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●「竹林に 七賢集い 清談を 交わしつ飲むや 酒を想いて」
銃を 持ちても不安 熊被害 核を抱えて なお恐ろしや」、「紅葉の 名所と呼ばる 嵐山 少しも冴えぬ 色を渋しと」、「ああここか テレビと同じ 渡月橋 私も撮ろう 同じ景色を」、「人ごみに 混じって楽し 観光地 意味なきことと 知りつミーハー」
●「竹林に 七賢集い 清談を 交わしつ飲むや 酒を想いて」_d0053294_12580756.jpg
昨日は珍しく風邪を引いた。体温は37.9度、「風風の湯」には行かないほうがいいかと思ってネットで調べると、37.5度以上は風呂に入らないほうがいいが、元気であれば大丈夫とあった。気分は常に元気だ。それで「風風の湯」に行き、寝る前に体温を測るとやはり37.9度のままだが、今朝起きると平熱に戻っていた。2,3か月前に何とか薬品を名乗るスーツ姿の男性ふたりがやって来て、薬箱を置いてほしいと言った。筆者は薬を飲まず、家内は病院で薬をもらって来るので、置き薬は必要ないと言ったが、強引さに押されて置くことにした。薬箱に試供品として風邪薬が2日分、それにバンドエイド一箱が入っていて、そのふたつは無料と言われた。家内がそれを思い出し、その無料の風邪薬を昨日は朝昼晩と2錠ずつ飲めと言い、それにしたがった。それが効いたのだろう。筆者はここ20年ほど、薬を全く飲んだことがない。それで薬の効果はてきめんであったと思う。さて、ここ数日は1週間前に嵯峨で撮った写真を使っての投稿を考えながら、何を書くかがまとまらなかった。それらの写真は今日の投稿で使うが、どれも喫茶店「赤まんま」の外観を撮影するために出かけたついでのもので、本来没にすべきものだ。一方、せっかく撮って投稿用に加工したので、文章をひねり出しておきたいとの思いもあった。風邪の熱は引いたが、今度は咳と痰が出始めている状態で、文章のまとまりはいつも以上には期待出来ないが、渡月橋の北詰をまっすぐに北進し、JRの線路の手前で戻った間にぼんやり考えていたことを思い出しながら書く。紅葉の嵐山はいつも以上に観光客が押し寄せる。地元に住む筆者からすれば嵐山の素晴らしい紅葉は20年近く前に一度だけ味わい、それ以外の秋はすべて褐葉状態で、嵐山の山肌の錦織状態は何百年も経った錦澱の色褪せ状態と言ってよい。TVでは映像の彩度を誰が見ても不自然なほど強調加工して紅葉の見事さを演出するが、実際に嵐山を見てみながっかりするに違いない。しかしこれは嵐山に限らず、都会に隣接する紅葉の名所すべてに言えるのではないか。地球温暖化の影響でそうなって来たと思うが、紅葉の彩度が年々ゆっくりと落ちて来ているので、ほとんど人は嵐山の褐葉を紅葉と思い込む、あるいは知っていながらせっかく足を運んだので無理にでもそう思う。何が言いたいかと言えば、真の紅葉は東北の奧深い山辺にしかないということだ。しかし、これも温暖化の影響で、そうした山辺には冬眠しない熊が出没する。今年はそのニュースが特に多かったが、これからも熊が人を襲うことは頻繁に起こるだろう。
●「竹林に 七賢集い 清談を 交わしつ飲むや 酒を想いて」_d0053294_12582664.jpg その点、京都は安心かと思っていたところ、市内北部に熊の目撃情報がいくつかあった。そのひとつは嵯峨の広沢池の東方で、そんなに間近にと驚いた。というのは、今月筆者は広沢池の畔に二度行ったからだ。池の南辺に沿う道路は車がびゅんびゅんと走り、歩行者の姿はめったにない。ということは熊が出て来ても助けてくれる人がない。ま、そこまでは想像しなかったが、京都市内でも身近に熊がいることを実感させるニュースであった。しかし、わが家の裏庭には春先に猿が数匹やって来てベランダの細い手すりの上を器用に走り回るので、嵐山がワイルドライフに接した場所であることはよく知っている。