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●「春の晴れ 杉花粉飛び 目が腫れて 今日もティッシュの 濡れ山築き」
きの 理由と知るや 異物には 目を閉じ聞かず 意見をせずに」、「春の雨 杉花粉毒 洗い去れ 防塵仮面 今日は掃除を」、「よきことを すると自惚れ 紅顔の 紅衛兵は 厚顔に無恥」、「片隅で 好きなことする 法被族 傍迷惑は 思いも寄らぬ」
●「春の晴れ 杉花粉飛び 目が腫れて 今日もティッシュの 濡れ山築き」_d0053294_16585635.jpg
今日は終日雨で、花粉は少しましか。今日の2枚の写真はこれを書く場所からの山の眺めと立ち上がっての庭の見下ろしで、手元の貧弱な2台のカメラで同じ角度で撮った。今年の杉花粉の飛散量は去年の百倍という記事を昨日読んだ。それが正しいかどうかは別として、例年の筆者の花粉症は今年は異常な変化を体に来している。くしゃみは毎日50回、洟をかむのにティッシュ毎日一箱、目が痒くて睡眠中もごしごしと両瞼をこすっている。以上のことは毎年のことでどうにか我慢出来るが、今年は体中にニキビの親玉のような湿疹が出来て、痛くてたまらなない。後ろ首と左の臀部に5,6個、左の腰のパンツのゴムが擦れる箇所と右の背中脇にひとつずつ、両足のふくらはぎの外側に2,3個で、半分は帯状疱疹のようだが、もう半分はそれに該当しない気もしている。家内は医者に行けと毎日うるさいが、もらった薬ですぐに治るとは思えない。4,5日前は両手の中指の先が膿み始め、2日後に腫れの頂点が訪れ、直径1センチほどの水膨れが出来た。それを熱した針で突き破ろうかと思いつつ経過観察すると、翌日は腫れが少しましになり、昨日は水膨れが平らになり、今夜は「風風の湯」でぺろりと皮が剥けた。これは体全体の発疹が治癒に向かっているかと思うと、首と両足は新たな発疹が出来て触れると猛烈に痛む。こんな体調の変化は初めてだ。帯状疱疹は50代から70代の発症が多いそうで、体力が落ちて免疫力が低下するためとされる。花粉が去年より百倍多いことは、去年とは違う体調の変化をもたらして不思議ではない。息子のアトピーはもっとひどく、立ち上がれないほどに全身血と膿まみれになって10日ほど寝たきりになった。足の裏にも膿を伴う湿疹が出来るので、歩けないのだ。筆者はそこまでひどくないが、今年初めて息子と同じ湿疹が出来た。息子は病院に通って塗り薬をもらっているが、ほとんど役に立たず、季節の変わり目になると毎年体調が悪化する。息子は数年前にアトピー体質改善の1本数万円の注射を何度か打つと、全身から湿疹が消えた。ただし毎月2度ほど打ち、また一生打ち続けねばならない。どんな薬かと言えば、簡単に言えば回虫のエキスとのことだ。東南アジアの子どもたちにアトピーの症状はないと読んだことがある。日本も昭和の東京オリンピック頃までは子どもは回虫を体内に持っていた。それを「虫下し」で絶滅させた後にアトピーが爆発的に広がった。近視眼的に悪者はやっつけるというのが人間の考えだが、その後に必ず何らかの形で復讐される。快適を手に入れると予想外の不快が待っている。
 両足の湿疹はひとつの大きな噴火口状を呈し、立っているとひどい圧迫感がある。歩いているとそれは気にならないが、立ち止まった途端にズキズキと痛み、立っていられない。真剣に防毒マスクの購入を考えているが、それを部屋の中で終日つけたままでくしゃみと目の痒みが収まるだろうか。杉花粉の被害は杉をたくさん植えたからで、昔の人は後の代の人の収益につながる行為をしている自負があったろう。ところが時代はどう変化するかわからない。杉山は放置され、杉花粉が春になると爆発的に日本中に飛散し、人々に悲惨な目を遭わせる原因となった。これはあらゆることに通じる教訓でもある。「誰々のために」と自惚れて活動する人はいつの時代も一方でその思いとは正反対の害悪をまき散らす。筆者が好んですることはみな自分が好きであるからであって、誰かのためにとは一度も思ったことがない。一本の苗木を山に植える行為が後世の人のためという面があることは否定しないが、それは百パーセント正しいとは言えない部分を持っている。話は変わる。先日録画した『地下鉄のザジ』を見た。この映画の主人公を筆者は半世紀前から男子と思って来たが、女子であることを知った。それはともかく、いたずらっ子の彼女はパリに出て見知らぬおじさんから昼食を食べさせてもらう場面がある。山盛りのムール貝の料理皿を前にしたザジはある貝から大きな真珠を見つけた途端、それを即座に背後に投げ捨てる。