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●臨時の同窓会
至が過ぎたので、また日が少しずつ長くなって行く。筆者は冬至過ぎから2月にかけての夕暮れ時分が好きだ。またそんな季節がやって来た。後何回そんな年を迎えることが出来るだろうか。



昨夜、白馬に旅行に行っている妹から電話があった。Aが昨日亡くなったと言う。急なことで驚いた。Aは筆者の中学の同窓生の女性だ。妹の家からごく近いところに住んでいる。いや、いた。Aはかつて同志社を出た後、嫁いで京都に住んでいたが、たまたま同じ時期、筆者の妹も嫁いで近くにいたのだが、地元のちょっとした商店街でふたりはばったりと会った。Aは筆者の妹と一時同じクラブだったこともあり、すぐに妹だとわかって声をかけて来たのだ。妹は兄である筆者も京都に引っ越し住んでいることを伝え、間もなく筆者とAは家を行き来する間柄となった。昨夜妹にAの旦那さんから電話があったのは、妹が保険の関係で旦那さんと毎月のように会っていて、筆者以上にAの家族のことをよく知っているからだ。妹から報せを受けた筆者はすぐに大阪に住む中学の同窓生に電話し、10人ばかりが集まって今日の通夜に行って来た。Aの交際以外に、旦那さんの仕事関係や息子の知り合いが多く、記帳場は3つのコーナーに分けられていた。たくさんの人で、1000人ほど来ていたかもしれない。筆者は式の1時間半前に着いたので、旦那さんやAの姉さんとしばし話をし、遺体の顔も拝ませてもらえた。遺影と同じく笑顔で、いつものように快活に話をし始める気がした。去年の10月だったと思う。Aの病状を妹から耳にした。よくないとは知っていたが、旦那さんは医師から寿命は後10年ほどと告げられ、そのことを筆者の妹にある日洩らしたのだ。筆者はそれを聞いて、深刻だなと思いはしたが、10年はまだまだであるので、花見の季節にまたみんなで会えばよいかと思った。そんなAと突如電話で話をすることがその直後にあった。筆者の息子の車の保険に関して旦那さんに用があったからだ。電話口に最初出たのはAで、その声はいつものように明るいものであった。すぐに旦那さんに変わってもらったが、本当は病気のことを妹から耳にしていたので、そのことを明かさずに多少世間話をしてもよかったし、普段ならそうするのに、その時はそうしなかった。急いでいたし、Aの最初の声は元気であったので、それで満足もした。それに本来の用事のついでにちょっとお伺いを立てるというのはよくないかと一瞬思ったからだ。だが、今にして思えば、その時もっと話しておけばよかった。だが、筆者の耳に残るAの最後の言葉が、その時の昔から少しも変わらぬ明るいままの声であることはかえってよかったかもしれない。最後に会った日の様子、最後に聞いた声、それは明るいものであってほしい。今日のAの遺影や遺体の顔はAそのままであった。そのことが今後もずっと記憶に残るだろう。ああ、思い返せばAのお母さんやお父さんもとてもいい人であった。あれほどのいい人は人生においてそうは出会えない。
 毎年旦那さんとは別に年賀状をくれたAだった。今改めて去年の年賀状を調べたところ、マフラーをした男の猪が凧上げをしているイラストの下に『お元気ですか? 私はいまいち体調がすぐれません。』と書いてある。筆者はほとんど年賀状の内容を気に留めないので、Aがこんなことを書いていたことを今初めて知った。そして今年Aの年賀状が元旦に届かなかった。さきほど旦那さんから聞いたところによると、年末に年賀状を書く体力がなく、断念したそうだ。そして大晦日に病院に運ばれ、2日に亡くなった。筆者が年賀状を送ったのは30日であったから、今日はもう届いていると思うが、Aには見てもらえなかった。Aの年賀状の字は10数年前からか、次第に上達した。字が下手では格好悪いので、習字を習い始めたと言っていた。「○○くんは昔から字が上手やからええけど、わたしみたいな下手な字はまた最初から練習し直さなあかんねん」。そのように何事も努力家であった。旦那さんもさきほど言っていたが、「とにかく○○さんと同じ気質で、何でも自分ひとりで一生懸命やるという性質で、病気にしてもあまり薬に頼らず、自力で治してみせると言ってました…」。