「
当番の ゴミ掃除拒否 する人は 他人のゴミに こっそりと混ぜ」、「地蔵さん 顔が消えれば 頼りなし 邪気なき子らに 描いてほしき」、「昔から ここにあるもの そのままに 新たに造る 地蔵もありて」、「石ころに 坊さん拝み 命入れ 物より心 優先するや」

家内の入院見舞い、まだ雨天はない。昨日は往路で小雪がわずかに舞い、夜は積もるかと思っていたが、積雪があったのは市内北部だけだろう。しかし今週末はわからない。午後に雨や雪が降れば見舞いはどうしようと昨日家内に訊くと、市バスを乗り継げばと言う。1時間に2,3本の市バスを乗り継ぐには、待ち時間を含めると病院まで片道1時間は要する。ならば歩く方が早い。もう決めていて、水濡れに平気な革のブーツを履き、どういう冬の服装にするかも考えている。そしていつも自転車で走る道を行く。そのルートは今日の最初の地図に青線で示す道だ。これはネットの
『今昔マップ』から取った。左は明治42年(1909)測図、大正元年発行の国土地理院の地図、右は最新のそれだろう。百年少々でどれほど家が建て込んだかがわかる。左の地図では青線より西すなわち山手は竹林、右手は田畑で、「下山田」と記されているところに家が密集していた。桂病院の正門前の急な坂の付近は茶畑で、なるほどその斜面は陽当たりがとてもよく、また急峻なので田畑には適さない。百年前の風景を想像することは難しいようだが、道は車が擦れ違えるように拡幅、舗装されたものの、まだ古い屋敷は点在していて、百年前の情緒は残っている。筆者がこの青線の道路を知ったのはいつのことか記憶にないが、麓の西京図書館に頻繁に通ったのが40年ほど前だ。その頃から写生も兼ねて「下山田」すなわち現在の「山田」地区はたまに訪れ、自然とこの青線の道を走った。たぶん千年以上前からある道で、蛇行し、高低差があちこちにあって古道であることは実感出来る。今日の2,3枚目の写真の地蔵さんの集合はこの青線沿いにあり、先の左の地図では家のある地域に属し、住民が間近で世話をして来たことがわかる。京都市内の地蔵尊の祠はみな町中にある。それは身近に地蔵のご加護を祈るという思いから説明出来る。郊外に野仏はあろうが、市中で石の塊と言えば「いけず石」だ。これは狭い道路を車が走って家に衝突されないようにとの防御の意味合いによる。地図の青線沿いにはその「いけず石」を黄色と黒の縞模様でていねいに塗り分けたものがあって、ほとんど現代芸術作品だ。2,3枚目の写真を見ると大阪市内にはない鄙びた味わいで、青線以外の道にもあるかもしれないと思いはするが、「下山田」のメインストリートに2か所あるだけでも充分だ。この2か所は異なる町で、それで地蔵に着せている布の色や形が異なるのだろう。こういう風習を守る古老は若い世代にどのように世話すべきかを教えているのだろうか。

昨日は家内が入院する病院の駐車場の端っこにまだ新しい地蔵尊の祠があることを書いた。その場所は百年前は竹が生い茂る山で、今日の2,3枚目の写真のような祠があったとは考えられない。駐車場を造る際に邪魔になったので移動させたものではないかと昨日書いたが、病院の敷地内のどこかにあったものと考えた方がよい。となる先の左の地図で言えば青線沿い、茶畑の少し南におそらく数軒の家があって、その付近にあったものか。さて、わが家から病院への往路は必ず青線を走るが、帰りは半分ほどの割合で青線をたどるも、もう半分はスーパーへの買い物のために東方面の道を行く。そしてほとんど必ず今日の地図で言えば赤丸の場所を通る。そこは40年前からよく知っているが、小さな石仏がガードレール際に30体近くまとめて横並びに配置され、いくつかの花も手向けられている。付近は典型的な新興住宅が建ち並び、道路拡張時に邪魔になったに相違ないが、昔から同じ場所にあるもので撤去出来なかったのだろう。グーグルのストリートヴューで確認すると、明らかに道祖神が混じり、京都では道祖神崇拝がやがて地蔵崇拝に代わって行ったことを説明する。つまり、このまとめて祀られている石仏は千年くらい前のものが混じっているかもしれない。この場所は百年前の地図では田畑に囲まれた畔道であったことがわかるが、地図によれば北西に一本、細い道があって三叉路の交点となっていた。そこは道祖神を祀るにはふさわしい場所と言えそうだ。家の近くに祠を建ててきちんと地蔵像を祀るのとは違って、もっと以前は野ざらしの石仏が普通であったのだろう。田の神という意味合いも持っていたのかもしれない。この野仏群の近くには当然地蔵尊の祠もあって、それは地蔵盆の折りに活躍するが、この野仏群を地元住民はどう思っているのだろう。今日の2か所の地蔵の石仏と同じく、布を被せられているので世話をする人があるが、そのことが筆者には面白い。現代社会は信心深くない人が幅を利かせていると思うからで、ごく一部にしろ、こういう地元の石仏を大事に世話する人がいる。車が頻繁に往来し、世話人は車の邪魔になるはずだが、この道をよく通る人は意識の底に多くの石仏がまとめて置かれていることを知っていて、それは信心の対象にはならずとも、手を触れてはならないものと誰しも思っている。ただし、わんぱく坊主がただの石の塊とばかりに溝に捨てることはあるだろうし、またそのことが発覚すれば大人たちは割れた石の代わりに河原から別の適当な石を拾って来て祀るだろう。それでいいのであって、こうしたあまりに素朴な石仏はものそれ自体にはほとんど価値はなく、何百年も同じ場所で拝まれて来たという歴史が意味を持っている。したがって有名な寺が焼けてもまた同じものを建て、表向きは新建築であるにもかかわらず、創建何百年を主張する。

