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●大和郡山城址から奈良市内の三条通りまで歩く―大和郡山城址公園
適に暮らすには今は都会のタワーマンションが一般的に理想と思われているのかどうか、TVのニュース番組で世界の主要都市の一部がアナウンサーや駐在員の背後に映ぜられる時、ほとんどどの国でも東京に匹敵しそうな超高層のビルが建ち並び、日本が時代遅れの国になりつつあることをふと感じる。
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現代のタワーマンションに匹敵する江戸時代の建物が城であったとみなせば、大名たちはそこに居住することで優越感を味わったかと言えば、天守は一種の飾りもので、暮らしは平地の平屋が便利でよかった。タワーマンションはエレベーターがなければ囚人向きだ。その電気で動く機械は故障することがあるから、筆者は金をもらってもタワーマンションに住みたくはない。同じような考えかどうか、家内の長兄の長女は医者と結婚した後、夫はその新居は平屋に限ると考え、近江八幡で購入し、JRで京大病院に通っている。その通勤時間を筆者は過酷と思うが、給料をもらうには1時間少々の通勤は我慢せねばならない。さて、最近はブログに投稿した後に書き忘れたことをまま思い出す。追加は面倒なのでやめることがほとんどだが、そのうちその書き忘れたことを別の投稿に盛ることがある。これは頭の中の整理があまり行き届いていないことを示すが、これを書く筆者の机の周辺に本やCDなどが無造作に積まれていることからして当然だ。しかもほとんど掃除しないので埃まみれで、つまりこの文章は埃まみれということになり、きれい好きの人はそれを悟って読まない。これを書きつつ思い出しているのはキャプテン・ビーフハートの「埃は前方に吹き、埃は後ろに吹く」と題する詩の朗読曲だ。ビーフハートはこの世を埃まみれと思っていたのか、そういう世の中ではせめて自分の心はきれいにしておきたいという気になる。心まで埃まみれであれば快適ではない。さて昨夜投稿を済ましてすぐに、目の前に広げていたA3サイズの「郡山城跡案内絵図」の左上端よりやや下に描かれる四辻の北西角に、「博学多彩の文化人 柳里恭屋敷跡の碑」の小さな文字と、将棋の駒のような小さなイラストがあることに気づいた。淇園が城の区画のどこに住んでいたのか長年気になっていて、昨夜の投稿では柳澤神社が建つ前のその土地にあったかもしれない屋敷かと思って書いたが、その土地は天守台よりは低いが堀で遮られた石垣の上の高台で、日々の暮らしには不便だ。先の絵図の場所であればなるほどと思う。その屋敷から淇園は東方に天守をまともに見て暮らし、堀沿いの道路を東にたどってすぐに町中に出かけられた。その屋敷跡の場所を知っていれば、3月28日は城跡公園を一巡した後に見物に出かけたが、今はグーグルのストリートヴューでその小さく写る石碑を見ることで我慢する。碑文までは見えないが、周辺の家並みがわかり、淇園時代の雰囲気は充分に想像出来る。
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 同絵図の西南は「柳澤家 菩提寺 永慶寺はすぐそこです」の文字がある。郡山高校の南に位置するのだろうか、その寺は黄檗宗のはずで、淇園の墓もそこにあるのではないか。ついで書いておくと、城跡の東端に近鉄の線路があり、その東に町が広がるが、城跡の南方に金魚の養殖の盛んな地域があることを、天守台からの眺望を楽しんだ後、極楽橋を東にわたって公園の東部の諸施設を巡った際、城址会館内部で地元のボランティアの高齢男性から聞いた。そのことにつては後で詳述するとして、金魚養殖業者が集まる区画は下町のようで、それはさらに南に広がっているようだ。そしてその地域に満州から引き上げた赤塚不二夫一家が暮らしたアパートがあったようで、今は建て替わっているだろうが、赤塚が遊んだ場所は赤塚を紹介するTV番組で昔映ったことがあって、赤塚は子どもの頃のその場所が変わっていないことから即座に反応していた。それは懐かしいとはいえ、遊び仲間に入れてもらえなかったようで、2年ほど住んで確か家族は上京する。いじめに遭あったことは反骨心を芽生えさせたであろう。描くことが好きであったので漫画家として若くして頭角を現わすが、『少年サンデー』に連載された「おそ松くん」を当時毎週リアルタイムで読んでいた筆者は、漫画そのものよりもコマ割りを一つ使って毎週自分の暮らしの紹介をしていたことをよく覚えている。エスカレーター・ガールのことや、上京後に東京の繁華なことに驚いたことなどを自画像つきで紹介し、子ども心ながらに赤塚がとても優しく、恥ずかしがり屋であることを思った。淇園は市井に芸の才能のある者を見つけると、屋敷に連れて来て居座らせたそうだが、淇園なら赤塚の漫画の才能をいち早く見抜いたであろう。子どもの頃に同じように絵を描くことが好きでありながら、淇園は博学多彩の文化人となり、満州から引き上げた貧しい子どもの赤塚は時代に即して大きく開花し始めた週刊漫画のブームに乗ることが出来た。その後アル中になって破滅型の人生を辿ったが、酒に酔わねば精神の正常を保てないほどに世の中が埃まみれに見えていたのではないか。今やそれはもっとひどく、日本中、世界中がテーマ・パーク化し、自分の好に応じて楽しみやその場所を選ぶ。さて今日は書き始める前にアルヴィン・カランのCD『THEME PARK』を思い出した。TZADIKのCDは縦に積んであり、そこからその1枚を引っ張り出し、それをBGMにしながら文章を書き始め、今は二度目が鳴っている。なぜその音楽を聴く気になったか。それは「郡山城跡案内絵図」を見ながら、その全体がテーマ・パークそのものであると思うからだ。武士の権力の象徴であった城郭が無料で誰でも立ち入ることが出来るようになり、眼前に次々に珍しい施設などが現れる。筆者はディズニーランドのような遊戯パークは全く好まないが、文化テーマ・パークなら足を運びたい。