大人ならその幸運をもったいないと思うが、子どもにとって真珠の美はどうでもよい。それはさておき、先日久しぶりに自治会のFさん宅にお邪魔し、その後仏師のOさん宅に行った。Oさんは筆者と同じ年齢で、去年12月に癌の手術を受けた。早期発見であったので10日ほどで退院し、また仕事が出来るようになった。気になりながら筆者は3か月ぶりに様子伺いに出かけた。Oさんと立ち話をしながら、最近彫っている密教の法具を見せてもらい、その素材の白檀の欠片の匂いをかがせてくれた。Oさんによれば伽羅を使うこともあるとのことで、近年その香木を人工的に作っていると聞かされた。それは木が嫌う病原菌を注入すると、木は抵抗のために樹液をその菌の周りに量産密集させ、そうして香木が要領よく作り上げられる。その話を聞いて筆者は真珠と同じと言った。真珠は貝にとっては寄生される厄介なものだ。香木の香りも人間がいいと思っているだけで、木にとっては生きるために抵抗して作り出した樹液の匂いであって、木にとっては腐臭かもしれない。となれば人間に生ずる癌も、別の生命からすれば大いに歓迎するものであるかもしれない。癌患者の尿には特定の微生物が集まるとされるが、彼らは癌を真珠や香木のようにありがたがっているのではないか。嗅覚がその微生物にないとすれば、味覚だろうか。ともかく癌を好んでいることは確かであろう。
●「春の晴れ 杉花粉飛び 目が腫れて 今日もティッシュの 濡れ山築き」_d0053294_16592999.jpg 話はまた変わる。先日嵯峨のスーパーで若い母親が1歳にならない女児を乳母車に乗せていた。筆者は女児と何度も目を合わせ、そのたびに彼女は筆者をしばらく見つめ続け、笑顔を作った。そのかわいらしさに匹敵するものは他にはない。よほど何かの菓子を買って彼女の手に握らせたかったが、財布を持たず、家内は店内の遠方にいた。その赤ん坊はどういう成人に育つか、その顔つきをほとんど完成させていたが、どういう大人になろうが、周囲にあるものに対し、受け入れるものとそうではないものとを識別して行く。そのことが人生で、人格を作って行くことだ。受け入れるものは最初からすんなりそうなるものと、吟味の期間がしばらく続く場合がある。前者は問題なくその後も受け入れ続けるようになるとは限らない。後者ももちろんそうで、益か害のどちらを多くもたらすかをあらゆる面から本能的に考える。害と判断すればそれ以上の害はほとんど受けないが、それでも害に遭遇したという思いは去らない。益の場合もそのすべてが問題ないという場合は少なく、摂取するには何らかの異物感を覚える。その異物感に対して先の赤ちゃんは今後毎日猛烈に晒され、受け入れるか退けるかしながら人格を形成して行く。違和感の正体を探ろうという興味ないし態度を持つことは普通で、違和感のある存在に触れた後、その毒気を無害なものにする意識を本能的に持つのが、健康な人の証と言ってよい。毒気を無害にすることの最も適切な方法は忘れることだが、毒気が強い場合、なかなか退いてくれない。そこで毒気のない何かに積極的に触れて意識の底にべったりとこびりつく毒気を忘れようとするが、その解毒行為の大きなひとつが表現行為、芸術だ。筆者はこう書きながら、ザッパの「マフィン・マン」の歌詞を思い出しているが、話があまりに逸脱するので本題に戻す。筆者の今年の花粉症のひどさは杉花粉の飛散量の多さのせいとして、筆者はその花粉毒を解毒するのにどうすればいいか。医者、薬に頼らねば、まずは自分の体の変化を凝視し、一方で自愛し、体力を蓄えることだ。それには何もしないで寝転んでいるのが最も効果的だが、下着も布団も血と膿だらけになるではじっと座っているしかない。Oさんが癌になるのであるから、筆者が花粉症で少々寝込むことはある意味自然なことだ。杉を植え過ぎた行為を恨んでも仕方がないが、よかれと思ってやっている行為が意外なところで深刻な害を生む現実からは、たとえば筆者のこのブログもどこかで誰かに毒を振りまいていることになっているとの想像力を働かせてみる。筆者の知らないところで知らない人が筆者の毒気に当てられながら、それを解毒するために新たな何かを生もうとする。そう考えると少しはましなことを書いた気になるが、筆者の文章が毒にも薬にもならない。「くしゃみして ひとつ解毒の 撒き散らし 拍手ォーーン さらにアクション」
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# by uuuzen | 2023-03-22 23:59 | ●新・嵐山だより
●渡月橋間近の下流堰工事、その2
