堂々と世間のごく片隅でブログを書き続けて今月21日で丸20年が経つ。ブログは当時若冲に関する本の執筆を依頼され、その文章の練習を思って始めた。毎日1回の投稿を決めながら、10年前からは投稿出来ない日が増えた。

パソコンで見る場合、画面の右欄の投稿年の頭に黒丸がついているのは、投稿しなかった日があることを示す。全部白丸にしたいが、今となっては写真があっても当時の記憶がかなり薄れ、遡っての投稿も出来ない場合が多い。ブログには若冲関係の、つまりこの20年筆者が最も力を入れた事柄についてはほとんど全く言及せず、江戸時代の絵画についても同様で、ブログを読む人は筆者の関心事の偏りに気づく。それはいいとして、5年前の春に母が世を去り、その2,3週間後から投稿する際は必ず短歌を4首詠むことにした。それは本文を書くより時間を費やす場合があって、なおのこと未投稿日が増えた原因と言えるかもしれない。先月末で短歌の投稿は終えることにし、今月21日までの投稿は短歌なしで済まし、また21日以降は投稿がかなり減るだろう。ごくごくわずかな人しか読まないので、いつやめてもいいと思いながら20年続けて来たのは、生活と思考のひとつの習慣になっていたからだ。しかし文章力が増したとは思わない。毎回思いつくまま書くことは同じでも、10年ほど前の方が面白いことを書いた気がしている。これは年齢相応に心身の劣化が進行しているからで、渋々でもそれは認めねばならない。一段落当たり1200字を超えず、しかもそれに足りない字数は多くて30字ほどという「型」を意識して書くことは、そう決めた当初はさておき、近年はそのことを意識せずに書き進めてもほとんど正確に1200字ほどがわかるようになり、そのことが文章の流れとしていいのかそうでないのかわからないが、何事も習慣づくと型が出来上がることを思う。それを打破するために短歌を始めたと言ってよいが、たぶん5000から6000は詠んだので当初の3000程度の目的は達した。どれも短歌と呼べるものはないが、頭の体操にはなった。さてここから本題だが、3月29日に家内と大和郡山の城址を訪れた。天守はないが、近年木造で橋や櫓が復元され、そのことを2月のTVニュースで知り、今年こそ桜が満開の日に行くと決めた。3年前の同じ頃、家内と天理市に行き、近鉄電車の車窓から桜が満開のこの城址を眺めながら、行くなら桜の頃と決めた。撮った写真の整理や歩いた道筋を地図上に記す作業を先月上旬に終えながら、投稿するにはまとまった日数が必要であるから、いつからにしようかと思っている間に1か月以上経ち、間に別の内容を投稿しながら今日から断続的に奈良での徒歩による日帰りの旅について投稿を始める。最初の画像として歩いた道筋の地図を載せる。パソコン画面では500ピクセルに縮小されるが、クリックで拡大する。

青線が歩いた道筋だ。今回は印刷した地図を持たず、勘に頼った。地図がなくても東北方向に「オレオレ(折れ折れ)歩き」をすると三条通りにいずれ至ることを何度も地図を見て頭に叩き込んだ。しかし実際に歩くのは想像とはかなり違って広々とした平野を味わった。地図のオレンジ色の線は次回歩くことがあれば辿りたい道順だが、もう歩くことはないだろう。アルファベットは今後の投稿のために写真を用意しているか、気になった場所だ。地図の左下は大和郡山駅やそのすぐ北の城址で、当日は桜祭りが実施されていたこともあって人が大勢いて、屋台の店も多かった。数日はその城址でのことを投稿するが、今日は大和郡山に行きたくなった直接の理由は柳沢淇園が暮らした土地であるからだ。今は金魚の養殖でよく知られる大和郡山は、柳沢淇園が甲斐から移り住んで30数年過ごした地で、その間に書画を初めとした諸芸を嗜んだ。