わが家のすぐ近くでは夜に鹿がいるとの話も聞くので、熊が出て来ても不思議ではない。これは以前書いたかどうか、裏庭のすぐ向こうを流れる小川の縁は、幅10センチほどのコンクリートの仕切りが続く。筆者はしばしばそこに立って裏庭と小川の間の幅1メートルほどの土盛り上に落ちるわが家の落ち葉を掃除する。半年ほど前か、その小川縁のコンクリートに立つと、筆者から逃れるように長さ1.5メートルほどの白茶色の蛇が筆者の足元からコンクリート縁の上をするすると逃げ去った。裏庭辺りに蛇がいることは昔から知っているが、姿を見るのはそれが初めてで、「ああ、まだ過酷な環境の中で蛇は生き延びているのだな」と感心した。蛇がいることは他の小動物もいるはずで、わずかにしろ、まだ野生は残っている。その野生の生態が人間の活動で大きく狂って来ているかどうかは、地球温暖化を研究する学者によって意見が異なるが、地球規模のあらゆることの因果関係を明確に証明することが元来不可能であって、人間の直感に頼る方がまだ真実に至りやすい。したがって温暖化の原因は人間の快適を目指す活動に原因があることは確かと筆者は思うが、一方では地球はまた氷河期に向かっているので現在の温暖化は深刻に考える必要がないと言う人もある。そのことに対して、温暖化が進むと、氷河期を迎える前に地球の生態は乱れに乱れて悲惨なことになるとの反論があろうから、結局何が正しいのかと言えば、快適な暮らしを求める人間はどこまでもそれを追い、他の国や他人がどうなっても関係ないという利己主義、すなわち人間の本能が正しいことを認めざるを得ず、自由を標榜する民主主義に欠陥がありはしまいかとの議論にもなる。個人が好き勝手に生きられることは正しいとして、その個人があまりにも巨大な財力、権力を持つと、必ずどこかで歪な何かが生じる。その歪なことの集積が温暖化をもたらして来ていることの最大の理由かと言えば、それはそうなのだが、その巨大な権力を支えているのは各個人であるから、個人の生き方の問題とも言える。筆者の場合、それは慎ましく生きることで、それは貧乏のままでもそれなりに楽しく生きられるとの思いだ。
●「竹林に 七賢集い 清談を 交わしつ飲むや 酒を想いて」_d0053294_12590402.jpg 貧乏は考え方次第で、筆者は車を所有せず、夏場も夜寝る時以外はクーラーをつけたことがないが、それを我慢とは思わない。時間はたっぷりとあって読みたい本は山積みとなっているし、こうした駄文を書く時間も贅沢と言えば言える。ネット時代になって長文は人気がなくなり、書く人も読む人も激減しているようだが、あまった時間を何に使っているかと言えば、電車やバスの中でスマホをかざす人はたいていゲームかSNSで、本を開いている人は稀だ。たまにそういう人がいるが、本は三文小説の類で、みんな暇潰しだ。それを言えば筆者もだが、一方でぼんやりと考え続けていることはたくさんある。最近は「美とは何か」や「竹林の七賢」だが、ここから今日の写真と話がつながる。「赤まんま」が店変わりした様子を撮影した後、有名な竹林に久ぶりに行こうと思って家を出たが、竹林に向かう狭い細道を覗くと、大量の人で埋まっていた。そのことはたまに走る市バスの中から見てよく知っているのだが、1週間前も同様で、足を踏み入れるとたちまち人の通行の渋滞に巻き込まれる。そう思ったので竹林を目指さなかった。富士正晴は竹林に囲まれた家に住み、「竹林の七賢」的な人生を送ったようだが、彼の交友からしてもそうと言える。もちろん実際に七人の賢人が集まって清談を交わしたのではないが、それに近い談笑の機会は何度もあったろう。ヘッセの『ガラス玉演戯』の第3章には、主人公のクネヒトがドイツの田舎で竹林の賢者的暮らしをしている中国人の隠者を尋ねる場面がある。結局クネヒトは自分の理想とは違うことを感じて隠者のもとを去るが、賢者、隠者の暮らしを理想と考えるのは男性に特有であって、女性にはほとんどないように思うと書けば、男尊女卑として今は謗られるか。