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●第1章その2 『大ザッパ大雑把論』 ②
文中に出て来る曲名やアルバム名は執筆当時のものであるので、ネットで検索しても同定しにくい。この文章以後、時代はCD一辺倒に一気に突入し、また歌詞対訳者が変わったことで新たな曲名やアルバム名が用意された。



その後さらに筆者も『大ザッパ論』で独自に曲名をつけたので、同じザッパ曲でいくつもの邦題が生まれている。これらは英語のタイトル表記であれば生じないことであって、本当は解消すべき日本特有の問題と言えるが、翻訳を依頼された訳者なりの考え、そしてザッパのアルバムを発売するレコード会社が次々と変わっていることもあって、残念ながら今後も同曲異名の混乱はひどくなる一方と言える。この問題に対する根本的な解決はザッパ存命中に済ましておくべきで、その可能性も確実にあったが、結局はうやむやになって現在に至っている。ザッパの曲名をどう訳すかだけでも奥深い問題がいろいろと潜んでいるのは事実であり、その点を考えるならば、訳者ごとに題名が違うというのもまた面白いと言えるかもしれない。ある程度ザッパ曲に馴染めば、少々邦題の差異があってもどの曲かは想像がつくようになるから、そうした程度までにはザッパ曲に馴染むファンが増えてくれることを願っている。さて、以下の文章は『大ザッパ大雑把論』 の続きで、中間部分に相当する。

ストラヴィンスキーから影響を受けるというのは現代の音楽家であれば、例外なくそうであろうと言われているようですが、『芸術新潮』の82年9月号によると、日本ではバルトークに人気があって、シェーンベルクに反感をもつ作曲家が多く、ストラヴィンスキーはあまり好まれていない、とありました。ザッパが日本であまり受けていないのが、ここからもわかる気がします。同じ曲を何度も編曲し直すとか、あれこれ違うジャンルの音楽をひとつにまとめ、「はい、スープ一丁上がり」とやってしまうザッパの手法は、ストラヴィンスキーにそのままそっくり当てはまるし、今、流行の民族音楽なんかを利用して作曲するというのも、今世紀の初めの頃から先駆者はいたわけで、ザッパを聴いていると、そういうクラシックの方面にも多少は興味をもってしまいそうです。ザッパのロックは、ロックとして楽しんだらいいのですが、別に無理して難しく頭を抱え込むというのでなければ、そういうところに興味の輪を広げてもいいわけで、そうすると、ザッパをより別の見方で考えることもできると思うのです。ザッパの『アンクル・ミート』は、ガムラン音楽の影響もあると、八木さんの指摘でしたが、打楽器を主体にしたザッパの曲は少なくないようで、前述の「イゴールのブギ」の入っている『バーント・ウィーニー・サンドウィッチ』は聴いていて心地よい打楽器の音が全体的に散りばめられているし、『チャンガの復讐』にはまったく種々さまざまの打楽器だけで演奏される「ザ・クラップ」があります。77年の「ブラック・ページ#1」もそうだし、『○△□』のアルバムのタイトル曲「フランク・ザッパの○△□」(=「溺れる魔女」)では、途中5秒ほどのガムランを連想させるようなフレーズが2回繰り返され、この部分はとても印象的でいい感じです。ディスクリート・レーベル以降、ほとんど常にメンバーにマリンバを加えて音創りをしているところなどは、まあ、ガムラン的な味つけをしていると言えば言えるかもわかりません。バリ島のガムランは今月、日本の各地で演奏と舞踊の本場ものの披露がありました。そして千野秀一が、「ガムランを聴いて思ったのはメチャクチャ微分化してるってことだね。とにかく速い」と言ってますが、これはザッパの、たとえば『ユー・アー・ホワット・ユー・イズ』の中の「不吉な靴、第3楽章の主題」や、あるいは「ジャンボ・ゴー・アウェイ」の途中の演奏などを思わせる言葉で、その手のザッパものは楽譜にするとどれだけたくさんのオタマジャクシが1小節の中に並ぶのだろうかと、ちょっと恐さを感じるくらいです。前述の一柳氏との対談で、ザッパは「私のギターのリズムは話し言葉からとられていて、しゃべらすように演奏するもので、そのリズムは複雑になる」と言ってます。ガムラン的なところにザッパの話し言葉のリズムが加わって、独特の音が出来上がっていることになりますか。
