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●『エミリー・ウングワレー展』
の上手下手について意識するようになったのは小学5、6年生からだった。それより前、母はよく手紙を書いていて、その封筒の筆跡を見ながら、自分の年齢のはるか先、というよりも、別世界の大人が書いたものに見えた。



●『エミリー・ウングワレー展』_d0053294_23284343.jpgつまり、そんな手慣れた大人の字とどんなに頑張っても書けるはずがないし、いったいどうすればそんなような大人の字を書けるかすらも考えなかった。はっきり覚えているが、大人の筆跡を意識しつつ、それと同じように書きたいと思ったのは、小学5か6年生の時、確か年賀状をいただいて、担任の先生の字が急に理想的なものに見えたからだ。人に手紙やはがきを出す時は、このようなきれいな字を書く必要があると意識したのだ。その頃から先生の文字を真似し、やがて同じようにどうにか整った形の筆跡というものを習得した。筆者は書道は小学1年生の時からずっとクラスで1、2の成績で、字が上手という定評はあった。だが、それは手本を見て書く毛筆の字や硬筆、ペン字であって、個性というものがまだなかった。それは当然だろう。10代前半の子どもに書道家のような個性と呼べるものがあるはずはない。学校でほめられるような単に美しい字よりも、個性を持った、自分の筆跡とすぐにわかって、しかも美しいと自他ともに認める筆跡を獲得したいと考え始めたのは、自意識が芽生えたからだ。それから大人になって、40歳頃のことか、母が保管してあった小学2、3年生頃の筆者のテストの文字を見た。数字ではない、平仮名だ。それがどう見ても自分の筆跡に思えなかった。くねくねとして、変な個性がある。正直言って、いやな字だ。弱々しいだけではなく、粘着性がどこかにある。それは自分の今を見るとわからないではないが、その筆跡を見てかなりうろたえ、見たくないものを見たという気がした。こんなに下手だったかという思いよりも、こういう筆跡をしていた筆者は当時どんな性格をしていたのかと考え、そして即座に当時のことをいろいろと思い出した。人生の将来に不安を抱き、何となくうじうじしていたのだが、それが字のどこかに表われている気がする一方、妙な粘着性からは、そうしたことにへこたれないぞといった粘り強さも漂う。つまり、まさに当時の自分そのもので、いい悪い、あるいはいやか好きかは別にして、個性と思えるものがあるのだ。その個性をおそらく当時の筆者はよく知っていて、もう一段高い、つまりもっと大人びた、そして美しい筆跡を獲得したいと考え始め、その突破口が、担任の先生からの年賀状の筆跡があったのだ。
 筆者はここ数年はまるでそういうことはなくなったが、筆豆で、毎日のように手紙やはがきを書いた。そのため、縦書きでも横書きでも、自分の筆跡と言えるものが出来た。上手か下手からわからないが、自分なりに納得出来る文字を書くことが出来て、そこそこ満足出来るようになった。字の上手さは切りがないから、年齢に応じて上達あるいは味のあるようなものになるだろうが、そのことで考えるのが、字を上手に書きたいなどと思わなかった頃、つまり小学3年頃以前の筆跡だ。筆者は今その字を見ると、とてもいやな気はする一方、「ちょっと待てよ」とも思う。人から見ても美しくありたいと自意識を抱くようになってからの字は、自分の本当の個性をどこかで見捨てたことではないか。美しくありたいと思ったのは、先生の字を改めてしげしげと見たからだが、それは手本を模倣することの始まりで、その後確かに誰が見てもそこそこ美しい筆跡にはなったのだろうが、美しくありたいと思うその美意識が、筆跡を根本から面白いものにしていないのではないかと疑ってみる。書道家の字は全部つまらないと言ったのは一茶だったか、その意味はよくわかる。だが、基本を踏まえなければ、本当の個性と呼べるものを獲得出来ないのも事実だ。だが、中国の書の歴史は何千年もあって、それらを全部習得するなど不可能なことで、おわけに日本では平仮名もある。基本を習得せよと言ったところで、それは最初から限度がある。結局そうした道はへたすると習得の最中だけで人生が終わる。その意味で書道家の字は面白くないと言ったのだろう。