ヘヴィ・メタル(以下何度も書くので、HM)を好んで聴く息子に言わせると、ザッパの音楽は古いそうだ。

聴かない偏見ではなく、たとえば『HOT RATS』を車に積んで聴いているようだが、どの曲も同じように感じて、しかも60年代という気がするらしい。60年代は当たっているから、古いと感じて当然だ。当時はまだHMはなかったが、60年代のロックがあってそれは生まれて来たし、60年代のロックはそれ以前のロックないし音楽から生まれ、そういうようにロックをいわば歴史的に捉える感覚があれば、60年代の音楽の新しさもわかるはずだが、そういう風に考えること自体がもう古臭いのだろうし、どう考えてみても60年代は古い。ロックのひとつの本質として刹那性がある。それを格好よいものと捉えれば、それ以前の先輩格の老いたロックなどどうでもよく、ただ今この瞬間に聴いている激しい音楽がよければそれでよい。それはかなりの部分正しい。いや完全に正しいと言い換えてもよい。だが、息子が聴くHMというものは80年代のものが中心のようであるから、それもまた古いものでしかあり得ず、一体HMの何のどこがいいのかよくわからない。少なくとも数か月前に発売された、とにかく時代的に新しい音楽ばかり追うという態度の方が健全と思うが、時代は今はHMではないだろう。よくは知らないが、何となくそう思う。あるいはマニアしか知らないようなHMバンドが今この瞬間も新しいアルバムを出しているのかもしれない。そしてそういう音楽にもそれなりに今という時代性が刻印されていて、ファンには斬新さがよくわかるだろう。そうでなければ新しいファンがついて来ない。もう10年以上前か、デス・メタルというのがはやった。ジョン・ゾーンがそういうジャンルのドラマーを起用して音楽をやっていたことがあった。その関連で筆者はデス・メタルを何枚か聴いたことがあった。その中には北欧のバンドもあったが、北欧にデス・メタルというのが一種違和感を覚えながらも、妙に納得させられた。デス・メタルは、HMの進化形と言えばいいだろうが、もっと激しい痙攣性の音楽で、そうした音楽を聴き馴れない人にとっては単調過ぎて、騒音と同じように思えるに違いない。だが、注意深く聴くと、曲ごとに変化もあるし、バンドによって特色もある。それはあたりまえだが、そのごくわずかな差と言えるものが、聴き馴れるに及んで、とてつもないバンドの特色の差となって思えて来る。その差は門外漢にとってはごくわずかなものだが、デス・メタルという特色ある名前をつけられる音楽の中でのみ見ると、大きいのだ。もっと言えば、そのごくわずかな差を大きな差と感じられるほどに耳が馴れて来ると、自分が洗練された人間に思えて来る。たとえばコーヒーの銘柄を当てるようなものを思えばよい。コーヒーとジュースが並んでいれば、誰でもその差はわかるが、コーヒーのきわめてよく似た香りと味の二銘柄の飲み比べとなると、そう誰しもわかるはずがない。つまり、デス・メタルやHMの音楽を愛好するということは、そういうごく微妙な差を味わうことにほかならない。であるから、息子がザッパの音楽を聴いてどれも同じに思えるということは、ある意味では非常に正しく、またある意味では何もわかっていないことになる。ザッパという銘柄の音楽の多様性がわかると、それは恐らくあるHM・バンドの音楽に内在する差どころの話ではなく、とんでもない広がりと奥行きに没入してしまうはずだが、息子は本能的にそういうものの存在をよく知っており、そのためにザッパを聴かないのかもしれない。つまり、HMというジャンルの中でいろいろ違うバンドの差を楽しむ方が、心のバランスを保つにはよく、恐れおののくこともない。言い換えれば安心出来るからだ。
HMの安心性に安住出来ない強者はデス・メタルに進んだのではないだろうか。だが、その先は本当に音楽の死しかないと言ってよく、今度はどういう音楽を聴く気になるのか、なれないのか、筆者はそこにまた興味がある。デス・メタルの流行の後はレイヴのようなものがはやって、今もそれは一部では需要があるのだろうが、そういう音楽から見ると、HMは安心して見られるプロレスといった感じで、ごくごくまともな音楽に思えてから面白い。いや、実際HMは健全な音楽で、そればかり聴いていると、まるでイージー・リスニングと同じで心地よい。これはHMという言葉が生まれた時にきっとそうであった。新しい言葉が生まれるのは、そこに他の何かと識別可能な様式があるからだが、HMの様式は誰しも知るように早弾きのギターに激しいリズムと大音量、甲高いヴォーカル、そしてミュージシャンたちの長髪、バンドの特徴あるロゴといったもので、そこに国柄の差が加わる。そういう様式性を前提としながら、そこに時代や国に応じてどれほど斬新なものを付与出来るかが人気を左右するが、悪魔や天使のイメージを用いて、たとえばギタリストやヴォーカリスが男前であったりすると、若い女性に騒がれることになる。あるいはあえてそういう方向を拒否して、マニアを相手にするというバンドもあることだろう。つまり、HMという世界の中に多様性があり、そこから通して音楽全体、社会全体を眺めることも可能であるに違いない。