 話はまた変わります。マザーズでデビューする以前の63年のTV放映になったザッパの「自転車協奏曲」というのは、今で言うパフォーマンス的なものですが、ダダ運動ともつながりのあるイタリア未来派運動の提唱者のひとり、ルイージ・ルッソーロは、その元祖的な音楽を1910年代にやっていました。1914年の「騒音楽器による未来派大演奏会」というのは18台から成る騒音楽器が、うがいをする音、パチパチという音、ほえる音、うなる音、爆発音……その他、観衆と未来派の人々がお互いに罵倒し合って、警察が介入するまでになったという事件で、この実験に興味をもってストラヴィンスキーは翌年、未来派の仲間の家に集まったことになっています。またルッソーロはジョン・ケージが発明したプリペアド・ピアノよりも早く、新しい音色を出せるように改造したピアノを作ったりしていますが、ザッパが尊敬するコルシカ人エドガー・ヴァレーズは、このルッソーロの騒音主義を音楽にまで高めたということになっています。インタヴューでザッパがペンデレツキに興味あるとか、あるいはコンロン・ナンカロウの名前をレコードの中で突飛に言っても、簡単に、しかもたくさんのレコードを見つけられない状態では、理解するというところまではなかなかです。でもザッパ・ファンというものが、ザッパのクラシカル・ピースを本気でよく聴き込んでいる人が多いのか少ないのかは別にして、ザッパ自身が尊敬するミュージシャンとして、現代のコマーシャルでないクラシカルな音楽家を挙げていることから、無視しきれない問題が現代音楽にはあると思うのです。
 作曲家として活躍したり、近年はバイロイトでワーグナーの『ニーベルングの指環』を振ったりのフランス人ピエール・ブーレーズから頼まれて作曲したというザッパの作品が、ザッパ・ファンの間だけのちょっとしたエピソードだけで終わってしまわないで、観衆が離れてしまっている現在の現代音楽の分野に、もっと親しみのある作品をザッパが多く作ってくれることは、音楽が好きな者にとって望むところです。また、ロックではもうオペラもやったし、ギター3枚組も出したし、もうやることがないのでは思うくらいなので、ザッパ自身もある程度は本腰を入れたいと望んでいるのかもわかりません。ストラヴィンスキーの亡くなった年が、ザッパの『200モーテルズ』の発表というのも、何やら考えさせられるようです。純然たるオーケストラものは、金がかかる割りにはレコードが売れないのかどうか、管弦楽のオーケストラの代わりにキーボードでよく似た音を出したり、ロック・バンドの形でオーケストラ的に演奏するのが( 例えば『○△□』のアルバムの「エンヴェロウプス」) 、近年の特徴のひとつのようで、これはもうザッパだけが到達している、まさにクラシックとロックの中間的な産物と言えるものだと思います。
さてさて話は少し変わります。ウィーンのピアニスト、フリードリヒ・グルダという人もクラシック音楽の演奏だけに浸らずに、あれこれと興味をもって実践していますが、最近出た彼の作曲の『チェロ協奏曲』はザッパ風メロディを含んだ楽章があったりして、クラシックを聴き慣れている人にとっては、変わっていて面白いと感じられるかもわかりません。しかし逆に、ロックに耳慣れている人は、どうしてもクラシック音楽の要素が中心という気がして、あまり興味をもてないのではないかと思います。ザッパが同様に作曲したら、そういう点をどう処理するのか、はたして双方のファンの賛同を得ることができるかどうか、とにかくザッパのクラシック作品はもっとたくさんのレコードが出るべきです。ストラヴィンスキーはいつもピアノを使用して作曲したようですが、1936年の彼の自叙伝で、「私は物理的に音を出す方法で作曲するのが、想像による抽象的な方法で仕事するより千倍もいいと考える」と述べています。