「
肝心は 何かと問われ 楽しさと 答えて開く 次の問題」、「言葉には ならぬ思いの 溢れしを 手を動かして 点と線埋め」、「賞められて 勢い増すや 力技 やがて世間を 広く見渡し」、「したきこと 出来ずに老いて 目覚めしが 根気続かず 運気もなしに」

入院中の家内を見舞うのに毎日必ず歩いたのが50メートルほどの病棟をつなぐ廊下で、その長さの半分は専門家が描いたイラストを拡大して壁に貼りつけ、奧の方、つまりエレベーターに近い半分は壁面に絵画が展示出来るようになっていて、10数点の額縁入りの絵が飾られていた。エレベーターに最も遠いところの壁面に説明書きのポスターがあって、「パラリンアート」と題していた。定期的に展示替えされているのかどうか知らないが、同ポスターにサムネイルの形で紹介される作品は22点で、その全部が展示されていなかったので展示替えはあるだろう。どのくらいの月日を置いて全作品が別の新たな作品に替えられるのかは知らないが、有名な画家の複製画を展示するよりははるかによい。同ポスターに「社会保障に依存せず、民間企業、団体などからのご協力のみで、障がい者の“自立推進を継続できる仕組み作り”を目指しています。」とあり、また2020年の東京オリンピック・パラリンピックに向けて2018年から「パラリンアート世界大会」が開催されるとも書かれ、2018年の前年頃から展示され始めたのだろう。全部実物とは思うが、ならば同ポスターはこの病院での展示だけのために作られたことになるから、精巧な、そして縮小の複製かもしれない。22点ではあまりに少なく、その100倍ほどの数がなければパラリンピックにひっかけた「パラリンアート」という呼称はふさわしくない。「障がい者」とあるだけで、知的障碍者を含むのかどうかもわからないが、人生半ばで心身に障害を受ける人はたくさんいるので、「障がい者アート」という一種の色眼鏡で見ることはよくないと思うが、障がい者の「自立を推進」するために民間企業や団体などの継続的協力を得るということは、展示されているような絵画を継続的に購入してもらうのか、あるいは障がい者を雇用するのかと言えば、後者がよいに決まっていて、作品は障がい者が障害を理由に就職できない現実があることを広く伝えるためのものではないか。パラリンピックに出場する人たちは運動能力に優れているが、美術の才能のある障がい者にも光を当てようということだろう。となれば楽器を演奏する障がい者の出番もすでに設けられているかもしれない。また、芸大美大を卒業して障がい者になった人もいるはずだが、彼らの作品がパラリンアートで紹介されれば玄人そのものに思われるであろうから、義務教育以降、絵画の専門的学習を受けて来なかった障がい者の作品を扱うと想像するが、ポスターはそういう情報を提供せず、まずは絵画そのものに対峙して感じ取ってほしいとの思いを伝える。

これらの作品は「アール・ブリュット」とみなしてよいものもあれば、健常者と何ら変わらない作品もあって、その点で「障がい者アート」という色眼鏡はやはりどうかと思うが、どの作品も素朴な味わいがあって、平たく言えば癒しの効果がある。それは先日の天龍寺での節分会で展示された小中学校の子どもの作品とはやや違うもので、上手に描こうという、他者に見せる気持ちに乏しく、描く行為に充足しているように見える。「アール・ブリュット」の絵画は強迫観念が背後にあって、不気味さをひとつの特徴とするが、これら10数点にはそれがなく、美術の専門家からすれば単なる素人絵画として看過されやすい。先日来、本ブログに書いているように筆者は目下鶴見俊輔の『限界芸術論』を読んでいるが、鶴見は同書の題名をこう定義する。1960年の文章だ。