それがあまりに目にあまるというので、柳沢の苗字その他を剥奪される謹慎処分を受けるが、武士本来の仕事をせよと言われても元禄以降の世の中は刀を振りかざして敵と斬り合いすることはなく、また江戸から遠く離れているので、特に問題が起きない限りはすることがないというのが実情であった。そのため、たとえば飲食にうつつを抜かした武士がいて、その人物について書いた本を昔読んだことがあるが、柳沢淇園はそうした普通の人間とは大いに違って、書画から伝わる切れ味は刀そのもので武士の自覚を忘れなかった。同様の武士である画家に渡辺崋山がいるが、上方に住まず、また幕末に活躍して最期は切腹を命じられたので、同じ凛々しさでも淇園とはどこか異なる。とはいえ筆者は崋山の絵も好きだ。中学生の教科書で崋山描く肖像画を見たのが最初で、その意味では淇園の絵画よりも出会いは40年ほど早い。さて、数日前に淇園の大幅の書の対幅を久しぶりに引っ張り出したところ、古い箱があまりに破損していたので修復し、掛軸は並べて吊り下げ、写真を撮った。今日の2枚目にそれを掲げる。この書は10数年前に入手した。右幅は「停和国愛楓林暁」、左幅は三文字目が単純な形であるので却ってどの漢字かがわからず、所有する古文書の読み方を記した本に載る漢字を片っ端から確認すると、「将」「持」「為」「相」「別」のどれかにとても近いが、それらの字では七文字の詩は意味を成さない。それで七文字目をかなり苦しいが「堂」と読むと「二月堂」となり、三文字目は「散」の草書をさらに単純化したものかと思った。となると「楓葉散於二月堂」となって、この七言の対句を筆者なりに短歌に読み替えた。「暁に 紅き楓の 林愛で この和の国に しばし停まる」と「楓の葉 散りて熱きの こぼれ火か 二月堂にて 松明想う」になるが、左幅は右幅に比して二月堂のことを知らない人には意味がわかりにくいので、言葉を多く補ったが、補い過ぎであることは確かだ。

淇園の書はほかにも所有し、絵も2点持っているが、最も好きなのはこの対幅だ。この書は雄大で繊細、色鮮やかで春への期待に溢れ、大和郡山の城址から二月堂までいつか歩く決心をさせた。その後10年ほど前に、お水取りの頃ではなかったが奈良国立博物館に行ったついでにひとりで二月堂に足を延ばしたことがある。東大寺の大仏殿までは誰しもよく行くが、その北にある二月堂、さらには正倉院まで歩く人は少ないだろう。これもついでだが、紹介しておく。9年前の秋に大和文華館で開催された
柳沢淇園展では前述の書の双幅と同じ時期に書かれた同じ七言二句の聯書が展示された。本紙のサイズ、落款と印章、また筆跡も同じであるから、本来はこれら対幅を併せた四幅対であったかもしれない。図録の解説によると右幅は「花迎剣佩星初落」、左幅は「柳拂旌旗露未乾」と書かれ、この漢詩及び作品についての説明はない。花や星、剣、露はいかにも淇園好みで、柳の登場もそうだが、ネットで調べると中国の古典詩で、登城した時の様子を詠んだ長い詩の一部であることがわかる。花咲く頃に剣佩を携えて入城し、星が消える夜明けを迎えると、柳に触れた旗に付いた朝露がまだ乾かないことを詠み、淇園は似たことを経験したか、想像したのだろう。こういう詩を選ぶことはいかにも文人で、また刀を携える身分への意識が強い。筆者が所有する先の書は写真からわかるように、合計で4行の中央2行の最上部の三次がともに「楓」でしかも書体が違う。意識してそうしたはずで、この二文字の楓の並置は柳沢淇園展についての投稿で触れた着色画の「寒山拾得図」における寒山と拾得の一体化した顔を連想させる。その投稿では机に伏して眠る童子の机が鮮やかな赤であることを書いた。その印象が強かったこともあって、大和文華館を出てすぐ、ほぼ真正面にひとつだけ咲いていた赤い木槿の花に注目し、その写真を撮った。