●大和郡山城址から奈良市内の三条通りまで歩く―大和郡山城址公園_d0053294_17232322.jpg 今日の最初の写真は極楽橋を東にわたる直前に撮った。付近に観光案内の冊子やチラシを置くテントがあり、そこに前述の絵図もあった。1部ずつもらって手提げ袋に放り込み、これを書く段になって広げている。同絵図を見ればどの順序で歩いたかがよくわかる。橋を越えてすぐに柳澤文庫の木造の建物があった。有料でしかも淇園の書画はないだろうと思って入らなかった。その北側に広々とした場所があって数十人が緋毛氈に座って抹茶を飲んでいた。饅頭つきで500円は先に食べたひとつ200円の鯛焼きに比べて安い。順番はすぐに回って来そうなので筆者らも注文した。70代らしき威厳のあるキモノ姿の女性は同じくキモノ姿の若い女性たちの先生だろう。彼女たちはお盆に抹茶と饅頭を載せて客に配る。床几に座って饅頭の写真を撮ったのに、帰宅後確認すると写っていなかった。筆者のカメラはよくそういうことがあって、交換用の記録媒体を持って出かけたのに写っていない写真が10数枚ある。抹茶を飲んでいると和太鼓の音色が聞えた。飲み終えてその場所に行くと大勢の人が和太鼓グループを取り囲んで演奏に聴き入っていた。筆者らはその様子を右手に見ながら歩を北に進め、城跡の北東にある大きな木造の建物を目指した。天守台からそれを見ながら何の建物かと気になっていた。2枚目の写真のその城址会館前に着くと、入場無料というので靴を脱いで中に入った。明治期に建てられた県立図書館で、新しい建物が出来たので不要となり、現在の地に移築され、今は1階で大和郡山の史料を展示している。5,6名の高齢の説明員のひとりが郡山の市街地の名所を記した絵図を持っていたので金魚のことなどを質問した。遊郭の建物が残っていることも教えられ、その男性はその存在をやや恥じているような感じであったが、淇園は遊郭に通ったので筆者は興味深かった。淇園は甲府と郡山の遊女の差を言葉の違いからどう思ったであろう。そのことが『ひとりね』に書かれるのかどうか。会館を出た後、その背後を一周し、3枚目の写真の追手門に至った。そこを出るとまた屋台が連なっていて、その一軒はきれいな中年の女性が茶を販売し、煎茶の試飲をしていたのでから紙コップでいただいた。家内は郡山の人々はみな親切だと感心していた。城址会館のボランティアの男性たちもそうで、街の歴史に誇りを持っていることが伝わった。4枚目の写真は堀沿いに建つ追手櫓でこれも近年復元されたと思う。近鉄電車の中からこの櫓や石垣が見えるのは壮観で、桜の季節は特にそうだ。花札の「みよしの」の赤い短冊は吉野を意味するが吉野も奈良だ。吉野の桜はあまりに広大な山々に咲き、一度は見ておくべきと言われる。さて、他の観光客に混じってぞろぞろと堀沿いを歩き、城址の南東の出入口に至った。そこから南の最寄駅に向かわず、踏切を東に越えて直進した。
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# by uuuzen | 2026-05-03 23:59 | ●新・嵐山だより
●神社の造形―柳澤神社
御門という苗字の女性をTVで見て、京都にいた先祖が暦づくりに携わる公家で、その末裔が今はどういう職業にもっぱら就いているのか気になったが、大学で教える先生辺りが妥当か。
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筆者が子どもの頃、京都にいた母方の親類に夏休みや冬休みに1週間ほど遊びに預けられ、同じ年齢のいとこの女子とよく話したものだが、彼女の同級生に京極という苗字の女の子がいたことにさすが京都と感心した。明治になって武士も何らかの職業を持たねば生きられない世の中になって、たとえば筆者の学生時代の恩師で、泉大津のたぶん最も古い旧家の末裔であるK先生宅には、玄関を入った土間に天井に届きそうな巨大な樽があって、そのそばの毛筆による額には「紫…」の言葉が大書され、先生から維新後は醤油を製造していたと説明された。ついでながら先生の奧さんは茨木の造り酒屋の出で、傍目にも家の格が釣り合っていることがわかる。代を経ても家柄は失われないかと言えば、そうでない場合も多々あって、土御門家は日本の天文学に興味のある人くらいしか、今はどういう仕事に携わったのかを知らないのではないか。陰暦から陽暦に変わり、また幕府が倒れて昔のような特権は土御門家にはなくなった。しかし苗字の貫禄から一目置いてその末裔を眩しく見る人はいるだろう。珍しい苗字はいくらでもあるが、先祖が公家となるとさすが人柄の雰囲気も違うと思いやすい。柳沢の苗字は今もあるが、その人々がみな甲府、大和郡山の藩主の血脈かと言えばさてどうだろう。維新後に傑出した才能や仕事ぶりを発揮した人物が出れば、さすが血は争えないと目されるが、商売に携わって大企業を創り上げるのでなければ、大学の先生くらいに留まるのではないか。先日取り上げた映画『白い巨塔』では村の貧しい母子家庭育ちの男子が医者となり、関西を代表する大学病院の教授に登り詰めるが、原作者は血筋を重視したのか、主人公のその医者は望む地位を得て間もなく、天罰が下ったかのような胃癌になって死ぬ。主人公を歴史に残る公家の末裔と設定すれば、原作者はそのような結末を用意したであろうか。それでは世間の不評を買うだろうし、公家に対して何の悪意があるのかと、底意地の悪さを言われかねない。一代で成り上がるには桁違いの並外れた業績が前提となり、それを人々は天与の才能とみなす。そして今はそのような極端に有名人になれば経済力もそれに伴なうから、先祖が馬の骨であっても人は眩く見つめ、近寄りたく思い、場合によっては婚姻関係を持ちたいと望む。そういう稀な人物の登場は必要で、そうでなければ世の中が活性化しにくい。しかしそういう人物が今は芸能人でしかもお笑い芸人となれば、誰も血筋のよい公家と同格とはみなさず、単なる成金として陰で侮蔑する。そのため、そういう有名人の子孫は親の七光りを利用して同じような芸能人になるしかない。
