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●クロッキー帳のスパイラルを取り外す
然の ものを描いて 不思議知り 飽かずに眺め 似たもの思う」、「練習は 続けることに 意味ありて 止めた途端に 劣化始まり」、「長年の 空白の後 再開し 手慣れの戻り すぐに得られず」、「写生とは 座禅のごとき ものなりと 無言で見つめ 考えもせず」
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この2年ほどは描きたくなる鶏頭の花を見かけた時は写生している。写生はまずは描きたくなるものに出会う必要がある。職業柄、花ばかりだが、昔は親戚の子どもの顔を描いたこともあって、それらは大事に保管されているようだ。自分で言うのも何だが、描いた顔の表情は世俗さが消えていて、かなり理想化して見える。漫画的という意味ではない。その理想化は、筆者が相手に聖性を感じて描いたといったおおげさなことではなく、描く行為の無心さが顔を借りて顕現したと思っている。しかしその物言いもおおげさであり、いかにも自分の描く行為が聖なるものであると自惚れているように受け止められる。これは前に書いたと思うが、甥の結婚式で、新郎新婦は街中の似顔絵店で描いてもらった2枚の色つきの漫画絵をみんなに披露した。顔の目立つ部分をグロテスクに誇張した絵で、最初にそうした絵を描いた人物が戯画化する着眼点を描くことの好きな若者に教えているのだろう。もちろん誇張部分が異なるので違う顔になってはいるが、そう思わせるほどにグロテスクさでは共通している。そうした絵を1000円か2000円で描いてもらう行為は遊び感覚としてはわかるが、結婚式という人生最大の重要な場所でみんなに見せるものではない。しかし芸術を理解しない平均的平凡な若者の代表と思えば落胆もしない。何が言いたいかと言えば、顔を描く行為は神聖なことで、美人や男前に作り変えて描く必要は毛頭なく、ありのままに描いてなおその絵に永遠性と言える何かが感じられるものでなければ、画家としては平凡ということだ。これは芸術行為すべてに言える。子どもでも楽器を演奏したり、油彩画をそれなりに描いたりする。音楽家、画家を自認するのであれば、その表現に人生や存在の真理を一瞬でも感じさせないことには無意味だ。さて、鶏頭の花を写生し始めた2年前、久しぶりに昔まとめ買いしておいたマルマンのクロッキー帳の新品を引っ張り出した。スケッチブックは中身は画用紙で、表紙が固く、描きやすいが、クロッキー帳は紙は薄くて表紙も柔らかい。筆者は植物の写生に昔からマルマンのロゴである赤と桃色の丸が上部に並び、またSLの記号のついたものを使っている。それ以前に別の表紙のものを10冊ほど使ったが、それが廃版になったのでマルマンのものを買うようになった。赤と桃は青と水色のものもあって、後者も何冊か持っているが、下絵の構想用として使っている。中身がクリーム色で表紙が黒の製品もあるが、筆者は茶褐色の表紙、中身は真っ白のものしか買わない。どれも100枚綴りだ。
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 2年前に鶏頭を描き始め、先日その1冊が残り7,8枚になった。アマゾンで5冊まとめ買いすれば、送料はわずか300円で、1冊750円ほどで買える。20年ほど前に京都の画箋堂で買ったものは裏表紙下隅に550円のシールが貼ってある。その価格からすれば750円は妥当だ。画箋堂まで行くのは面倒で、アマゾンで注文しようかと思いながら、ひょっとすれば新品が1冊くらいあるのではないかという気がした。調べると予想どおりで、1冊あった。その隣りにもう1冊かなり新しいものがあって、中を見ると20年ほど前に描いたウドの絵が最初にあって、10枚ほど描いたままで放置していたことがわかった。2年前に鶏頭の花を写生し始めた時、その1冊の残りから使うべきであったのに、うっかりしていた。写生はすべて描いた日づけを記し、またクロッキー帳は描いた順に番号を打っている。今使用中の1冊を使い切った後、ウドを描いて残り90枚をそのままにした1冊に戻って描き続けてもかまわないが、クロッキー帳の表紙に通し番号と、描き始めと描き終わりの年月を記しているので、その規則を破ることは気に食わない。