それはともかく、「竹林の七賢」は日本の文人画でもしばしば画題となり、男性が究極的に憧れるひとつの理想郷のように筆者は思うが、それが現実にはあり得ないことであるから、なおさらそのような言葉、状況が措定されたと思う。あくまでも理想であって現実は全くそうではないことをよく知っていながら、せめて自由に出来る自分の生き方、思想だけは少しでも賢者的でありたいと思う。そこに男の格好よさがあると言えば、他人の目を意識していることになるが、その他者の目を自己に抱えてのことであって、他者の言葉に左右されない生き方だ。今日の最初の写真は渡月橋北詰の交差点で、写真左手が北で、そこからJRの線路まで当日は歩行者天国になっていた。2枚目上は左手が旧「赤まんま」で、JRの線路手前で折り返して南向き。下の写真は新しいレストラン、3枚目上は有名な「よーじや」で、その新キャラクターが「飛び出しジョーヤ」であれば面白いのに…。下の写真は右手が竹林へ向かう。4枚目上は桂川のススキを目的に撮った。紅葉も覗く。下の写真は奧に渡月橋で、日が嵐山に沈もうとしている。
●「竹林に 七賢集い 清談を 交わしつ飲むや 酒を想いて」_d0053294_12594305.jpg


# by uuuzen | 2025-11-29 12:59 | ●新・嵐山だより
●「赤まんま 邪魔はせぬよと 庭に生え 忘れないでよ わたしの笑みを」
銭の 金より団子 猿嬉し 回す主人は 渋柿顔に」、「日向避け 帽子被るや 日陰者 西日眩しき 老いの身も照り」、「これ以上 増えはせぬよと 赤まんま そうか抜かずに そのままにさせ」、「またひとつ 消えた昭和の 喫茶店 儲からぬ店 もう狩らねばと」
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まず今日の写真は昨日撮ったが、わが家の玄関前にひっそりと咲く赤まんまの花だ。裏庭にもいつの間にか同じようにひっそりと咲いている。雑草の部類に入るが、筆者は放置している。遠い思い出もあるからだ。それには嵯峨に長年「あった」と過去形で書く喫茶店の「赤まんま」も関係している。今月6日、花園大学に白隠展を見に行った際、93番の市バスに乗った。渡月橋北詰めを北進し、丸太町通りに入る手前でJR山陰線の線路を越えるが、線路の50メートルほど南の東側にある喫茶店「赤まんま」がなく、牛かつ屋に変わっていることに驚いた。京都は2月、8月は観光客がほとんどないことが常識であったのに、10年ほど前からか、外国人観光客が増え始めた。コロナで一旦中断し、その終息後は以前に増して増え、TVで放送されるように、有名な竹林は刃物で名前などが刻まれ、そうした竹を仕方なしに根元から切ることになった。かわいそうなので削られた箇所を絵具で埋めれば遠目に目立たないと思うが、竹と同じ色の樹脂顔料で埋めるとして、観光客がいない間の夜間作業となり、そうなれば光源が必要だ。また誰がそれをするかとなればボランティアでは無理で、人件費の問題が出て来る。ならばいっそのこと切ると決めたのだろうが、悪戯をする観光客は竹林の奧に踏み入って同じ落書きをする。そうなればいずれ竹林全部を伐採することになる。TVでは天龍寺前の商店街の会長で竹工芸店のIさんが、今回の伐採は数十本と言っていた。彫り傷のある部分はせいぜい高さ2メートルまでで、残り10数メートルは竹材として使えることを思っての今回の伐採であろうか。それはともかく、今日は午後2時過ぎに喫茶店「赤まんま」が牛かつ屋にどう変わったのかを確認するために、同商店街をJRの線路まで歩いた。先日「風風の湯」の常連のHさんに「赤まんま」がなくなったことを話すと驚かれた。半世紀以上前からある、嵐山では有名な店であったのに、ついに外国人観光客相手により儲かると見込んだ店に買われたかという返事だ。洒落た外観のその喫茶店を知る者はみな同じ思いだろう。そう言いながら、おそらく地元の人もほとんど利用しなかったのではないか。外国人観光客目当ての店に様変わりするのは錦市場も同じで、先日家内と歩いてあまりに人の多さに歩くのに苦労した。金儲けは出来る間に懸命になるべきというのが常識だろう。筆者にはその機会は一度もなかった。あっても赤まんまの花のように遠慮がちであった。今日の2枚目の写真は上がグーグルのストリート・ヴュー、下は今日撮った。建物は改修したことがわかる。