「今日の用語法で「芸術」とよばれている作品を、「純粋芸術」(Pure Art)とよびかえることとし、この純粋芸術にくらべると俗悪なもの、非芸術的なもの、ニセモノ芸術と考えられている作品を「大衆芸術」(Popular Art)と呼ぶことにし、両者よりさらに広大な領域で芸術と生活との境界線にあたる作品を「限界芸術」(Marginal Art)と呼ぶことにしよう。」これら三つのカテゴリーのどこに「障がい者アート」は属するかとなれば「限界芸術」が最もふさわしい。限界芸術が時代を経て純粋芸術に昇格するかどうかの問題を鶴見は書かないが、限界芸術が大衆に広く歓迎されることはよくあるし、また大衆芸術が時代が大きく変わった将来、「純粋芸術」とみなされる場合があることは誰にも否定出来ず、これら三つの分類は現在においての大方の意見の一致した見方と捉えるのがよい。人間は一生の間に親しく話す人数はごく限られ、たとえば愛する身内や親しい人が描いた凡作や駄作であっても、それを大事にして家に飾ることはよくある。市場的価値は全くなくても、名画の複製よりははるかによいと思う人は多い。となると、純粋芸術の価値は認めつつ、そのような手の届かない作品よりも生活の中で安定した雰囲気をもたらしてくれる身内や知友の「心優しい」作品のほうがはるかに生活に彩を添えてくれる。ましてや億単位のお金で取り引きされる純粋芸術は神々しいかもしれないが、ごく一部の資産家の愛玩物のようになって汚らわしいとさえ思う人はあるだろう。となれば、純粋芸術の価値は自分には無関係で、もっと卑近な限界芸術を好むという態度は理解出来るし、その延長上に「障がい者アート」はある。しかしそれは金で買いたいというほどのものではなく、「素朴に描いてあって気持ちがいい」という思いを起こすこと、つまりそれは絵画鑑賞の基本だが、病院の患者や見舞い客が廊下を通る時にたまに立ち止まって眺めることで役目を終える。名画であってもそれは同じで、見つめて何かを感じるところに価値がある。

さて、先月18日、筆者の上の妹夫婦が見舞いにやって来て、妹は長男の長男すなわち孫の描いた絵をスマホでいくつか見せてくれた。数年会っていない間に中学2年生になっていて、相変わらず絵を描くことが好きだが、学校の成績がオール2で、よい高校は無理だろうと言う。好きな絵の道に進んでくれるのはかまわないが、それで食べて行けるかどうか心配とも言う。肝心の絵は、黒の細ペンで下書きなしに思いつくまま超微細な抽象文様を連ねたもので、数時間は没頭し、疲れるとペンを置くため、どの絵も周囲に中途半端な余白を残したままとなっている。同じような様式の絵は60年代のサイケデリック時代によくあって、本人はそういうものをどこかで見たのだろう。子どもの作画は必ず最初に何かに影響されてのことで、そこから真の創造をどう広げて行くかが画家としての生涯をかけての戦いだが、中学2年生で美術史に関心がなく、自己流で「アール・ブリュット」風に根を詰めて描く行為に快感を覚えていれば、そのエネルギーを持続させてしかも長じてそれなりの生活を支える収入を求めるとなれば、周囲の理解は当然として、的確な指導者とネットを使った巧みな宣伝が必要になる。幸い妹夫婦は大の資産家で、理解もあるようなので、孫の才能を活かす方法を今後多くの人の意見を参考にしながら模索して行けばよい。筆者と対面して話すことがあれば、その孫は筆者から感化されるかどうか、それはわからないが、中学2年生で美術史に大いに興味のあった筆者とは違うので、アカデミックな勉強は目指さないほうがよいし、目指したところで成績優秀な絵好きにはかなわない。とはいえ、その孫が現在の技法と画題のままではもっと優れた才能にたやすく模倣されるから、何をどう描くかを今後自分で見出す必要がある。孫くらいの絵の才能は100人にひとりはいるので、それで将来収入を得るのはよほどの幸運が舞い降りる必要がある。