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●ムーンゴッタ・2026年4月
COMで ネットとテレビ 契約し 時代は変わり 地デジは無料」、「月昇り 桜満開 肌寒し 小雪舞うのは 想像の中」、「桜咲き 清水寺の 放射光 空に向けての 青き一筋」、「篝火で 浮かぶ桜に 見惚れつつ 衣服に火の粉 舞い落ち掃い」
●ムーンゴッタ・2026年4月_d0053294_00192260.jpg 家内が桜は好きかと訊くので梅の方がいいと答えた。梅は花が長く楽しめるうえ、実は梅干しや梅酒として利用出来るからだ。広い庭があれば桜を一本植えるのはいいだろう。白井晟一はそう考えて自宅に植えたところ、うまく育てられなかった。植物は手間をかけるほどに応えてはくれるが、人の理想どおりに育つとは限らない。人間の子育ても同じだ。親は経済力の許す限り、後年では金を積んでも買えない教育を充分につけさせようとし、そうして育つ者がみな人格者にはならない。人格は遺伝半分環境半分と言われるが、それはかなり曖昧な言い方で、よき遺伝、よき環境の定義は人によって考えが違う。何がよくてそうでないかは考え方次第だ。逆境に生まれればそれを糧とすればよく、その精いっぱいは植物にもある。与えられた条件でどうにか発芽し、生長して子孫を残そうとする。人間も同じで、そう考えると植物も動物も野生こそがあるべき姿で、ペットは奇形的環境にあると思える。現代文明は奇形をもてはやし気味で、その特別性、特殊性に価値があると思い込んでいる。奇人変人が尊ばれるのはおそらくどの文明にもあって、奇人変人は多くの人があたりまえと思っていることに疑問符を与える存在とみなされる点で価値があるのだが、この説明では不足かつ誤解を与えかねない。あたりまえと思っていることすなわち常識に異を唱える存在という意味と解釈してもまた足りず、奇人変人が持つ突出した才能は多くの人間すなわち平凡さに対して今後進化すべきひとつの道筋を示しているのではないかという期待が込められている。それはその奇人変人が人身御供として自分の生涯を費やしたように見えるのであればなおよく、そこには不遇に人生を送るという暗黙の了解がある。そういう奇人変人が遺伝と環境が半々で生まれるとして、やはりそれは何も説明しない。偶然生まれることを示す意味でも奇人変人であって、そのことを突然変異として人間は理解している。それはめったにないことだが、ゼロの可能性ではないところに希望がある。さて、今夜は満月だ。突然変異と言うほどではないが、ごく稀にとても印象深い女性がいる。親しくなると飽きるかもしれないが、美人でも顔がはっきりと思い出せない女性とは違って独特の味があり、そういう一見月並みそうで、そうではない女性に出会うと、世の中はあまりに広大でつくづく面白いと思う。70代半ばになってこんなことを書いている筆者は少なくても気は若いのだろう。筆者と同じように考えている女性はいるはずで、男女ともに何となく不思議な魅力を持つことは大切ではないか。それは突然変異か、遺伝と環境が半々で作り上げるのか。

# by uuuzen | 2026-04-02 23:59 | ●新・嵐山だより(シリーズ編)
●「贋物の 桜も混じり 満開の 嵐山には 世界の人が」
名に なるも一瞬 すぐ消えて シャボンのごとき 人生と知り」、「名声を 保つ努力の 土地の人 ようこそお出で 財布を開けて」、「満開の 花の下にて 横になり 人人人の 満るを見つめ」、「桜咲き 鶯が鳴き 噛みしめる ああ生きている 吾今ここに」
