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●『エモーショナル・ドローイング 現代美術への視点』
画世代にはとても面白い展覧会であった。去年11月中旬から12月下旬にかけて京都国立近代美術館で開催れ、最終日の2日前に出かけた。



●『エモーショナル・ドローイング 現代美術への視点』_d0053294_23561931.jpg若者の姿が目立ち、彼らはみんな内心自分も描ける、描こうという思いを抱いているように見えたが、それはなかなかよいことだ。鑑賞するだけではなく、自分も表現者に回るぞと思わせるのが美術館の使命でもあるからだ。最初に書いた「漫画世代」とは、少年サンデーや少年マガジンといった週刊漫画誌を子どもの頃によく読んだ50代後半以降の世代を指す。その点において筆者は今の20代の若者と同様にこの展覧会を楽しめたと言える。戦前にも漫画はあったが、美術とは一線を画す思いがまだまだ大きかった。今もそのように考える人はいるが、戦前に比べれば少数になっている。そして、戦後の漫画世代が高齢化し、やがてみんないなくなる数十年後には、「漫画も美術」というのではなく、「美術とは漫画」と定義されているかもしれない。ところで、11月は東京に行って、東京藝大美術館で開催されていた『線の巨匠たち』と題する展覧会を見た。今で言えば石膏デッサンのような、デューラーやレンブラントなどの、立体の陰影を強調するヨーロッパの16世紀から18世紀までのアムステルダム歴史博物館所蔵の素描や版画が展示されたが、それらの「ドローイング」と比べると、今回展示されたアジアと中東の16名(組)の作品は、みな写実的ではなく、ヘタな漫画と言ってよいもので、美術がついにここまで来ているのかと、普段美術に馴染みのない人は戸惑うことだろう。写真機がない時代は、絵は写真のように写実的なものが求められた。王や貴族の肖像画を描く必要上、それは歴史の必然でもあった。写真の登場後、画家は写真では表現出来ない画面の面白さを追求し始め、絵画の歴史は対象の写実的再現よりも画家の内面の思いを率直に表現するものという考えが中心となる。この感情表現こそ大事とする意識は、絵画で言えばその基礎であるドローイングを大きく変えた。ゴッホやムンク、ドイツ表現主義の画家たちのそうした作品は、先の『線の巨匠たち』では扱われなかったが、『エモーショナル・ドローイング』と名づけられた今回の作品は、印象派や表現主義、立体派といった戦前の絵画の諸流派とも直接の関係はなく、また戦後という言葉とも無関係の、全く新たな時代のどこか冷たく不気味な世相を反映した個人的な呟きに似た線描主体の絵画で、アニメ世代を反映してか、ドローイングを動かせるアニメ作品も数点見ることが出来た。絵画の古典に連なるために伝統的な素描技術をまず習得しようという意識は皆目なく、自己流でよしとするその不敵さは、その分強い個性を獲得するが、その割には作品は無名性に連なってどこか脆弱な印象を強くたたえる。その不安と強く結びついた表現性は、社会に出ることに対する不安を抱く若者には即座に共鳴出来るものであり、そのような若者が大人になった時に、こうした絵画の中から時代のヒーローとして祀り上げられる者が出て来るのだろう。これらの作家たちが、筆者のような50半ばの大人に理解してもらわずとも、若者に歓迎されればよしとする覚悟や態度を抱いているのではないかと思わせる点で、筆者は「不敵さ」と言うのだが、それは純粋さだけには決してとどまらず、作品がどう見えるかをよく計算するしたたかさを持っていることであり、そのコマーシャル的なるものに容易に転換する表現であるところもまた、伝統とは切れた新たな動きと言える。あるいは、別に売れたり、有名にならずとも、とにかく表現出来れば充分と彼らは思っているとも思えるが、その一種の投げやり的なところもまたこれからの21世紀を不気味にも予告しているように見え、今回作品が選ばれた連中が現代美術の最前線に位置するのかどうか、その点が強く気になる。時代のムードをどれもよく反映していると感じはするものの、今回の作者たちとは全く違って、もっと陽気な、あるいは『線の巨匠たち』に見られたような素描の伝統性を引き継ぎつつ、咀嚼し直そうとする人もあるはずで、その意味からすれば、今回は個々の作家の特質を見せつつも全体としてあるムード、すなわち「エモーショナル・ドローイング派」と命名出来るようなまとまり感を形成しており、それが学芸員の偏った好みなのか、時代を深く見通した結果なのか、図録を買わなかったこともあり、筆者にはよくわからない。