だが、先日TVで見ていると、小太りの若い青年書道家が出ていて、大きなほうきのような筆で「愛」の一字を床に敷いた大きな紙に蛍光塗料で書いていた。その文字の醜悪さにまず驚き、そうした字で飯を食って行けることのアホらしさ、TVの無責任さを思ったが、ああいう青年は中国の古典となっている名筆の臨書もろくにしなければ、また形というものがデザイン的にしてもどう美しいかという審美眼もないのだが、ただのパフォーマーとして、TV界では必要なのだろう。だが、ああいう青年が登場しそれなりに有名人になれるところに、書というものに対してまだ、いやむしろ、今の日本は大きなコンプレックスがあるのかもしれない。書で思い出すのは、これは前にも書いたことがあるが、北大路魯山人で、その魯山人が褒めた字として、大本教の王仁三郎の奥さんのすみこの平仮名がある。『あれば習った字ではなく、少しも気取ったところがなく、まさに天衣無縫! まったく驚いた。ああいう天才は現代にはもちろん一人もなく、三千年の歴史にも、ちょっと見当たらない。…』といったように魯山人は書くが、この言葉をそのまま今日取り上げるアボリジニの画家であるウングワレーの絵に対して使用したいと思う。2月にサントリー・ミュージアムで見たアトリエ・インカーヴ展を思い出させたり、また近年言葉として定着したアール・ブリュットの芸術に近いとも言えるが、ウングワレーの絵には偏執的な空気は全くなく、もっと土着のどっしりした包容力がある。それは女性ゆえの特性もかなり影響しているかもしれない。ウングワレーという女性の中から自然と紡ぎ出された絵画は、それこそ天衣無縫で、いやらしさが絶無だ。気取ったところや、人に美しく見せよう、あるいは驚かせてやろうといったところがない。
 思えば筆者も10歳頃はそういう字や絵をきっと書いていた。だが、すぐに大人びて、常識的な道に歩み込んだのかもしれない。そのことによって、いわゆる巧みな何かを手には入れたが、一方で天衣無縫たることをすっかり忘れたかもしれない。それはもう取り返しがつかない。何事も人よりうまくやってやろうという一種競争意識がなければ腕は上達しないが、芸術においてそれはどうか。芸術はスポーツではないし、マジックでもない。芸術で人を感動させるということは、そのような腕を磨くことで達せられるものではない。そこが芸術の恐く、また深遠なところだが、これを最初からわからない人があまりに多い。ウングワレーの絵を見て、西洋の名画と呼ばれるものを見慣れた人は、まず否定するか、あるいは無視することが大半ではないだろうか。そこには人間が積み上げて来た芸術文化の遺産といったものが見えない、つまり野蛮人が好き勝手に描いたものという見方をする人は少なくないだろう。西洋絵画の歴史に照らせば、そのどこにも属さないような、論理を展開させないような、比較のしようがないようなところを見て戸惑うからだ。あるいは西洋絵画に詳しい人は、先に書いたように、アール・ブリュットの芸術の範疇に押し込めて納得するだろう。それとも、ミニマル芸術に知識のある人は、ウングワレーがそうした画集をどこかで見たことがあるのではないかと疑うだろう。あるいは、そうした西洋絵画の何かに見た部分を認めることで安心し、そして驚いた心を落ち着かせ、その次にはもう彼女の絵を忘れているだろう。いやいや、筆者も偉そうなことは言えない。ウングワレーの絵に戸惑い、これをどう評価していいのか、会場でも、そして今でも考え続けているのだが、そこで思い出したのが、最初に書いた筆者の10歳頃の文字だったのだ。筆者は先生かの年賀状をもらわなければ、自分の字を意識することなく、その少年の変な文字をそのまま発展させて、現在の筆者の筆跡以上の味のある字を書いたかどうかはわからない。おそらくそうはならなかった。日本とアボリジニの住む場所とは違う。そのため、日本ではウングワレーのような才能は生まれないし、生まれても育たない、育っても誰も認めない。であるからこそ、大本教のすみこの文字が生まれたのは希有なことであったし、それを賛美した魯山人もまた今では生まれ得ない才能と言える。確かにウングワレーの絵と同じようなものを描くのは簡単で、誰でもすぐに出来るだろう。だが、そうして描いたものがウングワレーとは全く違っていやらしいものになることは目に見えている。そこに芸術の不思議がある。絵はうまく描こうという技術ではないのだ。そう思う瞬間からすり落ちて行き、反対にいやらしさが入り込んで来る場合が往々にしてある。