●神社の造形―柳澤神社_d0053294_23113938.jpg そうではなく経済力を利用して学問に精を出し、図抜けた才能を発揮すれば世間は芸能人の子孫がといった目では見ないはずで、何をして食べているかを人々は見る。武士はその点今の政治家と一緒で税金によって生活していたが、産業を促進することで人々の暮らしが豊かになる、つまり金が世間をよく回ることになって、そういう社会の仕組み、すなわち人々の暮らしをどうすれば最もよいかを考える必要があった。もちろんそれは今の政治家と変わらないが、鎖国時代とは違って世界のどこかで深刻な紛争が起きるとそのあおりを受けるので、国のかじ取りの難しさは江戸時代の比ではないだろう。江戸時代は大小合わせて藩は三百ほどあったとされ、小さな藩は武士階級の頭脳が最も有効な財産とみなし、幕末から明治にかけて世界に視野を広げて輸出入で稼ごうとした。柳沢家については10数年前に展覧会図録『柳沢吉保と甲府城』を入手し、吉保の肖像画をいくつもみながら、近所の仏師のOさんに似ているとかねがね思っているが、そうすると親しみが湧く。筆者は甲府に訪れたことはないが、ブログを始めた頃、左右対称の切り絵を作り始め、そのきっかけとなったのが甲府在住のemiさんで、わずかだが縁はある。彼女が友人と一緒にバスで京都に来た時、東山の観光バス乗り場で5分ほど会っただけでその後音信が途絶えたが、甲府には一度行ってみたいと今回大和郡山の城跡に出かけて思った。姉妹都市関係を結んでいるのか、甲府市のパンフレットや特産品を用意したテントがあって、市の職員らしき男性がふたり詰めていたが、甲府のたとえば城祭りか桜祭りがあれば逆に大和郡山から宣伝に訪れるのではないか。これは柳沢家つながりで、関東と関西を結ぶきっかけが江戸時代にあったことは面白い。昨日の投稿の最後に載せた写真は柳澤神社の鳥居前にある由緒書きの駒札で、吉保の長男の吉里を祀る。偉い人には神社を建てて崇敬の念を示すことはまだ明治にはあった。松阪に本居宣長の住まいが残され、また神社もあるが、そのことからすれば甲府には吉保を祀った神社があるかもしれない。柳澤神社のこの駒札の由緒は前半に吉保のことについて書き、そこに荻生徂徠の名がある。淇園は7歳の頃に吉保に目をかけられ、『ひとりね』に書かれるように徂徠と親しくし、知識人の中で育った。この影響は大きい。もちろん本人の素質によるが、大人びた環境で暮らと早く大人びる。父は吉保の筆頭家老の曾禰保珞で淇園はその次男だが、父の代から柳澤を名乗ることが許された。吉里は15万石の禄高で郡山城に移住し、その際に淇園も同行し、やがて上方の知識人と交流する。淇園は他にも「玉桂」の号を使い、また中国風に「柳里恭」の三文字で書画に署名した。ついでながら民藝の柳宗悦は苗字が柳だ。明治までの知識人には中国風に漢字三文字で名乗ることが流行ったが、今は横文字の名前を混ぜた混血が人気だ。
●神社の造形―柳澤神社_d0053294_23122877.jpg これも思い出したので書いておくと、昨日言及した「楓葉」はその紅葉したものが鶏冠の形に似るところから、向日市の地名の「鶏冠井」は「カイデ」と読む。そのため「楓葉紅於二月花」の「楓花紅」はいささか説明的だ。さて、吉里以降は6代で140年の治世が続き、明治になって城が壊され、その後に天守のあった高台より低い、つまり石垣の最下段と同じ高さの土地に神社が建てられた。天守の絵や図面は残っていないので復元したくても出来ないが、15万石規模の城となれば、またさほど大きいとは思えない敷地はそのまま残っているから、だいたいの規模はわかる。天守から眺めると東北方面の東大寺ははっきりと見えたはずだが、今は樹木やまた奈良の三条通りには多くの建物があって視界を遮り、見えるのは山の稜線のみで、しかもそれも空気が特に澄んだ天気でなければかなり霞んでいる。それは京都盆地でも同じで、西山から直線で8キロ先の東山は、視力のいい人でもくっきりとは見えない。それに近鉄の最寄駅からこの城跡まで北上する間に右手にNTTの高い塔があり、それはスマホが普及したためのものであるはずで、城が最も高い場所にあって周囲を見下ろしていたことが今では民間の施設に見下ろされている。城跡は近鉄の線路のすぐ東にあって、ここがその出入口かと思った場所で大砲のような大きな音が何度か響いた。桜祭りであるので空砲を撃つこともあるかと思ったが、後でわかったのは城跡の公園内で和太鼓の演奏会があって、その大太鼓の音であった。また公園の出入口と思ったのは郡山高校のそれであった。昨日の最初に載せた地図の青線はそのことを正確に記している。緩やかな坂を上って行くとすぐに屋台が軒を連ねていて、右手に大きな鳥居が見えた。それが今日の最初の写真で、道幅が狭くて後方に退く荷は限界があって鳥居の全部が収まり切らなかった。その鳥居をくぐる直前に北向きに撮ったのが昨日の桜が満開の堀の写真で、予想外に巨大であることに驚いた。屋台の多さは多くの人出を見込んだもので、どの屋台も京都や大阪よりは安価であった。まずは柳澤神社にお詣りしようと人が集まっている方角に行くと、金魚を描いたパネルやその前に祭りの関係者らしき男性が数人いて、今日の2枚目の写真の賽銭箱が目に入った。前述の駒札にはこの神社の御利益は立身出世、学業成就がまず挙げられ、天神信仰と似ている。そのためかどうか、若い人々の参拝が目立った。筆者が写真を撮ろうとしている間に家内は列に並び、そして参拝を済ませたが、何を願ったかは聞いていない。病院を退院して2か月経っていなかった頃で、城跡を見学した後は10キロほども歩かされることを知らない家内で、筆者はあまりに無茶だ。その歩きについては後日写真を添えて書くとして、参拝後は天守のあった場所に近い広場に向かった。