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# by uuuzen | 2025-11-22 23:59 | ●新・嵐山だより
●「若作り する気なけれど 好きなこと しながら気にす 背筋を伸ばす」
度目も 仏の笑顔 期待しつ 赤き閻魔の 顔も浮かびし」、「遠目にも 皺が目立つや わが顔を 年相応と 無理に納得」、「遺影見て 撮らねばならぬ 今のうち イエーイと笑い すぐに忘れて」、「妻にだけ 見せる笑顔の わが顔の 写真眺めて ああ老境か」
●「若作り する気なけれど 好きなこと しながら気にす 背筋を伸ばす」_d0053294_02520747.jpg
先月30日のことだが、家内と5,6年ぶりに高槻の芥川商店街を歩いた。その前日、理由があって摂津峡の旅館に一泊した。そのことは別の機会に書くかもしれない。旅館の小型バスでJR高槻市駅前まで送ってもらったのが午前11時頃で、そのまま阪急に乗って帰宅するのはもったいない好天気であったので、芥川商店街を歩こうと家内に言った。その商店街は距離は150メートルほどか。繁華な駅前であるのにそこだけが取り残されたような昭和のさびれた雰囲気が残っていて、アーケードの下を歩いていると時々日差しが横手から差し込み、それがとても懐かしい心地よさがあった。芥川商店街を歩こうと思った理由は、それを期待したからだ。シャッター通りと呼ぶほどにはなっていなかったが、それでも営業をしていない、あるいは始めていない店がかなり目立った。北端のアーケードの切れ目に着いた時、『ああここだったか』と記憶が蘇った。そこは西国街道が東西に走っていて、家内とその付近を歩いたことがある。またその時のことは撮った写真とともにブログに載せた。それで、今日書きたいことは芥川商店街に南から入ってすぐ左手にあったリサイクル・ショップでの出来事だ。同店の南隣りはパン屋で、知的障碍者が店の前に立って道行く人にパンを勧めていた。旅館でたっぷり朝食を摂った後で、パンは買う気がない。そこで隣りのリサイクル・ショップに入った。筆者は昔から古本屋があれば必ず入店して来たから、リサイクル品を販売する店もつい気になる。ぜひともほしいものなど何もないことがわかっていながら、売り物から世相がわかる気もして店の扉を開けてしまう。店には20代の男女の知的障碍者がいて、店を手伝うともなく手伝っていた。客に商品を勧めることはなく、邪魔することもない。その日は商品がすべて半額であった。そうでなくても100円や200円という格安の、また近隣の経済的に豊かな人たちが処分したような、どちらかと言えば高級品に近いものが目立った。しかしガラス器や瀬戸物はわが家でも新品のまま使っていないものがたくさんある。せっかく入店したので何か買ってあげたいが、わずかな古本すべて子ども用で、文具やCD、電機製品もほしいと思うものがない。結局家内は店の前のワゴン内にあった花柄の急須セットを買った。なかなかいいもので、百貨店では5000円程度はする。それが300円であった。それを家内が店内に持ち込んで代金を支払っていると、店長らしき40代の男性が家内に話しかけている様子がかすかに聞えた。筆者はすでにガラス扉の外に出ているから話の内容はわからない。
●「若作り する気なけれど 好きなこと しながら気にす 背筋を伸ばす」_d0053294_02523310.jpg