だが、病気には勝てなかったのだ。病気になった理由は、20数年前に病院で感染したC型肝炎が進行したためであるようで、今大いに話題になっていることの悲劇がここにもあったのだ。何年か前、高校で英語を教えている時だと思うが、Aは道端で急にばたりと倒れたという。それが病気発見の発端だった。それが悪化し始めて、結局学校は辞めてしまった。会おうと思えばいつでも会えたのだが、新築の家にお邪魔したのは足かけ3年前の春だったか、一度きりだった。その時、筆者はAとふたりで、大きなプラズマTVがあって、まだ何の花も咲かない庭の見える座敷で差し向かえに座りながら30分ほど話をした。その時、筆者は何を着ていたかもはっきりと思い出せる。考えてみれば、Aとふたりだけで部屋の中で話をするのはそれが初めてだった。妹の家から近いので、いつでも訪問出来ると思いながらそのままになった。今こうして書いていて、Aのいなくなった旦那さんはこれからどのようにしてあの家で暮らして行くのかと思う。Aは話せなくなったのはさびしいが、旦那さんのことを思うと、残された者の辛さを思う。死は当人の問題ではない。死んだ当人は何もわからないからだ。ただし、死を迎えるまでの思いや、死ぬ間際に過る残された者への思いは、時に強い無念となるはずで、その無念さを残された者が想像する時、残された者の悲しみは倍増するし、悲しみの持って行きようがない。それを思うと、人生は長く生きてひとり残されるものではないと思う。見送る立場は辛く、すべて見送って、ただひとり残された時にどのような孤独が待っているか。それを考えると、老人にはなりたくない。だが、じっとしていても年月は過ぎ、瞬く間に人は老いる。10年は長いようだが、40年はあっと言う間に過ぎた気がする。
 Aと最初に会った日のことはよく覚えている。中学1年生の頃で、もう40年以上前のことだ。筆者はAの旦那さんやふたりの子どもより長くAを知っている。ある日の放課後、筆者は教室にひとり残ってガリ版の原稿を鉄筆を使って作っていた。クラブが終わったのか、教室に3人の女子がガヤガヤと入って来た。その中学校は、校区の異なるふたつの小学校区から入学することになっていて、Aは筆者の校区とは違う小学校の出身であった。中学1年生の時の筆者はAとは同じクラスではなかったので、顔も名前も知らなかったが、3人のうちの誰かが同じ小学校の出身で筆者をよく知っていたため、筆者の机にすぐさまやって来て、『○○くん、何してるの?』とか『Aさん、これは○○くんと言ってね、絵や字が上手なの』とか言って、筆者のことをAに紹介した。Aは無言のままフーンといった素振りで、筆者の机の真正面に立って筆者の作業を見下ろし続けた。その時、筆者はかなり赤面した。Aの態度は珍しいものを見るような、やや男っぽいところがあった。結局Aとは言葉を交わさなかった。Aは長身で、当時は筆者より少し高かったかもしれないが、学級副委員長を毎回やるほどのAは、同級にならなくても学校では目立って筆者は存在を知っていた。おそらく女子では常に一番成績がよかった。筆者とは中学3年生の時に同じクラスになった。しかも、たいていは机の位置が近かった。Aは長身で快活であったため、スポーツ・ウーマンであったが、一方で英語が好きで、中学生の時に市主催の英語の弁論大会に選ばれて出たこともある。この20数年は筆者とはよく英語にまつわる話をして、義務教育において英語は必須科目でなくてもよいのにと意見が一致していた。社会に出て英語が必要な人はごく限られる。学ぶ意欲のある人は勝手に学ぶし、また英語より必要なのは国語力であって、母国語でろくに話をしたり意見が言えない人が英語を学んでも同じことというところでお互い意見があった。Aは若い頃、小さな子どもを連れてアメリカに語学留学したいと筆者に洩らしたことがあった。その時、横にいた旦那さんはそうされてはひとり住まいをせねばならず、小さくなりながら反対の考えを表明したが、筆者は『若い頃にやりたいことがあればどんどんやるべし』という考えであったので、Aの考えを支持してはやし立てた。結局Aはそうはせず、家庭を選び、もうひとり男子を生んで、そのうち英語力をますますつけて学校で教えるまでになった。だが、それは長く続かなかった。あまり表からはわからなかったが、体力的に辛かったらしい。そのうち子どもが成長し、大変なやんちゃで有名であった長男はTVにもよく紹介されるほどの有名なスポーツマンになって、有名企業に就職した。おとなしい次男はAの夢をかなえる形で英語をマスターし、しかもイギリスの歴史ある大学に留学した。そしてその次男の留学を機に、Aはイギリス各地を先年旅行して来たとも言っていた。まさに言うことなしの人生に見えたものだ。