 だが、そのような精神論を否定する向きがきっとある。たとえばウングワレーと同じように描いた絵を会場に紛れ込ませれば、それを見破れないことはきっとあると思える。真贋がわからなければ、それはウングワレーの絵に独創性がないということになる。その話をここで展開するつもりはない。こうした展覧会では、ウングワレーがアボリジニで、砂漠のようなところで生涯を送り、そして与えられたキャンバスや絵具でせっせと思うまま描いたという事実を会場でいやでも知ることになる。それを前提として絵を見るからこそ、そこには雄大なもの、アボリジニの記憶なるものが全部伝わっていると思い込むことになるが、そうした見方が一概に悪いとは言えない。最初の情報の擦り込みによって鑑賞眼が支配されるのは好ましくはないが、それでも見てつまらないと思えるものはつまらないのであって、アボリジニであろうがアフリカ人であろうが、あるいはアメリカ人、日本人、誰でもいいが、絵そのものから伝わる迫力がなければそれで話はおしまいで、ましてやアボリジニであることが日本において肯定的、贔屓目に見られる保証にはならず、むしろその反対だろう。だが、チラシにあるように、『エミリーの作品は過去10年余りの間に100を越える展覧会に出品され、世界のコレクションに納められています。また、ヴェネツィア・ビエンナーレのオーストラリア館で特別出品されたほか、1998年にはオーストラリア国内の主要な美術館を巡回する大規模な個展が開催されています。』といったことを読むと、ウングワレーの絵を否定すれば、自分の絵に対する無知が証明されると思うから、あまりそういう情報を先に受け止めずに見る方がよい。もちろん筆者はそうしたが、それでもわざわざ国立の美術館で開催する大きな展覧会であるからには、それだけのものを持って来ているという自覚は最初からあるから、擦り込みが行なわれた状態で見たことになる。それにしても、大作力作が多く、変に手抜きして洒落てみましたといった作品がないことに驚いた。そのように書けば、アール・ブリュットの芸術を連想する人が多いかもしれないが、緻密に画面の隅々まで描いてはいても、鬱積感がない。これは本人が楽しんで描いたからだ。そうでなければあれだけの大画面に大量の時間を費やすことはとても出来ない。図録を買わず、またメモもほとんど取らなかったので、ウングワレーが生涯に何点描いたかと忘れたが、8、9年の間に確か1500点ほどではなかったか。最初に描いたのは、1988年から翌年の作とされるキャンバス画で、これは88年末に100枚の小さなキャンバスがウングワレーの住む地区に絵画プロジェクトとして持ち込まれ、数週間の後、完成した81点中の1点であったが、この1点によって作品の人気と需要が高まり始めた。絵具は当然使用に便利なアクリル性だ。今回展示された縦160センチ、横275センチのパネルが4枚つながった「大地の創造」と題する超大作は、2007年にオーストラリア女性としては初めて100万ドルを越える金額で落札されたという。だが、ウングワレーはすでに1996年に亡くなっており、絵が供給されないこともあっての高値で、ウングワレーにすればそんな大金は無縁ではなかったか。
 会場はまず最初に最期のシリーズから始まり、逆に年代を遡るように展示された。これは筆者には不満であった。なぜその反対にしなかったのだろう。会場の入口でもらった作品目録は、初期から晩期といった順序で題名が紹介されているのに、何かの手違いであったのだろうか。最後の、つまりウングワレー最初期の作品の部屋に入って初めて知ったが、ウングワレーはキャンバスに描く以前は、ローケツ染で広幅の布を染めていた。そうした作品も何点か展示されていたが、それを見てウングワレーの作風が理解出来た。ローケツ染はごく初歩的なバティックと言ってよいが、筆で生地に点描風の模様を描き色を染め、ローは落とさずにまたその上からローで違う模様を重ねて描き、また染めるといったことを3度ほど繰り返してから脱ローをした絹地があった。1点は幅110センチで長さが10メートルもあったが、筆者は染色をするのでその仕事量はよくわかるのだが、それを染めるのに1か月は要していると思える。