 筆者が店の中にいる間、店長が筆者をちらちらと見ていたことには気づいていた。その人は知的障碍者を雇っているのか、あるいは家族だろうか。店から出て来た家内はにこにこしている。店長は筆者を見ながらこう言ったそうだ。「ご主人ですか。とても格好いいですね」「どうもありがとう」「何歳ですか」「何歳に見えますか」「70歳ですかね。ご主人のような人になりたいと憧れますよ。服は奧さんが買われるのですか」「いいえ、主人が好きなものをみな自分で買います」その日の筆者は全身黒づくめであった。高齢者がそういう格好をするとたいていはすっきりと格好よく見える。しかし筆者はその男性が筆者の身なりが筆者の顔も含めて全身が醸し出す雰囲気と釣り合っていると思ったのだと思うことにした。言い変えれば筆者と全く同じ格好をしても誰でも格好よく見えないということだ。それは自惚れだが、高齢者になるとどのように人生を歩んで来たかが如実に全身から現われる。自分を格好よく見せたいから他人に格好よく見られるということはある程度は事実だが、その格好よさは内面が外に出て来るという自覚を忘れていないゆえのものだ。筆者は腕時計その他の装身具を身につけることは嫌いで、しかも前日慌てて家を出たこともあって、コーディネイトという大げさな考えはなく、ほとんど普段着で、上半身の服はみな10年ほど前のもので、ズボンは1000円程度で最近買った。それにしても70歳に見えることは4歳若いとして、やはり誰が見ても高齢者だ。なおさら薄汚れた雰囲気ではいけないと思う。見知らぬ男性に褒められても別段何とも思わないが、彼は知的障害者たちとともに店を経営し、また店のものが全部売れたところで数万円程度だろう。ほとんどボランティアで経営しているとすれば、それは見上げたものだ。そのことは垣間見た彼の顔に表われていた。そういう彼が褒めたことは、筆者が優しそうに見え、波長が合ったのだろう。同店の後、前述のように商店街の北端まで歩いたが、途中で東側に衣類のリサイクル・ショップがあった。そこにも入ってネクタイやスニーカーなどを100円や200円で買った。どれも新品同様で、先の店とともに儲けはほとんどないはずだ。やはり知的障碍者が店にいて、客が手に取った後の商品を元通りにするなど、こまめに動いていた。さて、当日撮った筆者の写真はないので、別の写真を今日は3枚使う。どれも泉屋博古館の中庭で、家内に撮ってもらった。最初は4日前の16日、2枚目は2年前の5月15日、3枚目は3年前の5月14日で、以前紹介したことがあるが、今回はトリミングを変えた。順に並べると、あたりまえのことながら年々老けていることがわかる。何が格好いいかは人それぞれによって思いが違う。筆者は格好よく生きたいと思っているが、70代では誰も注目しない。それどころか滑稽と思われる。
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# by uuuzen | 2025-11-20 23:59 | ●新・嵐山だより
●「デジタルの 時計で遊ぶ スロットで 1を揃えて 独身笑う」
忘れ 気づけば夕陽 傾きて やがて眠れば また夢を見し」、 「賭けのなき 人生はなし 子でも知る 決心すれば 後悔はせぬ」、「人生の 見通し暗き 思いつめ 涙流せば いとアホらしき」、「飢えし熊 柿栗探す 人の里 熟れたメロンを そっと転がし」
●「デジタルの 時計で遊ぶ スロットで 1を揃えて 独身笑う」_d0053294_22373420.jpg
