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●『交錯する文化』
り放題バス切符というのが京都にはある。1枚500円で当日限り有効。テレフォン・カードと同じ大きさをしているが、ケータイ電話の普及によってテレフォン・カードはほとんど不要になった。



●『交錯する文化』_d0053294_17003.jpg100年後にそのカードを見た人は、昔はえらく不便な世の中だったと思うことだろうが、またその一方で、テレホォン・カードを専門に蒐集する人もきっといることだろう。今はまだ大量にあっても、100年後には骨董価値が出ているかもしれない。ははは、それで思い出すのは、20年前にはやったロッテの『びっくりマン・チョコ』に入っていたビックリマン・シールだ。この中のよく輝いて枚数が少ないものは人気があって、その当時筆者は甥や息子に、いつかきっとこれは値打ちが出るぞよくと言ったものだが、チケット・ショップでは日本の記念切手が価格割れで売られるという現実がとっくに訪れた後、ネット社会がやって来て、ビックリマン・シールは稀少価値があまり出ずに、また遠くからでも、珍しいものであっても買えるようになった。そのため、甥は半分うらめしそうに、値打ちが出ないものを長年所有中であることをたまに筆者に言うが、そういう時筆者はまだ決めつけるのは早い、もう20年、いや50年待って息子に託せよなどと言ってやろうかと思うが、甥は冗談と思うに決まっている。だが、正直なところ、何事も骨董になるには20年ではせっかちというものだ。せめて50年は経ってほしい。つまり、自分が生きている間に蒐集したものは次の世代で評価が決まるというくらいのゆったりとした気分が必要だ。簡単に集められる時代には価値はほとんどなく、価値が出始める頃には簡単には集められない。世の中の蒐集品というものはみなそのようになっている。そして、そういうことをよく知っている人は、自分の蒐集を孫か曾孫に託そうとするが、孫や曾孫はそうしたものに関心がないのが普通で、かくてせっかく長年保存されたものがほとんどゴミ同然に業者に引き取られる。あるいはまだそれはましな方で、孫や曾孫まで家の代が続く方が今後は稀なことになる。実際、今は何かを蒐集する人が老齢化し、それをしかるべきところにどう収めようか苦心することは多い。それまで生きて来た間充分楽しめたのであるから、ほとんど無料でもいいので誰かにもらってもらうのが一番よいが、人はただではありがたみに乏しくて大切にしない。そこで、やはり業者などに売るのがよくて、今後日本ではますますそういう市場がは大きくなる。それに先鞭をつけたのがネット・オークションで、そこでは本当にガラクタ然としてものが何でも売られている。100年後にもまだ同じようにネット・オークションがあるとして、おそらくその出品物は現在とほとんどさ大差がないだろう。ビックリマン・シールもちゃんと売られており、それは筆者が20年前に甥に言ったように、きっと価値がかなり上昇している。だが、その時筆者も甥もいない。そして、筆者がこのようにしてここに書くこともまたその時には消えているから、筆者の予想を知る人もない。
 乗り放題のバス切符をいつもバスの中で運転手に言って買う。バス停に自動販売機もあるが、お金を入れたがチケットは出て来ず、お金も戻って来ないという状態に遭遇しそうであり、またそうなっても文句の言って行きようがないので、筆者はよほどのことがない限り、その機械では買わない。それはいいとして、ゴールデン・ウィークの休みというのに、今年はどこへも旅行せず、息子が帰って来ても家族で出かける場所も思い浮かばず、結局暇潰しに家族3人で市バスの1日乗車券を買って今日は京大総合博物館に行って来た。こんな教養豊かな模範家族はほとんどないだろうと自嘲するが、実際筆者の家族3人のほかは若いアベックが1組と老人が数人であった。筆者ら以外にはいないと思っていたから、それだけ鑑賞者がいたのは意外だが、チラシも作り、また30数ページのカラー印刷のブックレットが無料となると、最低でもその程度に入ってもらわねば館としても運営のし甲斐がない。