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●京都大宮高辻 Live&Salon「夜想」にて、『ザッパロウィン 25』ザッパニモヲ
里霧中 目覚めて安堵 日差し見て 明るいうちに やることを終え」、「不安なき ことはなけれど 深呼吸 よきこと想い 天に顔向け」、「一年が 早いものだと 平凡な 言葉を交わす 一年ぶりに」、「お祭りは 参加してこそ 意味あると 誘いの言葉 今年もかけて」
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BWANAはスワヒリ語で「ご主人様」という意味で、ザッパはこれをDICKと結びつけて曲名にしたが、女性がDICK(男根)を崇拝するのは子孫存続の本能だ。それはヒンドゥー教ではリンガとヨニの結合で象徴化され、猥褻ではなく、聖なるものだ。ザッパのバンドにあってザッパはBWANAであり続け、メンバーはザッパの手足のように動いた。それに倣っているとおぼしき紫さんのバンドのBWANAで、選曲、アレンジなど紫さんが文字どおりのBWANAとしてメンバーを統率しているのだろう。その点、ザッパニモヲは誰がBWANAかと言えば、さあやさんかくろみさん、あるいは両者と想像するが、どちらもギターを弾かないところ、BWANAよりはザッパ曲のカヴァーに関しては柔軟性があるかもしれない。ギタリストが中心になるとどうしてもその腕前をザッパと比較してしまうからだ。これは言い変えるとザッパニモヲはBWANAよりもザッパらしさが減じ、その分、ザッパの曲を客観視し得る立場にある。さらに言い変えれば自在にアレンジするとの意味だが、BWANAも日本語で歌う点でアレンジは大きい。カヴァー演奏はどのような場合も原曲のアレンジと言ってよい。クラシック音楽では楽譜に忠実に演奏するとはいえ、演奏者ごと、指揮者ごとに全然違った演奏が生まれる。ならばザッパの曲のカヴァーはさらに原曲とは違ったものになるし、またそうでありながらザッパの曲であるという面白さがある。これはザッパ自身が毎年のように同じ曲を違うメンバーによって違うアレンジで演奏したことからして元来柔軟性を大きな特徴としていたためだ。そう考えると、日本の解釈という点で海外のザッパ・ファンにどう評価されるかという興味深さがある。この点はYouTubeの投稿の仕方が関係することで、ザッパロウィンの知名度を上げるにはSNSの使い方に工夫を凝らす必要があろう。さて、ザッパニモヲのヴォーカル担当のジョーの存在から、ザッパニモヲは海外で知られる可能性はBWANAより大きいと思うが、ザッパがしばしば起用した黒人ヴォーカリストの声の質をジョーには望めない。そのためレパートリーにしたくても出来ない曲があるだろう。今回ジョーは「ボビー・ブラウン」を同じスキン・ヘッドのピーターという男性に委ねたが、それを見て最前列に座っていた松本さんはジョーが歌いたくなかったためと予想した。同じ理由で松本さんが好きな「イリノイの浣腸強盗」もジョーは歌いたくないらしいことをライヴ終了後に松本さんは伝えてくれたが、「イリノイ」に関してはジョーの声域では無理があるからでもないか。
●京都大宮高辻 Live&Salon「夜想」にて、『ザッパロウィン 25』ザッパニモヲ_d0053294_00583182.jpg ザッパニモヲもBWANAも73,4年のザッパ曲をカヴァーする割合が大きいことは昨日書いた。半世紀前のザッパの名曲は「インカ・ロード」と「アンディ」で、どちらの曲もこれまでザッパロウィンで演奏されたことがない。前者は中間に長大なギター・ソロがあり、またその後は曲調ががらりと変化した凝ったヴォーカルとキーボード・ソロに特徴づけられている。後者もギター・ソロに持ち味があるが、黒人特有のヴォーカルを含み、曲のリズムも次々に変化してカヴァーは難しいだろう。それは練習次第でどうにかなる部分とそうでない部分があって、名曲であってもレパートリーには加えにくい。これは英語で歌えるジョーがいてもカヴァーが無理な曲があることを示すが、ザッパの曲はヴォーカルつきのものだけが魅力あるというのではない。今回ザッパニモヲはさあやさんとテナー・サックスの登さんの活躍によって「フランベ」が初めて演奏された。ジャズっぽいこの曲は歌詞を伴うヴァージョンが後年発表されたが、女性が歌うのでやはりジョーには向かない。話を戻すと、「ボビー・ブラウン」を歌ったピーターは調子外れな箇所がままあったものの、これまでにない余興としての面白さはあり、歌える客がいれば飛び入りで歌うアイデアがあってよいと思った。