 Aは最初の子を生む時、経済的な問題もあったと思うが、世の中の不穏な状況を見ると、子どもをどんどん生む気にはなれないとよく語っていた。それと同じ考えをする若い人は今はもっと多いと思う。少子化がそれを示している。そんなAだったが、旦那さんの仕事が順調になったこともあってか、ふたり目を妊娠した。それからは以前のように子どもを生むことに関しての否定的な意見をぷつりと言わなくなった。男の筆者から見れば、それは女の母性の拡大化でもあろうが、論戦を交わすというところからすれば肩透かしを食らった形で、何となく割り切れない思いをしたものだったが、何事も変化するし、また論理詰めで事が運ぶわけでもない。だが、さきほど旦那さんから聞いたところによると、C型肝炎の感染はふたり目の出産時であったらしい。だが、ふたり目を生むというAの選択は正しかった。いつでも親は命を削って子孫を残すものだ。話は最初の方に戻るが、去年秋に妹からAの容体がよくないと聞いてしばらく経った頃、家内とともに大阪の美術館に展覧会に出かけた。そして急に中学校を見たくなった。40年ぶりだったろうか。バスに乗って最寄りのバス停に下りた頃は、残念ながらもう日がほとんど暮れていた。校舎はかつてあったのとは違って、敷地内の反対の場所に建て変わっていた。正門の位置もすっかり変わり、近所の家並も全く面影がなかった。同じなのは道だけで、すぐにその道を辿って、筆者の家のある方向を歩いた。だが、かつての自宅のあるところまでは行かなかった。もう日が沈み、その気力が失せた。いや、学校だけを見て充分であったのだ。それですぐに友人の家のある方向に踵を変えた。信号が赤になりかかったので、素早くバス通りをわたった。そして友人の家のある付近に来た。そのあたりはほとんど40年前と変化がない。まるず夢を見ているような気がした。街中だが、誰も歩いておらず、街灯だけが通りのずっと奥までさびしく灯っている。ふと目の前から声がした。「○○!」。顔がほとんど見えないほど暗いのに、Nは筆者がわかったのだ。だが、そんな偶然があるだろうか。Nはほとんどその家にはおらず、またいたとしても、筆者の足が一歩早いか遅ければ、家に自転車で戻って来たNは筆者を見つけることはなかった。すぐに近くの喫茶店に入った。小1時間ほど話をした。その時Aの容体がよくないことを伝えた。そして、春には京都でまた同窓会をやろうと提案した。Aは一度京都でみんなと会いたいと何年も前から言っていたのだ。だが、京都に住むのはAと筆者だけなので、同窓会の幹事は筆者が担当せねばならず、なかなかその機会が見つけられなかったし、また大阪から京都に出て来ることをみんなは大なり小なり躊躇した。喫茶店でNは自分の病気がちで、何度か大きな手術をしたと言い、そして「同窓会をするんやったらやった方がええで。いつ誰が欠けてもおかしくない年齢に達しているからな」とも言った。そのNの言葉が現実のものとなった。同窓生のひとりは、「今日はAが集めてくれた臨時の同窓会や」と言ったが、まさにそのとおりだ。地下街を案内してある店で全員で食べた後、別れ際にNは「また○○に会いに京都に行くわ」と言った。会える時に会っておくに限る。Aと最初に会った40年少し前がこんなに短かったのであれば、残すところの筆者の人生など瞬間と言うに過ぎないだろう。
●臨時の同窓会_d0053294_13553758.jpg

by uuuzen | 2008-01-04 23:59 | ●新・嵐山だより
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