これはザッパにも同じように言えると思います。ということは、ザッパの作る曲はブライアン・イーノのやっているタイプのものとは異なって、もっと体臭が感じられるような、実際の手、指の動きがまるで眼に見えるような音の構築物になるわけで、イメージをそのまま機械に演奏させたような音にはならない、と今までのザッパのたくさんの曲から考えます。3枚セットのアルバム、『ザ・ギタリスト・パ』の原題は、「つべこべ言わずに、あんたのギターを弾きな」の意味で、これにも「まず演奏してみること」というザッパの考えが出ていると思います。イーノは自分のオブスキュア・レーベルからの作品等で、現代音楽の方面で話題になるレコードを作っているようですが、彼の『ディスクリート・ミュージック』というアルバムのタイトルは、ザッパのディスクリート・レーベルより1年ほど発表が遅くて、ニヤリとさせられます。しかしイーノのやっている環境音楽はザッパによる例の音楽図に従えば、ジョン・ケージの音楽の部類に入り、ザッパの興味外の対象のようで、ふたりは別々の世界に住んでいるミュージシャンということになりますか。
 ストラヴィンスキーは同じ自叙伝で、「作曲とは吐き出さずにはおれない日々の仕事であって、作曲の才能は努力と練習によって保ち続けられないと萎縮してしまうものだ。創造するには霊感を待たねばならないと普通の人は考えるが、これはまったく間違いであり、霊感などは存在しないと思う。創造力は人間のどのような種類の行動にも見出されるもので、芸術特有のものではない。しかしその力は努力による行動が伴ってもたらされるものであって、その努力がつまり仕事である…」( 自分で訳したので多少の間違いはあると思います) とも書いています。これは1日18時間働くという、ザッパがインタヴューで答えているのとそっくりです。日々の出来事を見ていると作曲の材料にまったく事欠かないとザッパは言ってますが、キャプテン・ビーフハートも確かこう言ってました。「ザッパは働く(work)のを好む。俺は遊ぶ(play)のがいい。だから俺たちは別れなければならなかった」。やはりザッパは現在までのところ、どんどん指に血マメをつくってギターを練習し、精力的に各地でコンサートを消化し、その材料でレコードを産み落とす努力型のアーティストのようです。
 しかしザッパの健康状態は年がら年中休養があまりないために、よいとはとても言えなくて、ある日突然倒れたりしたらどうなるのだろうと、ジョン・レノンの殺人事件があって以来、考えるようになりました。ストラヴィンスキーのように90近くまで長生きはせずに、何かの原因で近年中に亡くなれば(こういう表現はザッパ・ファンの反感を買うでしょうが) 、レコードは今までの録音の数多いストックの中からポツポツと順に出ることになるでしょう。けれどもそれではやはりもうひとつ面白くない。ザッパは今、我々と同じ時代に生きていて、この瞬間も音楽をやっているから興味深いのであって、死んでから新しい曲がゾクゾク発掘されても、興味も感激も半減と思います。ザッパは現在をどういう考えで生きているのかということを、レコード発表の度に認識できるのが楽しいのであって、ザッパが仮に死んでしまって、古い録音の曲がそれ以降出て来ても、古い新聞のようなもので、その価値の質は大きく変化するだろうと思うのです。
 ストラヴィンスキーは動物が好きで、いろいろの動物の名前をつけた曲を作っていますが、ザッパも同様に動物好きだし、その点でも両者は似ています。ストラヴィンスキーは後年になると宗教的になり、ケネディ大統領が死んだ後には追悼の『エレジー』を作曲しています。ところがザッパは現在のところ宗教も政治家もあまり信頼していない様子で、その点でも今後どう変化して行くのか楽しみです。

by uuuzen | 2005-06-15 10:49 | ○『大ザッパ論』サプリメント
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