そのためのリハーサルは必要だが、ザッパニモヲがカラオケのように機能することで、ザッパがステージ上でしばしば行なったダンス・コンテスト張りに観客が歌える場面が設けられてもよい。そこまで盛り上がるには客数がもっと増えて賑わう必要があるが。さて、去年のザッパニモヲでは、ある人がザッパロウィンではギターが物足りないことに不満を漏らした。ザッパ曲の半分の魅力とまでは言わないが、ザッパのギター・ソロはザッパ世界の大きな柱を成しているのでその人の思いに同意するが、ザッパに比肩するギター・ソロという考えは現実的ではない。たぶん日本で一番著名なロック・ギタリストでもザッパかと聴き間違うソロは絶対に無理だ。『OSFA50』のデイヴィッド・フリッキによる解説の冒頭に、ザッパは自宅にいる時は毎日16から18時間を作曲や映像の編集に費やし、そうでない場合はスタジオで毎日10から14時間いると語ったことが書かれる。そういうミュージシャンは珍しいことをインタヴュアーがザッパに言うと、「ガソリン・スタンドでほかの何かやりたいことがあるのか?」とザッパは応えた。ザッパにとって音楽活動はガソリン・スタンド並みに世の中に不可欠な職業であり、ガソリン・スタンドで働く人と同じように没頭すべきことであった。ザッパの曲や演奏は週に7日、前述のように寝て食べること以外の時間全部を音楽に費やすことで生まれた。それを圧倒的に練習時間の少ない者がカヴァーしても無理が生じるのは道理だ。そのことを最初からわかったうえでザッパロウィンを楽しむべきだ。
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 どう楽しむかは聴き手によるが、一言すれば解釈することの面白さで、BWANAの場合、紫さんのこだわり、好みがわかる。筆者はよくブログで、創作は一にも二にもまず練習で、その絶対量の少ない者の作品は弱さを露呈するということを書いている。これは音楽に限らない。相変わらず駄文を書いている筆者だが、才能がない者ならなおさら何倍もの努力を重ねなければならないとの思いはある。その筆頭格の大事な謙虚さは作品に必ず刻印され、聴き手はそれを感得する。最近筆者は美についてよく考え、昔読んだ本をあれこれ再読しているが、美と醜を分かつものがあるとすれば作り手の謙虚さが感じられるかそうでないかの差ではないかと思っている。美の基準は時代によって変化するとの意見があろうが、技術的に評価するに値しない作品でも愛おしさを感じさせるものはある。その不思議を思うとますます美はわからなくなるが、結局作者が謙虚さを持ち合わせていなければ美は遠のく気がする。ザッパはほとんど全人生を音楽の創作に捧げた。仕事を終えた後はみんなで飲んで騒ぐという趣味を持ち合わせず、そのことをある日本の音楽評論家は信じられないと書いた。しかしザッパのような仕事一筋の人物は世間話に興じる飲み友だちは必要なかった。ザッパが変人と言われるのはそういう面を見てのことではない。ザッパほどの仕事人間すなわち真面目、真剣に創作に取り組み続けた作家は珍しい。その珍しさゆえに奇人と呼ぶことは正しいが、本分を忘れた振る舞いをする意味でのそれでは全くない。話を戻して、今回のライヴでは紫さんのギターはこれまでで最も指がよく動いていて、隣り合っていた「濁天さん」に演奏中にそのことを伝えると彼も同意した。ザッパニモヲの黒瀬さんのギターも音色はこれまでで最もよかった。そのうえ、ソロは短いながらも聴かせどころを押さえていて、毎度のことながら、「マフィン・マン」ではほとんど涙した。その後に続く「10代の売春婦」は去年と同じだが、やはり「マフィン・マン」の後は「ブラック・ナプキンズ」か「ストリクトリー・ジェンティール」という本道がよい。今回は「パウンド・フォー・ブラウン」が演奏者の卓抜な技量の見せどころの代表となっていて、聴きながら何度も思ったことは、このふたつのバンドの出番が増え、もっと多くの人に聴いてもらいたいことだ。他に仕事を持ちながらの演奏であるから、趣味の域を出ないとは言えるかもしれないが、ザッパを敬愛し、その曲の楽しさを自覚しているミュージシャンたちだ。いつもメンバーと話す機会がほとんどないが、全員ザッパの音楽に対する敬意があり、演奏を楽しみ、そのことは確実に聴き手に伝わる。帰りがけにくろみさんに訊くと、来年のザッパロウィンはまだ決めていないと言う。客数の減少がやる気を減らしているようだが、ザッパ祭りとして何らかの形で途切れさせない工夫がほしい。