これをもっと言い換えれば、HM以外の他の音楽が地球上から抹消されることがあると、やがてHMからその抹消された音楽がすべて復元出来るということだ。つまり、HMだけを聴いていても、その他の音楽というものも自然と心に擦り込まれるはずで、それだけHMバンドはありとあらゆる音楽の要素を用いながら、他のバンドとは違う新しいHMを作り出して来たし、また今もそうしていると思える。ならばいっそのことHMばかり聴かなくて、他のジャンルの音楽を聴けばよいようなものだが、そこはHMを愛する人から言わせれば格好よくないのだ。表向きはHMの様式を忠実に守りつつ、なお他の音楽性もそこにあるというのが格好いいのだ。HMを聴く人がそこまで自覚しているはずはないと言うのは侮りだろう。少なくともHMを演奏する連中は過去のバンドと差別化を図るため、またHMを進化させるためにありとあらゆる音楽を参考に聴いているはずであるし、またそういう気持ちがなければ創造など出来ようがない。そしてそういう作り手の態度は何も言わずとも受け手によく伝わるもので、HMが今も健在であるとすれば、そこにはきっと現在性の何かをよく表現し得ているからだ。そして、それはある何か本質的な創造物からの引用や剽窃といったものではなく、ひょっとすればそれ自体が他には望めない現在的で本質的なものでもあり得る。そういうことを担えなくなった時点でそのジャンルは進化が望めず、完全に古い骨董的なものになり下がるが、おそらくそういう動きがHMにおいて10数年前にはあったので、デス・メタルが出現したのではなかったろうか。だが、新しい様式を携えて登場するものは、その寿命がどんどん短くなっている。それはHMを考えてもわかる。あらゆる実験や試みは作品となって記録されているから、その方法性をすぐに新しい様式に適用し、かつては10年でひととおり試みられたことが、今や2、3年でそれが消費される。
HMと並んでよく表記される言葉に「HR」がある。このハード・ロックの一部が肥大化、専門家したものがHMだが、古い世代に言わせるとビートルズもうるさい音楽であり、ハードなものだろう。いや、ハード・ロックという言葉は実際ビートルズが用意したものかもしれない。そういう流れで見ると、どのようなHMバンドにもビートルズ性の片鱗はあることになるだろう。たとえばどういうことかと言えば、ビートルズは激しい音をかきならす曲もあれば、ソフトなバラードも演奏したが、HMのどういうバンドにしてもそういう曲のひとつやふたつは用意しているだろう。そうすることによって、大音量の曲が際立つし、バンド・イメージが単調なものに陥ることから免れる。そういう方法論もまた様式としてとっくに確立されており、曲をそうしたように対照づけるだけではなく、1曲の中でもソフトな部分と、ハードな部分を同居させたりする。そうすることで曲全体が哀調を帯びることがしばしばあり、HMのイメージをただうるさいだけの音楽と言えないようにする。そして、そういう哀調はむしろソフトにささやきかけるようなバラード調よりも、むしろ大音量の激しいリズムに乗せられて演奏される方がふさわしくも思えて来る。先に筆者がHMがイージー・リスニング音楽に似ると書いたのはそういうところからでもある。音楽の様相としては音の過剰と大音量を前面に押し出しているが、ヴォーカルを抜き出し、そのキーを下げ、そしてもっとゆっくりと歌わせると、ほとんどそれがHMであったとは思えない、ごくまともな普通の曲に変化するに違いない。このことから言えるのは、ある音楽の才能が曲を創作する際、HMのない時代であれば別の種類の音楽にしたはずであり、HMという形をとったのはたまたまそれが好みであり、売れるからであったに過ぎないからだ。ただし、大音量できわめて様式性が顕著な音楽というのは、誰しも真似がしやすく、また聴くことに耳が疲れやすいから、あまり物事を深く分析しない若者向きではあるだろう。HMの本質がわかれば、より凝ったものに進むと思えるが、それがまたそうでもないらしいことは息子を見ているとわかる。息子が聴くHRやHMは、ほとんどマルアしか知らないマイナーなものばかりで、たまに車の中でそれを聴くと、みな同じに聞こえ、またデ・ジャヴ感があるが、息子に言わせると差がある。
さて、息子がかつて持っていたのか、あるいは今も持っているのかわからないながら、韓国ドラマ『初恋』の中で頻繁にかかった曲を調べると、フィンランドのHMバンドのストラトヴァリウスが演奏する「FOREVER」とわかった。それで早速CD『EPISODE』を入手すると、12曲入っている中の最後にこの曲があった。息子に訊ねると、昔CDを所有していたが、面白くないので売り払ったとのことで、同曲を覚えていなかった。ストラトヴァリウスは有名なヴァイオリンのストラリヴァリウスを思い出させるが、ストラトはギターの名前であるし、ストラリヴァリウスのギター版のつもりかと誰しも思うが、どうもそのようで、バンド名はえらくヨーロッパ的だ。