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●平安画廊の中島さん
安画廊のオーナーの中島さんが亡くなったことを遅まきながら昨日知った。そう言えば中島さんはこの1年ほどはめっきり体が弱っていたように見えた。帰宅して早速ネットで調べると、京都新聞に訃報が出たようだ。



筆者は京都新聞を読まない。それで3週間遅れで知った。ネットには数人がそのことについて書いている。筆者も末席を汚すことになるが、そしてまとまりのない文章になるが、ここで感謝の念から書いておこう。昨夜は寝つけなかった。中島さんのことや平安画廊での思い出をずっと考えていたからだ。こんなことは1年に一度もないが、早朝4時頃に妙な音がするので目覚めた。真っ暗な中、庭の方角から静かに連続音が聞こえる。それが何か最初はわからなかった。どこかの電気器具の電子音かと思ったがそうではなく、少しずつだが、次第に大きくなり、秋虫の合唱であることがわかった。昼間は猛暑でも、もう秋虫が鳴き始めているのだ。秋虫だとわかったからか、あるいは夜明けが近づいたからか、その音はもっと大きくなり、やがて蝉の声がそれに混じり始めた。烏も遠くで鳴き、おまけに近所の犬まで吠えている。それでまた眠りに入った。今朝の新聞を見ると、「生涯シングルの不安」いう特集の雑誌広告が目に入った。中島さんは生涯シングルだった。住まいは上賀茂だ。その辺りは立派な家が多く、おそらく中島さんも経済的には大きく困窮することはなかったので、決して儲かることのない版画専門の画廊を長く経営することが出来た。画廊の奥正面の焦茶色のソファは、コの字形にテーブルを囲み、中島さんは毎晩8時までその中央正面奥に出入口に向かって陣取った。中島さんがいない時はそこに誰でも座ることが出来たが、筆者は一度もその特別の場所には座ったことがない。寺町通りに面した平安画廊に入ろうとすると、真先に部屋奥の中島さんが見えたので、気の弱い人はなかなか入る勇気が出なかったろうし、入ってもソファの奥の壁に飾られる絵のところまで行かなかったのではあるまいか。中島さんは自分の領土に住む王様といった感じの威厳があった。だが、中島さんと画廊の外でたまたま出会って話すと、印象は随分と違った。筆者はそういう機会が数度あるが、とても腰が低くて、小柄でしとやかでかわいげのある感じがして、画廊で見るのと大きなギャップがあることに驚いた。だが、実はそうではなく、画廊においても話をし始めると、いつも気さくになって、くつろげるのであった。そのようにして筆者は画廊の馴染み客になって久しかった。中島さんの美術家の知り合いがどれほど広大なものであったかは筆者は実情を知らない。だが、お茶を勧められ、個展開催中の作家と同席しようものなら、常に紹介してくれて、作家と話を交わすことが出来た。また、作家がいない時は中島さんと話が弾んだ。そのようにしてここ20年ほど、筆者は河原町に出ることがひとつの楽しみであった。
ここ1、2年ほどは筆者は忙しくしていることもあって、2、3か月に一度くらいしか足を運ぶことがなかった。5月中旬に門坂流さんの銅版画とペン画の個展があった。久しぶりに話をしたいと思い、2週間の会期のうち最初の週の半ば、確か門坂さんが東京に帰る前日に出かけた。その時、ソファにいつものように中島さんが席を占めていたが、その両隣は数人の年配の作家が陣取り、大いに話がはずんでいた。そのため、門坂さんの作品だけ見て帰ろうとしたところ、いつものように真下さんが素早くお茶をいれてくれたこともあって、ソファ手前の木の切り株で作った椅子に着いた。真下さんは以前の友成さんの後継者で、中島さんの雇用人だ。平安画廊ではもう4年ほどの勤務であろうか。友成さん時代はかなり長く続き、筆者が毎週のように平安画廊に通った時期と合致している。