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# by uuuzen | 2025-11-05 23:59 | ●ライヴハウス瞥見記♪
●京都大宮高辻 Live&Salon「夜想」にて、『ザッパロウィン 25』BWANA
の間の 人生に似る 妙音の 調べ愛しき 今や浸りし」、「知る人ぞ 知ること知らぬ 人多き 知らぬが仏 南無阿弥陀仏」、「いっぱしの 大人になりて 風を切る 肩に烏が 水糞落とし」、「替え歌を さらに替えての 無邪気には 世相風刺の 毒気が混じり」
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今年のザッパロウィン、最初の筆者のトークは今年のザッパの新譜3点についてであったが、『OSFA50』のみ実物のアルバムを持参しなかった。先日投稿したように、『HALLOWEEN 78』の仮面つき箱入り5枚組CDの到着がぎりぎり間に合い、CDが挿入されている革装の黒い本も持参したが、会場にいた人たちはその実物を見るのはたぶん初めてではなかったか。その意味でもトーク・ショーの意義がわずかにあったと思いたい。今年のザッパの新譜に関してはブログに投稿しておらず、考えをまとめていないが、BWANAもザッパニモヲもレパートリーは73,4年のザッパ曲を中心にしているので、それから半世紀ほど経った現在、このふたつのバンドのカヴァー演奏から日本におけるザッパ人気の核心が垣間見える。ただし、BWANAのリーダーでギタリストの紫さんは筆者と同世代でザッパのLP時代の新譜をリアルタイムで聴いているのに対し、ザッパニモヲをまとめているレザニモヲのくろみさんはドラマーであり、ザッパのギターや他の楽器のメンバーに対する思い入れはさほどでもないだろう。その点がこのふたつのバンドの違いのひとつの理由になっている。つまり、BWANAはザッパとそのギターを強く意識したバンドで、その点でなるべくザッパ曲を忠実にカヴァーする方向にある。しかし、英語で歌えるヴォーカリストがいない、あるいはいてもハードルが高いこともあって、ザッパの歌詞をなるべく忠実に日本語訳して歌うのではなく、全く別の歌詞で歌っている。たとえばザッパニモヲも演奏する、セックスに抵抗のない軽い女を意味する曲名の「イージー・ミート」は、その発音が「泉」に聞こえるところから、その言葉を中心に日本語の歌詞を組み立てている。ただし、書かれた歌詞を読んでおらず、また実際の演奏では楽器の音色に耳が引っ張られて歌詞の意味までは頭に入って来ないのは、楽器音に紛れて聴き取りくにいからでもある。ついでに書いておくと、「イージー・ミート」の題名を歌詞で繰り返す下りでは筆者は昔から「いじめ」の言葉を連想するが、その言葉を中心に新たな日本語の歌詞を書くことも出来る。このように、ザッパの歌詞については日本のバンドのカヴァー演奏では自由に日本語に置き換える考えがある。それが日本語を理解する欧米のザッパ・ファンがどう捉えるかの声は実例を聞いておらず、賛否のほどはわからないが、ザッパの曲の歌詞を深く理解して適切な日本語に移し替えることは至難の技であるから、BWANAの替え歌行為はひとつの個性としてそれなりに楽しみたい。
●京都大宮高辻 Live&Salon「夜想」にて、『ザッパロウィン 25』BWANA_d0053294_17342616.jpg
 今回も演奏された曲として「グリーン・ジーンズ氏」がある。ザッパはこの曲を最初はスロー・テンポの歌詞つきで発表し、その後すぐに演奏速度を倍ほどに上げ、歌詞を省き、長大なギター・ソロ曲として録音した。それは「グリーン・ジーンズ氏の息子」と題されたが、ザッパのギターを愛聴する人は同曲をザッパのギター曲のベスト10に含むはずで、それほどにどこまで即興でどこまでが楽譜に書かれたメロディなのかが判然としないほどに物語的起伏に富む。BWANAはその「息子」ヴァージョンに新たな日本語の歌詞をつけている。やはり歌詞をじっくり聴き取っていない筆者はその全貌を知らないが、元のザッパの歌詞とかなり違うものではないかと想像する。というのは「グリーン・ジーンズ氏」の歌詞は野菜嫌いであったらしいザッパの食事に対する思いから、その残飯を含みながらチャップリンの映画を思わせるように靴を食べる話につながり、やがてゴミ回収車とへイメージが変化し、環境問題と人間の健康に関してその最初期の活動からザッパが強く関心を持っていた事柄との関連すなわち「概念継続」が明らかに見られるところに面白さがある。