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 今日の3枚目の写真はその東北の片隅から東向きに撮った。数メートル間隔で人々が座ってくつろいでいたのは東の眺めがよいからだ。写真の鯛焼きは今日の最初の写真の左下の鯛焼きを売る屋台とは別の店で買った。フェンス向こうの眼下は掘で、樹齢をかなり重ねた見事な桜の木が掘に向かって枝を垂れていた。振り返ると天守台の端に人が隙間なく立っていた。鯛焼きを食べてすぐ、そこに行くことにし、石垣下の階段付近に行くと数十人が並んでいた。手摺をつかみながら階段を上がり切ると見晴らしがとてもよい。今日の4枚目の上下の写真は東を向いて撮った。上のパノラマは右端に復元された極楽橋が見えている。これを真正面から撮った映像を2月にTVで見た。郡山城廃城依頼150年ぶりの2021年に復元された。本丸登城のための正式な入口となった橋で、これが出来たので城跡公園はより人気の場所になったのだろう。そう思えば9年前に淇園展を見てすぐに訪れなかったことは正解であった。4枚目の下の写真は家内に隠し事をする気分で撮った。筆者の視線は遠く東大寺方面を向いている。しかし手前は堀沿い載せの高い樹木が並び、その隙間から見える山は霞み、また建物群のために東大寺らしきものは見えない。中央右寄りのこんもりとした木の向こうに塔が見え、奈良県庁の近くにあるものかと一瞬思ったが、同じ形のものを見た記憶はない。城跡を見物した後はこの写真の方角に歩くが、そのことを家内には言わなかった。天守台の西端には近年その場所から撮影されたパノラマ写真が2枚横並びに展示されていた。これらは西大寺や法隆寺などの有名な建物などがどの方角にあるかを示すもので、天守が奈良北部の重要な場所を一望出来る場所にあったことがわかる。風の強い日は天守台に立てば危ないが、当日は好天で、まだ暑くもなく、久しぶりに見晴らしのよい眺めを堪能した。この高台に立つだけでもこの公園に出かける価値はある。ましてや桜は満開で、景色はなおよい。今日の5枚目の写真は天守台から眼下に丸見えであった鳥居で、柳澤神社のすぐ西にある「祖霊社」だ。この鳥居の手前に昨日載せた最後の写真の駒札があった。神社が建立される以前は城主や淇園らが住む屋敷が軒を連ねていたのだろう。淇園はまだ若かった池大雅を屋敷に住まわせ、1か月ほども京都に帰らせなかったとの逸話がある。大雅は退屈し、這う這うの体で京都に逃げ帰ったとされ、その道のりを想像しながら京都奈良間を歩いても面白いだろうなと思う。昔は車が走る道路がなく、線路もなく、民家は少なかったはずで、その道はとてもさびしかったか。とはいえそれは現代人の思いで、江戸時代の人にとっては平安時代はもっとさびしかったと思ったはずだ。それに歩くしかなかった昔、街道は今よりもっと人は多かったのではないか。
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# by uuuzen | 2026-05-02 23:59 | ●神社の造形
●大和郡山城址から奈良市内の三条通りまで歩く―柳沢淇園の書
々と世間のごく片隅でブログを書き続けて今月21日で丸20年が経つ。ブログは当時若冲に関する本の執筆を依頼され、その文章の練習を思って始めた。毎日1回の投稿を決めながら、10年前からは投稿出来ない日が増えた。
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パソコンで見る場合、画面の右欄の投稿年の頭に黒丸がついているのは、投稿しなかった日があることを示す。全部白丸にしたいが、今となっては写真があっても当時の記憶がかなり薄れ、遡っての投稿も出来ない場合が多い。ブログには若冲関係の、つまりこの20年筆者が最も力を入れた事柄についてはほとんど全く言及せず、江戸時代の絵画についても同様で、ブログを読む人は筆者の関心事の偏りに気づく。それはいいとして、5年前の春に母が世を去り、その2,3週間後から投稿する際は必ず短歌を4首詠むことにした。それは本文を書くより時間を費やす場合があって、なおのこと未投稿日が増えた原因と言えるかもしれない。先月末で短歌の投稿は終えることにし、今月21日までの投稿は短歌なしで済まし、また21日以降は投稿がかなり減るだろう。ごくごくわずかな人しか読まないので、いつやめてもいいと思いながら20年続けて来たのは、生活と思考のひとつの習慣になっていたからだ。しかし文章力が増したとは思わない。毎回思いつくまま書くことは同じでも、10年ほど前の方が面白いことを書いた気がしている。これは年齢相応に心身の劣化が進行しているからで、渋々でもそれは認めねばならない。一段落当たり1200字を超えず、しかもそれに足りない字数は多くて30字ほどという「型」を意識して書くことは、そう決めた当初はさておき、近年はそのことを意識せずに書き進めてもほとんど正確に1200字ほどがわかるようになり、そのことが文章の流れとしていいのかそうでないのかわからないが、何事も習慣づくと型が出来上がることを思う。