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●マイク・ケネリーのカセット『TAR TAPES』その2
にするには惜しいが、さりとて年月が経って振り返ると粗が見えて気に入らないという場合が、若い頃の作にはよくある。



マイクの「TAR TAPES」の5本のうち最初の3本はザッパ・バンドに参加する以前の1982年から86年にかけての録音で、それは作品の仕上がりの点で全面的には同意出来なくても、最初期の作品ゆえに思い入れもあるし、また後年の方向性の萌芽をすでに内蔵していることを後年になって何度も確認し直す点において重要なものだ。マイクの活動が1982年からすでに四半世紀以上を経たことからすれば、なおさらこれら3本はマイクの原点として絶えず立ち帰るべき内容を持っているだろう。だが、たとえばザッパでもビートルズでもいいが、正式にレコード・デビューする前の録音やそれなりの音楽活動というものがあって、それらには後年の仕事がさまざまに予想されている反面、やはり正式にデビューして以降の大きな発展はまた別物であることも知る。その別物を獲得する理由はさまざまで、ひとつにはデビュー以前に培ったものが醗酵しての自然な成長だが、デビュー以降の周囲の音楽状況との関係をよく見定め、デビュー以前より真剣に音楽に対峙することもまた大きい。そして、これはマイクの音楽を考えるうえで重要なことと思うが、ザッパやビートルズといった60年代デビューとマイクとは同列には考えられないところがある。簡単に言えば、80年代になって音楽はより自宅で録音しやすくなったが、あらゆるジャンルの音楽が実験された結果、耳新しいものが創造されにくくなった。だが、ここで注意すべきは、こうして書く筆者が60年代の音楽を聴いて育ったことで、現在20歳前後の人は、60年代や70年代に比べて現在は少しも耳新しいことの実験が不利ではなく、かえって未開拓な分野は増えていると考えるかもしれないし、実際そのような一種の知識や情報不足という視野の狭さが自信を増加させ、古臭い手法を使いながら、それを強引に耳新しいものとして世間に認知させ得る場合はしばしばある。いや、むしろポップスの世界はそれだけだと言ってよい。同じ曲を演奏しても時代や演奏家が変われば新しい響くことはよくあり、そのような理由によってリメイクが盛んになされもする。そのため、マイクの音楽について何か書こうとしてまず思うのは、80年代以降におけるポップス界でどのような斬新なことが可能で、また大ヒットを飛ばさずとも活動が続けられるのか、さらにそういうごく一部の人に支えられる音楽は果たして正統なポップスと言えるのかといった疑問だ。今の日本では1年の間に400ほどの音楽グループがCDデビューするそうだが、60年代のラジオのヒット・パレード番組を聴いて育った筆者は、そうした状況が60年代と同様なのかどうかよくわからないが、60年代とは違って、何か大きな流行になるような動きが今のポップス界にはないことは充分に想像がつく、そして、90年代以降この10数年は特にどんな音楽が流行しているのかが見えず、そういう状況の中でマイクの音楽がどういう意味を持つのかがよくわからないでいる。80年代はアメリカではファンクが流行したが、それがラップを含めたヒップ・ホップと呼ばれるものに変化し、その影響は日本の音楽に及んで今は全盛だが、それ以降に何か大きな特徴となる音楽の流行があったろうか。よく言えば百花繚乱だが、見方を変えれば際立つ才能がなく、全体に平板化して見える。一方で相変わらず紙ジャケCDで旧いアルバムが再発売され、今の若者は6、70年代の若者以上に古い音楽をただちに知り得る環境にあるし、また実際そのようにして音楽を聴いているであろうが、そういう中で作られる新曲は6、70年代の音楽とはかなり違うことが予想される。それはポスト・モダンのさらにその後の時代ということになるが、筆者にはその混迷さがよく見えない。筆者が90年代以降この10数年の間に聴いて来た音楽は、TZADIK盤を無造作に聴くか、まだ知らなかった現代音楽かといった状況で、現在進行形の特定の音楽家に強く魅せられるということが、皆無ではないが、あまりない。そして、そんな中にマイクの音楽を置いてみるとどうなるかと思う。
