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●『くまのがっこう絵本原画展 ユリア・ヴォリ絵本原画展』
れ気味になっている長文の投稿だが、今週はうまい具合に年末と年始の3日間が収まるので、よせばいいのに、去年と同じように『おにおにっ記』を中断して7日間の長文特別編を書く。



●『くまのがっこう絵本原画展 ユリア・ヴォリ絵本原画展』_d0053294_10401268.jpg展覧会チケットの半券を数えると、去年とほぼ同じで72あった。5日に一度は展覧会を見た計算になるが、これは美術ファンとしてはごく普通であろう。そのうち3分の1程度はこのブログに感想を書いたが、残りはたまたま書く機会がなかっただけか、しいて書くほどの印象が残らなかったためだ。残り3分の2の中からいくつかを回顧して、今日から数日間書くことにする。まず、夏に見たふたつの絵本原画展だ。今日までだったが、同じ京都駅の伊勢丹の美術館ではエリック・カールの絵本原画展をやっていて、これは見る機会を逸した。家にはエリック・カールの絵本があるはずで、それをよく記憶しているので、見ておきたかったが、忙しさにかまけて足を向けられなかった。絵本原画展は作品を借りて来る経費が安上がりの割に若い女性や親子連れを多く動員出来ることもあって、百貨店の美術館ではよく開催される。今年は4月上旬に大阪の心斎橋そごうの百貨店でロバート・サブダ&マシュー・ラインハートの『POP-UP絵本ミュージアム』が開催され、今も日本各地を巡回中だが、この展覧会はあまり感心しなかった。ページを開くと立体的に中身が立ち上がる絵本で、それなりに複雑な思考と制作工程を経て作られるのはよくわかるが、同じひとつのアイデアではどれも同じ本に見えてしまう。またこうした絵本は一度開けば2度目の感動は半減し、飽きが来やすい。筆者は1冊5000円ほどしたと思うが、20年ほど前に、人間の体内を同じ手法で見せる解剖を解説した絵本を買ったことがある。通常の印刷本ではその数分の1の価格で済むところを、立体的に飛び出させて見せるというだけでそのような高価格になる。また、小さな子どもは飛び出し部分の糊づけ箇所を破損させてしまうことが往々にしてあるはずで、頑丈に作られるべき絵本という観点からは外れたものになる。だが、飛び出し絵本はひとつのジャンルとして定着しており、今後なくなることはない。さて、今回紹介するのは、1枚のチケットを二分印刷して、会期の異なるふたつの展覧会に適用したもので、夏休みでもあって、その期間を通じて2度百貨店を訪れてほしいという主催者の思惑がよく見える。チケットの無駄を省いた好ましい考えと言える一方、1枚のチケットにひとつだけ印刷するほどの内容でははなく、ふたつ見て通常のひとつの展覧会並みの感動という、いわば展覧会の安売り状態を感じさせて、最初からさほど期待感を抱かせない。とはいえ、チラシは通常のA4の用紙を両面印刷したものを2枚つないでA3のふたつ折りにし、しかも紙質はやや厚手であるので、印刷費をけちったわけでは全くない。
 昨日新聞屋が集金に来た。毎月置いて行く小冊子をふと見ると、その表紙が山吹色の地色にで、『くまのがっこう』のキャラクターである熊が並べて描かれている。それを見て、今日はこの展覧会を思い出し、書いておこうと思ったのだが、結論から先に言えば、日本を代表する大手の新聞社の毎月の無料冊子の表紙に今月から新たに採り上げられるほどの有名な絵本ではあるが、筆者は会場内に10分ほどいただけで、ほとんど何の興味も抱くことが出来なかった。作者はあだちゆみという美大出の若い女性で、自分の小さな子どもが幼稚園に通うところを見て、このキャラクターを思いついたようだ。だが、物語の方はあいはらひろゆきという文学部卒の男性が担当しており、絵本は両者の合作だ。『くまのがっこう』は低年齢向きで、無害と言えばいいが、それが過ぎて、感興を覚えさせず、無害の奥に無感動の世界が広がっているように感じさせる。それは大人の思い過ぎと言われそうだが、結局は描き手の実力がまだないか、あるいは人生の深みといったことをまだ経験していないか、あるいは経験していたとしても、それをいい意味で絵に反映することが出来ない作者なのだろう。それに妙にサンリオに通ずるような商業主義が目立ち、わざわざ美術館と称する場所で原画を見るべきものではない。日本は今キャラクター・ブームで、誰でも簡単にひとつやふたつは作り上げることが出来る。筆者の『おにおにっ記』に登場する「黒」という漢字を立体化した「マニマン」もそうした類だ。キャラクターを作れば人に覚えてもらいやすいし、その親しみやすさから、人柄までも優しいと思われがちだが、筆者がよく書くように、キャラクターは単純化した表情のあまり、信号や記号と同じで、ある表情の裏に含みを持たせることが出来ない。