決して上手ではないので、場所によって模様の密度や色合いに差があって、これでは商品には決してならないのだが、全体に手抜きといったものがなく、それでいていやいやながらやった仕事という感じはない。おそらくその仕事によって賃金を得ていたのであろうが、もともとウングワレーにはそうした染色仕事は合っていたのだ。単純作業ではあるが、工夫する必要もある。そんな模様の仕事、つまり抽象的な絵模様を描くことの経験を積む中で、キャンバスを与えられた時に一気にはじける色彩感覚やまた描き方に発展した。同じことをローケツ染でやることも出来ないではないが、それはもっと労力を要し、また技術的に制限があまりに多い。染色は白いキャンバスにそのまま絵具でぐんぐんと描くことの出来る技法とは全く違って、もっと足枷となる部分が多いのだ。そうした足枷をウングワレーはキャンバス画においてすべて放り出すことが出来た。ローケツ染をそのまま続けていたならば、ウングワレーに今の名声はなかった。そこにローケツ染という工芸品を2、3流扱いする人々の態度が見えるが、残念ながらこれは日本でも同じで、何百、何千時間費やして1点染めたにしても、誰もその価値はわからず、絵とも思わない。その点において、ウングワレーもまた同じであったことを思い、筆者とは非常にうらやましくもある。
 ウングワレーは線や点を塗り重ねて描き、また画面の四隅から描いたので、絵の天地左右はない。これもそのままローケツ染で布を染めた経験による。その意味から、ウングワレーのキャンバス絵をそのまま布地に印刷すれば服地になると言ってよい。実際服地そっくりに見えたものが多数あった。ウングワレーにすればそれでもかまなかった。いや、ウングワレーはローケツで服地を染めていた際も、バリ島のバティック模様を模倣する意識はさらさなく、自分の思うように、好きな文様をそのまま描いた。したがって、ウングワレーの意識の中ではローケツもアクリル画も等しかったはずだ。だが、アボリジナル・メディア・マーケティング・アソシエーション(CAAMA)なる機関が、ウングワレーらアボジリニにキャンバスと絵具を与え、その絵画能力を発見、育成したことから、ウングワレーらアボリジニの絵は、ローケツ染をこつこつやっているよりはるかに金儲けのよい対象になった。おそらくそうして儲けたお金がアボリジニたちに生活に大きく還流されていることとは思うが、未開の地の人々の作った絵画が、工芸よりはるかに割りのよいお金になるということを知った人々が、巧妙な手口によって自分たちを利することに専念せねばと思う。何か物を作って広く売るという商売は人間にとって古代から存在したことであるのでとやかく言うことではないし、またローケツ染の伝統がもともとないアボリジニがそれをやるというのも変な話ではあるから、キャンバスに描く画家が登場する方がまだいいのとも言えるが、アボリジニらしさをどこまで純粋に保てるかは難しい問題でもあるように思える。ウングワレーの絵は、食物とするヤムイヤ(山芋)やトカゲ、名前もないような草や豆などがほとんどであったが、ふとした拍子に風景画に見えたり、人物の影があるように見える面白さがあった。とにかく1枚の大画面に細かい模様を二、三重にして塗り重ねることが多く、その描く時間を思うと、ウングワレーは確実に毎日大量の時間を費やして描き続けたと思う。その一方でアメリカにおけるインディアンのように、白人によってどんどん住処が狭められた歴史を思わざるを得ず、アボリジニのウングワレーが結局白人の用意した画材、あるいは展覧会によって有名になる現実をそこに重ねると、何とも言いようのない気分になるのも事実で、その点において筆者がいささかほっとしたのは、階をひとつ上がった地下2階に展示されていたアボリジニのいくつかの木彫りであった。梟や男、ハリネズミなど、アクリル絵具で着色してあるので現在のものだが、そこに見られる逞しい、そして微笑ましい造形は、ウングワレーの絵と同じようにお金を欲していたり、人に媚びた様子がなく、ひとつふたつ家に持って帰って飾っておきたい気にさせられた。
by uuuzen | 2008-04-17 23:59 | ●展覧会SOON評SO ON
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