フィンランドにHMが盛んなのは、先に書いたように北欧のそうしたバンドのCDを90年代初頭に何枚か聴いたことがあったので意外ではない。だが、ストラトヴァリウスはどの曲も英語で歌い、市場はアメリカにあることを思わせる。それもまたHMの様式からして仕方のないところなのだろうが、いっそのこと北欧色をもっと色濃く出してもいいように思う。とはいえ、『EPISODE』はアメリカの音楽という感じはしない。その大きい理由はストラリヴァリウスのギター版ではないが、バッハやバロック音楽風のクラシック音楽のフレーズを引用したようなメロディ・ラインがしばしばあって、優雅さが強いからだ。HMはギター・テクニックを重要な要素として持つが、それはヴァイオリンの技巧といった形でクラシック音楽の世界にもあったもので、そうした曲芸的伝統性をHMは格好いい要素として取り上げ、また受け継いでいる。『EPISODE』はジャケットがまた面白い。まるでヨーロッパか中近東あたりの宮殿の廃墟だが、そこにはHMの伝統性に連なることを誇りとするような態度がよく表われているように思える。今9曲目の「BABYLON」が流れているが、この曲はアルバムの中でも特に印象深い。メロディが、古代都市バビロンの物語を描くアメリカ映画によく使われるような異国情緒がたっぷりあって、そういう音階をまた使用しているし、効果音の点でもそうだ。この曲だけ聴いていると、確かにHMではあっても、昔の映画音楽そのもので、このバンドがいろんな音楽を聴いて知的に曲を組み立てていることがよくわかる。CDのブックレット内部にメンバーの顔写真がある。5人全員がHMの様式そのものの長髪で、またいかにも獰猛な肉食獣といった目つきをしている。そこが笑えてしまうが、そういう見事なHMの様式を守るところに、HMにかける熱情がよく伝わる。
『EPISODE』は1996年に発売されたようだが、『初恋』が「FOREVER」をドラマの中で使用したのは、アルバムが発売されてすぐのことになる。となれば、韓国ドラマのアンテナの張り具合もなかなか侮れない。筆者はドラマの中でこの曲を聴いた時に、アメリカのバンドの曲だと思ったが、実際はフィンランドであった。だが、60年代の古さを感じさせつつ、実際は比較的新しい曲と思った。それは静かなバラードではあるが、ヴォーカルが高音で、いかにもHM風であったからだが、興味を抱いたのは60年代的な古風さだ。それは『初恋』というドラマの内容にはまさにぴったりで、子ども時代の初恋をずるずると引きずって、大人になってもそれに運命的に左右され続ける主人公の物語は、HMというジャンルの音楽が突然変異のように世の中にぽっと湧き出たものではなく、それなりの過去のさまざまなものに負いながら成立していることを思い起こさせもする。「FOREVER」のメロディから筆者が思い出した曲は、「マルセリーノの歌」だ。これはスペイン映画『汚れなき悪戯』の主題曲で日本でも大ヒットしたが、その原曲はスペインの民謡にあるのだろう。おそらく1000年以上前からあったものではないだろうか。ストラトヴァリウスが「マルセリーノの歌」を意識的に参考したかどうかは重要な問題ではない。作詩作曲はギタリストのティモ・トルッキだが、彼がそうしたヨーロッパの民謡的なメロディを自作に応用し、それをHMのバラードという様式の中に蘇らせた点が筆者には面白い。そこにはHMを誇る思いが見えるし、そういう態度は何だかとても好ましい。実際「FOREVER」はよく出来た曲で、これがポール・マッカートニーがビートルズ時代に書いたものであれば、今はもっと名曲として人々に知られたに違いない。弦楽器を背景に切々と歌うヴォーカルは、それまでの11曲の大音量の曲をすべて忘却させるような清々しさと哀しさに満ちていて、アルバムの締め括りとしてこれ以上に見事な企みはないと思える。『初恋』では重要な場面にこの曲がよく流れるが、この曲をそのまま用いている部分と、弦楽の部分を改め録音し直して使用した部分があった。つまり、完全なパクリではなく、ドラマの製作者はそれなりにこの曲に思い入れがあって、編曲し直したのだ。さて、ドラマの内容と絡めてこの曲の歌詞が次に気になる。何に対して「FOREVER」(永遠に)と歌っているのだろう。以下直訳しておく。「暗闇の中にひとりたたずむ。人生の冬がすぐにやって来た。子どもの頃へと思い出は戻る。なおも呼び戻す日々。その頃は何と幸福だったことか。悲しみもなく痛みもなかった。緑の野を歩きながら、目には太陽の光があった。ぼくはまだそこのどこにもいる。ぼくは風の中の埃だ。ぼくは北の空の星だ。ぼくはどこにも留まることはなかった。ぼくは木の風だ。ぼくを永遠に待ってくれかい?」。なるほど、『初恋』はこの曲が最初にあって内容が書かれたところもあるようだ。そう言えば『初恋』は『ロミオとジュリエット』に似た部分もあるが、韓国ドラマもまたHMと同じく、その様式性を楽しむものであって、それほどに完成されたものと言える。様式を面白くないと言う人は、だいたい芸術というものを理解しない人だ。人間が何かを創造する時、それは様式から逃れることは出来ないものなのだ。