 思いつくままワープロに向かって書いているので、なかなか話の道筋が混迷して論点が定まらないが、「TAR TAPES」に戻る。「TAR」はコール・タールのタールだ。つまり黒い磁気塗料の付着した録音テープのことだが、このタイトルはマイクが自分で音楽を録音することに強い関心をあることを示す。今の音楽家は大なり小なりみんなそうならざるを得ないが、特にマイクはそうであり、21歳頃、まるで画家のように自分の歌や演奏をテープに描き込むことに生き甲斐を見出していたことがよく伝わる。そうした道を最初によく提示し、成功したのは、たとえばビートルズを解散する直前のポール・マッカートニーであり、またザッパだ。マイクはそうした先人の作業に憧れ、自分も同じように音楽を書いて演奏、録音し、それを自分で売る方法を見定めた。マイクにはMartyという兄弟がいて、80年代前半は彼はギターを弾いたり、エンジニアを担当したりしていたが、マイクは鍵盤楽器を弾くことが出来るため、楽譜を読み書きし、オーケストラを使う仕事をこなす能力を早い段階で持っていた。これは当然他人の曲を音譜に分解して分析するという行為に結びつき、録音の際にはどのように楽器を組み合わせるかなど、ザッパの才能に接近するのにつごうのよいものであった。そうした才能は「TAR TAPES」の最初の3巻にすでによく現われていて、またそれは明らかに80年代の空気を伝える。家庭での4トラック録音のため、音質はさほどではないが、どのような音楽を好んだかの見本集と言ってよい。それがザッパに参加した後の第4、5巻になると、俄然ザッパ風になる。それほどにザッパ体験が強い衝撃であったが、そのザッパ風味がそれ以前のポップスを学んだ成果とどのようにブレンドされたか、あるいはされないまま相互に異物的存在となったかの判断は人によってかなり違うだろう。ザッパ色を除いたポップス感覚は、マイクがリード・ヴォーカルを担当した比較的短いメロディアスな曲を言うが、それにザッパ色を足すとしてどういう曲が可能となると、それはギター・ソロを繰り広げるか、一風変わった異物的パートを挟み込むかといったようになるが、それはすでにザッパがやったことであり、結局はザッパ色にすっかり彩られた作品になりかねない。また、ポップス色を除いてザッパ曲を見習うと、なおさらそれはザッパそっくりの曲になるしかなく、結局マイクがザッパ色を模倣すればするほどザッパの呪縛に強く絡まって個性がなくなる。前日筆者がそれとなく書いたのはそのことだ。今後マイクの個々のアルバムを見て行く中で、そうしたザッパ色の箇所を細かく指摘して行くこともあろうが、結論を言えばザッパの影響は20年を経た最新作にまで及んでいる。だが、ザッパの全作品を詳しく知らない人にすればそういうザッパの影響箇所はわからないし、またわかったところで、それはかつてビートルズが誰かの曲をカヴァーしたり、他人のある曲のある部分をうまく作り変えたことと同じであって、マイクの才能を示すだけでありこそすれ、謗る理由には何ら当たらないと言うだろう。その点は確かに筆者もそう思わない部分がないではない。だが、マイクはそのように見られる意見があっていいのかと思う。
