「
五里霧中 目覚めて安堵 日差し見て 明るいうちに やることを終え」、「不安なき ことはなけれど 深呼吸 よきこと想い 天に顔向け」、「一年が 早いものだと 平凡な 言葉を交わす 一年ぶりに」、「お祭りは 参加してこそ 意味あると 誘いの言葉 今年もかけて」

BWANAはスワヒリ語で「ご主人様」という意味で、ザッパはこれをDICKと結びつけて曲名にしたが、女性がDICK(男根)を崇拝するのは子孫存続の本能だ。それはヒンドゥー教ではリンガとヨニの結合で象徴化され、猥褻ではなく、聖なるものだ。ザッパのバンドにあってザッパはBWANAであり続け、メンバーはザッパの手足のように動いた。それに倣っているとおぼしき紫さんのバンドのBWANAで、選曲、アレンジなど紫さんが文字どおりのBWANAとしてメンバーを統率しているのだろう。その点、ザッパニモヲは誰がBWANAかと言えば、さあやさんかくろみさん、あるいは両者と想像するが、どちらもギターを弾かないところ、BWANAよりはザッパ曲のカヴァーに関しては柔軟性があるかもしれない。ギタリストが中心になるとどうしてもその腕前をザッパと比較してしまうからだ。これは言い変えるとザッパニモヲはBWANAよりもザッパらしさが減じ、その分、ザッパの曲を客観視し得る立場にある。さらに言い変えれば自在にアレンジするとの意味だが、BWANAも日本語で歌う点でアレンジは大きい。カヴァー演奏はどのような場合も原曲のアレンジと言ってよい。クラシック音楽では楽譜に忠実に演奏するとはいえ、演奏者ごと、指揮者ごとに全然違った演奏が生まれる。ならばザッパの曲のカヴァーはさらに原曲とは違ったものになるし、またそうでありながらザッパの曲であるという面白さがある。これはザッパ自身が毎年のように同じ曲を違うメンバーによって違うアレンジで演奏したことからして元来柔軟性を大きな特徴としていたためだ。そう考えると、日本の解釈という点で海外のザッパ・ファンにどう評価されるかという興味深さがある。この点はYouTubeの投稿の仕方が関係することで、ザッパロウィンの知名度を上げるにはSNSの使い方に工夫を凝らす必要があろう。さて、ザッパニモヲのヴォーカル担当のジョーの存在から、ザッパニモヲは海外で知られる可能性はBWANAより大きいと思うが、ザッパがしばしば起用した黒人ヴォーカリストの声の質をジョーには望めない。そのためレパートリーにしたくても出来ない曲があるだろう。今回ジョーは「ボビー・ブラウン」を同じスキン・ヘッドのピーターという男性に委ねたが、それを見て最前列に座っていた松本さんはジョーが歌いたくなかったためと予想した。同じ理由で松本さんが好きな「イリノイの浣腸強盗」もジョーは歌いたくないらしいことをライヴ終了後に松本さんは伝えてくれたが、「イリノイ」に関してはジョーの声域では無理があるからでもないか。