●「贋物の 桜も混じり 満開の 嵐山には 世界の人が」_d0053294_01464529.jpg エイプリル・フールで嘘をついたことは子どもの頃のみで、大人になってそれをやると顰蹙を買う雰囲気が強くなって気がする。それほどに現在の日本では一般的に金の余裕がなく、それゆえ心の余裕もないという世相ではないだろうか。去年のクリスマスはクリスマス・ソングをほとんど聞かなかったし、家内が入院したこともあって初詣は眼中になく、生活に追われて1,2月はなかったも同然であった。しかし悪いことがあればよいこともある。筆者は迷信を信じないし、神も仏もないと思っている方だが、70代半ばまで生きて来て、先に対する予感と言えばいいか、それはある程度当たる気がしている。特に名前や住む家などがそれに関係すると思っている。とはいえ趣味のように姓名判断や風水について気を向けることはなく、漠然とよいことを想うと言えばいいか、悪くなることの方に賭けない「気」を保つ。家内は筆者のそのエネルギーがどこから生ずるのかと思っているが、常に考え事を多く抱え、それらを縦横に結びつけ、思考を愉しむと言えばかなり当たっている。先に書いた「よいこと」は先日あった。今は書かないが、いつか書くかもしれない。家内が奇蹟的にクモ膜下出血から蘇り、今のところ以前と変わらない暮らしが出来ていてそれだけでも儲けものだが、そのうえに人生にそう何度もないよき出会いがあってその興奮が冷めない。その出会いは長年の賜物の一面があるが、全くの幸運と言うべきもので、それが家内の退院後に訪れたことに人生の面白さを噛みしめている。もちろん筆者のそれなりの努力があってのことで、目的なしにぼんやりと過ごしていればあり得ない。今日はエイプリル・フールなので嘘を書いているかもしれない。文章はどうにでも書けるから、半分は想像、捏造と言ってよく、ともかく書いて面白く、読んでもそうであることが肝心で、後者については反響が不明だが、前者については歯磨き行為と同じようなもので、何でもいいのでとにかく何か書いて投稿すれば気分はよい。これは仕事をした気分と同じだが、時間を費やすだけで全く収入につながらないので家内は長年不満を抱いている。趣味で文章を書かずに本を書けと言うのだが、それはそれで忘れたことはない。しかしその気力の高まりというのがあって、それには特大の契機が必要だ。それが一種の甘えとみなされると実際それも正しい側面があって返答に困るが、筆者なりの、また年齢相応の気力の高まりを要する。それは家内にはわからない。機の熟しは、その機を絶えず心に厳然と据えている者にしか訪れず、それを抱えている間はヴァレーズ=ザッパの言葉のように、死ぬことは出来ない。
●「贋物の 桜も混じり 満開の 嵐山には 世界の人が」_d0053294_01471739.jpg
 嵐山の中ノ島にはいくつかの食の店があって、そのひとつに建物の内部ではなく、通行人から丸見えの外側でうどんなどを食べさせる店がある。ひどい雨や風の強い日は営業していないと思うが、狭い店の中で食べるより桜は紅葉を見ながら食べる方が楽しい。どのメニューも場所代を含む価格だが、一生に一度しか嵐山に来ない人には少々割高でも思い出作りによい。その店には造花の桜や紅葉が毎年飾られる。それに注目して何年か前に写真とともに投稿したことがある。二番煎じになるが今年も今日の投稿に限ってその店の造花桜と本物桜を収めた写真を載せる。最初の3枚つながりの縦長写真がそれで、上から順に先月26日、27日、28日に撮った。26日の写真は赤い矢印で示したのが自転車で走り去る家内の後ろ姿で、写真手前左の店の軒から下がる造花桜は満開だが、奧に少し見える中ノ島の本物の桜は五分咲きか。2枚目は造花と本物の区別がつきにくく、人も満開だ。3枚目は夜桜を見るために出かけた。店はどこも午後6時に閉まるので嵐山の夜桜を味わう人は少ない。それでも花の季節はそれなりの人の出はあり、桜のライトアップがある。渡月橋もライトアップされるが、「風風の湯」の常連のYさんが先日渡月橋がプロジェクション・マッピングされていると言うので、31日は「風風の湯」に行く前にそれを見に出かけた。ただのライトアップで、それは見慣れている。しかしYさんは車で渡月橋をわたって家に帰るので、Yさんが言ったことは正しいかもしれない。そう考えながら渡月橋のプロジェクション・マッピングは建物の壁のような広い面がないので効果的とは思えない。それに夜桜を楽しむために嵐山に来る人は目立って多くはなく、プロジェクション・マッピングの費用対効果はないと言ってよい。