今回は特に力を入れたのか、このブックレットは今までにない趣向で、しかもなかなかいい仕上がりだ。それが無料というのはさらにありがたいが、この館としては年2回の企画展でせめてそうしたブックレットで展示内容を記録して行こうということなのだろう。「交錯する文化」とは、えらく漠然とした内容の題目だが、チラシには古代の鏡が印刷されているので、展示物が日本の昔のもので、しかも大陸と関係があるものということはわかる。歴史ファン歓迎の内容で、その点筆者はさほど関心があるわけでもないが、この館は入場料が安く、また見た後にどこへ出るにも比較的便利であるし、まして1日乗車券ならバス乗り放題でお金も使わなくて済む。それで当初は30分ほどでさっさと見るつもりが、ちょうど入場して5分ほどした時に列品解説が始まり、それにしたがって見て行くと、何と1時間半もかかってしまった。さほど展示物は多くはないのに、階下の常設展示も見ると、ちょうど閉館の5時になった。それではほかに行こうと思ってもその時間がない。結果バスに乗って、近くのミスター・ドーナツの前で下り、そこで休憩したが、本当は農学部前の進々堂で休みたかったのに、その前まで行くと連休のため店は閉じていた。あたりまえと言えばあたりまえのことだ。長い連休のさなかに開店している学生街の店などあろうはずはない。20代半ばの息子もいやがらずによくついて来たと思うが、恋人もいないでは退屈であるし、家にいても仕方がないので、気晴らしにいいと思ったのであろう。息子はこの館は初めてだが、筆者は見せたいものがほかにあった。それは展示室に入る手前に飾られている機械工学の模型だ。日本が明治時代に西洋の工業文明を学ぼうとする時に、ドイツから60種類ほどの機械の原理をわかりやすく学べる歯車などの模型を買った。そのうち10点ほどを複製して、誰でも動かせるようにして展示してあるのだ。回転運動を直線に変えたり、カムなどの機械運動の原理の最も基本的なものばかりだが、そうしたものを基礎にしながら、より複雑なものを生み出して来たのが今の機械文明であって、ややこしく複雑に見えるものであっても、その根本原理はごく少数のいくつかの要素から成り立っていることを知るにはちょうどいい模型なのだ。これは何事も年齢と経験を重ねてから見えて来ることだが、どんなに複雑に見えることでも、実際は分解して行くと単純さが積み重なっているだけのことがほとんどで、それをひとつずつ押さえて把握して行くと、全体としての複雑がさほどでもないと思えて来る。だが、そうしたこともわからず、またわかったとしても、何がその複雑における単純かが理解出来ない場合は多い。そのため、まず根本原理というものは常に立ち帰って見つめられるところに掲げておく方がよいが、なかなか学校ではそういうことを教えない。いや、教えてはいるのだろが、その根本に絶えず戻ってその重要性を解かない。何がわからないかをよく自覚出来れば、後はひたすらわからないことを地道に学んで行くだけでよいが、何がわからないかがわからず、またそのことを自覚もしない状態の若者はいつの時代でも決して少なくない。そのため、人生を無為に過ごし、気がついた時にはもう手遅れになっている。息子は機械の会社に勤務しているが、どうもその根本のことをよく理解していないようで、父親としてはそれが気が気でならないが、もう手遅れか。
 さて、展示は「模倣」「葛藤」「転成」の3部門で、列品解説は、先に説明が終わったばかりの大学院生が引き続き担当してくれたから、3時間ほどぶっ続けで喋ったことになる。そういうハードなことが出来るのも若さゆえだろう。京大が所有する文物を使っての展覧会であるので、どうしても内容は偏りが出るが、「模倣」「葛藤」「転成」という3つのコーナーはそれぞれに関連があるのではなく、3つの小企画展と思う方がよい。まず「模倣」は、大陸からもたらされた鏡を日本がどのように模倣し、それがどのような仕上がりとなったかの実物比較だ。当時日本はまだ漢字を知らず、また中国の四方を意味する動物も知らないから、鏡の背面の精緻な文様をそっくり模倣しようとしても、どうしても誤解が生じて、たとえば「白虎」が全く意味不明の模様になったり、また漢字を裏向けに書いたりしている。