もっと言えば超現実主義的歌詞に見えながら、ザッパは無作為に抽出した出鱈目なイメージを強引に結びつけず、自分の食事の好みを棚上げしながら、つまり野菜は健康に大事な食べ物であることを理屈では知りながら、肉以外のものをうんと食べろと母から育てられたことに対する恨みが透け見えている。歌詞に肉が登場しないのは、同曲を収めるアルバムの題名が「肉おじさん」であるためとも解釈出来るが、以上のようにザッパの歌詞は曲のメロディとは別に他の歌詞と密接に関連していて、それを意味の異なる日本語の歌詞に置き換える場合、その曲単独で閉じているのかどうか、他の日本語で歌うザッパ曲とつながりを意識した歌詞を意図しているのかどうかで、日本語を理解する欧米の熱烈なザッパ・ファンからはザッパ世界の理解度を判断され、またどのように面白がられるかの格好の材料になる。ザッパニモヲはヴォーカルのジョーが英語で歌うので何ら問題は生じないが、日本語で歌う場合、ザッパの歌詞が楽器の演奏とは無関係に深く楽しめる場合があることをどこまで意識するかが問われる。「イージー・ミート」から「泉」や「いじめ」の日本語を連想するとして、残りの日本語の歌詞がザッパの表現したかったことをどれほど理解して含蓄のある日本語の歌詞を構築出来るかであって、それは新たな創作行為だ。しかしそこにひとつの難題が横たわってもいる。ホルストが生きていれば許さなかったはずだが、著作権を所有していた妻が亡くなった後、ホルストの名曲『惑星』からその「木星」に勝手な日本語の歌詞をつけて有名になった女性歌手がいる。その行為はオマージュとの言い逃れも出来るが、結局はクラッシク音楽は無断使用が可能という建前だ。
●京都大宮高辻 Live&Salon「夜想」にて、『ザッパロウィン 25』BWANA_d0053294_17345714.jpg
 歌詞の解釈は楽器演奏にも言い得る。「グリーン・ジーンズ氏の息子」はザッパの猛烈なギター練習と奇跡が合わさって得られた録音で、そのことをザッパのギターを愛好する人はみな同意するだろうが、同曲のギター・ソロを忠実にカヴァーするギタリストの演奏YouTubeに投稿されている。ザッパのように余裕が見られないところが難点だが、音に連なりだけ聴けば完璧なコピーとはひとまず言える。そこで思うことは、忠実なコピーが出来る技術は見上げたものだが、それを基礎になぜそうした名曲に比肩するオリジナル曲を目指さないのかとの疑問だ。それを本当の創作と呼ぶが、クラシック音楽の著名な演奏家でも創作の才能のないことを自覚し、それほどに名曲とは音楽の才能が溢れるほどにあっても手の届かないところにある。では、BWANAが「息子」ヴァージョンに日本語の歌詞をつけて演奏することはどうか。ザッパは「息子」ヴァージョンをスタジオで録音し、編集後にアルバムに収めたが、その後のコンサートでは同曲のようなギター・ソロを披露しなかった。出来なかったと言い変えてもよい。BWANAが演奏するのは、ザッパのそうしたバンド・ヴァージョンを範として日本語の歌詞を添えたアレンジで、紫さんのギターはザッパの奇跡的な録音を模倣する立場にない。それは前述のギタリストのような完全コピーの技術がないと言える面があるが、それをしても仕方がないとの思いが勝っているからだ。ここにザッパ曲をカヴァーする人のさまざまな考えが露呈していて、ザッパのCDを愛聴することとは別に、その愛聴からザッパ曲やザッパの考えをどう解釈するかという楽しみが生まれ、筆者のように言葉であれこれ考える者や、演奏してザッパの神髄に迫ろうとする人がいる。その両者の交流の場としてザッパロウィンが機能するとすれば、それはザッパに対するオマージュであり、また日本ならではの「ザッパ学」とでも言えるものに対する今後の寄与になるのではないか。今回BWANAは「ファインド・ハー・ファイナー」を演奏し、やはり日本語で歌った。この曲はザッパの76年初頭の来日公演時には仕上がっていたがレパートリーに含まれず、ザッパもめったに演奏しなかったが、BWANAの替え歌の歌詞が気になるとして、ひとつ気づいたのは、当日紫さんが演奏の合間に要望があれば朝まで演奏出来ると言ったことだ。ザッパの歌詞の大意は、男が女を口説くには最初はミイラのように正体を見せずに少しずつ立派な様子をさりげなく知らせという、つまり「能ある鷹は爪を隠す」と同義と言ってよい。となればBWANAの全貌は徹夜でレパートリーを全部聴かねば本当はわからないこととなる。名古屋で彼らがどれほどライヴをしているのか知らないが、京都や大阪でせめて年一度のザッパ・カヴァー・ライヴがあれば若い世代に認知度が高まるのだが。