門坂さんとは前の個展で会ったのが初対面だが、筆者をすぐにわかってくれたようで、切り株テーブルで話をすることが出来た。客が多い時はなかなか中島さんとは話は出来ないが、どうせ顔馴染みであるし、いつでも訪れることが出来ることもあって、全く気にしない。だが、その時に中島さんを見たのが最後になった。昨日家内と一緒に河原町に出かけたので、画廊近くのスーパーで家内が買物をしている間に、筆者は平安画廊に足を運んだ。その前と言えば、先月24日の金曜日に高原威さんの個展を訪れた。それは門坂さんの個展以来3週間ほどのことで、しかもその日は平安画廊が1週間のうち一番客が少ないと言われる木曜日でもあったからだ。だが、画廊内は高原さん関係の人がとても多く、中島さんも真下さんの姿もない。何となく胸騒ぎを覚えながら、作品をそそくさと見て引き上げた。そして昨日だ。京都銅版画協会のミニアチュール展が開催中であったが、不思議なことに、毎回送ってくれる案内はがきを真下さんは送ってくれなかった。画廊には6、7人の作家が話をしていた。客は筆者だけなので、いやでも話の内容が耳に入る。すると、誰かが、今後この画廊をどう運営するかなどと言うのが聞こえた。どうも様子が変で、そのうち中島さんがもうこの世にいないことが話からわかったので、筆者は誰にというのでもなく質問をした。「中島さんはどうかされたのですか」。女性が答えた。「亡くなられたのです。13日に」。茫然とした筆者はふらふらと画廊を跡にして家内が買物をするスーパーに向かった。そしてそのことを家内に伝えて家路に着いたが、電車の中で家内が何度も筆者がしょんぼりしていると言う。そして、家に着いて筆者を見ながら、家内はびっくりした顔で筆者の髪を触りながら、「えっ! こんなに髪の毛が白かったかな。何だかいっぺんに白くなったみたい。」とも言った。実際そうかもしれない。
 先月13日と言えば祇園祭りの直前だ。筆者はその日、家内と映画を見た。中島さんは深夜3時過ぎに世を去ったが、翌日は月曜日で画廊は休み、しかも8月は今日あたりから月末まで毎年夏期休暇になるから、そのこともあって昨日は画廊をどう運営するかの話が交わされていたのだ。平安画廊は中島さんという存在があってこそ赤字覚悟で運営出来ていることは誰の目にもわかった。平安画廊は版画ブームの先駆けを作ったが、本来画廊に足を運ぶ人はさほど多くなく、また作品を買う人はもっと少ない。そのため、利幅の少ない版画を専門にするのでは、なおさら盛んに売らなければ画廊は経営的に成り立たない。そこで賃貸しをするところが多いが、平安画廊はめぼしい作家を発掘しての企画展が中心で、その点からも収入はなかった。中島さんは儲けることをもはや考えていなかった。儲からないことを早々と知っていたのだ。であるから、平安画廊が誰かが引き継いで運営するとなると、今までのような状態では困難であろう。だが、誰が中島さんの名前を汚さないように、また自腹を切るといったことをせずに運営出来るだろうか。平安画廊は生涯シングルとして生きた中島さんの人生そのものであった。せち辛さはいつの世でも同じだ。儲からないことはどんどん切り捨てられるどころか、経営努力が足りないと軽蔑もされる。だが、文化とは儲からないものだ。だが、そんな文化をオアシスのように求める少数の人々がいる。そういう人々に居場所は必要であって、それを中島さんは大きな懐で支え続けた。平安画廊の真向かいは今は靴屋だが、以前はお菓子屋で、その以前はお土産屋だった。とにかく次から次へと繁華な寺町も店が変わる。そのことについて中島さんと話をしたこともある。毎日のように京都市中は店が壊され、新しい店が出来ると。そんな中、平安画廊は出来てから約40年、概観も内部もまるで選挙事務所のように殺風景であったが、それが訪れる者に安心感を与えていた。