きを 自覚せぬまま 恥さらし 有名病の 見苦しさ充ち」、「鏡見て 見たきようにと 吾を見る 真の姿は 思いどおりに」、「増水し 米がふやけて 雑炊に 雀納得 満腹至福」、「倦む午後に 膿み痛む指 熱を帯び 熱帯想い 熟みを産みたし」
●渡月橋間近の下流堰工事、その2_d0053294_01293096.jpg
昨日の続き。同じく1月23日に撮った写真を使う。2、3枚目は渡月橋の上からで、どのような作業をしているかがわかる。四角い鉄の枠をクレーンで吊り上げて河床に下ろし、その内部に大きな石を積みながら詰め込む。ただし、写真は詰め終えた後にその枠を外している状態で、そのままでは崩れるので金網で固定しているだろう。それは蓋のない容器と思ってよく、隙間だらけであるので魚や貝の生息には問題がないだろう。他の場所を見てもわかるように畳2枚分ほどの正方形の石の絨毯ないし布団を単位として川幅いっぱいに敷き詰めて行く。写真からわかるように一単位に相当する部分ごとにわずかに隙間が見えている。なぜこのような工法にするのかと言えば、工事費の算出をこの鉄枠何枚分というようにわかりやすくするためではないか。漫然と敷き詰めて行けば両端で石の詰め具合の密度に差が出るだろう。それで金箔を屏風に貼るように正方形の単位を順に敷き詰めて行く。その過程で生じる、あるいはあえて生じさせるのかもしれないが、そのわずかな隙間は水流によって拡張されやすいと想像するが、一方ではこの隙間から魚が流れを上り下りしやすいかもしれない。また、今年は石を詰めた斜面がこれまでよりも下流に向かって緩やかにされているようで、水の落下の衝撃を和らげるためだろう。洪水時に川底は渦を巻いて石を持ち上げるので効果のほどはわからないが、階段の横に今はスロープが併設される場合が目立ち、この堰も段差が目立つ構造ではなく、なるべく長い斜面にすることは理解出来る。今年の大雨の後、どのように石組の斜面が破壊されるかだが、ひどければまた新たな構造を考えればよい。相手は予測のつかない雨水量ゆえ、今回の工事が完璧ということはあり得ない。普段は水量が少ないから、見栄え重視にすることは当然だ。3枚目のパノラマからは右岸側半分がほとんど工事を終えているように見える。白っぽい帯状の段の石組が今回設置された斜面の末端部で、その上流側で崩れた箇所を補修しながらの工事だ。ただし水量が少ない季節なので補修した箇所が万全かどうかはわからない。というのは、これを書く現在、工事は終わっていて、補修箇所も含めて全体を眺めわたすと、水流が川幅いっぱいにどの箇所もほぼ均等に流れているのではなく、水流が特に多くて目立つ箇所がいくつかあるからだ。工事にけちをつけるつもりはないが、梅雨時にその箇所は傷口を大きくすると想像する。竹籠に石を詰める昔の蛇籠と基本は同じで、おそらく他の河川でも同様の工法は採用されているが、渡月橋のすぐ下流では観光客が毎日写真を撮るので美しく見せる必要がある。
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 筆者もそれに倣ってブログに使う写真はなるべく美しくをモットーにしているつもりだが、工事中の一場面ではどう撮っても醜にしかなり得ないとも言える。それに工事が終わればそれは一時的な仮の姿で、長い歴史の一瞬の変身過程を切り取ったもので、記録の意味合いしかない。だがそれを言えば写真はすべてそうであって、その撮影された一瞬が永遠として記憶される。あるいは想像力の豊かな人は1枚の写真から多くの場面を思い浮かべることが出来るが、それは個人の脳裏に浮かぶ幻影であって、他者にそのまま伝えられることはない。何が言いたいかと言えば、1枚の写真はそこに写るものがすべてでありつつ、見る人によって空想が広がるということだ。ではある場面での多くの写真が存在するとして、その空想は累乗で増えるかと言えば、空想はより現実的なものに近づくが、写真や映像は現実を捉えていながら空想の領域に属する。自分の写真を撮って、「ああこれが今の自分だ」と思っても、すぐにそれは過去になって、空想の中でしか生きない。たとえば嵐山劇場のファサード写真は白黒なので実際の色合いはわからないが、仔細に見ると名部の様子までわかる気がして来る。それは戦後の昭和の映画館を筆者が小さな頃から何軒も見て来たここと、現在も同様の建物として八坂の祇園会館があり、それら舞台のある施設とさほど変わらないと思うからだ。もちろん細部に凝った装飾があれば話は別だが、そういう細部も当時の建物のそれと共通性があるはずで、想像を絶するというものはないだろう。あれば証言者が必ずいて、言葉や写真などの記録に残っている。