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●『加守田章二展』
半年ほど前、一般の人々の所有する骨董品を鑑定してくれる『なんでも鑑定団』というTVの人気番組に、この加守田章二の小品が出た。



●『加守田章二展』_d0053294_9455542.jpg若い頃の作品で大変珍しいということで、200万だったか、あるいは1000万以上したかもしれないが、とにかくとても高額の値がつけられた。その1週間後に、これも記憶がおぼろだが、同じ番組の最後で「先週放送の加守田章二の作は奥さんの云々」と訂正の画面が出た。奥さんも同じように陶芸家をしていたので、番組に出品されたのは奥さんとの共同作品であったのかもしれない。こんな曖昧な記憶をふと思い出したのは、その番組で陶磁器を鑑定するお馴染みの髭を生やした人物が、加守田章二の作ということでいつになく厳粛な表情をしていたのがとても印象的であったからだ。昨日、京都国立近代美術館で見た『加守田章二展』は、このタイトルの前に「20世紀陶芸界の鬼才」と銘打たれている。加守田の名前をいつ聞き知ったのか覚えていないが、変わった名前でもあり、もうかなり昔から知っていたはずだ。晩年の作品も少しは観たことがあると思うが、あるいはそれらは実物ではなくて雑誌などで垣間見たのかもしれない。ま、ほとんど何も知識がないままに昨日は展覧会に訪れた。チケットにある作品写真を見ると、非常に細かい細工が作品表面にびっしりと施されていて、周到に計算された緻密で理知的な作風であることがわかる。こうした陶芸はここ2、30年はもはやあまり珍しくはないどころか、公募展でも主流になっていると思えるので、正直な話、あまり驚きはない。「鬼才」と呼ぶからにはそれなりの凄味といったものがあるのだろうが、それがどういう質のものであるかを確認するために足を運んだ。
 図録は買わなかった。その代わりと言えば何だが、会場内の5、6か所に加守田の言葉を記したボードかかっていて、全部しっかりと読んだ。それらは句読点がなかったり、また文体もあまりよいものではないが、それだけにどこか変わった印象を与え、人柄が想像できた。1933年に岸和田に生まれ、1983年、50歳を前にして死んだから、夭逝と言える。今後まだまだ作陶を続けられる年齢であったことを思えば、今回の展覧会は、作品の流れを全体的に見わたした時、それが途中でぷつりと切れたような惜しい印象を与えるものかなと予想したが、これは違っていた。最晩年の数年は作品の変化速度が増し、その頂点で加守田は逝ったように思う。つまり、やり残した仕事はない。あるいはまだ10年や20年という寿命があったとしても、その仕事は最晩年に見られる次々と変化する作品の形とそのうえに描かれる意匠の相変わらずの変遷の連続であって、それは発展とはもはや呼べない質のものだ。実際、加守田は進歩などというものはなく、毎日同じような繰り返しを続けることに意義があるといったことを、先のいくつかの掲示文の中に書いていた。加守田は何か余分なものを削ぎ落として行って作品を純化させるというタイプの作家ではなく、40歳前後を境にして技術的には完成期に入り、後はそれを巧みに深化させつつ、作品表面の模様を一定の時期毎に変化させるヴァリエーションの連続の時代に入った。これはパウル・クレーを例に挙げるとよい。クレーの絵はたくさんの作風があって、そのどれもがクレーならではの独創性を持っているが、それらの作風が次の気に入った作風に自然にミックスされてバトンタッチして行くのではない。急にがらりと変わるのだ。そうした多くのクレーの作風のどれが最も芸術的に完成されているかといったことは意味をなさない。どれもが同じように完成されていて、その作風のひとつのどの1点を取り出しても、クレーならではの個性がある。これは造形家ならみな同じではないかと言われそうだが、実際はそうではない。作風が生涯にわたってごく少ない人もあるし、仮に多くてもそれは以前の作風を否定したうえで、もっと完成度の高いものを目指して、いわば「改良」されて新たな作風が生まれる。加守田はそうではない。40歳以降の10年間は目まぐるしく作風を変化させ、一堂にそれらを並べると、年代の新しいものがより完成度が高いとは言えず、年代表示がなければ、どれがより新しい作品かはほとんど推測できない。そのため、広い会場のちょうど中央付近、つまり40歳前後の作品が筆者には最も味わい深かった。会場の残り半分は色も形も意匠もヴァラエティに富み、どこか別の宇宙からやって来たかのような、一種SF的な、どちらかと言えば有機的で不気味とさえ言えるようなものを連想させた。それはヒッピー文化以降の当時の時代のそのままの反映であるとも納得できた。つまり、時代性を実によく伝えている。