それを打破するために短歌を始めたと言ってよいが、たぶん5000から6000は詠んだので当初の3000程度の目的は達した。どれも短歌と呼べるものはないが、頭の体操にはなった。さてここから本題だが、3月29日に家内と大和郡山の城址を訪れた。天守はないが、近年木造で橋や櫓が復元され、そのことを2月のTVニュースで知り、今年こそ桜が満開の日に行くと決めた。3年前の同じ頃、家内と天理市に行き、近鉄電車の車窓から桜が満開のこの城址を眺めながら、行くなら桜の頃と決めた。撮った写真の整理や歩いた道筋を地図上に記す作業を先月上旬に終えながら、投稿するにはまとまった日数が必要であるから、いつからにしようかと思っている間に1か月以上経ち、間に別の内容を投稿しながら今日から断続的に奈良での徒歩による日帰りの旅について投稿を始める。最初の画像として歩いた道筋の地図を載せる。パソコン画面では500ピクセルに縮小されるが、クリックで拡大する。
●大和郡山城址から奈良市内の三条通りまで歩く―柳沢淇園の書_d0053294_01441984.jpg 青線が歩いた道筋だ。今回は印刷した地図を持たず、勘に頼った。地図がなくても東北方向に「オレオレ(折れ折れ)歩き」をすると三条通りにいずれ至ることを何度も地図を見て頭に叩き込んだ。しかし実際に歩くのは想像とはかなり違って広々とした平野を味わった。地図のオレンジ色の線は次回歩くことがあれば辿りたい道順だが、もう歩くことはないだろう。アルファベットは今後の投稿のために写真を用意しているか、気になった場所だ。地図の左下は大和郡山駅やそのすぐ北の城址で、当日は桜祭りが実施されていたこともあって人が大勢いて、屋台の店も多かった。数日はその城址でのことを投稿するが、今日は大和郡山に行きたくなった直接の理由は柳沢淇園が暮らした土地であるからだ。今は金魚の養殖でよく知られる大和郡山は、柳沢淇園が甲斐から移り住んで30数年過ごした地で、その間に書画を初めとした諸芸を嗜んだ。それがあまりに目にあまるというので、柳沢の苗字その他を剥奪される謹慎処分を受けるが、武士本来の仕事をせよと言われても元禄以降の世の中は刀を振りかざして敵と斬り合いすることはなく、また江戸から遠く離れているので、特に問題が起きない限りはすることがないというのが実情であった。そのため、たとえば飲食にうつつを抜かした武士がいて、その人物について書いた本を昔読んだことがあるが、柳沢淇園はそうした普通の人間とは大いに違って、書画から伝わる切れ味は刀そのもので武士の自覚を忘れなかった。同様の武士である画家に渡辺崋山がいるが、上方に住まず、また幕末に活躍して最期は切腹を命じられたので、同じ凛々しさでも淇園とはどこか異なる。とはいえ筆者は崋山の絵も好きだ。中学生の教科書で崋山描く肖像画を見たのが最初で、その意味では淇園の絵画よりも出会いは40年ほど早い。さて、数日前に淇園の大幅の書の対幅を久しぶりに引っ張り出したところ、古い箱があまりに破損していたので修復し、掛軸は並べて吊り下げ、写真を撮った。今日の2枚目にそれを掲げる。この書は10数年前に入手した。右幅は「停和国愛楓林暁」、左幅は三文字目が単純な形であるので却ってどの漢字かがわからず、所有する古文書の読み方を記した本に載る漢字を片っ端から確認すると、「将」「持」「為」「相」「別」のどれかにとても近いが、それらの字では七文字の詩は意味を成さない。それで七文字目をかなり苦しいが「堂」と読むと「二月堂」となり、三文字目は「散」の草書をさらに単純化したものかと思った。となると「楓葉散於二月堂」となって、この七言の対句を筆者なりに短歌に読み替えた。「暁に 紅き楓の 林愛で この和の国に しばし停まる」と「楓の葉 散りて熱きの こぼれ火か 二月堂にて 松明想う」になるが、左幅は右幅に比して二月堂のことを知らない人には意味がわかりにくいので、言葉を多く補ったが、補い過ぎであることは確かだ。
●大和郡山城址から奈良市内の三条通りまで歩く―柳沢淇園の書_d0053294_01445614.jpg 淇園の書はほかにも所有し、絵も2点持っているが、最も好きなのはこの対幅だ。この書は雄大で繊細、色鮮やかで春への期待に溢れ、大和郡山の城址から二月堂までいつか歩く決心をさせた。その後10年ほど前に、お水取りの頃ではなかったが奈良国立博物館に行ったついでにひとりで二月堂に足を延ばしたことがある。東大寺の大仏殿までは誰しもよく行くが、その北にある二月堂、さらには正倉院まで歩く人は少ないだろう。これもついでだが、紹介しておく。9年前の秋に大和文華館で開催された柳沢淇園展では前述の書の双幅と同じ時期に書かれた同じ七言二句の聯書が展示された。本紙のサイズ、落款と印章、また筆跡も同じであるから、本来はこれら対幅を併せた四幅対であったかもしれない。図録の解説によると右幅は「花迎剣佩星初落」、左幅は「柳拂旌旗露未乾」と書かれ、この漢詩及び作品についての説明はない。花や星、剣、露はいかにも淇園好みで、柳の登場もそうだが、ネットで調べると中国の古典詩で、登城した時の様子を詠んだ長い詩の一部であることがわかる。花咲く頃に剣佩を携えて入城し、星が消える夜明けを迎えると、柳に触れた旗に付いた朝露がまだ乾かないことを詠み、淇園は似たことを経験したか、想像したのだろう。こういう詩を選ぶことはいかにも文人で、また刀を携える身分への意識が強い。筆者が所有する先の書は写真からわかるように、合計で4行の中央2行の最上部の三次がともに「楓」でしかも書体が違う。