そこでクロッキー帳の綴じ代の螺旋状の針金を見ると、天地の端をわずかに曲げてあるだけで、それをラジオペンチで螺旋形に戻せば、後は針金全体を回転させればクロッキー帳から外れる。ただし、描いた中身を交換するには2冊のクロッキー帳の針金を外し、またそれを戻さねばならない。場合によっては元に戻すことが出来ず、針金ではなく、細い紐で綴じなくてはならないかもしれない。思い立てば早速行動。今日の最初の写真はクロッキー帳の表紙の上に文鎮を置き、針金を外しているところだ。最初は針金全体を回転させるのにかなり力を入れる必要があって指が痛くなるが、半分ほど外れると後はとても簡単だ。綴じ直しは予想とは違ってはるかにたやすい。2枚目の写真は右が外した20年前のウドの写生で、紙が薄いので次ページの絵が透けて見える。3枚目は最初の10枚ほどが最新の鶏頭の写生で、残りは新品で、表紙の赤丸に41と書いた。これは41冊目の意味だ。綴じ直したもう1冊は表紙の「Oct.2005」の下に「Nov.2024」と書き足し、赤丸の中にもちろん40と記した。40冊で合計4000枚の写生はさほど自慢出来る数ではないが、鶏頭を描くのに1枚当たり最低1時間は要している。そう考えると人生のそれなりの部分を費やして来たと思う。何冊目の何ページに何の植物を描いたかは別に記録してあって、それをパソコン上のデータに移せば、瞬時に目当ての花の写生が検索出来る。ずらりとクロッキー帳が順に並ぶ様子を見ると感慨深いが、筆者が死んだ後、全部ゴミになるはずで、そう思うと悲しい。だが今の気分は50冊は描きたいことで、20年のブランクはあったが、また各地を歩いて気に入る花を見つけて描きたい。
●クロッキー帳のスパイラルを取り外す_d0053294_14255579.jpg


# by uuuzen | 2024-11-23 23:59 | ●新・嵐山だより
●阪急嵐山駅前広場の渡月橋への誘導表示
野に入る 赤き矢印 太文字で 電車降りれば みな導かれ」、「紅葉に かけた赤文字 目立ち過ぎ 注意喚起の 裏の意図とは」、「ぞろぞろと 民家の前を 歩くより 林を抜けて 目の前は川」、「紅葉狩り するほどの赤 もう稀な 嵐山には 人のみ多き」
●阪急嵐山駅前広場の渡月橋への誘導表示_d0053294_18411339.jpg
今日の写真は今日撮った。嵐山駅前の広場の北端に渡月橋に行くにはこちらという方向を示す垂れ幕が道路フェンスにステレオのように2枚貼られた。昨日か今日設置されたはずだ。これはどこが設置したのだろうか。たぶん阪急だろう。また警察と相談してのことかもしれないが、当然自動車の誘導用では全くない。今は嵐山の紅葉を求めて阪急嵐山駅を利用する客が最も多い週末で、道がよくわからない観光客に教えようということだ。今日は冒頭の4首の歌に言いたいことはおおよそ書いたが、ひとつ残っていることがある。この垂れ幕は去年はなかったと思う。あってもこのように目立つ文字ではなかった。渡月橋への近道を指示することは観光客にとってはありがたいが、地元住民もそうだろうか。確かに矢印とは反対の左手に行くと民家があるので、そこを大勢の人が歩くのは住民からすれば鬱陶しいが、民家ばかりがあるのではない。写真の2枚の垂れ幕の間がホテル「花伝抄」の玄関で、左端は昔から営業している「カフェらんざん」で、建物の側面に「COFFEE」の文字が見える。この喫茶店の玄関は矢印とは反対方向にあって、らんざんにすればあまりいい気はしないだろう。そう想像してみると、矢印方向に歩くと、阪急電車を利用した人は、必ず17日にプレ営業を始めた紅茶とカヌレを売る小屋の前を歩くことに気づく。その売店は阪急所有の土地に建ったから、阪急としては宣伝を兼ね、また売り上げ増進を狙って、この垂れ幕を駅を降りれば真正面に目につくフェンスに貼りつけたのではないか。それは地元住民への配慮ではあろうが、所有の土地で営業させる店への便宜でもある。カフェらんざんのマスターと今年の春先に話したところ、昔は8割が一見客、2割が地元住民が利用していたが、近年はその割合が逆転したという。この2枚の垂れ幕を見ると、阪急電車を利用する人はカフェらんざんには目が向かない。SNSの時代、カフェは工夫次第で一見客が急増する。それは営業努力だ。客の8割が地元住民が占めるのであれば、昔と同じメニューと味で充分営業が続けられるだろうが、そうとばかりは言い切れない。京都では何代も続く老舗の和菓子屋がいくつもあるが、そういう店でも新商品を開発し、宣伝に余念がない。流行商売である喫茶店ではさらに時代を読んで先駆ける精神は必要だろう。この赤い垂れ幕にはSNSによる戦略と似たような作為がちらつく。紅葉が過ぎ去れば撤去されるが、来春やまた秋はどうなるか、その変化からまた新たなことがわかるだろう。嵐山が賑わうのに比例して紅葉は駄目になって来ていることは気のせいか。