その経験は今も鮮明に記憶し、その後木槿ではないが同じ夏場の花の鶏頭に注目するようになった。それはともかく、「停和国愛楓林暁」は日の出に紅葉した楓を愛でることで、ここには二重の赤が描写される。また「和国に停まる」の「和国」は「日本」でありしかも「大和」の意味合いが大きい。そして大和郡山藩は大坂と京都に近く、奈良盆地ではたぶん最大の藩で、そこに仕える淇園はその自負があったろう。また「和国」の言葉を使うことに、日本が極東に位置し、シルクロード文化の交流の西の果てに位置する奈良への意識が感じられる。「停和国愛楓林暁」は甲斐の国にいては出て来ない表現で、淇園の眼差しは中国の唐やもっと西域にまで及んでいるように思える。さて、問題は「楓葉散於二月堂」だ。そのように読むと、これは淇園が早朝に大和郡山城から二月堂まで歩いて楓の紅葉した葉が地面に散っている様子を見たことを示す。しかしそれだけならば二月堂を知らない人には通じない。

二月堂では新暦の3月に行なわれるお水取りが連綿と続く。二月堂の高い場所で僧が走りながら燃やす大松明の火の粉は地面に落ち、淇園は紅葉した楓の葉を見てその火の粉を連想したのではないか。本格的な寒い冬はこれから始まるが、楓の葉が散った2,3か月後には二月堂に春が来るという気分を込めたと解釈すれば、暁の色に楓の林の紅葉を重ねた次に、散った小さな楓の葉を松明の落ちた火の粉になぞらえ、そこにも赤の響き合いがあって、赤色への好みは淇園の絵画に描かれている。そう考えるとこの対幅は「花迎剣佩…」よりも淇園らしい。しかし「二月堂」は「二月花」が正しいのではないか。となると「散」では意味が通じない。「二月花」は梅と考えてよい。淇園は四君子のうち、竹以外では梅を描いたが、それは白梅だ。そこで花札の2月の梅を思い出すと、その4枚の札に描かれるのは紅梅だ。しかも短冊には「あかよろし」とあって、梅では紅梅が愛されて来たことがわかる。一方、花札には鹿を描いた10月の楓がある。鹿は奈良を意味し、淇園は楓は奈良すなわち和国を代表する植物と考えた。だがこれは葉であって花ではない。「二月花」が紅梅とすれば、「楓葉」は「停和国愛楓林暁」と併せて考えるに、紅葉した葉とみなすしかない。つまり淇園は紅梅に先だって楓の葉が赤く色づくことを詠んだ。となると「散」はどの漢字であるべきか。筆者の所有する本には載っていないが、単純に考えて「紅」ではないか。「楓葉紅於二月花」と解釈すれば「楓の葉は二月の花における紅」となって、紅葉真っ盛りの葉だ。この句に「梅」の漢字を使うと「楓」と喧嘩して目立つので、あえて「二月花」とたとえた。また楓と梅は花木で、「二月花」から二月に咲く草花を連想する人はいない。同じ赤の重ね合いにしても、二月堂の松明の火の粉と紅葉した楓を重ねることは幻想的過ぎる。淇園が「楓葉散於二月堂」と書けばそう読み取るしかないが、淇園展の図録で紹介されたもうひとつの対幅と同じ時期の作とすれば、この対幅も中国の古典詩からの引用があるのではないか。そう思って調べると、寒山に因む寺で詠まれた古典の詩に「霜葉紅於二月花」の句があることを知った。淇園は「霜」を「楓」に変え、これも部分的に古典から引いているかもしれないが、自作の「停和国愛楓林暁」と対にした。崩し文字をすらすら読める能力のない筆者は淇園の書の前で何年も思案し続ける。淇園は紅葉真っ盛りの奈良公園辺りを好み、二月堂まで歩いたことはあるはずだ。正倉院の宝物を見るには東大寺の許可が必要だが、大和郡山藩の藩主の柳沢を名乗る淇園であれば、乞えば内部を見せてもらえたのではないか。法隆寺の壁画も同様で、唐の香りを伝えるものを愛し、それを自分に引き寄せての新たな表現を追求した。淇園の作品はどこにまだ知られずに眠っているかわからないが、現在の限られた点数だけでも充分と言える。