それはさておき、妹家族は孫の絵の才能は筆者の血と言うが、筆者は孫のような絵を描かなかった。小学生半ばから畳一枚分の大判画用紙に鉛筆一本で超精緻な模写をよくしていて、写実主義が好みであった。そういう絵は一枚も残っていないが、妹の孫が見れば参考になるかと言えば、中学2年生で自己流で描いて好みの画風は定まっていているし、本物そっくりの写実を鉛筆一本でこなせるから絵がうまいとは言えない。筆者は画用紙の中に対象をどう収めるかに留意し、額縁に入れて飾ることを建前としたが、孫の絵はアメーバの増殖のように天地左右がなく、これで完成という画面の枠を意識していない。そこがオール2の成績の限界かと思わないでもないが、とても優しい性格で、学校の先生を初め、周囲の大人に気に入られているというから、どうにか大人になって自立出来るだろう。絵以外のやりたいことが今後見つかる可能性はあり、筆者は妹に陶芸を勧めた。

話を戻す。病院の連絡廊下の壁面に飾られる「障がい者アート」のうち、最も目を引いた作は
先日部分を紹介した「通勤」と題する作品だ。今日はその全図を載せる。画面右下に自転車で通勤する作者を描き、作者名は「TAEKO OOBA」とある。どういう障碍を持っているのかわからないが、自転車通勤出来ることはわかる。その通勤を生き甲斐としているような楽しさが伝わり、本人にとって環境のよい仕事場であることが想像出来る。一部は写真を見て描いたかもしれないと以前書いたが、絵の中にある「安城牛乳配達所」の文字を頼りに調べると、安城市に絵とよく似た建物が見つかった。それが今日の2枚目の画像だ。この牛乳配達の工場に勤務する作者と思うが、建物には絵のような「森永カルダス」やその他の文字がない。最も大きな差は路上の白い菱型マークの2個だ。それで別の場所かと思わないでもないが、菱型マークは作者の家の近くのものかもしれない。そのことを合わせて考えるに、写真を参考にせず、記憶に頼った絵と言えるだろう。工場では単純作業に従事しているのだろうが、そういう仕事でも勤務が楽しいという思いが率直に伝わり、筆者は毎日この絵の前に立ち止まった。今日の3枚目の写真は「カラフルウォーキング」と題し、作者は田久保静とある。女性だろう。この絵は
フンデルトワッサー張りで、「一流の芸術家と称される者でも画家はみなどこか精神障害があるのではないか」との妹の意見を思い出させる。それはこの絵が精神障碍者が描いたのであればフンデルトワッサーもそうであったという意味で、フンデルトワッサーのような才能は埋もれているだけでどの時代のどの国にもいるのだろう。有名になるかそうでないかの差は才能はもちろんとして、出会いの運も大きく支配する。4枚目は「上がり鯉」と題し、「NOON」という人が描き、性別や年齢はわからない。東洋画のめでたい古典的な画題を色鉛筆でカラフルに濃淡を描き分け、仕事がていねいなのもよい。パラリンピックは勝敗が明確な教護だが、こうした絵画は鑑賞者が好めばよく、またその人数が多いほどに名作とは言い切れない。絵画は描画技術の産物だが、その技術に甲乙をつけるとすれば、たとえば「手本に忠実に描くこと」という前提が必要となる。絵画は手本どおりに描くことに留まらず、戦後は特にそういう美術教育がなされ、戦前の臨模は否定された。書道でもそうなって来ているのかどうかは知らないが、絵画は書とは違って美の基準があまりに曖昧で、必ずしも均斉の取れた構築美を最良とはしない。時代によって好まれる絵画の傾向は変わって行くが、今は意外なもの、一瞬ドキリとさせるものがもてはやされる時代で、個性的であるほどに注目の的になりやすい。しかしそういう個性は作者本人が変革を続けない限り、簡単に消費されて飽きられる。