# by uuuzen | 2024-11-22 23:59 | ●駅前の変化
●「届けらる 今年は早き 守護札を 各自治会の 長に配りし」
社札 眼につく場所に 飾らねば 罰が当たると 畏怖するがよし」、「自転車で 配り回るや 守護の札 要らぬ人には 迷惑がられ」、「お賽銭 五円を投げて 福あるか ただよりましと 神は思うか」、「悪いこと あれば思えや よかったと もっと悪きが なくてましだと」
●「届けらる 今年は早き 守護札を 各自治会の 長に配りし」_d0053294_18171088.jpg
今日の写真のものは去年は11月末に届いた。今年は2週間早かった。去年は家内が受け取ったのでどういう人が持って来たのかわからなかったが、今年は筆者が応対し、紺色のスーツ姿の20代らしき男性に意外な気がした。外注かもしれない。「平安神宮守護」は写真とは別のもう一包みがある。「節分火焚串」は50本で、14人の自治会長や筆者が個人的に知る人に配って墨書してもらう。1本200円だ。2000世帯ほどあるので50本は簡単に協力してもらえるようなものだが、去年は10本が白木のまま返却され、慌てて知り合いを回って記入してもらった。平安講社の代表としてそんなことまでせねばならない。副代表がふたりいるので彼らにももちろん頼むが、筆者も含めてひとり当たり2本で、やはり大部分は自治会長にお願いするしかない。しかしわずか200円でも支払いたくない人がいて、平安神宮が文化の神を祀ることを説明しても無駄だ。自治会長には平均3本配るが、自治会長、副会長、会計の3名で1本ずつ分担すれば済むのに、副会長や会計に頼むのが嫌な自治会長がいる。自治会長の夫婦で2本、子どもに1本で、3本はわけなく書けると思うが、現実はそうではない。14の自治会に配るのに、火焚串と守護札を世帯数で比例割りしてそれを大きな封筒に入れ、また去年とは文言や日付を書き換えた用紙1枚をコピーして同封し、学区の世帯地図を見ながら配る。ここ1週間ほどは雨天でない限り、嵯峨で鶏頭の花を写真しているが、今日はそれを正午少し過ぎに終え、午後から上記の作業に取りかかり、自転車で2時間ほど要して配り終わった。作業が終わった途端に雨が降り出した。記名された火焚串とあまった守護札の返却期限を来月10日としたが、遅くて去年と同じ来月23日に平安神宮に持参する。2週間ほど余裕を持ったのは、白木で返却された場合、知り合いに頼み込みに行く日数を思うからだ。守護札は去年と同じく自治会加入世帯のみに配った。それでは1500枚ほどあまる。おそらく自治会加入とは関係なく全世帯に配布すべきだろうが、未加入世帯は迷惑がることもある。近所に未加入の大金持ちがいるが、長年ゴミ袋を他人の土地に捨て続けて平気で、今夏筆者は口頭でこんこんと注意してやった。そういう常識欠如の家には守護札は配りたくない。どうせ「勝手にポストに入れるな」と言い、すぐに捨てるだろう。それで今年も1500枚はそのまま平安神宮に返す。去年わが自治会で守護札に対して1000円を自治会長に手わたした高齢女性がいた。その1000円を思い出し、今日返却しに行った。「これは無料です」

# by uuuzen | 2024-11-21 23:59 | ●新・嵐山だより
●「根元こそ 頼もしければ よしなれど 徒長嫌われ 花切り取られ」
吽とは 行かぬ仲でも 通じ合う 花好きオーラ 醸す人では」、「花見つめ 仕組みわかりて 不思議がる 命の意味は どこにあるかと」、「命ある 人が描くや 生きた花 そこに対話は あるのかなきか」、「昨日より 勢い失せて 見える花 それが自然と 知りつもさびし」