それで筆者は嵐山劇場の写真が1枚しかないとしても、それで充分で、またゼロとは比べものにならないほど貴重と思う。細部に美の神は宿ると言われるが、細部は変更可能な場合が多く、決定的な美の条件にはなり難いことも確かだ。世の中は無限の細部で出来ているので、人間はある対象の細部よりもまずおおまかな性質を捉えようとする。嵐山劇場のファサードの壁面が肌色に塗られていたとして、それがやがて風雨で汚れ、別の色に塗り替えられたこともあるかもしれない。内部の座席の色も同様で、実際の色がどうであったかは重要でない。細部に執着しないことは精神を正常に保つにはよい。考えてもわからない細部は多い。それらはどうであってもかまわないと思うことだし、たいていの人はそうしている。細部にこだわるあまり、本質を見逃すことを懸念するからだ。何かの拍子で細部に目が行き、その細部が全体を表わしていると思い至ることはあるが、細部から受け取る印象は絶対的な真実とは限らず、そうでないと疑っておく気持ちの保持は必要だ。人間の細部はだいたい醜いもので、筆者は若い女性の太腿の筋肉が飛び跳ねている時に無様に歪み、音を立て、場合によっては臭みを発散していることを想像することがある。
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 それで若い女性がおじさんを臭いと非難する時、同じほどあんたも臭いことを知っておいたほうがいいよと内心思う。たまたまある人物に初対面で会った際、その人の鼻から一本の毛が覗いていたとする。そこで「ああ、この人は身だしなみに気を遣わず、他人に対してもそうだろう」と思うことはあろうが、その鼻毛はその人の人生一度の迂闊か、あるいは会う直前に洟をかんだことが原因かもしれない。そういうたまたまの幻滅が人との出会いでは生じやすく、それで有名人は一般人となるべく会わないようにする。わずかな何かが致命的な瑕疵に受け止められる可能性が大きいからだ。それは一般人同士でもある。かすかに恋心を抱いていた異性と親しく話をする機会に恵まれたのに、一瞬で幻想が吹き飛ぶ経験は男女ともにあるだろう。その場合、食べ方が気に食わない、しゃべり方が想像とは全然違ったなど、いわばちょっとしたことで全体を知ったと思い込む。それが正しい場合もあるが、そうでない場合もある。気に食わない点があれば、交際する間にお互い矯正して行けばいいのに、そういう悠長あるいは鷹揚な考えを持たない。だが、若者の場合と違って高齢者の矯正は無理で、自分が第一と思っている場合がほとんどだ。そうであっても無視して言葉を交わさないでは時間も気分も無駄にする。たまたま嫌な人物に出会っても、挨拶くらいして嫌な気分を消し去ることだ。話を戻す。いくら鮮明な写真でも、それは現実そのものではない。そのことを知れば不鮮明な白黒写真1枚でも充分で、それを凝視しているとその写真にはない場面、細部が想像出来る。こう書きながら筆者は戦前に冨田渓仙が中ノ島公園から太鼓橋を南に越えて現在の「風風の湯」のある辺りで撮った数枚の写真を思い出している。橋は現在のものとデザインが違い、また桜の木は見えずに雑草が生い茂る。そうであってもそこがどこであるかはわかり、その場所から対岸の自宅を眺めた渓仙の姿も目に浮かぶ。渓仙の話になったついでに書くと、車折神社の社務所の近くに「渓仙桜」がある。幹の太さから初代のそれとは思えないが、その名札があるので渓仙がそこに枝垂れ桜を一本寄進したことは確かだ。渓仙と桜の関係をその絵画から知る人はよほどの美術好きで、同神社を訪れる芸能人ファンはおそらくほとんど知らず、知っても無視してよい細部と思うだろう。世の中のあらゆる物事は細部の集積で、見る人によって全然違った様相を呈する。そこで美の神は細部に宿ることを持ち出すと、逆に醜も細部に宿ることになって、美醜の基準は決定的ではないことになる。それを承知で筆者はなるべく美をモットーにしたいが、平気で屁はするし、今は体のあちこちを醜い吹き出物に悩まされ、美を唱える資格はない気分だ。アンディ・ウォーホルは恋人同士が一夜を過ごした後、朝になってお互い口臭がひどいことを書いた。美に幻滅はつきものということか。
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# by uuuzen | 2023-03-12 23:59 | ●駅前の変化
●嵐山中ノ島小橋修復、その17