 ここで浮上するのが、マイクの音楽に対する志がどのようなところにあるのかという問題だ。これはポップスあるいはたかがロックであり、深く考えるほどのことはないとの意見があるし、マイクもそう思っているかもしれない。だが、筆者はそこにザッパを思う。ザッパは10代半ばにヴァレーズをアイドルと思うほどにその音楽を好んだ。それは志としてはとても高いものであった。現代音楽がポップスより一段上にあるから高いものであるという意味ではない。ザッパが本能的にヴァレーズの音楽を格好いいと思い、それを心に留めながら、音楽家として生きて行くにはどうすればよいかを一方で考え続けたことを言うのだ。ザッパはヴァレーズの音楽を高く思い、その高みに対して自分の音楽をどのように高めて行くかを考え続けた。それは必ずしも常に自分の予想どおりにはうまく行かなかったことはあるだろうが、それでも遠くに輝くヴァレーズという光を忘れなかった。そういう師を仰ぐ存在、あるいは敬意を持って思う存在があるかどうかは創造者にとっては重要なことだ。少年のマイクは音楽を好み、やがて自分で演奏し、自分で録音することを覚えたが、それは楽しい自己表現、あるいは苦しい思いを吐く場として機能し、音楽行為が人生そのものに思えるようになった。そしてそういう日々の中、好みの音楽がより見えて来て、ザッパの音楽を隅から隅まで知るということにもなり、ついにオーディションを受けてザッパ・バンドに参加する機会を得る。だが、もしザッパがもっと以前に亡くなっていたとすれば、マイクはザッパの音楽を強く感じさせる曲を書き、そういうアルバムを作ったであろうか。筆者はそこが知りたいが、マイク自身がそのことを考えた時に心中に蘇って来るのは「TAR TAPES」の最初の3巻に収めたザッパ色のない曲ではないだろうか。だが、そうなればマイクの志というのは、ポップスの歴史に残るような名曲を書くということに絞られ、それは世間的には、誰もがよく知る大ヒットを飛ばすかどうかで判断され得るため、マイクはその意味では売れない敗残者とみなされる。だが、大ヒットを飛ばすかどうかは自分の預かり知らぬことであり、自分の好きな音楽を好きなように演奏することで満足であるという思いを貫くのであれば、そしてマイクはきっとそのように考えているはずだが、それはひとつの表現者として、まっとうで見上げたものであると言える。だが、ポップス界でそのことがどれほど評価されるかどうかだ。日本ですら年間400のグループがデビューし、大部分はTVやラジオで曲が流れることがなく、大ヒットとは無縁で解散する。TVの番組は視聴率こそすべてであって、いくら良質の番組であっても視聴率が低いとすぐに打ち切られる。だが幸いなことにマイクの音楽はスポンサーを必要とするTV番組ではない。わずかな固定ファンを相手にするだけであっても、それでどうにかアルバムを発表し続け、ライヴ活動を続けることが出来るのであれば、それを倒れるまでやり続けるだけのことだ。だが、ザッパを師と考え、同じような志を持とうとするのであれば、ザッパ・ファンからすればたちどころにザッパ風とみなされる部分をすべて排除した音楽をやってほしい。尊敬する師があれば、むしろ師の風は模倣しないと腹をくくらねば、高い志は実現しないし、人からは志が高いとは決してみなされない。そして、ザッパがヴァレーズを敬愛したようにマイクがザッパを敬愛するのであれば、ヴァレーズの音楽とザッパのそれが違うほどに、マイクの音楽はザッパのものとは違わねばならない。繰り返すと、その答えは「TAR TAPES」にあるように思う。そのためにこの5本のテープを忘れた頃にまた引っ張り出して聴くが、マイクのオリジナリティがなかなか把握しにくい。それはきっと21歳頃のマイクがすでに何でもよく知っており、その知り過ぎることによる引用があまりに目立つかではないかと思う。つまり、「TAR TAPES」からザッパを含めて他人の影響を全部取り去ったところのものを見る必要があるが、そこに何が残るか残らないか。さて、次回はいつになるかわからないが、「TAR TAPES」のCD2枚を取り上げる。

●2003年3月23日(日)夜 その2