昨日TV脇のデジタル時計を見て、もうしばらくすると1が10個並ぶことを思い、庭掃除を始めた合間にその機会を捉えて写真を撮った。しかし今日はその話題ではない。9月中旬に一山の小粒のいちじくを買った。嵯峨のスーパーに行く時は必ずその小さな八百屋「7S」の前を通る。1万円以上する松茸がよく売られていて、近所に金持ちが多いことがわかる。筆者は売れ残った大量の野菜や果物がコンテナにまとめられている「500円コンテナ」専門の客だ。3分の1ほどは腐っているが、スーパーでどの野菜を買おうかとあれこれ考える手間が省ける。しかし腐った部分を取り除くのは家内の手間で、またそういう見切り品しか買わない客と見られていることを恥じて、家内は同店の前で立ち止まることを快く思わず、別の道を歩こうとする。同店では若い女性が6,7人、アルバイトで日替わり店番をしていて、筆者は全員に顔を覚えられている。みな美人で心優しく、応対が嬉しいので筆者は立ち寄りたい。いつも同じ服を着て貧乏人と思われているだろうが、気にしない。貧乏は確かであるからだ。昨日同店で500円コンテナを買ったところ、店員がこう言った。「店長からいつもの500円コンテナの客が来ればメロンをサービスしておいてと言われたのですが、どこにあるかわからないのでまた夕方に来てください。」それで一旦帰宅し、今度は家内と一緒にスーパー巡りをするために出かけ、午後4時過ぎに同店前に着くと、先の女性が筆者らを見切り品のセットを置いてある場所に誘導した。大きな西瓜1個とメロン2個、柔らかくなり過ぎた柿が2箱の40個ほど、それに100本ほどのバナナの、それぞれのセットが500円だと店長からの指示と言う。店員はバナナを10本ほどサービスしようとし、店長に電話すると、「明日売るから」と否定された。たぶん売れずに処分するだろう。買った500円コンテナにバナナが4本入っていて、バナナのサービスはなくてもよい。熟した柿は好きだが、箱のまま持ち帰らねば家に着くまでに全部壊れてしまう。そして完熟を越したバナナは100本も食べられないので、西瓜とメロンを買った。季節外れの西瓜だが今年は二度食べたのみだ。家内は文句を言ったが、中身がどうかの運試しだ。帰宅してすぐにメロンを切った。あまりに甘く、即座に半分食べた。西瓜は今日包丁を入れた。切った途端に水分が滝のごとく流れ出た。甘さは少ないが、ジュースと思えばよい。4分の1を昼と夕の2回に分けてひとりで食べた。TVではカシミールで自爆テロがあることを報じていた。「路面のメロン」のように人体が崩れていることを想像した。
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# by uuuzen | 2025-11-12 22:39 | ●新・嵐山だより
●京都大宮高辻 Live&Salon「夜想」にて、『ザッパロウィン 25』ザッパニモヲ
里霧中 目覚めて安堵 日差し見て 明るいうちに やることを終え」、「不安なき ことはなけれど 深呼吸 よきこと想い 天に顔向け」、「一年が 早いものだと 平凡な 言葉を交わす 一年ぶりに」、「お祭りは 参加してこそ 意味あると 誘いの言葉 今年もかけて」
●京都大宮高辻 Live&Salon「夜想」にて、『ザッパロウィン 25』ザッパニモヲ_d0053294_00581183.jpg
BWANAはスワヒリ語で「ご主人様」という意味で、ザッパはこれをDICKと結びつけて曲名にしたが、女性がDICK(男根)を崇拝するのは子孫存続の本能だ。それはヒンドゥー教ではリンガとヨニの結合で象徴化され、猥褻ではなく、聖なるものだ。ザッパのバンドにあってザッパはBWANAであり続け、メンバーはザッパの手足のように動いた。それに倣っているとおぼしき紫さんのバンドのBWANAで、選曲、アレンジなど紫さんが文字どおりのBWANAとしてメンバーを統率しているのだろう。その点、ザッパニモヲは誰がBWANAかと言えば、さあやさんかくろみさん、あるいは両者と想像するが、どちらもギターを弾かないところ、BWANAよりはザッパ曲のカヴァーに関しては柔軟性があるかもしれない。ギタリストが中心になるとどうしてもその腕前をザッパと比較してしまうからだ。これは言い変えるとザッパニモヲはBWANAよりもザッパらしさが減じ、その分、ザッパの曲を客観視し得る立場にある。