●「根元こそ 頼もしければ よしなれど 徒長嫌われ 花切り取られ」_d0053294_18214182.jpg 今日の写真は昨日の写真と同じく、16日に撮った。嵯峨のとある家の角に咲く鶏頭の2鉢のうち、目下写生している奥の鉢で、正午を挟んで毎日写生に出かけている。上の写真は太い幹がどう分離して小さな花の茎を延ばしているかの、その接続箇所を撮った。下の写真は根元で、鉢の端のほうから伸びている。茎が斜めになっているのは背後が家の壁で、また伸びている方向が日照りがよい。極太の茎が目の高さ辺りで切られている様子は写生を済ましたが、次に取りかかったのは切り取られた先端部から根元に至る極太茎の全体を描くことで、茎が分かれて花を咲かせている7,8本は最後に回す。昨日書いたようにそれらの比較的細い枝はどれもだいたい似て、脇役だ。肝心なのは主人公で、それが極太の茎なのだが、切り取られた先端は幅4,5センチの扁平形で、多くの縦筋はデスクトップ・パソコンの本体内部の配線コードに似る。それだけを見れば、根元まで同じの状態で、しかも根元に近いほど太いと想像しがちだが、今日の写真からわかるように根元はさほど太くなく、断面は円形だ。それが高さ1メートル辺りから扁平に近づき、しかも幅が大きくなっている。中心となる極太茎から7,8本の茎が伸びていて、それらの茎からさらに花をつける茎が伸びている。簡単に言えばそういう状態だが、極太茎につく葉は巨大で、昨日の写真が示すように、切り口付近にそれが群がっている状態が賑やかで力強い。それゆえ、切り口から上がどのような花と葉のつき具合であったかが気になって仕方がない。今日は筆者の言葉がついに聞こえたのか、切り取ってドライフラワーにしたものを見せてくれることになった。残念なことにそれは鶏頭の花だけをもぎ取って他の花と一緒にしたリースであった。葉や極太茎はみな捨てられたようで、来年また育てるとは言ってくれるものの、今年のような貫録充分な極太茎になる可能性は低い気がする。極太茎とそこから派生する花茎の接続部は人間の関節を思わせるように丸い瘤状になっている。これの極小は茎から伸びる葉の根元にも見られる。写生ではその瘤の形状と、そこから伸びる花茎や葉の曲線具合に最も神経を使う。写実画ではその描かれた曲線を見ただけで、画家がどれほど注意深く観察したか、また描く力量がわかる。支柱としての茎から伸びる葉の根元の細い茎の曲線は、重力の影響を受けながら鶏頭がどのように踏ん張って陽射しを最もよく受ける角度を保とうとしているかの格闘の痕跡だ。枯れると水分を飛ばして縮み、また重力に負けて下方に垂れる。人間と全く同じと言ってよい。

# by uuuzen | 2024-11-20 23:59 | ●新・嵐山だより
●「目的は 子孫増やすや 生命は 鶏頭の花 それに違わず」
す季節 過ぎて本番 鶏頭の 赤き花と葉 血が行きわたる」、「鶏頭や 硬きベルトの 茎見事 頂部切らるも まだ花咲かせ」、「鶏頭は 放置されるが 元気よし 狭き場所ほど 逞しく咲き」、「偉人の子 立派にならぬ ことに似て 今年限りの 鶏頭の富」
●「目的は 子孫増やすや 生命は 鶏頭の花 それに違わず」_d0053294_11544621.jpg 嵐電の車折神社駅近くに咲く鶏頭の花、17日を除いて14日から毎日写生している。特に15日は小雨が降り出し、全身が濡れるのはいいが、写生している紙がひどく濡れ、もう描けない。近くのスーパーに避難しても止みそうになく、そういう日は残念な気持ちで買えるしかない。花を育てている主婦から切って持って帰っていいと言われたので、いつ全部根元から切られるかわからない。玄関を見ると表札がなく、名前がわからないが、その主婦は土いじりが大好きで、描くなら勝手にどうぞという態度だ。耳が遠く、耳元で大声で話さねば意味が通じないが、筆者が知りたいのは今日の写真の人の背丈ほどのところで切られた極太茎のことだ。主婦はドライフラワーにしたと言うが、2個の植木鉢にせせこましく咲く鶏頭を仔細に見ると、大幅に切り取られたのは奥の鉢の先端部のみだ。切り口が3つあるが、それら3本が枝分かれしてた可能性は大きく、想像するに根元から2メートル50センチほどはあったのは確実だ。終日陽当たりがよく、また土もよいのに違いない。鉢から2,3メートルの線路際にいろんな花が咲くそうで、そこにあった鶏頭を移植したと言う。その土地に枯れた花を捨てる人がいるそうで、そこに鶏頭が混じっていて、それが発芽したのだ。