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●今ここではないところに
まった時間に郵便のバイクがやって来る。これはとても便利でありがたい。1日1回の配達であるから、その便で届かないものはもうその日は待たずに済むからだ。



これはいつ届くかわからない電子メールより、精神的にきっぱり出来てよいのだ。だが、最近は郵便がめっきり減った。その代わりにいつ届くかわからないメール便とやらが急増した。電話もいつかかって来るかわからないから、人々は電子メールの登場にはさほど驚かなかったし、むしろ電話のベルが鳴ることに驚かされるよりはるかにいいと思った。今は電話もメールもケータイひとつでこなせるから、これは人々の欲求にそのまま沿って出来上がった道具だが、郵便のように1日1回の配達があって、その時間さえ気にすれば、後は何か届くことに気を使う必要のなかった生活感を遠くの押しやり、その代わりにいつ伝言が届くかわからない立場にがんじがらめにされてしまった。筆者はケータイを所有しないので、まだそんな状態に捕らえられてはいないが、後数十年もすれば筆者のような人物はいなくなって、誰もがいつ誰から何が届くかわからない、常に電源が入ったような心的状態に置かれる生活を送る。人間は誰かと何らかの形でつながっていなければ生活出来ないので、それもわからないではないが、限度というのがあるし、たまには電源を切ってどこにいるのかわからない状態に自分を置きたくなるのも人間の本質と思える。最近ぼんやり思うのはそんなことだ。ある年齢に達すれば、どこかへ転居し、がらりと違う生活をしてみるのもいいかなと思う。ただし、老人ホームではない。誰にも居場所は言わず、新しい土地でまた新しい人と出会うのだ。ははは、これは60年代からはやった蒸発というやつで、昔から誰しも同じようなことを考えた。別に今の生活が不満とかそういう理由からではなしに、何か全然違う人生が自分にはあったのではないかという思いが常にあって、もうそんな人生のリセットは不可能なことがよくわかっているくせに、漠然とした願望のようなものが巣食っている。そんなことを思っていると、先日はそんな夢を見た。夢の中で全く知らない眼鏡男と出会って、その人も実は同じようにして別の人生を求めてやって来たことを知る。そうかと思えば、その反対に、30年ほど前に住んでよく知っている場所や住民が出て来て、またその頃の生活に舞い戻り、「ここから脱出したい」と考えている。目覚めた時、自分が当時の生活から脱して今の生活を送っていることにほっとするが、実は夢の中と同じような感情、つまり「ここから脱出したい」と少なからず思っていることに気づく。では、今この現実は、過去か、夢か。おそらく全く別の場所で別の生活を始めても、筆者はケータイは持たなくても1日1回やって来る郵便を心待ちにすることだろう。毎日自分の家には配達がなくてもかまわない。誰かからの連絡は別に期待しないのだ。ただ、規則正しい生活を送っていることが確認出来るだけでよい。これはもうほとんど老人の心境か。

●2002年4月30日(火)夕方 その3
●今ここではないところに_d0053294_20225477.jpgしかしCPであろうがメゾであろうが、本当に大事なのは最終的に表現された作品のイメージの豊かさにあるという意見もある。これももっともだ。技術に寄りかかってのみ存在するのは職人仕事であり、それはつまらないという人もある。その意見の正当性はさておくとして、さてその表現されたイメージについてだ。画廊では筆者はルネサンスの遠近法の誕生から写真技術へと続く歴史と、その中にぽつりぽつりと登場する夢幻的なイメージを得意とした画家の系譜を話して、そこに氏の作品に顕著な超現実的な画風を沿わせてみた。それはいわば話のほんの序であり、実はそこからもっと先を語りたいと思っている間に他の客がやって来て、そして入口の向こうに妻の姿が見えたので、そこを辞した。それでよかったのかもしれない。素直に若者がいいと言ってくれると喜んでいる氏に水をかけるような発言はしたくないから、とにかく西洋の長い歴史の上にCPが登場し、それを利用して絵画におけるイメージ作りをもっと簡便かつ加速化することは必然だと言っておいた。だが日本の画家がヨーロッパのシュルレアリスム絵画の系譜に近いイメージを描き出そうとすれば、どこかデ・ジャヴ感が濃厚になるのはなぜだろう。若者には面白いと映るかもしれないが、それはCPゲームにおける画面上だけでリアルに存在するキャラクターや風景を見慣れていて、そこに親近性を覚えるからとも思える。そういったゲーム内のキャラクターや背景の表現とそっくりなものを氏の作品に見る思いがしたが、その点では今風であり、それはそれでよいことだ。しかし、そういう作品ならばもっとうまくやってのける若者がいる気がするし、そうでなくともいずれそんな人は登場する。つまりCPで描くことがもっと日常化すれば、一見同じような夢幻的なフォト・シュルレアリスム的作品は量産されるだろう。あるいはそれはもうとっくに映画やゲームの中では実現している。またマグリットやダリに見られるようなオブジェの合体や歪曲の手法は新しいものではないし、そこに作家本人のやむにやまれぬ衝動が感じられない。端的に言えばかなり劇画的で、オリジナリティが感じられない。「それを言っちゃおしまいよ」なのだが、それを言うしかない。夢幻的な絵というものがマグリットやダリで終わったと言いたいのでは決してない。まだまだシュルレアリスムの系譜は発展する余地があるはずだ。ただしそれは自分の夢の分析、つまりはそれは日常において何を見て、何を考えているかによって大きく左右するものであり、結局は自己に没入することでしか得られない。そしてそうして出て来る膨大なイメージの中から何が絵画として昇華し得るか、直観を磨く訓練も欠かせない。何でも適当に合成すれば、それなりの突飛なイメージが顕われるだろうが、それが意味が濃く、人を打つかどうかは別問題だ。またもっぱらフォト・イメージを歪曲合成して実際にあり得ない絵を作り上げることだけがシュルレアリスムかどうかとの問題をもう一度見つめ直す必要もある。夕暮れの小川の上に岩が浮いており、その岩にはよく見るとギリシア彫刻にあるような衣装を着た女の横たわっている姿が埋め込まれているといった絵は、それなりに面白いが驚くほどでもない。夢を視覚化したような画面ではないし、本当の夢はもっともっと奇妙な動画で、1枚の絵には収まらない。脳とCP画面が直結したような氏の作品は、手技というものの存在がどういう意味を持つのかと問題を提出していると言ってよいが、現実を超えたイメージは実は脳と描かれる画面の間に手技が介在することの方がさらに個性的に描出され得るのではないかと思う。CPのお絵描きソフトがさらに多様化しようとも、結局それは今までに存在するあらゆる絵画的技法の多様性を増すのに貢献はしても、それらをカヴァーして凌駕するものには決してなり得ないであろう。画面の中のイメージとして見るだけが絵画の意味では全くないし、それはもっと肉体の目が作品に対峙して感ずる一回限りの敬虔なる経験だ。ちょうど今また電話が鳴って、今度はFさんが出た。明日会うことになっているので、その確認だ。今は向こうも雨らしい。
by uuuzen | 2007-09-04 20:23 | 〇嵐山だより+ザッパ新譜
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