意識してそうしたはずで、この二文字の楓の並置は柳沢淇園展についての投稿で触れた着色画の「寒山拾得図」における寒山と拾得の一体化した顔を連想させる。その投稿では机に伏して眠る童子の机が鮮やかな赤であることを書いた。その印象が強かったこともあって、大和文華館を出てすぐ、ほぼ真正面にひとつだけ咲いていた赤い木槿の花に注目し、その写真を撮った。その経験は今も鮮明に記憶し、その後木槿ではないが同じ夏場の花の鶏頭に注目するようになった。それはともかく、「停和国愛楓林暁」は日の出に紅葉した楓を愛でることで、ここには二重の赤が描写される。また「和国に停まる」の「和国」は「日本」でありしかも「大和」の意味合いが大きい。そして大和郡山藩は大坂と京都に近く、奈良盆地ではたぶん最大の藩で、そこに仕える淇園はその自負があったろう。また「和国」の言葉を使うことに、日本が極東に位置し、シルクロード文化の交流の西の果てに位置する奈良への意識が感じられる。「停和国愛楓林暁」は甲斐の国にいては出て来ない表現で、淇園の眼差しは中国の唐やもっと西域にまで及んでいるように思える。さて、問題は「楓葉散於二月堂」だ。そのように読むと、これは淇園が早朝に大和郡山城から二月堂まで歩いて楓の紅葉した葉が地面に散っている様子を見たことを示す。しかしそれだけならば二月堂を知らない人には通じない。
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 二月堂では新暦の3月に行なわれるお水取りが連綿と続く。二月堂の高い場所で僧が走りながら燃やす大松明の火の粉は地面に落ち、淇園は紅葉した楓の葉を見てその火の粉を連想したのではないか。本格的な寒い冬はこれから始まるが、楓の葉が散った2,3か月後には二月堂に春が来るという気分を込めたと解釈すれば、暁の色に楓の林の紅葉を重ねた次に、散った小さな楓の葉を松明の落ちた火の粉になぞらえ、そこにも赤の響き合いがあって、赤色への好みは淇園の絵画に描かれている。そう考えるとこの対幅は「花迎剣佩…」よりも淇園らしい。しかし「二月堂」は「二月花」が正しいのではないか。となると「散」では意味が通じない。「二月花」は梅と考えてよい。淇園は四君子のうち、竹以外では梅を描いたが、それは白梅だ。そこで花札の2月の梅を思い出すと、その4枚の札に描かれるのは紅梅だ。しかも短冊には「あかよろし」とあって、梅では紅梅が愛されて来たことがわかる。一方、花札には鹿を描いた10月の楓がある。鹿は奈良を意味し、淇園は楓は奈良すなわち和国を代表する植物と考えた。だがこれは葉であって花ではない。「二月花」が紅梅とすれば、「楓葉」は「停和国愛楓林暁」と併せて考えるに、紅葉した葉とみなすしかない。つまり淇園は紅梅に先だって楓の葉が赤く色づくことを詠んだ。となると「散」はどの漢字であるべきか。筆者の所有する本には載っていないが、単純に考えて「紅」ではないか。「楓葉紅於二月花」と解釈すれば「楓の葉は二月の花における紅」となって、紅葉真っ盛りの葉だ。この句に「梅」の漢字を使うと「楓」と喧嘩して目立つので、あえて「二月花」とたとえた。また楓と梅は花木で、「二月花」から二月に咲く草花を連想する人はいない。同じ赤の重ね合いにしても、二月堂の松明の火の粉と紅葉した楓を重ねることは幻想的過ぎる。淇園が「楓葉散於二月堂」と書けばそう読み取るしかないが、淇園展の図録で紹介されたもうひとつの対幅と同じ時期の作とすれば、この対幅も中国の古典詩からの引用があるのではないか。そう思って調べると、寒山に因む寺で詠まれた古典の詩に「霜葉紅於二月花」の句があることを知った。淇園は「霜」を「楓」に変え、これも部分的に古典から引いているかもしれないが、自作の「停和国愛楓林暁」と対にした。崩し文字をすらすら読める能力のない筆者は淇園の書の前で何年も思案し続ける。淇園は紅葉真っ盛りの奈良公園辺りを好み、二月堂まで歩いたことはあるはずだ。正倉院の宝物を見るには東大寺の許可が必要だが、大和郡山藩の藩主の柳沢を名乗る淇園であれば、乞えば内部を見せてもらえたのではないか。法隆寺の壁画も同様で、唐の香りを伝えるものを愛し、それを自分に引き寄せての新たな表現を追求した。淇園の作品はどこにまだ知られずに眠っているかわからないが、現在の限られた点数だけでも充分と言える。
●大和郡山城址から奈良市内の三条通りまで歩く―柳沢淇園の書_d0053294_13365419.jpg


# by uuuzen | 2026-05-01 23:59 | ●新・嵐山だより
●健気に咲き続ける白薔薇VIRGO、その53
僧にも 荷が重そうな ことあると ナンのセンスと 断りあると」、「白薔薇の 似合う尼僧に 相ありて 思い焦がすも 神にかなわず」、「何事も 不思議と思う マイ・ライフ 特に白薔薇 咲いては枯れて」、「あの時に もっと優しく 出来たはず 白薔薇見つつ 思い出浄め」