ザッパニモヲもBWANAも73,4年のザッパ曲をカヴァーする割合が大きいことは昨日書いた。半世紀前のザッパの名曲は「インカ・ロード」と「アンディ」で、どちらの曲もこれまでザッパロウィンで演奏されたことがない。前者は中間に長大なギター・ソロがあり、またその後は曲調ががらりと変化した凝ったヴォーカルとキーボード・ソロに特徴づけられている。後者もギター・ソロに持ち味があるが、黒人特有のヴォーカルを含み、曲のリズムも次々に変化してカヴァーは難しいだろう。それは練習次第でどうにかなる部分とそうでない部分があって、名曲であってもレパートリーには加えにくい。これは英語で歌えるジョーがいてもカヴァーが無理な曲があることを示すが、ザッパの曲はヴォーカルつきのものだけが魅力あるというのではない。今回ザッパニモヲはさあやさんとテナー・サックスの登さんの活躍によって「フランベ」が初めて演奏された。ジャズっぽいこの曲は歌詞を伴うヴァージョンが後年発表されたが、女性が歌うのでやはりジョーには向かない。話を戻すと、「ボビー・ブラウン」を歌ったピーターは調子外れな箇所がままあったものの、これまでにない余興としての面白さはあり、歌える客がいれば飛び入りで歌うアイデアがあってよいと思った。そのためのリハーサルは必要だが、ザッパニモヲがカラオケのように機能することで、ザッパがステージ上でしばしば行なったダンス・コンテスト張りに観客が歌える場面が設けられてもよい。そこまで盛り上がるには客数がもっと増えて賑わう必要があるが。さて、去年のザッパニモヲでは、ある人がザッパロウィンではギターが物足りないことに不満を漏らした。ザッパ曲の半分の魅力とまでは言わないが、ザッパのギター・ソロはザッパ世界の大きな柱を成しているのでその人の思いに同意するが、ザッパに比肩するギター・ソロという考えは現実的ではない。たぶん日本で一番著名なロック・ギタリストでもザッパかと聴き間違うソロは絶対に無理だ。『OSFA50』のデイヴィッド・フリッキによる解説の冒頭に、ザッパは自宅にいる時は毎日16から18時間を作曲や映像の編集に費やし、そうでない場合はスタジオで毎日10から14時間いると語ったことが書かれる。そういうミュージシャンは珍しいことをインタヴュアーがザッパに言うと、「ガソリン・スタンドでほかの何かやりたいことがあるのか?」とザッパは応えた。ザッパにとって音楽活動はガソリン・スタンド並みに世の中に不可欠な職業であり、ガソリン・スタンドで働く人と同じように没頭すべきことであった。ザッパの曲や演奏は週に7日、前述のように寝て食べること以外の時間全部を音楽に費やすことで生まれた。それを圧倒的に練習時間の少ない者がカヴァーしても無理が生じるのは道理だ。そのことを最初からわかったうえでザッパロウィンを楽しむべきだ。

どう楽しむかは聴き手によるが、一言すれば解釈することの面白さで、BWANAの場合、紫さんのこだわり、好みがわかる。筆者はよくブログで、創作は一にも二にもまず練習で、その絶対量の少ない者の作品は弱さを露呈するということを書いている。これは音楽に限らない。相変わらず駄文を書いている筆者だが、才能がない者ならなおさら何倍もの努力を重ねなければならないとの思いはある。その筆頭格の大事な謙虚さは作品に必ず刻印され、聴き手はそれを感得する。最近筆者は美についてよく考え、昔読んだ本をあれこれ再読しているが、美と醜を分かつものがあるとすれば作り手の謙虚さが感じられるかそうでないかの差ではないかと思っている。美の基準は時代によって変化するとの意見があろうが、技術的に評価するに値しない作品でも愛おしさを感じさせるものはある。その不思議を思うとますます美はわからなくなるが、結局作者が謙虚さを持ち合わせていなければ美は遠のく気がする。ザッパはほとんど全人生を音楽の創作に捧げた。仕事を終えた後はみんなで飲んで騒ぐという趣味を持ち合わせず、そのことをある日本の音楽評論家は信じられないと書いた。しかしザッパのような仕事一筋の人物は世間話に興じる飲み友だちは必要なかった。ザッパが変人と言われるのはそういう面を見てのことではない。ザッパほどの仕事人間すなわち真面目、真剣に創作に取り組み続けた作家は珍しい。その珍しさゆえに奇人と呼ぶことは正しいが、本分を忘れた振る舞いをする意味でのそれでは全くない。話を戻して、今回のライヴでは紫さんのギターはこれまでで最も指がよく動いていて、隣り合っていた「濁天さん」に演奏中にそのことを伝えると彼も同意した。ザッパニモヲの黒瀬さんのギターも音色はこれまでで最もよかった。そのうえ、ソロは短いながらも聴かせどころを押さえていて、毎度のことながら、「マフィン・マン」ではほとんど涙した。その後に続く「10代の売春婦」は去年と同じだが、やはり「マフィン・マン」の後は「ブラック・ナプキンズ」か「ストリクトリー・ジェンティール」という本道がよい。今回は「パウンド・フォー・ブラウン」が演奏者の卓抜な技量の見せどころの代表となっていて、聴きながら何度も思ったことは、このふたつのバンドの出番が増え、もっと多くの人に聴いてもらいたいことだ。他に仕事を持ちながらの演奏であるから、趣味の域を出ないとは言えるかもしれないが、ザッパを敬愛し、その曲の楽しさを自覚しているミュージシャンたちだ。いつもメンバーと話す機会がほとんどないが、全員ザッパの音楽に対する敬意があり、演奏を楽しみ、そのことは確実に聴き手に伝わる。帰りがけにくろみさんに訊くと、来年のザッパロウィンはまだ決めていないと言う。客数の減少がやる気を減らしているようだが、ザッパ祭りとして何らかの形で途切れさせない工夫がほしい。