これは中国からもたらされた原本を直接模倣した場合はさほどでもなかったはずだが、模倣したものをまた模倣し、その回を重ねるごとに原本とは違う文様が生まれて行ったはずで、それが限りなく遠くなったところに独自のと呼べる文化の誕生もある。だが、筆者が疑問に思うのは、日本の鏡は確かに原本とは文様に差があり、彫りの仕上がりも全体に鈍いが、それをただちに知識と経験の不足とだけで説明出来るかどうかだ。おそらく日本で銅鏡を生産した当時は渡来人が多くいたはずで、それなりに中国のこともよく知っていたであろうから、たとえば「白虎」が出鱈目な動物や文様に変化しているのは、「白虎」に対する知識が皆無であっただけでは済まされないものを感じる。それほどの知識がない状態で、果たして高度な鋳造技術と研磨技術によって鏡を模倣し得たであろうか。それがたとえば銅ではなくたとえば木彫りでの模倣であれば、「白虎」がそうとは見えない仕上がりになったとしても理解出来るが、一応は物を写す鏡として機能するほどのものを日本で作るからには、文様に対して同程度の理解はあったと思いたい。あるものを模倣するとして、それは当然ではないだろうか。ましてや精緻な文様を同じ程度に精緻に刻むほどの技術を持っていたならば、その模様がどういう意味を持つかを知らないまでも、「白虎」をまさか動物とは思わないで、ほかの似た文様にすることはまず考えられない。中国渡来の鏡における「白虎」も実はかなりの抽象化が見られるが、それでも猫科の動物であることぐらいは当時の日本でも充分理解したに違いなく、それを猫科の動物に見えないように描き変えたのは、原本を理解する能力がなかったからではなく、それを忠実に模倣する意識がなかったからだと思う。つまり、創作力が働いた。あるいはそれは原本の一次模写ではなく、何度か模写を経たものだ。そういうことを解説者に質問してみたかったが、時間が長くかかりそうなのでやめた。
 次の「葛藤」のコーナーは京大博物館の所蔵として充実している地図についてだ。日本の地図に関する情報は、たとえば蒹葭堂の蒐集を見てもわかるが、18世紀半ばに今とほとんど変わらない世界地図を知識人は知り得た。250年前にもう日本が極東に位置して、南北アメリカやアフリカ、オセアニアがどうなっているかを知っていたのだ。だが、一方で日本には仏教的世界観があり、僧侶がそうした考えに基づいた世界地図を作るなどしていた。ところが仏教はインド発祥であるから、そうした地図はインド大陸を中央に描いて、西の欧州も東の日本も描かれない。だが、仏教国である日本はどうしても自らの国をそこに当て嵌める必要を感じる。そしてどうなったかと言えば、そうしたインド中心の世界地図の東の海のただなかに日本の島をぽつんと孤立して描き込むという方法だ。苦し紛れではあるが、どこか実情にも沿っている。だが、縮尺は出鱈目であり、日本以外の南方の国も無視されている。そうした地図は250年前には売られてはいたが、ほとんど誰も内容を信用してはいなかったろう。そういうさなかに、ポルトガルとの貿易、そしてその後の出島を通じてのオランダとの貿易によって欧州の地図がもたらされ、そこに日本をどう位置づけるかの作業が始まる。また、中国は中国で自国の詳細な地図を作るし、朝鮮もまたそうだ。そうした国々のそれぞれ自国中心主義の地図がやがて縮尺を伴って相互の位置関係が正確になり、今あるような地図が生まれて行く。だが、さすが中国と思わせられるのが、16世紀末の明で作られた『広輿考』だ。京大はこの原本を所蔵するが、世界に5部しか存在しない貴重なものだ。京大所蔵のものは明から直接日本にわたったものではなく、朝鮮の知識人が所蔵していたものが何らかのルートを通じてもたらされた。そして面白いことに、明から朝鮮にわたった段階で、朝鮮の情報が追加されていることだ。これは明の地図を朝鮮の知識人が見て、朝鮮半島の地図が不正確なことに不満を抱き、独自に手描きで正確な朝鮮半島の地図を挿入し、製本をし直していることだ。京大ではこの地図帳の修復を今回実施し、裏打ち紙として朝鮮の名前などがある反故紙が使用されていることを発見したが、そうしたことからも、朝鮮人の旧蔵であることを確認した。