 会場の最後あたりでの加守田の言葉には、自分の作品は表向きには陶器ではあるがそこからはみ出たものであるといったことが書かれていた。これは晩年の作品が、表面上は装飾的に傾き、若い頃の自然釉の味わいを全面的に押し出した、どちらかと言うと力強い単純明快な造形から、チケットにある作品のように、数ミリ単位に釉薬を塗り分けて、ほとんど螺鈿漆器や織物、染色品のように見える文様を、陶器全体にびっしりと纏わせるようになる。これは壺や大きな平たい長方形の皿であっても同じで、そうした文様が壺の内側、また皿の裏面にまで覆い尽くされていて、陶器の形よりもそうした文様の色合いによって、より作品が印象づけられていた。この文様に固執する方向に進んだのは、芸大時代の師が富本憲吉であったことの影響が大きいだろう。また、会場に須田国太郎と須田剋太を足して割ったような作風の若い頃描いた油彩画が2、3点展示されていたが、それから思うに初めは画家を志したのかもしれない。また陶器の文様を絵具でていねいに描いた素描が何点もあって、そこからも画家志向のようなものが感じられた。油絵は和歌山の加太海外の景色を荒々しく描いたものや漆黒の中に横向きの白い山羊を描いたもので、それらは彼の後年の陶器の肌や絵模様に連なる雰囲気が確かにあった。初期の頃の陶器は鉄釉を使用した焦茶色で、肌の風合いはもっぱら無骨な印象のもので、削ぎ落としの箆の使い方に鋭いものがあり、またろくろも達者で器の側面の立ち上がりのラインに同様の鋭敏さが感じられた。こうした特長はそのまま彼の油絵から感じられるものと共通している。それが流水模様の出現から次第に模様が華麗になり、それと同時に模様の色も豪華になって行く。これは遠野の田舎に行ったというのに、逆に雅びな方向へと心が動いて行ったのかと思わせられるが、洗練の作用の意味合いを考え直さねばならない問題と思える。
 芸大を卒業してからは関東に行き、やがて益子で独立して本格的に作陶、そして早くも日本伝統工芸展に出品し始める。これが30半ばで方向を変え、岩手の遠野に移住してそこで没するまで生活をするのだが、伝統工芸展への出品も、またそれをやめたというのも、どちらも今日の加守田の作品群からはよくわかった。それは伝統には収まり切らない方向を目指しはしたが、元は伝統にあったという意味だが、その伝統というのは、日本伝統工芸展と言えばすぐに連想できる妙に小手先が利いた狭い意味での伝統に連なった作品ではなく、もっと根源的なものに遡った奥深い伝統(民芸といったものにとどまらず、人類が最初に作ったような陶器にまで遡る意味での)も視野に入れた、しかし自分の作るものは自分個人が考える20世紀の今この瞬間でしかあり得ないものだ。さきほど、どこかSF的な気味の悪さもある作品と書いたが、その点において日本伝統工芸展では決して馴染まないものと言える。だが、今では加守田そっくりの作品は日本伝統工芸展に限らずあちこちで量産されているのではないだろうか。その意味で加守田の作品にはいかにも日本伝統工芸展風の品のよい、小ぎれいにまとまった一種の弱さのようなものも表面上は漂っているように見える。ただし、実際はそうではないところが、他の陶芸家とは違った鬼才と呼ばれるゆえんであるのだろう。どこか気味が悪いというのはけなしているのではない。同じように気味が悪い作品のは河合寛次郎がまさにそうであり、それは謎めいていて、作品の価値が永続的なあるためには必要条件なのだ。そうした気味の悪さとしか言えないような雰囲気を持った作品はそうざらにあるものではない。まして陶芸となればなかなかそういったものはないのだ。加守田の作品を真似して作れば、誰でもそのような雰囲気を作品に込められるかと言えば全くそうではない。それこそ作者が内に持っているものが作品にそのまま転写するからだ。とはいえ、加守田の晩期の作品がどこか脆弱な印象を与えるのはなぜだろう。同じように気味が悪くても河合のものの方がもっと図太い。
 熊倉順吉と加守田がどれほど年齢が離れているのか気になったので、帰宅してさきほど図録を調べた。熊倉は1920年京都に生まれ、1985年に亡くなっている。加守田より13年長で2年長生きした。この熊倉の大規模な展覧会を1989年に観ているが、それから考えると加守田の今回の展覧会は没後かなりの年月が経っていることになる。しかし、没後すぐではなくて、こうした20年以上経ってからの回顧展の方が、評価が定まったという印象をより強く与えてくれるので作家にとってはかえっていいかもしれない。熊倉は加守田と同じく富本憲吉に学んでいるから、加守田の作品から熊倉を思い出すのは当然と言えるが、両者は似ているところが多々あっても、晩期の作品を比べると全く違う。熊倉も鬼才と呼べるような変な作品をたくさん作ったが、それがいわゆる人体彫刻の一部をそのまま陶器の表面に表現しているため、観る者は最初からいきなりその変さ加減に度胆を抜かれ、その変な作風をそうとは思わないように心が動く。加守田の作品の気味悪さや変さ加減は、どちらかと言えばそうした作品の表面上に負っている奇抜さではなく、じっと見ていて伝わって来るものだ。作品が熊倉のように遊び感覚で面白がった風では決してなく、反対にもっと真面目一徹なところのみが伝わるから、その気味悪さは怖いものとして感じられる。熊倉の作品はもっとユーモラスで、それでいて洒落て格好がいい。それは京都人のセンスのよさならではのものだ。前衛ジャズが大好きであった熊倉には何か作品を余裕で作っている雰囲気がある。加守田もじっくりかまえてゆったりと作ってはいたはずだが、どうも作品の奥からは別の惑星からやって来たような、現実感とはあまり関係のない永遠性(適当な言葉がどうしても思い浮かばない)があるよりに感じる。それは遠野という土地がそうさせたものだろうか。岩手には行ったことがないし、またあまり興味もないのでよくわからないが。(この文章は6月16日に投稿するために書いたものです。詳しくは、ブログ作成歩録13をお読みください。)
by uuuzen | 2005-06-17 09:47 | ●展覧会SOON評SO ON
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