# by uuuzen | 2025-11-04 23:59 | ●ライヴハウス瞥見記♪
●京都大宮高辻 Live&Salon「夜想」にて、『ザッパロウィン 25』筆者のトーク
を読めど 書くことはなし 悪筆を 恥じるも見せる 機会は途絶え」、「同じ花 何度も描き 手抜きせず 同じに見えて どれも異なり」、「手が慣れて 手抜きはせぬが 精進と 教えられぬ子 名人となり」、「鶏頭の 残る赤花 天を向き 手を添え描く 土産の墨絵」
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今日から3回に分けて1日の夜に開催されたザッパロウィンについて思いつくまま書くつもりでいる。ザッパロウィンその他、筆者の出番がある時はお客さんへのお土産と称して手描きジャケット入りのCDを5年前から用意している。そのジャケットの絵は自分で育てている鶏頭の花を水彩絵具で描くことを続けていて、なるべく全員配布を思っているが、客数はわからず、今回は33枚用意した。描くのに1枚当たりちょうど15分要し、33枚では8時間強だが、カレンダーの裏面などの不要紙を使って紙袋を作り、次にCD-Rを焼くことなどの手間を含めるとその倍以上の時間がかかっている。さあやさんからのメールによると今回の客数は去年より少なくて30名を割り、年々減少している。演奏の内容はもとより、客同士の交流など、毎年何か変化がほしいのは本音で、後者のファンの交流に関しては筆者のトークが半分は役割を担っているか。今回も筆者が選曲したザッパの曲を流してもらいながら30分話したが、去年と同様にひとつ気になったことは、トーク前後のくろみさんの選曲によるザッパ曲のBGMだ。去年も気になったが、その音量があまりに大きく、個人的に誰かに話しかける声が届きにくく、筆談の必要があったほどだ。筆者がよく利用している「風風の湯」でもBGMが鳴っていて、7,8人しか入れないサウナ室は特によく聞こえる。最近その音量が一気に大きくなり、フロントに訴えて半分ほどに絞ってもらった。それでもまた大きく鳴っていることがままある。客同士あるいは出演待ちしているバンド・メンバーも含めての談笑の時間は、ライヴが全部終わった後にあるとはいえ、2時間やそれ以上費やしてやって来るファンがいて、夜9時過ぎになれば店を出なければならない。それで開場を早めるしかなく、今回は筆者のトークが始まる45分前の4時15分となった。筆者が4時半に会場に着いたのは、外国人観光客のあまりの多さに阪急嵐山バス停まで待つ市バスが30分以上も遅れたためだ。バスが四条通りの梅津段町辺りを走っている時、大粒の雨が降り注ぎ始め、「夜想」が入居しているビルの前では来場者たちが傘を差しているかと心配していると、雨は10分ほどで止んだ。会場のビルの前に着くと誰も並んでおらず、階段を下りて扉を開けると、6、7人の顔馴染みが酒を飲みながら前方に陣取っていた。筆者の到着が遅いのでくろみさんがわが家に電話したことを知った。それでまず早速手製のお土産を配布し、残りはフロントに預けて来場者に配ってもらうことにした。
●京都大宮高辻 Live&Salon「夜想」にて、『ザッパロウィン 25』筆者のトーク_d0053294_16385568.jpg
 トークが始まるまで30分あれば1年ぶりに会うザッパ・ファン全員と言葉を交わすことは出来るが、初来場者があるはずで、また30人程度の客数であれば、全員が自己紹介出来る時間と場があってもよい。とはいえ、席が離れていると名前も顔も覚えないことは普通で、せいぜい隣り合った人同士が話すだけとなる。それでもそこからザッパロウィンが変化して行くことに役立つ話が浮上する可能性はある。ザッパニモヲとBWANAの2バンドの演奏は毎年少しずつ工夫がなされてはいるものの、メンバーに変更はなく、独自色の型はおおむね出来上がっている。そこを見透かされてしまうと、たとえばYouTubeで済まそうとする人が出て来ることは致し方がない。というのは、ザッパは毎年のコンサートで新曲を増やしたり、メンバーを変えるなどしたりして、ファンは未知の何かを期待出来た。そのザッパならではの特色がザッパロウィンにどれほど期待出来るかだ。出演バンド数を増やして2日にわたって開催することを筆者は当初夢想したが、たとえば東京からバンドが出演するとしてその交通費程度がせめて賄える客数が見込めればいいが、「夜想」が立ち見でいっぱいになってもそれは無理だろう。そのことがわかっているだけにもっと大きな会場をと思うが、そうなると会場費や機材のレンタル代など、客の集まり具合と照らす冒険をせねばならない。