それはともかく、地元に住んでいるのにそうした特別の催しがあってもほとんど気づかない。それで着目はいわばどうでもよい造花の桜となるが、それが本物と揃う様子はそれなりの面白い。外国人観光客はその造花桜を見てどう思っているだろう。本物と勘違いしている人もあるのではないか。本物桜が満開になれば色も形も似ていて造花とは気づきにくくなる。本物の開花前か花が散ってから造花の存在に気づき、またその時に偽物であるとの何となく味気ない思いが湧いて、出される料理に偽物の雰囲気がまとわりつく。となれば造花の桜は飾らない方がよいことになりそうだが、造花をそれはそれとして楽しむ建前の文化が日本にあり、そのことを外国人観光客は知っているだろう。今日の2枚目の写真は渡月橋南詰めから上流を見た。嵐山の山肌の桜は少なくなった気がする。ボートがたくさん出ている眺めは珍しい。このボートに息子と一緒に20年数前に一度乗ってオールを漕いだ。思った以上にその操作にすぐに慣れて面白かった。これらのボートは保津川下りの舟をほとんど邪魔しない。

# by uuuzen | 2026-04-01 23:59 | ●新・嵐山だより
●立体シールの「ぷよぷよ桃尻」
行の ひとつくらいは 吟味する 孫はおらねど 幼心で」、「立体の シール切手の 発売は スタンプの文字 うまく 捺せずに」、「立体の シール集めて 嵩張りて これがいいのと 置き場所わかり」、「ぷよぷよの 桃尻目立つ シール買い 指で押さえて 卑し癒され」
●立体シールの「ぷよぷよ桃尻」_d0053294_00322593.jpg 去年か一昨年か、大阪の天神橋筋商店街で「かわいい」イラストを浮き彫りにしたシールを見かけた。小学生以下の女子が喜びそうなもので、浮き出た絵柄は全体に艶のある透明なものとマシュマロと勘違いしそうな不透明のものがあって、樹脂で加工したものだ。その浮き彫りの製法はスニーカーやTシャツにも応用されていると思うが、封筒サイズの紙に20や30点の個別に剥がせられるシールを貼りつけた商品の価格は、だいたい400円で、子どもが収集するには親を困らせかねない。最近嵯峨のとあるスーパーの前にたまに開く子ども相手の小さな店の玄関前に同様の立体シールがたくさんぶら下げられ、スーパー内の家内を外で待っている間にそれらを間近で見ると、3枚で1000円であった。みな無名のイラストレーターが描いたもので、漫画やアニメの馴染みのキャラクターものはどこかが版権を得て製造しているかもしれない。筆者がよく記憶するおまけシールは、60年代半ば、明治のカラフルな丸いボタンを模したマーブル・チョコレートの細長い紙筒に、鉄腕アトムのキャラクターが透明で薄手のビニールに印刷したものが1枚入っていたことだ。次の大ブームは80年代半ば以降のロッテのびっくりマン・シールだ。正方形の紙や樹脂系の用紙に言葉遊びの名前を持つキャラクターが印刷され、数十枚のうちの1枚というレア・カードはホログラフなど、当時の印刷技術の最先端を使ったかのようなきらびやかな印刷であった。当時から果物や野菜にも産地の特定銘柄を示すシールが貼られるようになって今に至るが、シールの流行はコラージュ文化の影響を受けたものではなかったかと思う。シールはデザイン的に出尽くしたと思っていたところ、立体シールが登場し、さらに「かわいい」を強力に押し出し、恥ずかし気もなく表現するようになった。昨日家内と大和郡山に行き、帰りは天神橋筋商店街で食事をし、天八駅に向かって歩いていると、店頭の目立つ場所に1枚100円の立体シールが大量に売られていた。50メートルほど通り過ぎた後、思い直して戻り、1枚買った。どれも猫か犬か、白を基調にし、目と鼻はシマエナガを模したイラストで、『これをかわいくないと思う人はいないでしょう?』という媚ぶりだ。特に気になったのは中央辺りの2点に桃色の桃ないし桃尻を模した目立つ形を貼りつけていることだ。これはその猫か犬がお尻を見せて振り返っていると解釈すべきか、乳幼児ポルノを連想させもする。触るとぷにゅぷにゅし、この桃だけを大小たくさん印刷したものがほしい。はがきに貼って使うのであれば、厚み規定から封書扱いになりそうだ。