さらに言い変えれば自在にアレンジするとの意味だが、BWANAも日本語で歌う点でアレンジは大きい。カヴァー演奏はどのような場合も原曲のアレンジと言ってよい。クラシック音楽では楽譜に忠実に演奏するとはいえ、演奏者ごと、指揮者ごとに全然違った演奏が生まれる。ならばザッパの曲のカヴァーはさらに原曲とは違ったものになるし、またそうでありながらザッパの曲であるという面白さがある。これはザッパ自身が毎年のように同じ曲を違うメンバーによって違うアレンジで演奏したことからして元来柔軟性を大きな特徴としていたためだ。そう考えると、日本の解釈という点で海外のザッパ・ファンにどう評価されるかという興味深さがある。この点はYouTubeの投稿の仕方が関係することで、ザッパロウィンの知名度を上げるにはSNSの使い方に工夫を凝らす必要があろう。さて、ザッパニモヲのヴォーカル担当のジョーの存在から、ザッパニモヲは海外で知られる可能性はBWANAより大きいと思うが、ザッパがしばしば起用した黒人ヴォーカリストの声の質をジョーには望めない。そのためレパートリーにしたくても出来ない曲があるだろう。今回ジョーは「ボビー・ブラウン」を同じスキン・ヘッドのピーターという男性に委ねたが、それを見て最前列に座っていた松本さんはジョーが歌いたくなかったためと予想した。同じ理由で松本さんが好きな「イリノイの浣腸強盗」もジョーは歌いたくないらしいことをライヴ終了後に松本さんは伝えてくれたが、「イリノイ」に関してはジョーの声域では無理があるからでもないか。
●京都大宮高辻 Live&Salon「夜想」にて、『ザッパロウィン 25』ザッパニモヲ_d0053294_00583182.jpg ザッパニモヲもBWANAも73,4年のザッパ曲をカヴァーする割合が大きいことは昨日書いた。半世紀前のザッパの名曲は「インカ・ロード」と「アンディ」で、どちらの曲もこれまでザッパロウィンで演奏されたことがない。前者は中間に長大なギター・ソロがあり、またその後は曲調ががらりと変化した凝ったヴォーカルとキーボード・ソロに特徴づけられている。後者もギター・ソロに持ち味があるが、黒人特有のヴォーカルを含み、曲のリズムも次々に変化してカヴァーは難しいだろう。それは練習次第でどうにかなる部分とそうでない部分があって、名曲であってもレパートリーには加えにくい。これは英語で歌えるジョーがいてもカヴァーが無理な曲があることを示すが、ザッパの曲はヴォーカルつきのものだけが魅力あるというのではない。今回ザッパニモヲはさあやさんとテナー・サックスの登さんの活躍によって「フランベ」が初めて演奏された。ジャズっぽいこの曲は歌詞を伴うヴァージョンが後年発表されたが、女性が歌うのでやはりジョーには向かない。話を戻すと、「ボビー・ブラウン」を歌ったピーターは調子外れな箇所がままあったものの、これまでにない余興としての面白さはあり、歌える客がいれば飛び入りで歌うアイデアがあってよいと思った。そのためのリハーサルは必要だが、ザッパニモヲがカラオケのように機能することで、ザッパがステージ上でしばしば行なったダンス・コンテスト張りに観客が歌える場面が設けられてもよい。そこまで盛り上がるには客数がもっと増えて賑わう必要があるが。さて、去年のザッパニモヲでは、ある人がザッパロウィンではギターが物足りないことに不満を漏らした。ザッパ曲の半分の魅力とまでは言わないが、ザッパのギター・ソロはザッパ世界の大きな柱を成しているのでその人の思いに同意するが、ザッパに比肩するギター・ソロという考えは現実的ではない。たぶん日本で一番著名なロック・ギタリストでもザッパかと聴き間違うソロは絶対に無理だ。『OSFA50』のデイヴィッド・フリッキによる解説の冒頭に、ザッパは自宅にいる時は毎日16から18時間を作曲や映像の編集に費やし、そうでない場合はスタジオで毎日10から14時間いると語ったことが書かれる。そういうミュージシャンは珍しいことをインタヴュアーがザッパに言うと、「ガソリン・スタンドでほかの何かやりたいことがあるのか?」とザッパは応えた。ザッパにとって音楽活動はガソリン・スタンド並みに世の中に不可欠な職業であり、ガソリン・スタンドで働く人と同じように没頭すべきことであった。ザッパの曲や演奏は週に7日、前述のように寝て食べること以外の時間全部を音楽に費やすことで生まれた。それを圧倒的に練習時間の少ない者がカヴァーしても無理が生じるのは道理だ。そのことを最初からわかったうえでザッパロウィンを楽しむべきだ。