そこまでメンバーにザッパ曲のカヴァー演奏に対する熱意があるかとなれば、あるとしても肝腎の金の捻出がままならない。それはさておき、今回さあやさんからチラシが100枚送られて来た。半分を「風風の湯」のフロント脇に置いてもらい、残りは地元の知り合いに配ったが、捌けたのは20数枚だ。「風風の湯」は夕方までは外国人観光客でいっぱいになるから、チラシが彼らの眼に止まり、ライヴ好きが足を運んでもらえるかもしれないという一抹の期待があるが、チラシよりもやはり英語で発信されるSNSが功を奏するはずで、何らかの新しい宣伝の工夫が必要だ。予約数が少なければ、さあやさんはそのことをメールで伝えて来るのが常であるに、今回それがなかったのは、これまであらゆる方法を講じたのに効果がさほどでもなく、半ば諦めの思いがあったからかもしれない。ザッパとその音楽の知名度がそもそも日本では低い。それにもうひとつ大きな問題は入場料の4000円はドリンク代や交通費を含むと他府県から足を運ぶ場合、1万円近くなって若い世代にはさほど簡単に出せる金額ではないだろう。だが一方、TVでは数千や数万人の若者が若いミュージシャンのライヴ会場で声援を送っている映像をよく見かけるので、若者は流行に取り残されないようにとの思い、すなわちSNSで他者とつながりを持ちやすい、目下話題中のミュージシャンのライヴにそれが高額であっても出かけるだろう。
 TVに登場する20代のミュージシャンは押しなべて筆者は関心が湧かないが、自分の高齢を認識させられる気分ではない。なぜなら、ザッパが生きていた時代でもザッパの音楽を聴く人はごく限られていた。ザッパの大阪公演時、イーグルスが別の会場でコンサートを開き、もっぱらそっちが話題になった。それから半世紀経ち、イーグルス・ファンがどれほどいて、カヴァー演奏されているのかも知らないが、膨大な録音を遺したザッパの場合、現在もファンが知らない録音が発売される。村上春樹がラジオの番組で好きなジャズについて話しているというネット記事にしても、筆者は全く関心がなく、マス・メディアでザッパについて話す有名人がいないことを、惜しいとかさびしいとかは思わない。何事もわかる人だけがわかるし、わかる人が少なければ価値がないとは言えず、作品は伝えられ方が違う。これはトーク・ショーで話さなかったが、ザッパは1978年のハロウィーンのショーの後に質問されて10の好きなことを答え、その7つ目が78年のハロウィーン・ショーであったという。この10の好きなことは昔何かで読んだことがある気がするのは、筆者もたまに自分の好きな10の人物や作品を考えることがあるからだ。そういうものは10代半ばから20代でほとんどが決まる。筆者は赤塚不二夫、ジョン・レノン、ムンク、柳宗悦、ザッパ、ロジェ・カイヨワといったように、小学生から20代前半までに大きく関心を抱いた人物が次々と順に思い浮かぶ。ザッパの場合、その最初の最大はヴァレーズであった。そのヴァレーズにしても日本ではどれほど人気があるかと言えば、ザッパ・ファンの中でもごく少数のはずで、認識度は低いだろう。ザッパは自分の音楽をエンターテインメントと呼んだ。娯楽と芸術は違うとの意見があり、筆者もそれに賛成だが、娯楽に過ぎないと目されていたものが後年芸術と認識されることはある。一方、生前名声を馳せても見るに堪えない絵を描く人はいる。そこに美の問題が介在し、最近その美についてよく考えるが、ひとつ言えることは虚飾が目立つ作品ほどに価値がない。しかし、作品行為に真剣味が籠っても虚飾は忍び込み、結局は作者の人間性の問題だ。その人間性は10代半ばまでに完成するというのが筆者の考えで、その後知識は広がり、技術力は増しても核となる部分は変わらない。ザッパはヴァレーズの音楽を娯楽と思わなかったはずだが、経済的に苦労せずに音楽の道を究めるには、またアメリカでは娯楽という装いをまとう必要はある。レコードをたくさん売り上げ、コンサートに多くの人に来てもらわねばならない。そのこととヴァレーズへの敬愛をどのように兼ね合わせられるか。結局熱心なファンに支えられ、ザッパは幸福な作曲家人生を歩んだと傍目には見えるが、本人は幸福を考える暇もなしに創作に邁進し続けた人生であった。

# by uuuzen | 2025-11-03 23:59 | ●ライヴハウス瞥見記♪
●『HALLOWEEN 78』到着
色の クレパス握り 童待つ 自分の顔の 線描き眺め」、「箱の蓋 開けて覗くや 赤き顔 その面被り 怒れるふりを」、「仮面屋の 親父の顔の 酒焼けに 赤鬼みたいと 童ら囃し」、「間に合うや 明日のライヴの 話ネタ ザッパの新譜 手元に届き」