東京の洒落た画廊から見れば、地方色、時代色もいいところだが、その分版画は安く売ることが出来た。また、問題は中身であって、中島さんという人格と企画展の内容で他の画廊にはない風格を保った。平安画廊が扱った作家たちは別の画廊で個展を開催するであろうから、何事もなかったかのようにまた時代は進むだろうが、中島さんをよく知る者からすれば、確実にひとつの時代が終わった。さびしいことこのうえない。今後筆者はよりいっそう河原町に出なくなるかもしれない。心残りなのは、筆者が何年もかかって今書いている本が間に合わなかったことだ。今までに何度となく、「本が出たら買わしてもらいます」と言われた。特にこの1、2年、平安画廊にあまり行かなかったのも、その仕事で忙しくしていたからでもあった。ぐずぐずしている間についに間に合わなかった。それにしても、真下さんは職を失った形で、今どうしているのだろう。
 筆者が平安画廊を知ったのは確か市民アトリエで銅版画を学び始めるより以前であったから20代半ばのことだ。平安画廊が同じ場所、同じ建物で営業を始めたのは1969年で、今年で39年目だ。2階は本などの資料もたくさん置いてあったようだが、残念ながら2階を見せてもらう機会を逸した。市民アトリエで銅版画を学んだ時に知り合った女性がいて、今も年賀状が届くが、後に彼女の父親は仲よくなり、家に何度かお邪魔したことがある。その時、応接間に飾られていたのがヨルク・シュマイサーのごく初期の銅版画だ。それに目を留めた筆者は父親に質問すると、シュマイサーという名前を教えてもらえた。それがシュマイサー作品との初めての出会いだ。一旦そのように知ると情報はよく入って来る。出会いとはそのようなものだ。同じ時期から京都ドイツ文化センターにも足しげく通ったが、同センターでシュマイサーの展覧会があったり、また平安画廊でも開催されるなど、シュマイサーの新作を身近で鑑賞出来る機会が増えた。1980年代の初頭から半ば頃にかけてのことだ。そのうちシュマイサーの作品がほしくなったが、何しろ筆者の情けないほどの収入からすれば、それは月収かそれ以上に匹敵し、とても手が出るものではなかった。だが、筆者はほしいものには後先をあまり考えずに購入する。そしてまたシュマイサーの個展が平安画廊であった時、思い切って一番大きな作品を買った。それは今も毎日眺めているが、シュマイサー作品を若宮テイ子さんにも紹介し、彼女はぼくと同じものを持っていたいと言って同じ作品を買った。そのほか筆者は妹やその知り合いなど、金のある家にシュマイサーの作品を買わせた。一番よく買ったのは筆者自身で、そのことにいつては以前に書いた。シュマイサーの作品を買ったからかどうか、1989年以降、中島さんとはソファに座ってよく話をするようになった。下の写真は作品を初めて買った1989年春で、毛沢東の帽子を被る息子は4歳になったばかりの頃だ。画廊に通い始めてから7、8年は経っていた。通うと言っても企画展ごとにではなかったが、河原町にはよく中古レコードを探すために出かけていたので、そのついでに立ち寄ったのだ。京都のある界隈には画廊は少なくない。出来てはなくなりしているところも多く、画廊経営が大変なことはよくわかる。ましてや賃貸ししないとなればなおさらで、平安画廊で個展をする版画家は一流とみなされた。グループ展もたまにあるが、そうした人々の一種の聖地になっていた。そういう場所が交通の便利を繁華街にあることが嬉しかった。これが山辺近くの大学の近辺となると、なかなか足が向かない。個展するのはどこでも同じように見えて、実際はそうではない。厳然と画廊の格というものがある。それは画廊の経営者がどれほど人脈を持っているかだ。個展というものは、ほとんど案内はがきを出した者しか訪れない。銀座のど真ん中の人通りの多い場所で個展しても、有名でなければほとんど誰も入って来ない。そのため、顧客を持っている画廊で個展するのが名を広めるにも作品を売るにもよい。だが、百貨店の画廊であっても、個展をする人が個人的に顧客を持っていて、確実に百貨店が想定する金額の売り上げがないことにはと企画展を開催してもらえない時代になっている。そんな中、平安画廊は希有な存在であった。美術好きな中島さんであったからこそで、商売本位で考える人では数年も持たなかった。