# by uuuzen | 2026-03-30 23:59 | ●新・嵐山だより
●気がかりの解消―古い友禅屏風を修理する
っぱに なった古家を 覚えずと 妻と語るや いつか吾らも」、「縁起よき 物を捨てぬも 病得て 神仏なしと 言いし謝る」、「捨てし物 宝と思い 拾う人 捨てて捨てられ 拾い拾われ」、「縁ありて 一時身近に あることの 連なりこそを 人生と知り」
●気がかりの解消―古い友禅屏風を修理する_d0053294_02152511.jpg
気がかりをひとつなくせばふたつ増える。気がかりをなくせば人生に用はなし。しかし増え続ける気がかりにやがて頭が耐えられず、それで認知症となって気が休まるのではないか。還暦までの10数年間、大学に勤務していた家内から聞いた話で、以前にも書いたことがあるが、退職した教授がある日、大学にやって来て「わたしの受け持つ授業がどの教室ですか」と受付に訊ねる場面に出会ったそうだ。事情を知る総務の人がそっとやって来て教授を門の外まで連れて行ったとのことだが、同様のことは珍しくないらしい。学生を前に教えることを長年やって来た人が年齢を理由に仕事を辞めさせられると、自宅ですることがない。それで認知症になって懐かしの大学に出かけるのだが、教授が研究を生き甲斐としているならば、退職しても自宅で読書したり、論文を書いたりと忙しいと筆者は思うのだが、教室で学生に教えることで給料を得ていた先生は、定年後に年金暮らしで好きな研究に没頭することには必ずしもならないようだ。それで本物の研究者と言えるのかどうか。大学の教授という肩書があっても死ぬまで研究に勤しみたい人は少ないのかもしれない。筆者の学生時代、英語の先生は肉体労働者は頭脳労働者より早く力が尽きるという話をしたことがある。力士はだいたい早死にで、スポーツで名を挙げる人はみな20代がピークだ。その後の長い人生を若き日の栄光に浸って過ごすかと言えば、当人たちに訊いてみなければわからない。TVでは現役時代に優秀な成績を残した人はだいたい解説者になっている。それは狭き門で、体育大学の先生として再就職するのも同様だろう。そうした枠からこぼれ落ちた人は専門分野から外れて職を変えるしかないが、もちろん成功するとは限らない。その点、知性を武器に生きて行く人は一生頭が使えると英語の先生は思って意見したのだが、頭も肉体で、老化は訪れ、若い日の熱心さを持続させることが可能とは限らない。そのことを家内の勤務していた大学の先生が身をもって証明している。今年75になる筆者は自分の先が見えているとはほとんど思わず、相変わらず気がかりを増やし続けて暇つぶしに勤しんでいる。それは給料がもらえる、肩書があるといったこととは無縁であるからと思う。これは他者からの評価を期待しないことでもある。『気まぐれ美術館』の著者の洲之内徹がある女性評論家から、「自分が第一の人」と評されたことと筆者は同様ではないかとまま思うことがあるが、「自分の名誉にかけて」という思いがない分、筆者は洲之内とは質が違うだろう。
●気がかりの解消―古い友禅屏風を修理する_d0053294_02154404.jpg 「自分が第一」という表現は少し違ったかもしれないが、その評論家は洲之内を「自己愛に満ちた人である」と批判的に思ったとして、そのことは洲之内の文章の端々から何となく筆者もわかる。その女性評論家がそういうことを書いたのは、洲之内の女性遍歴を思ってのことだ。女性によくもてた洲之内で、洲之内の奧さんが洲之内のことをどう思っていたかは『気まぐれ美術館』に一切出て来ず、その隠し通したところに洲之内の身勝手さを見たのだろう。現実は洲之内の奧さんは彼を自由にさせていただけで、洲之内はそのことに甘えていたと言える。筆者にも似たところがあり、筆者が好き勝手出来ているのはひたすら家内が耐えているからにほかならないが、家内はそのことを他者から同情気味に言われることをひどく嫌う。傍目に耐えているように見え、またそれがかなり真実であっても、自分が好きで、あるいは仕方なくの面がかなり混じってはいるが、自分が選んだ人生であるから、最期まで行くしかないとの思いだ。