壕を 土嚢囲みで 立ち上げて 工事の戦 用意整い」、「放置して 傷み癒えるは 若さなり 傷みの痛み 治療の報知」、「免役を 信じて自傷 入院し 免疫なくて 天国に入り」、「早い目に 虫歯直すは よきとして 早過ぎて穴 よけいに広げ」●嵐山中ノ島小橋修復、その17_d0053294_01262233.jpg 一昨日投稿した嵐山劇場の写真は他にもあるのだろうか。1枚だけとなると希少価値に加えて想像を働かせる必要がある分、ありがたみが大きい。ところで戦後直後に文化人切手がシリーズで発売され、そこに選ばれた著名人はみな写真をもとに凹版の原版が彫られた。紙幣に印刷される肖像も同じで、写真を忠実に再現しつつ、理想化を加味し、より神々しい顔つきになっている。明治の著名人は誰もが自分の肖像写真を写真館で撮ったかと言えばそうとは限らないだろう。文化人切手の肖像は、たとえば正岡子規のように照明の当たり具合が尋常ではなく、その横顔は生々しさを伝えるが、他の文化人切手の肖像とは違って格式ばった正装ではない分、彼の過酷な生涯が象徴されているように思える。他に子規の正面顔の写真がいくらかあるのかもしれず、そのほうが顔つきはよりわかってファンにはありがたいが、子規と言えば、その死期を悟ったかのような横顔の意思の強そうな写真が必ず紹介される。一方、ネット時代になって顔に自信のある人は自分の写真を頻繁に載せ、より思いどおりにするために厚化粧や画像加工を施し、もはや実態不明を証明している。先の文化人切手の肖像のように、これ1枚という決定的な顔写真の提示が印象的でいいのに、衣服を着替えるような気持ちで多くの写真を見せたがる。さて、今日の写真は1月23日に家内と一緒に嵯峨に買い物に行く途中で撮った。最初の写真は桂川の支流の左岸からで、上は下流側、下は上流側で、下の写真の左下隅に青いトロリーバッグが少し覗いている。4,5年前に家内が友人の母親が使っていた新品同様のものをいただいて帰り、去年から筆者が使っている。家内は握力がきわめて乏しく、買い物はほとんどすべて筆者が両手のバッグで持ち帰っていたが、10キロほどになることが多く、プラスティック製の車輪の着いたバッグが便利と気づいて使い始めた。85Mさんの奧さんは頑なにその老人用の買い物袋車を使わないそうだが、とても便利で10キロの荷物でも苦にならない。買い物はこれ以外に手提げバッグを2個持参し、要冷蔵ものとそうでないものとを入れ分ける。どうでもいいことを書いたが、写真を撮った際、たまたまトロリーバッグが写り込み、それは先の子規の顔写真ではないが、たった1枚のものになるはずで、印象深くなる、あるいはさせるのによいと判断した。2枚目の写真は撮影場所を少しずらし、橋脚に焦点を合わせた。左上の搭状の囲いは橋の上から橋脚に上り下りするための梯子だ。現在は工事が済み、これらの仮の姿の写真は貴重と言えるかもしれない。百年ほど経つともっとそうなるか。
●嵐山中ノ島小橋修復、その17_d0053294_01264268.jpg

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# by uuuzen | 2023-03-11 23:59 | ●駅前の変化
●『ZAPPA ‘80:Mudd Club/Munich』その4
めながら 飴の糖分 気になりて なければさびし 少しは甘味」、「野良犬を 見かけなくなり ほっとしつ 捨てられ犬の 増えしこと知り」、「気が変わり 何でも棄てる こと正し 誓いの意味は 言葉折ること」、「無理するな 日々盆栽に 声かけて 凡才聞いて 成るはほどほど」●『ZAPPA ‘80:Mudd Club/Munich』その4_d0053294_00560798.jpg「その3」で終えようと思っていたが予定変更。80年のライヴはアナログ録音だ。それででもないが今回の新譜もLPレコードが発売された。今日の2枚目の画像のようにマッド・クラブとミュンヘンのライヴを個別に収録し、前者は白黒ジャケットにLP2枚、後者はCDのブックレットの表紙の写真をジャケットに使い、盤は3枚、オレンジ色と黒の2種が製作された。LPでしか聴けない音があれば購入を考えるが、そうではないので写真を見るだけにする。ただし、見開きジャケットの内部がどのような写真を使っているのかは気になる。この2種のLPはザッパが80年に緊急発売した可能性がなきにしもあらずとサーヴィス気味に考えてみると、そうであったとすればジャケットに今回のような写真を使った可能性は少ないのではないか。カル・シェンケルにイラストを依頼したかもしれないと思うからだが、80年は微妙な時期だ。ザッパはバーキング・パンプキン初のアルバム『ティンセル・タウンの空騒ぎ』でカルにアルバムのデザインを依頼し、それは回顧趣味的で特別秀逸とは言えなかった。