●平安画廊の中島さん_d0053294_13425899.jpg

 中島さんにこう言われたことがある。「こうしてここに座って、大山さんのような人に来てもらってあれこれ話をさしてもらえるのは幸せなこっちゃ」。だが、それを言えば筆者の方だ。筆者は中島さんより20ほど年齢が下だが、筆者が中島さんと話をするようになったのは、中島さんがちょうど筆者の今の年齢の頃だった。この20年は全くまたたく間に過ぎ去った。そう思うと、筆者はもう20年は生きることが出来るとしても、それは一瞬のことだ。筆者が中島さんと交わした会話はあまりにも多いのでとてもここに書き切れないが、京都の美術家たちを非常に多く知る中島さんのその記憶の末端に、どこにも属さず、また版画ともさして関係のない筆者を加えていただいた優しさと幸運を今さらに思う。そうそう、思い出した。現在京都国立近代美術館では下村良之介の回顧展を開催中だが、晩年の下村良之介は平安画廊で何度か個展をした。相撲を題材にした銅版画で、その頃すでに筆者は中島さんとは話をしていたが、さすが中島さんの隣に下村良之介やその奥さんたちが座っている様子は、空気がぴんと張り詰めて違っていた。何度も下村の姿を画廊では見かけたが、特に奥さんの表情をよく記憶していて今でも思い出す。芸術家の奥さんとはこういう顔をしているものかと思えるほど近寄りがたい威厳があった。厳しいと言うのでは当たらない。とにかく人の内心をすぐに見透かすような鋭敏さがあった。そして下村が亡くなって数年後、中島さんとの話でこんなことを耳にした。「下村先生がこの画廊のガラス扉の前に立って中に入って来ようとする瞬間に、もうこっちはぴぴっと神経が高ぶったもんや。とにかく風格があった。今までいろんな作家と出会って来たけど、最近は下村先生のように気迫を感じさせる者はもうおらへんようになった。」。筆者はこの言葉を今もよく反芻する。確かに下村良之介のように眼光鋭い芸術家はいなくなったであろうが、それは中島さん自身が年ごとに風格を増し、若い芸術家の才能や人柄を見透かすことが出来るようになったからだ。人間の風格は身につけようと思ってつくものでは全くない。それは図らずも滲み出るものだ。偉そうにぶると、どこかの知事のように厭味でどうしようもない下品な人格を晒す。いかにも軽い、吹けば飛ぶような貧相な筆者は、初対面でもよく人から侮られたり、何年かの知り合いであっても軽んじられることが多いが、それはそれだけ筆者が風格とは無縁で、その意味で先の中島さんの言葉はなおさら胸にこたえるが、平安画廊で門坂さんと初めて会った時、「ただならぬ気配を持った人が入って来たなと思いました」と言ってくれた。いかにも軽い筆者が門坂さんにそのように見えたのだとすれば、筆者も50半ばの年齢になって、それなりにおっさん臭い風格らしきものが身について来たのかもしれない。こんなことを言うのは湿っぽいが、筆者が死んだ時、あの世で中島さんが相変わらず経営している画廊に毎週のようにふらりと出かけてまた楽しく話をしたい。それまでにもう少しましな仕事をしておきたいものだ。
●平安画廊の中島さん_d0053294_14121050.jpg

by uuuzen | 2008-08-04 13:45 | ●新・嵐山だより
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