それは洲之内の奧さんも同じであったはずで、そういう健気な奧さんを見て女性評論家は洲之内を「自分が第一の人」と評した。そこには女と男の間の深い溝がある。女にすれば夫が「自分第一」で生きてもらっては困り、「もっと自分の方を向いてよ」ということなのだろう。筆者はそのことを家内に対してそれなりにしているつもりだが、総じて「自分第一」主義者に見えているだろう。その理由は金にならないのに毎日こうした文章を書き、絶えず何かを考えているような眼差しをしているからで、家内にすれば筆者に立ち入れない部分がきわめて多い。しかしそれはどの夫婦でも似たようなものだろう。前述の大学教授は奧さんを先に亡くしたのかどうか知らないが、奧さんは夫の仕事のどこまでを知っていたろう。研究論文を読み、夫と意見を交わせるほどであったかとなれば、ほとんどの大学の先生の配偶者は相手の研究内容を詳しく知らないのではないか。さて、今日は珍しく早朝に置き、朝8時台に家を出て大和郡山に家内と出かけた。その理由はいくつかあるが、家内には桜を見に行くとだけ伝えた。午前中に郡山城址を見学し、その後JR奈良駅まで歩いた。距離は約10キロで、その初めての道のりを家内に言わなかった。なぜ歩きたかったかはこのブログに二三度書いたことがあり、長年の夢であった。その気がかりをついに実行した。1日で思い立って実行出来るのに、10年近くぐずぐずする。郡山城から奈良駅までの距離以外に数キロは歩いたから、家内は大変な目に遭ったというのが実際のところだろうが、案外そうではなく、困難な道のりも楽しめたと思っている様子も伝わる。歩きたかった理由を家内に言っていない。言っても感心しないはずだが、知らない道を10キロも歩いて奈良駅に着いたという達成感が安堵をもたらしたようだ。
●気がかりの解消―古い友禅屏風を修理する_d0053294_02161615.jpg
 その10キロの徒歩は筆者と家内の人生の縮図と言える。家内はそう思っているはずで、確かに筆者は「自分第一」を押し付けながら強引に納得させる身勝手さに家内は呆れながらも、着実に「気がかり」をひとつずつ解消して行く甲斐性に簡単に感嘆している。さて、今日の投稿の題名に関する要約をようやく書く。8,9年前、今日の写真の屏風をネット・オークションで入手した。黒い桟を除いて縦118センチ、横68.5センチで、左右の扇は外れ、屏風の裏はほぼなく、内部もひどい状態であった。どうにか鑑賞出来る状態にしたいと思いながらその気にならなかった。去年秋、まず屏風の裏を修復した。それほど大げさなものではないことは最初の写真からわかる。障子の中張り紙で内部を隠しただけで、蝶番の箇所には別の和紙を三四重に貼っておいた。そのままでは屏風は広げられず、蝶番を仕込む必要がある。それに使える厚い和紙のあまりを思い出した。12年前に伏見人形の飾り馬を自作した際の紙箱に使ったあまりで、ちょうど蝶番を作り得る分があった。蝶番を屏風裏面から交互に貼りつけた状態が最初の写真の右側だ。糊の乾燥を待って蝶番の和紙の半分を屏風のつなぎ目部分から表側に取り出す。その際、去年頑丈に貼りつけた和紙をカッター・ナイフで切り、左右の扇を一旦ばらす。そして表側に引っ張り出した蝶番の、屏風の厚み部分があるので3分の1ほどの幅だが、それを屏風の本紙をナイフでわずかに外した下にくぐらせて糊で密着させる。この行為は本紙を傷める可能性が大で、最も気を遣い、失敗しやすい。本来は本紙を全部外した状態で蝶番を貼るが、屏風の表装の経験のない筆者はそういう大がかりな作業は出来ない。ともかく蝶番の全部を本紙の左右の下部に交互に挿入して糊づけし、屏風を閉じた状態で1日置いた。翌日屏風をゆっくり広げると、筆者なりの完璧な状態で蝶番は仕上がっていたが、次の問題は開く箇所に劣化箇所が目立つことだ。これは同じ色合いの染料を調合して筆で修復するが、その作業は専門なのでいつでも出来る。また屏風の裏は全体を和紙か布地で覆う必要があるが、それには桟を外さねばならず、また先の気がかりとなった。