のほとんどは、白樺派が先鞭をつけたものであったと言ってよい。同誌の表紙を飾った画家はミケランジェロやデューラーを初め、レンブラント、ゴヤ、セザンヌ、そして近年展覧会があったフォーゲラーなどが含まれ、『白樺』の側から見ればそうした画家の作品がまた違った味わい、つまり白樺色に彩られる気がして面白い。クリンガーやフォーゲラーの世紀末的な雰囲気は『白樺』や当時の雑誌の装丁に影響を与えた。その視点で西洋が研究や評論をしている例はあるのだろうか。西洋から見れば『白樺』は田舎国家のごく小さな雑誌に過ぎず、そこで行なわれたことなど取るに足らないことに見えている気がする。2は、白樺派同人の画家と、そうした人々と密接に交友した画家の作品紹介だ。面白かったのは、須田国太郎が『白樺』の全号を所有し、火災に遇ってそれが一部黒焦げになっても捨てずに持ち続けていたことだ。須田の展覧会図録の年譜を今見ると、須田は大正8年に渡欧しているから、『白樺』を最初から愛読していたとしてもそれはごく自然なことであったが、東京の『白樺』が京都にも影響を及ぼしていたことが須田の例からもわかる。『白樺』の西洋美術の紹介はいろいろな画家や彫刻家を適当にみつくろったものではなく、かなり系統立っていたようで、大正2年からは印象派以前からルネサンス、大正4年からは古代ギリシア美術へと拡大したという。また大正4年には複製によってマンテーニャからルドンまでを展示する展覧会を東京で開催し、大正時代は西洋美術の圧倒的な影響を受けた。とはいえ、西洋の巨匠の完全な模倣かと言えば、全くそうではない。そこは白黒印刷の小さな図版を頼りにするしかなかった不自由さと、またやはり気概があって、筆法を模倣するよりもその精神性をつかみ取るという観点から自ずと日本独自の個性が立ち表われている。それも人の見方によるが、画面に対峙して伝わって来るものを受けとめれば、そうした画家や彫刻家の苦闘はよく伝わる。それは、学ぶべき手本はあっても、模倣ではなく独創を目指すという思いの産物だ。
筆者が興味を抱いたのは、まず1915年頃に描かれ、第2回の草土社展に出品された横堀角次郎の「風景(斎藤山より大崎遠望)」という横長の風景画だ。同じ画家の第3回草土社展出品の「S君の肖像」も忘れがたく、その隣にあった1922年の「静物」もよかった。いかにも草土社の草と土を思わせる絵で、劉生を思わせるところが大だが、もっと表現主義的で、画家の真剣さがよく伝わる。あまり知られない画家と思うが、多くの作品を見たい気にさせた。もうひとり山脇信徳も興味深かった。後期印象派やゴッホに近いタッチで、『白樺』があっての画家だろう。この画家の作品を木下杢太郎が明治44年(1911)に雑誌『中央公論』の美術時評で批判し、それに対し山脇が反論、そこに武者小路が山脇の肩を持つ形で割り込んで論争に発展した。これは有名な事件で、ひとことで言えば、画家は公衆に理解されるような絵を描くべきかどうかということだ。木下は山脇の絵を表現の技術が乏しいとみなしたが、山脇は卓抜な技術といった何らかの約束事にあえて囚われずに描くことに努めていると反論し、武者小路は俗衆に理解されるような絵は芸術ではないと言った。ここにゴッホを対比させると面白い。ゴッホは誰にも理解されず、つまり山脇に言わせれば、自分はゴッホのような道を行くと言いたかったのであろう。しかし木下は、ゴッホはゴッホであり、それを否定するつもりはないが、何を描いているのか大衆にもっと理解出来る絵を描くべきと思ったのだ。両者の考えはどっちも正しいが、当時は絵具代など今よりももっと高価で、油彩画を描くことの出来る人々は恵まれた経済状態にあったはずで、そういう人々は自分だけのためにではなく、大衆が理解出来るように描くべきという木下の意見はもっともな気もする。『白樺』は金持ちの知識人たちが作ったもので、最初から俗衆とは乖離した雑誌であったが、絵画や芸術の目的が俗衆を退けるものとするならば、それは傲慢の誹りを免れない。結局この問題は山脇の絵が現在どのように見えるか、どう評価されているかで決着するようなところがある。最近ある古い雑誌で筆者は興味深い絵を見て、それが山脇であることを知って驚いた。あまり有名ではないが、いい絵を描いた画家だった。山脇の絵は今では俗衆にも充分理解されるものになっていると思える。それは山脇と木下が和解したことを示すのではないだろうか。