●健気に咲き続ける白薔薇VIRGO、その53_d0053294_15163623.jpg 寝るのがいつも深夜2時前後で、朝9時半過ぎに布団から出る。家内は2時間ほど寝るのも起きるのもずれていて、今朝は階下から「薔薇がきれいに咲いているよー」という大声で起こされた。毎朝雀に米をやる必要上、裏庭に出る。顔を洗う前で、頭をブラシで何度もかき回すと細い白髪が黒い薄手のセーターやその周りにたくさん落ちる。その様子を雀は椿や合歓木に留まって見ていて、ちゅんちゅんと鳴くが、冬の寒さで激減し、30羽ほどが数羽になった。次の冬の到来頃に元の数に戻るかどうか。田畑は消え、新たに建つ家は雀が雨風を凌げるような場所はなく、わが家に飛来する数はさらに減るかもしれない。今日の写真は雀に米を与える直前に撮った。今年初めてまともに、いかにも薔薇らしい形で大きく咲いた。いつものように左手を添えて撮ったので、前回投稿した写真との比較から大きさがわかるだろう。明日はもっと開くはずだが、この半ばの開花が楚々としてよい。小さな蕾があるので、盛夏までに数個は咲くだろう。今朝のこのひとつだけ咲いた白薔薇から、キャプテン・ビーフハートの曲を思い出した。1969年のアルバム『トラウト・マスク・レプリカ』にある「SWEET SWEET BULBS」だ。この曲はイントロのギターのメロディが歌詞の最初の行の視覚性を音楽にうまく置き換えている。同じメロディは曲の最後辺りにまた登場するが、中間部はビーフハートの語り歌いとやや音がずれて聞える部分を交えながらの即興と言ってよく、歌詞を優先し、音楽は背後でムードを作るだけで充分と考えたふしが伝わる。あるいはマジック・バンドはイントロと最後のみ、ビーフハートの思いをうまく汲んだが、中間部はどうメロディをつけていいのかよくわからなかったのだろう。歌詞はビーフハートの愛する女性が小さな庭を所有していて、そこに花々の蕾が育っている様子を愛でながら、ビーフハートは彼女の個性のなさを自分の指示どおりに作り替えて自然派として生まれ変わったことを称える。面白いのは彼女の歯ブラシをみんなで使おうという最後の下りだ。これは当時流行していたヒッピーのレイドバックした共同生活そのものと言ってよく、そこに都会派であったザッパとの生き方の違いが浮き彫りにされている。そのことは花で満たされる小さな庭とそこにたたずむ彼女を称えるラヴ・ソングである本曲全体からも明白で、歌詞は外光に満ち、一方で彼女を取り巻く不穏な外気に着目している箇所は、「小さな自由」を大切にするプチブルらしくはあるが、筆者はそういう正直で無垢なビーフハートが好きだ。

Sweet, sweet, sweet, sweet bulbs grow かわいい、かわいい、かわいい、かわいい蕾が
In my ladies' garden オレの貴婦人の庭に育つ
Warm, warm, warm, warm, warm sun-fingers wave 温かい、温かい、温かい、温かい、温かい日差しが
In my ladies' garden オレの貴婦人の庭に波打つ
Flowers dance, their faces brave 花は踊り、堂々とした顔つきで
Come talk freely in the garden of my lady オレの貴婦人の庭で自由に語る
Her hominy smile, her hominy snatch そのまっさらな笑み、そのむきだしの魅惑を
Only a crow would peck and a chicken would scratch ただ烏がついばみ、鶏が引っかくだろう

Her lips turned up to kiss 彼女の唇はキスするために現われた
I see ya, Phoebe, baby, in your bonnet そうだな、光の女神、お前の耳当て頭巾は
With the sunset written on it 夕日が差している
In the shadow of a tree curled around your knee in color 色つきのお前の膝に絡まる木の影に
And just behind ya was the sea of negativity そしてお前の後ろには存在を侵すものがある
Tinklin' like mercury in the wind 風の中の水銀のようにきらめきながら
Her feet kept by the ground, her toes bare brown 彼女の足は地面に支えられ、そのつま先はむき出しで茶色
Her carriage, she'd abandoned like a hand-me-down 彼女の立ち振る舞い、その月並みさで彼女は見捨てられた
She walked back into nature, a queen uncrowned 彼女は自然に戻った、王冠のない女王だ
She had just recognized herself to be an heir to the throne 彼女は王座の相続を自覚したのだ

Her garden gate swings lightly without weight 彼女の庭の門は重くなく、軽やかに揺れる
Open to most anyone that needs a little freedom 小さな自由がほしい人の多くに開かれ
For God's sake, oh, come as many as you can 頼むから、出来るだけ多く来てほしい
In dark or light you're free to grow as flowers 暗かろうが明るかろうが、誰しも花のように自由だ
Share her throne and use her toothbrush 彼女の王座を分け合い、彼女の歯ブラシを使おう
And spend some interesting hours そして楽しい時間を過ごそう



# by uuuzen | 2026-04-29 23:59 | ●新・嵐山だより(シリーズ編)
●実体の影の実体感覚
ィキペディア 自分で載せて 満足し 肝心の作 どれも価値なし」、「影だけの 価値はあるぞと 日は照らし すぐに燃え尽き 墓石の下に」、「わが影の 地面に落つる 昼下がり 背に日を受けて 心明るき」、「西日差し 壁の影絵の 庭木には 手入れ尽くした 無駄なき形」