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今月11日に注文したザッパの78年のハロウィーン・ライヴの新譜が昨日届いた。明後日の『ザッパロウィン25』のライヴでのトーク・ショーに間に合うかどうかやきもきしていたが、今回は予想以上に早く手元に届いた。実は4日前の26日の夜、FedExから「通関のために追加情報のお願い」と題するメールが届いた。必要事項を記入して返送するのに小1時間要した。何をどこから買ったかなどを書き込むのだが、税関で手荒に箱を開けられて商品に傷がつくのは困るのでその旨を書き込み、11日の投稿に載せた今回の新譜の外観写真を添付した。筆者の記入で税関が不足を認めた場合、改めて通知が来ることになっていた。毎日外国からの荷物を大量に検査するのであるから、筆者の記入漏れやまた不審なことがなければ、2,3日で日本国内の配送に回されると踏んだ。そうなれば今月中に届くことは無理だ。そう思っていたところ、日本に帰国して東京に住んでいる大西さんから27日の夕方に「FedExの貨物に対する輸入手数料の支払金額」と題するメールがあった。通関税として2500円をFedExに振り込めというメールが届いたが、そのメールが詐欺かどうかを教えてほしいとのことであった。上記のように筆者に届いたFedExからのメールは、商品内容を教えろというもので、通関税支払いについては初耳で、また商品を受け取るのに2500円を別に支払わねばならないことに面食らった。そうなればザッパ・ファミリーから通販で今回の新譜を1個注文すると、だいたい35000円を支払うことになる。このような高額のザッパ新譜は珍しい。日本のアマゾンではダイジェスト盤の予約受付は始まっているが、仮面つきの箱入りに関してはダウンロードが販売されているだけで、予約はまだ始まっていない。HMVではたぶん同店がザッパ・ファミリーから買い付けたものだろうが、10万円以上の価格がついている。一方、日本のユニヴァーサル・ミュージックはいつものように対訳つきの商品を販売する予定で、その価格が19800円となっている。ただしその注文ページに飛ぶと「ページが見つかりません」の表示が出る。HMVが10万円で売るのに、本家のユニヴァーサルがその5分の1以下の価格となると、誰しもユニヴァーサルからの発売を待つ。筆者にしてももう少し待ってそれを買えば1万円ほど安くつく。だが、本当に日本のユニヴァーサルが日本盤を発売するだろうか。大西さんからのメールによればイギリスは今回の新譜の入荷が遅れている。一番手っ取り早いのは、やはりザッパ・ファミリーから直接買うことだ。
●『HALLOWEEN 78』到着_d0053294_18580923.jpg さて、大西さんのメールに適切に答えられなかったところ、大西さんは早々と2500円を入金し、28日の朝に届いたと報せがあった。大西さんは筆者より確か1日遅れて注文したが、早く着いたのは東京と京都の差であろうか。そう思っていると、同じ日の夕方に日本郵便から配達予定のメールが届いた。FedExが届けると思っていたのに、通関手続きが思いのほか早く終わり、荷物は日本郵便が引き受けた。ネットの情報によれば配達員に通関税の2500円を支払うとあったので、大西さんと違って振り込み手数料がかからなくてよいと思った。配達指定の時間を翌日すなわち29日の朝8時から正午までをネットで指定したところ、10時頃に届いたから、大西さんとは1日遅れとなった。それに不思議なことに3万円以上の商品を外国から購入する場合に支払う2500円の通関税を配達員は請求しなかった。そのため、今回の新譜を200ドル25セントで買ったことになる。これは11日の投稿の写真で示したように、1割引きのクーポンを使ったからだ。そのクーポンは前回の『ワン・サイズ・フィッツ・オール50周年記念盤』をザッパ・ファミリーから購入した時にもらえたもので、その1か月の有効期限の最終日に今回の新譜を注文したから、1日遅れで18ドルを損するところであった。大西さんはそのクーポンを使わずに購入したので、220ドルほど、すなわち3万円をかなり上回り、それで2500円の通関税がかかったのではないかと想像する。それはともかく、3万円を超える価格の今回の新譜、どれくらい売れるだろう。日本盤が2万円で発売されればかなり売れるだろうが、ユニヴァーサルが予約広告を出しながら一旦それを撤回したことは、2万円では販売出来ない事情が生じたためか。