つまり、能面と同じで、であるからこそ日本ではキャラクターが大流行しているのだ。その無表情、あるいはいくつかの紋きり型になりかねないキャラクターの単純な表情に人間らしい深みの含みを持たせるにはどうしても文章の助けが必要だ。また、そうしたキャラクターを通じて受け手が心に深く染み入らせることは、受け手が勝手に想像力を働かせるからであって、キャラクターそのものはどこまでも単なる無表情や紋きり型の記号に過ぎない。そして、たとえば「喜怒哀楽」をそれぞれ示すあるキャラクターのいくつかの表情があるとして、それらの記号性は、人間の月並みな「喜怒哀楽」の表情の特徴からおおまかに抽出して典型を見出してなぞらえたものであるから、キャラクターのそうしたある表情を見る人は、容易かつ勝手に意識内部においてその記号が託される本来の意味を全くほかのものに変換することが出来る。たとえば、「喜」という表情が人間には確かにあって、それをあるキャラクターで表現することは可能だが、一対一の対応として充足する完璧性でははない。キャラクターは必ず単純化したもので、そこには抽象化を通じた無理が存在する。そのため、その隙を突けば、「喜」の表情の中に「哀」を見ることも出来るし、「怒」を見てもよい。
 そして筆者が思うのは、たとえばキティちゃんでも何でもいいが、ただただカワイイと一般に認知されているキャラクターが、全く別の恐怖の思想を持った不気味な存在に思える瞬間があることだ。このことは以前にも何度か書いたが、70年代に流行したスマイル・マークを見て、そこにスマイルではなく、表向き微笑んでいるが、むしろ嘲笑しているように思ったことがある。一旦そのように感じてしまうとなかなかその思いから逃れられない。トラウマと言えばおおげさだが、相手がいつ見ても同じ単純なスマイル記号であるために、一旦読み変えた思いは容易に他に置き変えられないのだ。ここにはイメージ商法が深く考えて行動する大きな論点が隠れているだろう。単純化した視覚性ほど人の内部に容易に浸透するが、一方でそれはどう表面を飾っても血も涙もないただの模様に過ぎず、そしてそういうものをこれでもかと量産し続ける作家や社会がある日急に全く信頼の置けない存在に思えて来る。それは筆者の心が病んでいるからだと言う人もあろうが、筆者が怖いのは、そうした意見を本気で言う人こそが、すでに人間的表情を失って、マンガのキャラクターと同じように、つまり赤青黄の信号のように単純に物事を捉えることしか出来ず、また、おそらく顔の表情もそうであるだろうと思う。確かに複雑な人間の精神も基本的にはいくつかの単純な感情から成立しているとは言えるが、風格ある人の表情とは、おそらく記号化出来ないからこそ人からそう見られるのであって、人間の表情が単純な記号に収斂してしまえるものしかないのであれば、それはただの血が通わないロボットだ。筆者は別にキャラクター・ブームに警告を発しようと言うのではない。キャラクターにもいろいろあるからだ。だが、今思い出したが、最近TVで村上隆が自分のキャラクターの着ぐるみを注文して、それを身につけながら、それを着て歩けばきっと子どもたちは喜ぶとか言っていたが、ちょっとばかし子どもを侮ってやしませんかと思えた。子どもは言葉で表現出来ない分、視覚は敏感で、ある対象がどのようなものかは即座に値踏みする。キャラクターで言えば、大人以上にいいものとそうでないものとを見分ける。そして村上の作るキャラクターはさっぱり面白くない。何を意図しているのか知らないが、笑顔の花マークなど、一見微笑ましく見えるキャラクターが、その裏に不気味さを宿しているように筆者には見えて仕方がない。村上のふてぶてしい面がまえを見ているとなおさらそのように思えてしまうが、実際のところはどうなのだろう。筆者はいつかこのキャラクター論をもっと深めたいと考えている。話を戻して、『くまのがっこう』は、一方でテディ・ベアの根強いブームに便乗した感があって、新鮮味はない。筆者が見に行った時は、会場にはほかに2、3人いただけで、そのあまりのガラ空きぶりに、やはりと思った。動きのない縫いぐるみを手本に描いたようなそれらの小さな熊たちは、どれも静物のように見え、形も味わいもきわめて単調だ。着色はていねいになされ、色合いもパステル調に地味目を加味して、決して大声で叫ぶものではなく、上品きわまる世界と言ってよいが、その素人臭いところがかえって歓迎されるのであろう。また、パソコンを駆使して背景を変えるなど、手技とパソコンの混合技法を旨とするが、そこは別に否定はしないとしても、手垢のようなものを全く感じさせず、つまり体臭に欠けるため、それが無味につながって、人間味も温かみも伝えない。だが、このキャラクターは企業のバックがついてさまざまに商品化されるなど、今は海外にまでかなり売れているが、筆者が面白いと思うとすれば、このキャラクターの一種古めかしい硬直性が今の日本を端的に表現しているかもしれないことだ。そして、その思いはユリア・ヴォリ展をその後見ることでさらに強くした。