当時カルはザッパ・ツアーのパンフレットのデザインも担当し、カルらしい才能を示したが、ザッパは粘土アニメのブルース・ビックフォードの才能に大いに肩入れしていた。そのため、本作の2種のLPが当時発売されていたとして、そのジャケットは本作のようにザッパの写真を使った無難なものになった可能性が大きい。そういうことも考えて本作の発売は吟味されたはずで、CDとLPの双方にうまく曲が収まることを最大の問題としながら、ジョー・トラヴァースや他の関係者はファンが思う以上にエネルギーを使ったであろう。それは端的に言えば、ザッパの意思を汲み、海賊盤とは明らかに違う質を保証するとの考えだ。その点を慮ると音が違って聞こえて来ると、先日とは趣が違うことを今日は書くが、実はステレオで大音量で聴くと、アナログっぽいと言えばいいか、生前のザッパのLPとは違うギターの音の分厚さにまず感心し、技術の進歩を感じる。あたりまえのことで、パソコンで聴くと海賊盤っぽいが、本作は臨場感を味わうためにステレオで可能な限り大きな音で一度は聴くのがよい。前作でケリー・マクナブはザッパはライヴでは大音量で演奏することにこだわったことを書いていた。そのことをジョーは思い出しながら本作のギターを地震かと勘違いするほどの重金属音に加工したのではないか。アナログの音をデジタル化すれば、後はある程度どのようにでも音を作り変えられる。
●『ZAPPA ‘80:Mudd Club/Munich』その4_d0053294_00562983.jpg 本作のドラマーはヴィニー・コライユッタからデイヴィッド・ロウグマンに交代し、白黒だが彼の顔写真が初めてジャケット見開き内部で紹介された。きびきびした演奏で、ヴィニーとどちらが技術的に優れているかとなれば、聴き手の好みの問題の部分が大きいが、ヴィニーは「モーズ・ヴァケイション」のような複雑なリズムの曲をザッパが賛辞を贈るほどに完璧に奏で、バンドにより馴染んだのはヴィニーだろう。本作ではヴォーカル曲が中心で、デイヴィッドがヴィニーのようにザッパらしいぎくしゃくしたリズムの曲を奏でる出番がなかった。それで技術力の優劣は簡単に決められず、ザッパが雇った他のドラマーとは明らかに違った個性を本作で聴き取ることが出来、ザッパがオーディションで選んだだけの才能があることを否定する人はいないだろう。短期の活躍で終わったのはギャラの問題とされているようで、ヴィニーが復活してザッパは却ってやりやすくなったかもしれない。ベースのアーサー・バーロウも80年春の雇用に際してゲイルからオーディションを受けるようにとの電話があったが、アーサーはすでに以前にオーディションを受け、ザッパと演奏をしているのでそれを断った。またアーサーはザッパからはメンバー中では最も才能を買われ、ザッパがリハーサルに遅れてやって来るまでの間、ザッパの代わりをして曲の練習をまとめた。それででもないが、本作のブックレットではレパートリー全曲に対して簡単な解説を書いている。それで思い出した。スティーヴ・ヴァイは本作のマッド・クラブでの演奏の際、最前列に客と観覧し、ザッパと視線をやり取りした。ヴァイは同年秋のツアーに参加し、その時はステージでは前列にギタリストが4人も立つことになった。もちろんヴァイの担当は「曲芸ギター」で、難易度の高いフレーズを担当した。その才能の片鱗は後年「デンジャラス・キッチン」などの曲においてザッパの即興ヴォーカルを採譜し、スタジオでギターをそれとユニゾンで奏でることで紹介されるが、その前哨としてレイ・ホワイトがライヴで自分の即興ヴォーカルにギターをユニゾンで弾く芸を見せていたことがある。もっとも、その即興のソロを採譜して楽器でユニゾンで演奏することをザッパは72年から顕著にやり始めていたので、ザッパにすれば「デンジャラス・キッチン」の歌とギターのユニゾン加工はその点に意義があるというより、ザッパの即興ヴォーカルの今までにない「weird」さにあったろう。その溶解した妖怪のような気味悪い歌は80年代になって始まったものではなく、60年代後半の「グリーン・ジーンズさん」の歌詞にすでにある。そしてそのシュルレアリスム的なイメージはザッパが愛するドゥーワップ・ソングと合体して50年代になかった、あるいはアメリカのひとつの本質であった「醜さ」を表わすことになった。