ザッパ・ファミリーから買う場合、送料がおよそ40ドルかかるから、商品自体は160ドルだ。1ドル150円として24000円となるから、2万円ほどの価格設定が可能かどうかだ。それはザッパ・ファミリーとユニヴァーサルの交渉次第であろうが、一時も早く入手したい場合はザッパ・ファミリーのサイトで注文するのが最もよい。明日は京都市内でザッパロウィンのライヴがあり、いつものように筆者のトーク・ショーが30分予定されている。そこで昨日届いたばかりのザッパ仮面を披露する。今日の最初の写真は左側がそれだ。右は11日の投稿で触れた昔筆者が紙粘土で作ったものだ。それの目元を市販の節分豆に付属していた鬼とお多福のミニ仮面で隠し、さらに渡月橋近くで拾った市販の狐の仮面を被せているが、ザッパ仮面そのものは今回の仮面とほとんど同じ大きさだ。今回の仮面でザッパ・ファミリーは計4点作って販売したことになる。ザッパのハロウィーン・コンサートを収録した新譜は今後はもうないであろうから、それら4点と筆者が作ったものを並べて壁に飾ろうか。
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# by uuuzen | 2025-10-30 18:59 | ●ザッパ新譜紹介など
●『HALLOWEEN 78』予約
由なき 犯行するや 高齢者 認知症では 罰問うは罪」、「縁日の 面屋目当ての 幼な児は ザッパ仮面は あくまで悪魔」、「どの仮面 今日は被るか 曇り空 鏡の前で 無理に笑顔を」、「飽くことの なき人生と 空仰ぎ 目を背けるは 醜きことと」
●『HALLOWEEN 78』予約_d0053294_21394444.jpg 今朝パソコンを開くとザッパ・ファミリーからメールが届いていた。年内はザッパの新譜はもう発売されないと思っていたところ、ザッパ仮面つきハロウィーン・ライヴの1978年盤がハロィーンに発売されることがわかった。この大型箱入り仮面つきシリーズは今回4作目だ。CD5枚つきで180ドルほどであるから、前3作よりかなり高い。アマゾンでの予約開始は1、2週間遅れるだろう。それに価格は同じか、もう少し高くなるのではないか。あるいは今回の送料分は安くなるかもしれない。ともかく、アマゾンでの予約を待つのは面倒なので、ザッパ・ファミリーから購入することにした。というのは、前回の『ワン・サイズ・フィッツ・オール50周年記念盤』をザッパ・ファミリーから購入した際、30日間有効の10パーセント割引クーポンが配布され、その期日が今日は残り2日であったからだ。1割引きは魅力的だが、送料が高い。結局送料込みで200ドルほど、3万円になる。これでは日本でどれほど売れるだろうか。しかしビートルズやジョン・レノンの、手替え品替えの再発商法ではもっと高価な商品があって、3万円で聴いたことのないザッパの録音が手に入るならば、そして自分の高齢を考慮すれば、また数年後に品切れになることを思えば、買っておこう。発送は26日で、11月1日のザッパロウィンのライヴには間に合わないが、これは仕方がない。ところで、ザッパ仮面のアイデアは誰が最初に出したのか。筆者は『大ザッパ論2』を上梓した折り、紙粘土でザッパ仮面を作った。アルカイック期のギリシアのコレ像に好きな顔の絵つけがあり、それの目元を参照した。そのザッパの顔の実物大より少し大きめの仮面を写真に撮り、B5サイズ程度のジグソー・パズルに加工したものを読者プレゼントとして1点だけ送付したが、そのジグソーのピースの組み立て途中の様子をゼロックスで2種複写した。組み立ての始め頃と完成直前の様子だ。その2枚をイギリスのザッパ・ファン雑誌『T‘MERSHI DUWEEN』の編集者に送った。同誌の表紙はザッパ・ファンが描くザッパの似顔絵が毎号採用されていたからだ。返事はなかったが、何年か経って同誌の最終の第60号とそのひとつ手前の号にそれぞれ採用されたことをネットで知った。ただし筆者にその2冊は送付されて来ず、入手していない。やがて同誌はネットに以降し、雑誌時代とは比較にならないほどの大量のニュースを紹介し続けている。それはともかく、ザッパ仮面のアイデアと制作の最初は筆者ではないかと思っている。ならばなおのこと、仮面入りボックス・セットは買わねばならない。
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# by uuuzen | 2025-10-11 21:40 | ●ザッパ新譜紹介など

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