●マイク・ケネリーのカセット『TAR TAPES』その2_d0053294_1501083.jpgザッパの音楽も同じだ。アンサンブル・モデルンの演奏した『ザ・イエロー・シャーク』は管弦楽の編曲はアリ・アスキンがしており、指揮もザッパではないので、はたして同アルバムが完全なザッパ作と言えるかどうかだ。少なくともザッパのギター・ソロ作品よりかはオリジナルのありがたみは減少している。『展覧会の絵』はオリジナルのピアノ曲を書いたムソルグスキーよりも管弦楽曲に編曲したラヴェルの名前で通っている例も思い出す。しかしまだザッパが生きていた時にザッパの監督下で演奏されたものならいいが、ザッパの没後にアンサンブル・モデルンがザッパの他の曲を採り上げて演奏していることや、その曲を収録したCDが今後発売された時、それは『ザ・イエロー・シャーク』と同様にザッパの公式アルバムとしていいのかどうかだ。もし公式アルバムなら、他の楽団が今後同じようなアルバムを発売した場合はどうなるであろう。つまり、どこまでが真作であるかの線引きは一筋縄では行かない。先のレンブラントの肖像画に戻ろう。その作がレンブラントでないとすれば、ほとんどレンブラントの技量と同じくらいの無名の画家が当時存在していたことを認めることになる。この影武者的な画家はレンブラントの神々しさを減じるように寄与しまいか。すなわち、レンブラントでなくても同じように描ける無名の画家がいたのであるから、レンブラントの才能も誰にもまねの出来ないものではないと思われかねない。一方でここには技術力はさほどたいしたものではなく、人を心を打つほどの表現力こそが大事だという考えが導き出される余地がある。寸部違わぬ模写を考えれば確かにそう言ってもよい。そういう模写はとにかく現物と同じものを再生産する技術力だけがあればよい。妙な表現力があれば原画とは違ったものになってしまう。ゴッホがいい例で、セザンヌなど先輩画家を模写する時、紛れもなく自分のタッチに変えている。そうした例はここでは問題にしてはいない。オリジナルをそっくりそのまま模写するのではなく、この画家であればこのような絵を描いたであろうということを予想してそれ風に描く才能が一方では昔から多いということだ。これは技術力のみならず、模写しようとする画家の癖や個性などを分析して、その人格を模写したうえで描くのであるから、そうして描かれた絵は、もちろん質の劣るものがほとんどにしても、贋作とは見破りにくい場合が稀に混じる。それにそういった作を贋作と呼んで完全に否定してよいかどうかという別の問題も横たわる。その絵が鑑賞者を感動させ、ほとんど巨匠の絵と同じ風格があるならば、もはやそれは独自の価値を獲得していて、贋作の一言で倉庫の奥にしまい込んでしまうにはあまりにもったいない。ところが不思議なもので、人々は絵そのものより、キャプションを信ずる。贋作であっても「近年発見された真作」と書かれていればありがたいと感じ、真作であっても「1万円」の値札がついていれば誰も振り向かない。そしてそんなことがつい先日実際にあった。ゴッホ作と伝えられた途端、1、2万円の価値と思っていた小品が6000万ほどの値がついた。研究家はそれゆえ責任重大だ。彼の一言で大衆は右往左往する。ある美術館がなかなか質のよいバロック絵画を所有している。どうもカラヴァッジオに作風が似ている。するとそんな美術館の声に応えてそれをカラヴァッジオ作と研究発表する人物が出て来ても不思議はない。欲も情も絡むのが人間の世界であるからだ。真贋判定は限度があるし、また真作でも質のよくないものもあれば、贋作でも程度のよいものがある。ある画家の生涯に描いた絵のすべてが質が高くて手抜きはないと考える方が無理というものだ。どんな画家にも買い戻して焼却したい作のひとつやふたつあるのが人間的というものだ。偉大な画家は全作品が偉大であるからではなく、数点以上の偉大な作をものにしたから偉大なのだ。また、作品に対峙して気分がよければそれはその人にとっていい絵であり、工房作や贋作であろうが意味はある。かくて工房作は盛んに生み出され、贋作もまた永遠にはなくならない。
by uuuzen | 2009-05-29 23:59 | 〇嵐山だより+ザッパ新譜
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