その造本は日本の和綴とは違って、綴じ口で地図の一部が見えなくなるのを防いだ方法で、そういう造本にも日本とは差がある。巻物もそうで、日本では巻頭が最も古く、最後、つまり巻き芯に近い方が新しいが、朝鮮では新しいものを最初に継いで行き、巻物を解くとすぐに最新の情報が見られるように仕立てる。『広輿考』はかなり大きい地図帳で、頁数が多いが、これほどの地図がどのような方法で日本に入ったのか、江戸時代の舶載は考えにくく、おそらく日韓併合のどさくさに流出したのであろう。それを実感させるのが朝鮮の戸籍だが、これは次の「転成」で述べよう。『広輿考』は朝鮮の情報が不正確であると同時に日本の地形も同様で、中国は自国の大陸内部はよく掌握はしたが、周辺国家はあまり重視しなかったことがわかる。『広輿考』が日本地図に関して詳しくないのは、日本の商人から入手した地図が古いものであったからだが、倭寇に困った中国であるから、九州の島々は異様に大きく拡大されている。会場ではまた『広輿考』とは別の朝鮮半島の詳細で大きな地図が展示された。18世紀半ばに京都相国寺の僧維明が所蔵していたものを模写したもので、相国寺が朝鮮半島の情報を豊富に持っていたことをよく証明する。これは足利時代に遡る伝統であって、朝鮮を通じて中国の情報や文物を得ることが多かったし、また江戸時代になると、対馬に僧を派遣して常駐させる国家の政策からも、禅僧が今で言う外交官の役割を果たして相手国の地図を手に入れるということもあったに違いない。
 「転成」で面白いのは「糸印」と呼ばれる銅製の小さな印章だ。筆者はこの実物を初めて見た。これは日本が足利時代以降、明国との貿易で生糸を輸入した時、一反分か一匹分か、とにかくある単位ごとに封印の形で印章がつけられて来た。そして荷受けした後、その印章を紙に捺印したものを相手にわたすことで授受が完了したが、そうした印章は生糸に添えられたもので、日本にたくさん伝わることになった。あまりに多いので、日本がいかに中国から多くの繊維を輸入したかがわかるのだが、面白いのは、その印章の印面は解読不能の文字とも模様ともつかない図柄であることと、印章自体の動物などをかたどる造形だ。この造形はかなり精緻な彫りで、後に日本の根付けに大きな影響を与えたと言われるほど、その種類はさまざまで、驚くべきことは、日本のたとえば土人形で馴染みの大黒さんや鯛持ち恵比寿が全く同じ形で見られる。その理由はまだ解明されていないと思うが、一説には日本が民間レベルで大黒や鯛持ち恵比寿をよく祀り、その好みを知った中国人が日本向けにあえてそれを模倣して造形したとされる。だが、筆者はそうは思えない。中国がそこまで日本に向けてサービスをするだろうか。また日本の木彫りの大黒や鯛持ち恵比寿の像が中国に輸出されたとも考えにくい。では、日本では誰でも知っている大黒や鯛持ち恵比寿の造形が中国のものを模倣したものかと言えば、それも違うだろう。第一、鯛持ち恵比寿は、外国からやって来る存在をありがたく思う精神の反映であり、どう考えても日本独自のものだ。その鯛持ち恵比寿がなぜ全く同じ形として中国の糸印に見られるのか、そのことひとつ取っても文化の交錯は謎めいて、まだまだわからないことが多い。さて、このコーナーでびっくりしたのは、朝鮮の戸籍だ。かなり大判で分厚く、しかも金属の把手がついている。いかにも重要書類の基礎といった感じで、これを李朝は500年以上にわたって3年ごとに作り変えた。そしてそこに記載される人々は、女性であってもその両親のさらに両親まで名前が記される。ところが、それと比較展示される室町・鎌倉時代の日本の戸籍は、女は名前が記されず、使用人も「下人」「下女」とあるのみだ。江戸時代になると幕府が寺社諸法度によって間接的に人々の戸籍を掌握するようになるが、朝鮮では中国に倣って戸籍を大切にした。李朝が倒れるまでそれが続いたが、戸籍重視の思想はさほど変化はないはずで、現在でもどの出かをよく言い、また同じ名字は結婚しないほどであることはよく知られる。
by uuuzen | 2009-05-06 23:57 | ●展覧会SOON評SO ON
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