●『ZAPPA ‘80:Mudd Club/Munich』その4_d0053294_00565194.jpg 今日の最初の写真はザッパ・ファミリーから4日に届いたメールから取った。中央の映像は実際は動いている。添えられた文章はジョー・トラヴァースの解説からエキスを抽出し、メールの題名「From Nightclub to Arena」が面白い。筆者はこれからピアソラを思い出した。だがタンゴが場末のクラブからコンサート会場で演奏されるものとなるべきとの意識はザッパにおいては別な形であった。ザッパはクラシック音楽のようにコンサート会場で自作曲が演奏されることの夢を生涯見続け、それを体験したが、そういう音楽とロックは基本的には別物と思っていた。その意識が強化されるのは80年からだ。本作のように歌を中心とした演奏やアルバムを作る一方、管弦楽曲は別の次元で実現を考えるようになった。したがって「ナイトクラブからアリーナ」は本作に限って形容出来るだけのことで、会場の大小は音楽の質に関係がない。ただし明らかにナイトクラブとアリーナという空間の差を内蔵し、異なる臨場感が楽しめる。話を戻して、メールに添えられた映像は80年以降のザッパの多くの演奏が録画されていることを伝え、今後ライヴDVDの発売の加速化を予想させるが、ザッパは84年のライヴで一例を実行した。『音楽にユーモアはあるか?』のCDとヴィデオで、前者はザッパ初のCDとなった。後年その音を、特にギター・ソロを著しく改変したCDを再発したが、映像とCDとは同じ曲ではなく、インタヴュー映像を挟むなどして、ステージ演奏の録画だけの発売では面白くないと考えた。つまり本作の映像があるとして、それをそのままDVDとすることはザッパの考えにはなかったであろう。そこでザッパ・ファミリーは録画された大量の映像をどう商品化するかを考えあぐねていることが想像出来る。ついでに書くと、本作ブックレットの写真はザッパ・ファンのジョージ・アルパーの撮影で、マッド・クラブでのものは別人が撮影した16ミリ・フィルムから取ったものとされる。今日の3枚目の写真はアルパー撮影の写真を使ったTシャツの裏表で、通販されている。今日書きたい最大のことを最後に。アメリカの大西さんから知らせてもらい、「ザッパ関連ニュース」に投稿したように、本作の発売とほぼ同時期、YouTubeにザッパが92年にアンサンブル・モデルンを指揮してリハーサルしたヴァレーズの数曲の部分が投稿された。リハーサル以外に完全録音の音源はゲイルが語ったところによれば、金の支払いの問題でザッパに手渡されなくなった。リハーサルや録音の諸費用を出した人物が当時何歳であったかわからないが、30年経てば死んだ可能性もある。そこで関係者や遺族が持っていても仕方のない録音テープや映像を誰かに譲渡したか、関係者が流出させたのだろう。ザッパのアルバムの最後を飾るものとして、そのヴァレーズ音源が一時も早く発売されることを期待したい。
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# by uuuzen | 2023-03-10 23:59 | ●ザッパ新譜紹介など
●「芸能の 神社の前の 劇場が 消えて賑わう 境内の道」
らぬ 理由になるか 気力なし 気の養いに 気がかり減らせ」、「知らぬまま 過ぎて困らぬ こと多し 知れば切りなし 謎の広がり」、「極楽に 娯楽なくても 楽あると 言いし落語家 落ちなき語り」、「玉垣に 墨書されたる 名前知る 人もいずれは みな忘れられ」
●「芸能の 神社の前の 劇場が 消えて賑わう 境内の道」_d0053294_00403765.jpg
最近「風風の湯」で家内が85Mさんの奧さんからパソコンの調子がおかしいことを何度か聞かされた。大きな音が鳴って警告画面がよく出るとのことで、そのたびに奧さんはどうすればいいかわからずにスマホで遠方の身内に訊くそうだ。そのデスクトップのパソコンは50万円ほどするそうで、そんなに高いものを使う割に操作について詳しくない。筆者はこれまで一度もそのような警告画面に驚かされたことはなく、筆者でよければ駆けつけると家内を通じて伝えておいた。だが想像するに株の取引や買い物など、身内以外に見られては困ることがあるようだ。それはさておき、筆者はパソコンを新品で買ったことがない。中古ばかりで5000円ほどのものを買う。今使っているデスクトップはたとえばツイッター画面を表示させるのに最低10分、たいていは20分ほど要し、場合によってはいつまでも表示されない。ツイッターの使い勝手がよくわからないこともあってほとんど関心がないが、そのためによりハードルの高そうなフェイスブックやインスタグラムを使ってみたい気が生じたことがない。ついで書いておく。