「
天然の ものを描いて 不思議知り 飽かずに眺め 似たもの思う」、「練習は 続けることに 意味ありて 止めた途端に 劣化始まり」、「長年の 空白の後 再開し 手慣れの戻り すぐに得られず」、「写生とは 座禅のごとき ものなりと 無言で見つめ 考えもせず」
この2年ほどは描きたくなる鶏頭の花を見かけた時は写生している。写生はまずは描きたくなるものに出会う必要がある。職業柄、花ばかりだが、昔は親戚の子どもの顔を描いたこともあって、それらは大事に保管されているようだ。自分で言うのも何だが、描いた顔の表情は世俗さが消えていて、かなり理想化して見える。漫画的という意味ではない。その理想化は、筆者が相手に聖性を感じて描いたといったおおげさなことではなく、描く行為の無心さが顔を借りて顕現したと思っている。しかしその物言いもおおげさであり、いかにも自分の描く行為が聖なるものであると自惚れているように受け止められる。これは前に書いたと思うが、甥の結婚式で、新郎新婦は街中の似顔絵店で描いてもらった2枚の色つきの漫画絵をみんなに披露した。顔の目立つ部分をグロテスクに誇張した絵で、最初にそうした絵を描いた人物が戯画化する着眼点を描くことの好きな若者に教えているのだろう。もちろん誇張部分が異なるので違う顔になってはいるが、そう思わせるほどにグロテスクさでは共通している。そうした絵を1000円か2000円で描いてもらう行為は遊び感覚としてはわかるが、結婚式という人生最大の重要な場所でみんなに見せるものではない。しかし芸術を理解しない平均的平凡な若者の代表と思えば落胆もしない。何が言いたいかと言えば、顔を描く行為は神聖なことで、美人や男前に作り変えて描く必要は毛頭なく、ありのままに描いてなおその絵に永遠性と言える何かが感じられるものでなければ、画家としては平凡ということだ。これは芸術行為すべてに言える。子どもでも楽器を演奏したり、油彩画をそれなりに描いたりする。音楽家、画家を自認するのであれば、その表現に人生や存在の真理を一瞬でも感じさせないことには無意味だ。さて、鶏頭の花を写生し始めた2年前、久しぶりに昔まとめ買いしておいたマルマンのクロッキー帳の新品を引っ張り出した。スケッチブックは中身は画用紙で、表紙が固く、描きやすいが、クロッキー帳は紙は薄くて表紙も柔らかい。筆者は植物の写生に昔からマルマンのロゴである赤と桃色の丸が上部に並び、またSLの記号のついたものを使っている。それ以前に別の表紙のものを10冊ほど使ったが、それが廃版になったのでマルマンのものを買うようになった。赤と桃は青と水色のものもあって、後者も何冊か持っているが、下絵の構想用として使っている。中身がクリーム色で表紙が黒の製品もあるが、筆者は茶褐色の表紙、中身は真っ白のものしか買わない。どれも100枚綴りだ。
2年前に鶏頭を描き始め、先日その1冊が残り7,8枚になった。アマゾンで5冊まとめ買いすれば、送料はわずか300円で、1冊750円ほどで買える。20年ほど前に京都の画箋堂で買ったものは裏表紙下隅に550円のシールが貼ってある。その価格からすれば750円は妥当だ。画箋堂まで行くのは面倒で、アマゾンで注文しようかと思いながら、ひょっとすれば新品が1冊くらいあるのではないかという気がした。調べると予想どおりで、1冊あった。その隣りにもう1冊かなり新しいものがあって、中を見ると20年ほど前に描いたウドの絵が最初にあって、10枚ほど描いたままで放置していたことがわかった。2年前に鶏頭の花を写生し始めた時、その1冊の残りから使うべきであったのに、うっかりしていた。写生はすべて描いた日づけを記し、またクロッキー帳は描いた順に番号を打っている。今使用中の1冊を使い切った後、ウドを描いて残り90枚をそのままにした1冊に戻って描き続けてもかまわないが、クロッキー帳の表紙に通し番号と、描き始めと描き終わりの年月を記しているので、その規則を破ることは気に食わない。そこでクロッキー帳の綴じ代の螺旋状の針金を見ると、天地の端をわずかに曲げてあるだけで、それをラジオペンチで螺旋形に戻せば、後は針金全体を回転させればクロッキー帳から外れる。ただし、描いた中身を交換するには2冊のクロッキー帳の針金を外し、またそれを戻さねばならない。場合によっては元に戻すことが出来ず、針金ではなく、細い紐で綴じなくてはならないかもしれない。思い立てば早速行動。今日の最初の写真はクロッキー帳の表紙の上に文鎮を置き、針金を外しているところだ。最初は針金全体を回転させるのにかなり力を入れる必要があって指が痛くなるが、半分ほど外れると後はとても簡単だ。綴じ直しは予想とは違ってはるかにたやすい。2枚目の写真は右が外した20年前のウドの写生で、紙が薄いので次ページの絵が透けて見える。3枚目は最初の10枚ほどが最新の鶏頭の写生で、残りは新品で、表紙の赤丸に41と書いた。これは41冊目の意味だ。綴じ直したもう1冊は表紙の「Oct.2005」の下に「Nov.2024」と書き足し、赤丸の中にもちろん40と記した。40冊で合計4000枚の写生はさほど自慢出来る数ではないが、鶏頭を描くのに1枚当たり最低1時間は要している。そう考えると人生のそれなりの部分を費やして来たと思う。何冊目の何ページに何の植物を描いたかは別に記録してあって、それをパソコン上のデータに移せば、瞬時に目当ての花の写生が検索出来る。ずらりとクロッキー帳が順に並ぶ様子を見ると感慨深いが、筆者が死んだ後、全部ゴミになるはずで、そう思うと悲しい。だが今の気分は50冊は描きたいことで、20年のブランクはあったが、また各地を歩いて気に入る花を見つけて描きたい。