 チケットのわずかなイラストからも即座にわかるように、このフィンランドの女性作家の作るキャラクターの豚はとても人間臭く、ふてぶてしい表情がよい。デッサンの基礎がしっかりしてキャラクターをどの角度からも描ける貫禄を見せ、しかも表情も豊富、色合いも全体に独特で、いかにも北欧の温かみを伝える。チケットには写らないが、この豚の隣には黒と白の縞模様の顔をしたアライグマがいる。その顔がまたとびっきり変わっていてよく、豚と対になった時の色彩の対比が見事だ。全く平凡な「くまのがっこう」のくまとは大違いで、画家の能力の差は歴然としている。会場は多くの人が詰めかけていたが、TV画面で作家のアトリエが紹介され、インタヴュー映像が流れていた。ユリアはアメリカの女優ジョディ・フォスターをふっくらさせた感じの美人で、その人柄と作り出すキャラクターは見事に調和しているように思える。ヘルシンキのアトリエの外観が少し映ったが、そこでまず驚いたのは、あまりにきれいに清掃され、その町のごく一角がまるで絵本に登場する町並みか模型に見えたことだ。そのような一種消毒されたような清潔きわまる町の中にユリアは住み、絵を描いているが、整理整頓の苦手な筆者からすれば、まるで異なった星の住人に思える。そして穿った見方をすれば、あのような清潔な町に住んでいて、精神の内部にどのような情念が渦巻くのか、妙なところに関心が行った。ユリアはそうした人間的なあらゆる熱の情をすべてイラストに投入しているかと言えば、やはりそれは違うだろう。純粋な画家ではなく、あくまでも印刷を前提にしたグラフィック・デザイナーと言ってよく、絵と本人は完全密着していないと思う。その点では「くまのがっこう」と同じだが、明確な差を感じるのは、ユリアが積極的に人間臭さを絵に持ち込もうとしていることだ。つまり、そこで合点が行く。消毒されたような町に住むからこそ、それをある意味で汚すという行動だ。その汚し方が豚やアライグマの表情や行動に出ている。ユリアはムーミンに多大な影響を受けたそうで、それはごく当然のことだが、そうしたよき先人がいたことも彼女には効果的に働いた。ユリアの豚はある意味ではムーミンによく似ている。また、ユリアは茸が大好きで、その不思議な生命体を動物のように扱って動かすが、変わった形態に対する嗜好は絵本の世界を深みのあるものにする。ユリアは独特の技法も見出し、それを自作の個性とすることに見事に成功したが、そこにも「くまのがっこう」にはない独創が見られる。そしてその独創はコンピュータを使ったものではなく、手作業を基本としたものである点で、やはり温かい。ユリアのイラストの大きな独創的特徴は、「くまのがっこう」とは違って、チケットのイラストからでもわかるように、動物やその他、形が黒の輪郭で囲まれていることだ。この線によって自己主張の度合いが増え、絵が力強くなっている。これは鉛筆でうすく下描きをしたところに絵具で着色し、消えた鉛筆線をインクで描き起こすという方法によるものではない。印刷からでは決してわからないが、この黒い輪郭線だけは、透明フィルムに載ったもので、それを絵具で描いたイラストの用紙の上に重ねているのだ。透明フィルムにどのようにして黒線を描くかと言えば、実はこれはゼロックスでコピーしたもので、トナー・インクなのだ。フィルムにトナーが載ることを初めて知ったが、その黒い輪郭線があることによって絵はかなり力強く印象深いものになる。また、すべての絵がその技法によるものではなく、黒い輪郭線を極力うすく細くする場合もある。そのほか絵本としてひとつの色枠でページ全体を囲むフォーマットを作るなど、個性を強く出そうと別段意識したわけではないのに、ユリアの特徴が大きく出ているのがよい。ユリアは最初から絵本作家になるつもりはなかったらしい。友人が悲しんでいる時、それを慰めるつもりで作った絵本が評判となったのだ。子どもの頃から絵を描くのが大好きで、絵本作家はなるべくしてなった職業だが、そこには一発当ててやろうといった野心は当初なかったようだ。それが絵本のほのぼのと温かい、そして存在感のあるキャラクターたちの世界に反映している。日本ではおそらく「くまのがっこう」を好む人がはるかに多いはずだが、ユリア・ヴォリは国際的な機関のポスターを手がけるなど、ヨーロッパを中心に今後ますます人気を博するに違いない。日本の誰だったか、物語を書いてもらって、それにユリアが絵をつけるという絵本『イエコさん』も発売されていて、日本とは縁が深いようだ。今度来日して京都に来ることがあればぜひサイン会に行きたい。
by uuuzen | 2008-12-28 10:40 | ●展覧会SOON評SO ON
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