このブログはワードで書いているが、そのワード・ソフトが以前何かのプログラムを消したために、毎回使えるまでにあれこれ操作して最低5分ほど要する。また書いている途中でワード画面全体が消えてしまう場合もよくあり、さらに5分要して立ち上げ、記憶をたどって新たに書き直す。読者には見えない苦労がいろいろとあるのだが、安価なパソコンではまあ仕方がない。快適なパソコンに百万円出してもいいと思ったことがあるが、たぶん使えば快適に思えないことが多々あるだろう。それで不自由を感じながら使うことに納得し、浮いた百万は別のものに使う。今年1年間の筆者の資料代がだいたいそれくらいで、筆者はハードよりも圧倒的にソフトに出費する。話をツイッターに戻す。ツイッターのダイレクトメールをごくたまに使うが、先月末に久しぶりに何気なくその画面を開くと、見知らぬ3人から届いていることを知った。ひとりは若い女性の劇団員で2021年12月の送信、もうひとりは新聞記者で去年8月、残るひとりはアメリカのミュージシャンで2020年9月に届いている。このアメリカ人は不審な点はなさそうだが、フォロワー獲得を目当てにしているようなので承認ボタンを押していない。前二者には即座に返事を出し、長い間待たせたことを詫びた。それほどに筆者はツイッターの使い方に長けていない。そういう老人は85Mさんの奧さんがパソコン操作に疎いことを笑えない。
●「芸能の 神社の前の 劇場が 消えて賑わう 境内の道」_d0053294_00405381.jpg 今日の本題は前述の劇団員の女性から届いたダイレクトメールとその後の何度かのやり取りについてだ。彼女のツイッターは鍵つきでフォロワーしか見られない。最初に届いた内容は、筆者がブログに嵐山劇場について書いたことに対する感謝だ。彼女の祖母の父親が同劇場を経営していたとのことで、その血筋で彼女は劇団員になったのかもしれない。筆者が家内と散歩がてらによく行く嵯峨のスーパーは6軒あって、たいてい4軒梯子する。2時間のその散歩は家内の肺の調子をよくし、運動不足の筆者にもよい。週に一度は訪れる車折神社の北すぐのスーパーに行くたびに筆者は嵐山劇場がその付近のどこにあったかを想像していた。今日の最初の写真右の昭和6年の25000分の1の地図によれば、同駅の線路北側の田畑の中、西に大きな建物が記され、そこだろうと思って来た。地図には駅の東口の北にも建物が記され、それが嵐山劇場であることを彼女のダイレクトメールで教えられた。今日の最初の写真の左は、彼女がある本から撮った嵐山劇場の正面画像を見やすいように筆者が加工したものだ。2枚目の画像の地図もそうで、これは昭和6年頃のものだろう。嵐山劇場は25000分の1の地図と違って南北に細長い。ということは、正面玄関が北か南にあったことになる。南は線路ぎりぎりで、たぶん玄関は北側にあった。ファサード両脇に前庭の柵のようなものが写っている。建物の北は田畑を貫いて東西に一直線の道路が昭和一桁時代に造られ、「昭和通り」と呼ばれる。その道の北端か、さらに北の畑から撮った写真だろう。2枚目の画像の地図では最下段の太い赤線が三条通りで、昭和初期にはその両脇にしかほとんど建物がなかった。昭和通りが出来て嵐山劇場が建てられ、今はどこにも田畑はない。ついでに書いておくと、最初の地図の下方の水色を塗った場所は現在の嵯峨美大で、昔は大きな池であった。2枚目の地図の上方の緑色の丸が筆者と家内がよく行くスーパーで、Aが嵐山劇場、Bは車折神社の南の鳥居、Cは北の鳥居で、細い赤線は筆者がスーパー通いでよく利用する道だが、神社の境内を南から北に抜ける場合と、境内西側の南北の道を利用する頻度はだいたい同じだ。これもついでに記しておいたが、嵐山劇場の場所から嵐電の線路を挟んで南東角に一軒家がある。「風風の湯」の常連のFさんによれば、そこが女優の嵯峨美智子の家であったらしい。彼女は昭和10年の生まれであるので、嵐山劇場の存在は知っていたことになる。芸能の神様の車折神社のすぐ北に劇場があって映画や演劇が行なわれていたことは理にかなっていた。しかし現在とは比較にならないほどに人口は少なく、経営は難しかったろう。一方、車折神社は毎日若者が大いに訪れ、嵯峨の人気スポットになっている。2万円ほどで名前を書いてもらえる赤い玉垣は確か7000本あるそうで、大繁盛の神社だ。
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# by uuuzen | 2023-03-09 23:59 | ●新・嵐山だより

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