線路際のその土地を見るとなるほど土はよく肥えているように見えた。昔周辺が畑であったのでそれは当然だ。そこに立ち入って作業していることを嵐電から注意されたことがあるそうだが、土を持って行くなというより、線路際で作業するのが危ないからだ。電車が警笛を鳴らしても主婦には聞こえない。主婦が発芽後間もない頃に鉢に移し換えたところ、その場所は終日陽射しが当たり、また毎日水やりしているので鶏頭は思う存分成長出来た。話を戻して、切り取ったものを見せてほしいと何度も言ったが、話が通じない。筆者が以前がどういう全体であったかをどうしても知りたいことが理解出来ないのだ。目の前にいくらでも花は咲いているからだ。鶏頭のドライフラワーは花の色がそのまま残っているそうで、ならば葉もそのままで、切り取る以前の太茎の状態がわずかでもわかるかもしれない。それを想像するに、太茎全体は根元近くから7,8本枝分かれしたものが高さ50センチから1メートルほどで開花していて、それらと同様の茎が太茎の最上部にあったと考えるのが自然だが、実際はわからない。直径1センチほどの茎の鶏頭ならよく見かけるのでこの場所で描く必要はないが、幅4,5センチという巨大な茎はそれ自体から大きな葉が何枚も出ている。
 その様子は今日の写真から明らかだ。これらの巨大な葉はこの太茎でしか見られない。またどのように茎から飛び出しているかは眼前の実物を写生するしか把握出来ない。そしてこの太茎の切り取られた上部は直径1センチほどの下の方で群がって咲いてる茎の花とは条件、状態が違うはずで、それは枯れた状態であっても見たい。言うなれば恐竜の化石から実物を想像するのと同じ作業だが、3週間前に元散髪屋の奥さんからこの花のことを聞いた後、もう30メートルほど先まで線路際を確認していたならば切り取られる前の状態が確認出来たのにつくづく残念だ。しかし家内がめったに走らない道をたどってスーパーに行こうとしなければこの花に遭遇出来なかったので、まだ幸運と言わねばならない。これほどの豪勢な鶏頭は来年は期待出来ない気がする、主婦は筆者が花を褒めることに対して来年も育てると言うが、鶏頭は気まぐれで、手間をかけるほどに立派に育つとは限らない。むしろ、無視しているほうがよい。来年はどうなるかわからず、現在目の前にある機会を逃してはならない。主婦は来年はいないかもしれず、それは筆者にも言える。切られた極太茎の先がないのは仕方がなく、ともかくこの茎から派生している細い茎も含めて開花状態全体を毎日分けて描くつもりでいるが、まずは切り取られた先端部だ。当然根元がどうなっているかも克明に描かねばならない。根元から先端まで、途中の枝分かれもすべて描くとして、最低でも20枚にはなる。1日2枚では10日、しかし雨天があり、用事で出かけることもあるので、2週間か。しかし2週間の間に主婦はさらに切り取るだろう。それに今日は主婦と話している時に主婦と同世代の女性が通りがかり、用事が終わって帰りがけに何本か切り取って持って帰りたいと言う。その言葉は主婦に聞こえず、また切り取られるのは道路際のものであるはずで、筆者はひとまずはそれに関心がなく、描かない。鶏頭の2個ある植木鉢の奥にあるものを描いているが、手前の鉢の花がかなり邪魔をして半分ほどしか見えない。それで今日は紐を持参して手前の花の群がった茎をさらに結わえた。というのは道路に傾いて咲かないように主婦は括っているからだが、その括り方がまた描くのに具合が悪く、こっそりと奥の鉢と分離するように括り直した。もちろん帰宅時に元に戻す。よくもまあこんな狭いところに密集して咲いていると感心するが、鶏頭は生育条件の悪そうな場所に却って逞しく育つのではないか。この鶏頭は種子がまだ全く出来ていないので、1か月ほどは咲き続けると思うが、主婦の耳元で「タネが出来るまで放っておいてください」と何度か言ったが、やはり話は通じない。種子から育てたものではないので種子を収穫して保存しておくつもりはないのだろう。幸運にも1か月ほど放置されると種子が出来るから、その時は筆者が勝手もそれを採る。

# by uuuzen | 2024-11-19 23:59 | ●新・嵐山だより

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