●『エモーショナル・ドローイング 現代美術への視点』_d0053294_23565973.jpg この展覧会のチラシを見て真先に目に飛び込んだのは、同じ像を少しずらして重ねて描く双子のように見える涙を流す長髪の少女像であった。その小さな図版からも異様さは際立つが、実物を前にするとめったに味わえない深い驚愕を覚える。日本の少女漫画特有の星の入った大きな瞳として描かれるので、てっきり日本の作家と思ったが、韓国のキム・ジュンウクの作品だ。どれも100号ほどあったろうか、かなり大きな紙に描いた鉛筆画が数点あった。少年少女を顔を中心に描き、しかも目が異常に大きく、その白痴にも見えるあどけない表情は、まず痛々しさを思わせる。ごくわずかにうすい赤色を使用している作品もあって、それは少年や少女が流した血の混じった鼻汁としての表現だが、どの少年少女も心に深い傷を負いながら、さらなる暴力に耐えているように見える。ちょうど親から虐待を受け、それでも親であるからそれに笑顔で応えねばならない哀れさな表情を思わせる。まさにエモーショナルなドローイングだが、漫画表現をベースにしながらも、漫画にはない重みがある点で美術と呼ぶしかないもので、このむごたらしいまでの赤裸々さに、いったい誰が作品を購入してどこに飾るのだろうかという思いを一方ではさせられつつ、その一瞬見ただけで深く心に食い込ませる様子からは、絵画の面白さ、可能性を再認識させる。会場の最初に飾られたこのキム・ジュンウクの作品によって、この展覧会の残りの作品の方向もおおよそ見える。次に、インドの作家だったと思うが、厚手の高さ3メートルほどの大きな手漉きの紙に描いた作品が5点ほど天上からぶら下げられ、それを縫うように見て歩く作品があった。カラフルな色合いで描かれるのは動物や人体の断片で、エロティックで暴力的なイメージだ。その次の大きな部屋全体を占めていたのが、奈良美智の作品で、筆者はほとんど関心も知識もないが、この作家は今かなり売れていて、作品が海外で高値で売れている。漫画のキャラクターそのものと言ってよい生意気な子どもを描いたようなその作風は、先のキム・ジュンウクと同様、一度見れば忘れられない強い記号性を持つが、キムの作品のようにヒリヒリするような感情を呼び起こすものではなく、豊かな日本経済の中から生まれた大人になり切ることの出来ない、またなる必要もない、無気力、無感動に傲然と身を浸すふてぶてしさがある。今回は部屋中央には大きな平屋の家が置かれ、壁面に初期作から近作まで年を追って順に多くの素描が展示された。家は一間の古い山小屋といった体で、奈良美智の本物のアトリエを模したのだろうか、外観も内部もひっくるめてひとつのインスタレーションとしての作品であった。内部には窓際に仕事机があって、その上には絵画の道具類が置かれていた。注目すべきはラジオから音楽が絶えず流れていたことで、60年代のポップスだろうか、聴いたことのないグループの心地よい音楽で、それが懐かしさや安逸な印象をよくもたらしていた。そこにこの作家の意図が見えると思えたが、それは音楽など自分の好きなものを周囲に巡らし、その環境の中で好きなものだけを自由に描くという態度だ。それは今の若者にとって仕事を遊びと同一視出来る理想郷に見えるはずだが、グラフィック・デザイナーとして同じように生きている人は数多くいるはずで、奈良はそうした人々からもヒーローとして映っているのかもしれない。年代を追っての素描群は、80年代半ばから始まっていたろうか、昔も今も同じように見えつつ、それなりに画風を変遷させて今に至っていることを示すにはいい企画であった。当然のことながら、描き続けて来たことの結果、形態がより迫力を増し、いいたいことがすっきりと言えるようになったことがわかる。それらの素描は額縁に入れた仰々しいものではなく、ほとんど落書きと同じ扱いで、紙を無造作にピンで留めてあるだけで、消耗品となることを恐れていないように見える。それはこの展覧会の他の作家にも大なり小なり言い得るが、そのことを作品の完成度が低いとみなすかどうかはまた別問題だ。完成度などそもそも最初から考えておらず、「途上」にあることを表現することこそ大事と思っているかのように見える。