●京都大宮高辻 Live&Salon「夜想」にて、『ザッパロウィン 25』ザッパニモヲ_d0053294_00590305.jpg
 どう楽しむかは聴き手によるが、一言すれば解釈することの面白さで、BWANAの場合、紫さんのこだわり、好みがわかる。筆者はよくブログで、創作は一にも二にもまず練習で、その絶対量の少ない者の作品は弱さを露呈するということを書いている。これは音楽に限らない。相変わらず駄文を書いている筆者だが、才能がない者ならなおさら何倍もの努力を重ねなければならないとの思いはある。その筆頭格の大事な謙虚さは作品に必ず刻印され、聴き手はそれを感得する。最近筆者は美についてよく考え、昔読んだ本をあれこれ再読しているが、美と醜を分かつものがあるとすれば作り手の謙虚さが感じられるかそうでないかの差ではないかと思っている。美の基準は時代によって変化するとの意見があろうが、技術的に評価するに値しない作品でも愛おしさを感じさせるものはある。その不思議を思うとますます美はわからなくなるが、結局作者が謙虚さを持ち合わせていなければ美は遠のく気がする。ザッパはほとんど全人生を音楽の創作に捧げた。仕事を終えた後はみんなで飲んで騒ぐという趣味を持ち合わせず、そのことをある日本の音楽評論家は信じられないと書いた。しかしザッパのような仕事一筋の人物は世間話に興じる飲み友だちは必要なかった。ザッパが変人と言われるのはそういう面を見てのことではない。ザッパほどの仕事人間すなわち真面目、真剣に創作に取り組み続けた作家は珍しい。その珍しさゆえに奇人と呼ぶことは正しいが、本分を忘れた振る舞いをする意味でのそれでは全くない。話を戻して、今回のライヴでは紫さんのギターはこれまでで最も指がよく動いていて、隣り合っていた「濁天さん」に演奏中にそのことを伝えると彼も同意した。ザッパニモヲの黒瀬さんのギターも音色はこれまでで最もよかった。そのうえ、ソロは短いながらも聴かせどころを押さえていて、毎度のことながら、「マフィン・マン」ではほとんど涙した。その後に続く「10代の売春婦」は去年と同じだが、やはり「マフィン・マン」の後は「ブラック・ナプキンズ」か「ストリクトリー・ジェンティール」という本道がよい。今回は「パウンド・フォー・ブラウン」が演奏者の卓抜な技量の見せどころの代表となっていて、聴きながら何度も思ったことは、このふたつのバンドの出番が増え、もっと多くの人に聴いてもらいたいことだ。他に仕事を持ちながらの演奏であるから、趣味の域を出ないとは言えるかもしれないが、ザッパを敬愛し、その曲の楽しさを自覚しているミュージシャンたちだ。いつもメンバーと話す機会がほとんどないが、全員ザッパの音楽に対する敬意があり、演奏を楽しみ、そのことは確実に聴き手に伝わる。帰りがけにくろみさんに訊くと、来年のザッパロウィンはまだ決めていないと言う。客数の減少がやる気を減らしているようだが、ザッパ祭りとして何らかの形で途切れさせない工夫がほしい。
●京都大宮高辻 Live&Salon「夜想」にて、『ザッパロウィン 25』ザッパニモヲ_d0053294_00592316.jpg


# by uuuzen | 2025-11-05 23:59 | ●ライヴハウス瞥見記♪

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