●実体の影の実体感覚_d0053294_17471132.jpg 影には実体を伴なう。死んで骨になればそれを日にかざすと影が生ずるから、死んでも骨という実体があればそれをありがたがることは理解出来る。釈迦の骨を舎利と呼んで大事にすることはそうだ。実体とは何かとなれば受け止める人次第で、思い浮かべて気分よくなるもの、自信をつけられるものに対して、あるいは全く反対に恨みを抱く対象に、実体と同じように強固な思いを抱く。そういうものがなければ人間は生きて行くことは出来ず、さまざまな集団やそれを存在させる信条や決まりがある。数日前、近所の老夫婦のまだ元気であった80代のご主人の家の戸口に見慣れない高齢男性がいて、その家のご主人の息子さんであることを知った。昔から息子さんがひとりいることは聞いていたものの、その時に初めて顔を見た。やって来た理由は父親が亡くなったからだ。ご主人の姿は半年ほど見なかったので病死したのだろう。奧さんは数年前に認知症がひどくなって施設に入っていると聞いたが、先にご主人が逝かれた。元気そうに歩いている姿を見たのに、命が消えて不思議でない。それは80代半ば以降の年齢に限らない。ご主人は車に乗らなかったので、やや離れたところにあるガレージを庭代わりに植物の鉢で埋めていた。それらは手入れされないままで、息子さんが両親の住んでいた家を売りに出すと、不動産屋がそれらの鉢を撤去する。亡くなったご主人は長年ホテル勤務をしていた。退職後は地元に馴染まず、それで筆者もほとんど言葉を交わしたことがないが、背中を丸めて早足で歩く姿は鮮明に覚えている。それは筆者の頭の中だけにある「影」と言ってよく、認知症になればそれは消えるだろうし、そうでなくても思い出してもほとんど意味を持たない。そういう記憶をゴミや埃にたとえていいかもしれず、ではそうではない記憶とは何かとなれば、人生の中で最も輝かしいものであるはずだ。そのことを改めて思えば今この瞬間が何とかけがえのない素晴らしいものであるか、またそうなり得る可能性に満ちていることに気づく。しかしその気持ちは先の80代後半の年齢で死んだご主人も持っていたはずで、それどころかどんな人、どんな生命も持っている。そして生には縁というものがあって、短いその生きている間に特に馴染む人や物があり、それら実体は実際に会ったり所有したりする一方、記憶すなわち「影」として頭の中に留まり、それも実体として思えるから、人間世界に限らず、生命には質量のある実体よりも「影」の存在がはるかに大きく、意味があるのではないかと思うことがよくある。
●実体の影の実体感覚_d0053294_17480179.jpg
 もちろん親しい人と実際に会って話すことの楽しみが一番だが、親しくなりたいと思ってもそのような仲になれるとは限らない。相手が言葉の通じない外国人、あるいは有名人、またとっくの昔に死んだ人である場合は特にそう言える。それでも憧れがあれば、釈迦の骨のように、本人を思い出すよすがとなる実体的な影を欲し、それでたとえば絵画や音楽などの作品、つまり「影」と言ってよい実体を通じて作者の人柄を想像し、そのことの積み重ねも人生の意義あることとなる。となれば筆者はブログを通じて自分の「影」を生産していて、たまたまにしろ、あるいは以前からにしろ、この文章を読む人は筆者の「影」と対話していて、そのことがそれなりに縁のあることは否定出来ず、前の段落の最後の「質量ある実体よりも云々」をなおさら思うのだが、接してすぐに忘れることに比べて、意識にそれなりに留まる「影」としての作品は案外少ない。というより稀だ。さて、今日の最初の写真は3月21日に家内と下鴨神社の糺ノ森で開催された手づくり市の帰り、同神社の「一の鳥居」の少し北の東側で撮った。西日はまだ高く、庭木の松の影を土壁に落としていた。松はよく手入をされ、影となった松の木も絵の趣がある。この影は天気がよく、また西日の傾きによって生じ、さらには筆者のように着目して撮影する人は稀であろうから、筆者という実体が松のたまたまの影に出会い、さらにこうして投稿し、またこの文章を読む人は何重もの縁が重なってのことだ。その深いとも言える縁の影は不思議で面白く、生とは何か、死とは何かを考えさせる。生きている筆者はこの文章という影を量産し、それは筆者の肉体が消えてもまだしばらくはゴミか埃かわからないにせよ、実体の影としてネット上に残る。影は実体あってのものだが、実体の代用に見えつつ、影そのものが実体と認識される作品は出会いの縁の積み重ねによってより長生きし、他者の人生を彩りもする。今日の2枚目の写真は昨日の午後、嵯峨に買い物に行った帰りに見かけた壁面の影で、これまで長年その道を歩いているのに、このような影に出会ったことは初めてだ。あるいは初めて気づいた。壁は本来真っ黒だが、西日のために白っぽく見え、道路を挟んで西側の古い家の庭木の影を生じさせている。この光景を見かけたことで、「影」について考え、また最初の作品を使う機会が生まれた。最初の写真だけでは出会いは少ないと思えたからだ。しかしつい先ほど、以前撮影しながらブログに使っていない影の写真があることを思い出した。それを3枚目に掲げる。3年前の11月23日、家内と茨木の万博公園内の「みんぱく」に行くため、東口から入って数分歩いたところだ。この影から筆者の服装を想像することは難しいだろう。それが面白いと思った。筆者も手製の帽子はわかるが、どういう上着であったか覚えていない。それで残ったのは影としての写真のみだ。
●実体の影の実体感覚_d0053294_17490230.jpg


# by uuuzen | 2026-04-28 23:59 | ●新・嵐山だより

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