 次に、フィリピンかインドネシアの作家だったか、レガスピの「粘液質」という組作品は恐ろしい悪夢を思わせる。ノート大ほどの素描を数百枚びっしりと床から天上近くまで隙間なく並べ、そのどれもが手足や首を切断したような、あるいはナイフで刺したり、棒で叩くなど暴力的な画題を描き、この作家の暗黒の脅迫観念が見える気がする。虐殺されたユダヤ人の肖像写真を同じようにたくさん並べた作品がボルタンスキーにあるが、その素描版を思えばだいたい想像がつくと思う。それら凄惨なイメージは、作家の住む国の下層社会の人々に特有のもので、同作がそれを告発しているのかと言えばそうとも思えない。作家の思惑がどこにあるのかわからないが、描かずにはおれない何かがあるのだろう。だが、そういう暴力的なイメージの氾濫は、たとえばフリーダ・カーロには見られたもので、それが直接の祖先ではないにしろ、現代絵画のひとつの祖としてのジャンルから発展して来た意識と言ってよい。それは「美意識」とは呼べないものの産物だが、美術が表現し得るものは、必ずしも「美」であるとは限らない。インドの作家でアディティ・シンだったと思うが、大きな紙に墨のごく小さな斑点のような筆のタッチで大空に飛翔する鳥を表現した数多い連作があった。1羽だけのものもあれば100羽以上を描くものまであり、ほんのちょっとした一筆が詩的なものを表現出来ると言いたいかの彼の素描は、アンリ・ミショーの仕事に連なるもので、今回の出品者はみな突然変異的に登場したように見えつつも、規範や原点と言える作家があることを再認識させる。また、以前何かの展覧会で見たが、坂上チユキの小さな、そして驚くべき細密に描かれた作品が数点展示されていた。それらはインドネシアアの染色であるバティック文様を思わせる文様画で、奈良美智のようなほとんど落書きと言ってよい作品とは正反対の位置にある。印刷では再現不可能なほどのその細い線の集合体の魅力は、いい意味での夢見がちな美しさを保つ一方、アール・ブリュットの芸術と同じ、狂気がほとばしっていて、人物でも動物でも植物でもない装飾文様にどこまで作者の想念を盛ることが出来るかという好見本になっている。一作家一点の図版を載せてくれているチラシを見ながらこれを書いているが、出品された作品数はかなり多く、チラシ図版の一点からでは他の作品がよく思い出せず、特質もわからない。
 そうした中で印象に特に強かったのは、一枚の紙に鉛筆で描くことを繰り返し、少しずつ形を動かしてアニメーションを作り上げた辻直之だ。2編あって、長いものが20分ほど、短いものはその半分程度だが、とても盛況で部屋に入るのを待たされた。どちらも起承転結のある物語ではなく、いつから見始め、いつ見終わってもいいものと言ってよい。裸の若い男女が主人公で、一部エロティックな表現を交えつつ、暴力的で残酷あるいは夢幻的な場面に彩られて、いかにも不安な現代性をよく表現していた。ワン・カットを1枚の同じ紙に描いては消し続けるので、次第に最初の白い紙は消した後が完全に消えずに、あたかも動きの残像のように灰色として残るが、これがまた通常のセル画によるアニメにはない面白い効果を生んでいた。つまり、完全な白と黒の対比ではなく、そこに手技の痕跡の証明としての灰色が大きく存在を主張するのだが、その中間色の曖昧さが一種の叙情性をかもす結果となり、ドローイングから派生した独特のアニメとして新しいジャンルをひとりで形成した感がある。描かれるおかっぱ頭の若い女性やそれと対になる男性は目が真っ黒で、その埴輪に似た表現はキム・ジュンウクの作品における悲しみに沈む少年少女とどこか通じながらも、もっと表情の発露を抑えた、そしてどこか切ないといったいかにも日本的なキャラクターとなっている点も面白い。長い方の作品は半分ほどしか見なかったが、愛知県立美術館の文字が最後に見えたところ、同館が後押ししたもので、同館ではいつでも見ることが可能なのであろうか。アニメであるので通常は1枚で済むドローイングを何千枚も描く必要があり、その勤勉さもまた日本的と言うべきか。同じくアニメ作品にアヴィシュ・ケブレザデの『裏庭』があったが、これは絵の一部を繰り返して動かすのみで、辻の作品に比べると実際に描いた枚数ははるかに少なくて済んでいる。その分面白味に欠けると言えるが、どこか牧歌的で懐かしい味わいは捨て難い。先に書いた飛翔する鳥の素描の作家にも映像作品があったが、空の雲の素早い動きを映すもので、付随していた音楽がヴィヴァルディの『四季』で、それがやけに印象に残った。アジアと中東はひとくくりには出来ず、日本の作家の漫画的表現と、それ以外のさまざまな表現とに大別出来る感があったが、日本が他のアジア諸国や、あるいは中東の作家にどのように感化を与えているのかいないのか、今後はどうなのか、この展覧会は5年に一度程度開催して変化を示し続けることが期待される。
by uuuzen | 2009-01-03 23:59 | ●展覧会SOON評SO ON
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