空梅雨かと思っていると、もう8月というのに、各地で豪雨が続き、気温もあまり上がらない。
エルニーニョ現象のせいだと一昨夜はTVが言っていたが、それはそうだとして、なぜエルニーニョ現象がよく生ずるのか、その説明がない。そのため、わかったようでいて、何もわからないが、同じようなことはよくある。原因の追求が出来ない、あるいはそれが面倒な場合だ。一昨日のTVはまた、18歳を成人にするとも言っていたが、これは青少年の犯罪が増加していることも一因だろう。大人並みの罪をかぶせるには、成人年齢を下げておいた方がよいという考えだ。残虐な事件を青少年が犯すと、それは心の闇のせいの一言で片づけられるとも先日のTVでは誰かが言っていたが、「心の闇」は「エルニーニョ」と同格で、とても便利な言葉なのだ。そう言えば、筆者は「心の闇」という言葉を自分の文章で使ったことがない。今試しにこのページの右端欄から自分のブログを検索してみたが、やはりヒットしなかった。思いつくまま書く自分のこのような文章の隅から隅までを全部記憶していることはあり得ないが、常に自覚しているというのではないにしても、使いたくない言葉というのはある。それが人格であるはずだし、他人の文章を読んで面白いかそうでないかは、書いてある内容以前にまず使われている言葉が自分好みかどうかが左右する。これは文章を書き馴れているかどうかの問題が少しは関係するかもしれないが、大人になれば、自分は文章が下手ですからといった言いわけは通用しない。そのため、書いた文章そのままが自分を表現しているという自覚が必要だ。そして、筆者は割合文章から人を判断するが、それを言ってはおしまいという不愉快な場面にたまに遭遇することがある。そうなれば、自然とそういう人とは距離を取るに至る。断わっておくと、それは文章の達人を好むという意味ではない。それに敬語を使わないから失礼だというのとも違う。そういう文章の綾については、青少年は大人以上に敏感ではないだろうか。そのためにケータイ・メールで使われる絵文字などもよく利用され、相手に悪い印象を与えないように予防線を張る。それをあまり好ましいこととは思わないが、それほどに人間関係が難しい時代になっていることは理解出来なくはない。
「心の闇」とはどういう意味で使われるかと言えば、それは「心が病んでいる」ということだ。そして心が病んでいるとして、それが具体的にどういう状態を指すかとなると、この定義は難しい。いや、不可能と言ってよい。人間は価値観が違うし、またそれが当然であるからだ。となると、誰でも心に内面があり、それは闇と言い換えてよいから、心の闇は人間の根幹を成す重要なものと言える。つまり、心と闇は同義であるので、「心の闇」という、実に曖昧で便利なような言葉はあまり使わない方がよい。だが、人々はマスコミが垂れ流すそういう言葉に知らず知らず汚染される。いや、汚染とも思わず、むしろ流行に乗って格好いいと思う。「心の闇」という言葉を使うことが格好いいとすれば、今の世の中は、わからないことがあれば何か便利な一語を適用し、それ以上は探らないことが格好いいと思われていることになる。これは人間関係の稀薄さをよく象徴していると思えるが、もっと言えば誰しも心に大きな闇を持っており、それを人に悟られたくない、触れられたくないという思いがあるからではないだろうか。ところが、心の内面つまり闇は、その人が自覚するしないにかかわらず、発する言葉によっていつも表面化している。そして、そういうことをよく知る人は、何かを書くことを恐れる場合があるだろう。何も書かなければ心の内面は誰にもひとまず悟られることはないという考えだ。もしそうだとすればそれもまた心の闇のなせることだ。心の闇はまた、理性のなさとして使われていると思うが、心の中に理性の無秩序があるのは誰しもで、行動が理性的であればいいのではないか。その理性というのは、絶えず誘惑に晒されていて、これも一昨日のTVでやっていたが、一般市民に麻薬の使用が拡大化している。それは理性の働きが麻痺して、あるいは本来持ち合わせない者が、気持ちいいことをして何が悪いという開き直りの思いもあってのことだが、麻薬の恐ろしいのは、理性を統御出来なくなることだ。薬に飲み込まれるのだが、これは酒も同類だが、習慣性の点では麻薬の方がはるかに恐ろしいということなのだろう。麻薬で陶酔する気分は知らないが、時々筆者は音楽や、あるいは何事かを考えている時に、頭の中がとても心地よくなることがある。その時思うのは、麻薬を使っての陶酔はきっとそれに及ばないだろうなということだ。人間の頭は薬物の助けを借りずに、天国の心地よさを感じることが出来ると筆者は信じている。そして、そんな痺れる頭の中は、闇ではなく、光が勢いよく点灯している気がする。だが、それは闇が本来あってこそ激しいものであり、闇がなければ光もない事実をよく伝えてくれる。そのため、心の闇を否定するのではなく、そこに自力で光をどう導き入れるかを考えるのが、生きる目的のような気がする。
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2008年09月21日●第 52 話
昨日マニマンは図書館に調べものに行った時、いつもとは違う道を歩き、そこで初めて見る小さな花に出会いました。よく見ると、何とそれは、今日『おにおにっ記3』に投稿した第15話「見知らぬ草化け」で取り上げた花と同じ形をしたもので、その真っ赤な品種でした。相変わらずマニマンはその花の名前を知らず、「見知らぬ草化け」のままですが、形はすでに知っているので「見知る草化け」と言えます。それにしても何の花でしょうか。萩や藤のようなマメ科に見えますが、そうでもない気もします。同じような背丈の茎に小さな白い花をつけるものが、マニマンの散歩道に春からずっと長く咲き続けています。その名前は数年目にして先週ようやくわかりました。あるお寺で咲いていて、近くにいた見知る若い女性に訊ねたところ、「ガウラ」だとのことです。花に似合わない語感です。そのためか「白蝶草」とも言うそうです。で、「見知る草化け」はガウラとは全く別の種でしょう。誰も教えてくれないので、ネットで調べまくったところ、「サルビア・ミクロフィラ」という名前であることがわかりました。小さなサルビアの仲間だったのです。