たぶん二三年、あるいはもっと長年そのままになる気がしている。この屏風を買ったのはとても安価で会ったからだ。筆者が落札せねばゴミになっていた。さして好きな絵柄でもないが、友禅屏風なので買った。おそらく江戸末期のもので、元は女性の黒留の下半分だ。京友禅らしく刺繍が併用され、松竹梅に椿、そして鯉の滝昇りだ。「昇鯉」は「勝利」に通じ、縁起のよい絵模様だ。糸目は繊細で、当時かなり高額で誂えたもののはず、屏風に仕立てたのはキモノを手放したくなかったからだろう。友禅染が絵画と関係が深いことがこの屏風からわかるし、絵柄は幸野楳嶺をどこか思わせ、現在の京都市立芸術大学の源流に位置する。

# by uuuzen | 2026-03-29 23:59 | ●新・嵐山だより
●「桜咲く さくさくと咲く 咲いて散る 雨降り日照り 葉が落ち芽吹き」
花粉 多過ぎるのが 困るなら 桜満開 誰しもくしゃみ」、「どこで見る 今年の桜 誰と見る ひとりはさびし 桜もさびし」、「寒かった 冬が遠のき よかったね 雀ほっそり 数は半減」、「早朝の 満開桜 ひとり占め 夢から覚めて 午後に花見に」
●「桜咲く さくさくと咲く 咲いて散る 雨降り日照り 葉が落ち芽吹き」_d0053294_00024367.jpg3月4日に嵐山の中ノ島公園の大時計のすぐそばにある八重桜の写真を撮り、6日に投稿した。その桜は去年も注目し、撮影はしたがブログに載せていない写真がある。今年も同じことを繰り返しそうで、今日は同じ場所からの写真を4枚まとめて紹介する。上から順に19日、22日、26日、そして今日だ。撮影位置とカメラの角度はまちまちだが、投稿用にトリミングする際、奧の大時計の柱を写真中央に置いている。撮影時もそう思っているので、蕾が膨らんで行くこととは別に何時何分頃に撮影したか、すなわち嵯峨のスーパーに何時頃向かったかを記憶している。それは写真を見る人にはどうでもよく、開花とは無関係だ。時計ではなく日を示す「日計」であれば、写真と日付を見比べて開花が遅いか早いかがわかる。桜の開花は時刻よりも3、4月の日に関係するが、こうは言える。ある日の桜の開花状況を撮影するとして、それはある時刻の桜になるしかなく、その時刻の光が桜の形と色と共鳴する。しかしそれも話は半分以下で、光は天候と関係し、時刻との関係はその数分の一だろう。つまり今日の写真はある時刻の嵐山の天候の光による桜で、その背後には1日を取り上げても無数の同じ構図の写真の可能性がある。その無数から1枚ずつほぼ偶然に出会って撮影したという記録ゆえに、誰でも同じ場所に立って同じような写真が得られる。その意味で芸術でも何でもないが、だいたい写真とはそういうものだ。それはそうとして、筆者が渡月橋を北にわたるほぼ直前、今日の構図の写真を撮るのは自分個人の楽しみに過ぎず、今年は背後中央に大時計の文字盤を写し込みたいという思いになったが、去年はわざとその時計を外して撮影した。目障りであったからだ。その理由は前述のように時刻と開花は関係がないからだ。今年時計を写し込む気になったのは、ある意味では構図からそれを外すのが面倒であったからで、また写真の光の具合を時刻である程度は示せるかと思ったことによる。それでもほとんど美的効果を考えていないのは、4枚並べた場合、立ち位置が少しずつ異なることが示している。それでは組写真の面白さが減るが、以前書いたようにこの桜の蕾状態の細い枝の曲がり具合が面白いのであって、その意味で4日撮影の1枚で用は果たし、今日の4枚は惰性で撮ったことになる。しかし人生は惰性が大部分を占め、人はそれを意味ありげに思いたいものだ。蛇足ながら、今日の桜を撮影するのにそれなりに苦労、工夫している。すぐ近くに大勢の人がいることが多く、彼らを写し込まず、動きを邪魔をしない。写真は筆者と桜と時計の対話なのだ。

# by uuuzen | 2026-03-28 23:59 | ●新・嵐山だより

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