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●歌劇『ソヒャンの結婚(天生縁分)』
HKの教育TVで先週金曜日の夜だったか、東京文化会館で6月27、28日に上演された韓国のオペラの放送があって録画した。新聞の番組欄も最近ではめったに見ないが、その時はどういうわけかその放送に目が行った。



韓国映画やドラマはよく放送されるが、ついにオペラまでもかという思いが強く、興味半分で見る気になった。結果を先に言えば、韓国映画がそうであるように、よく海外の古典を勉強した跡が見受けられ、そこに韓国ならではの伝統的価値感を随所に混ぜてある。これは見るまでもなく予想出来ることで、意外性には乏しかった。韓国のオペラの歴史がどれほどなのかは知らないが、ミュージカルはそれなりにブームになって歴史もあるというから、新作オペラが作られるのは不思議ではなく、むしろ当然と言うべきだ。このオペラの原題は「天生縁分」で、つまり天が定めた縁といった意味だが、「ソヒャンの結婚」は日本がつけたタイトルだろうか。おそらく「冬季戀歌」が「冬のソナタ」となったのと同じように、日本人向けを狙ってそう名づけられたのであろう。そこにこのオペラのしたたかな戦略の一片がある。去年ドイツのフランクフルトのオぺラ劇場で初演され、絶賛を浴びたそうだが、韓国の今は亡き現代音楽作曲家の尹伊桑(ユンイサン)の曲をアンサンブル・モデルンが演奏するドイツであるので、韓国オペラが歓待されるのはよくわかる気がする。また、そうした絶賛を得られるように巧みに作り上げたものと言ってよく、見所を押さえたハッピー・エンド・ドラマ仕立てにしてあるところは、形はオペラそのものとしても、内実は映画やミュージカルと言ってよいものだ。だが、ここで問題となるのは、すでに現在は新作オペラが万人受けする時代ではないから、ヨーロッパがさんざん今までやり尽くして来たオペラというものに東洋の国が挑む時、どういう過去の遺産を引用かつ焼き直しをしつつ、新鮮味や共感を得るかが最大の見所で、辛口に見ればどれもこれもつまらないものになるはずであるから、批評側はどこか積極的に誉める部分を見出す必要があるということだ。現代音楽がそのいい例で、嫌いな人は全く聴かないし、また聴く必要もない。その意味でこのオペラをモーツァルトのものに比べるのは野暮であるし、そういう価値観に懲り固まっている人は全くのナンセンスな代物と思うだろう。だが、ヨーロッパにすれば、すでにオペラの豊穰な時代はとっくに過ぎ去り、今一度かつての栄光を夢見ようとすれば、東洋の才能による新作をひとまず歓迎し、そこから汲み取れるものは汲み取って自己保身を続けたいというのが本音だ。そういう才能のひとつとして中国のタン・ドゥンなども人気を博している気がする。
 オペラに何を求めるかは人さまざまだ。音楽という人もあれば舞台の視覚的なものと思う人もある。このオペラは西洋的の管弦楽団を基盤に韓国の民族楽器にソロを担当させ、3拍子のリズムが目立つ曲があるなど、よく韓国風は出している。ただし、世界中に受けることを狙っているので、音楽の主体は西洋風オペラのそれであって、何となくヨーロッパ辺境のロシアが生んだストラヴィンスキーの初期オペラを思わせもするが、そういうことも当然組み込んだうえで周到に作り上げているだろう。作曲家はイム・ジュンヒという若い女性で、あまりアクがないと言おうか、目立たないのはどうしたことかと思うが、総合芸術であるオペラは作曲者だけが目立つものではないという意識が強いのかもしれない。その意味でも、映画作りときわめて似たシステムで作られ、そして売り込まれている作品に思えるが、それが韓国の国家的戦略とすれば、それはそれで見事なものとも言えるだろう。話は変わるが、先月ある画廊に入った時、その個展の開催者が一緒にソファに座る客に、「中国や韓国は芸術に援助するお金が日本とは桁が違う」と発言していた。それが真実かどうかは知らないが、何となくそう感じるのは筆者も同じだ。そして、次になぜ中国や韓国が芸術に金を出すのかということを思うと、ある人は後進国家は国の威信を世界に示すにはそれが手っ取り早いからと言うだろうが、そうだとしてもそれは羨ましいことではないか。先進国になったから芸術に国が金を出す必要もないというのでは、さびしいことだ。そこでいつも筆者が韓国ドラマについて書く時に触れるように、なぜ韓国ドラマには決まって音楽や美術に携わる人が登場するのかという疑問にも結びつく。日本ではまずそれはあり得ない。かつてはそうであった日本なので、遅れている韓国がそうあるのは不思議ではないと高をくくっていられるだろうか。問題はどうももっと違うところにある。そんなことを思いながら、このオペラを見たわけだが、韓国映画やドラマに通ずる部分が多くあるにもかかわらず、それなりにオペラのつぼをよく押さえて面白い作品に仕上がっていることの充実ぶりと言えばよいか、簡単に言えば「熱い韓国」がよく出ていることを今さらに思った。残念ながら今の日本にはそれが少々欠けているのは否めない事実で、『夕鶴』だけではなく、もっと世界に発信出来るオペラが生まれれば面白いのになと思う。そこでふと一柳慧の書くハヒャエル・エンデの原作に因んだオペラを思い出しもするが、あれはどれほど世界で話題になったのだろう。世界に自信を持って発信出来るものを作るとして、どういう時代の何を扱うかはなかなか難しく、このオペラは簡単に言えば「愛」を扱っているのだが、それは聞こえはよいが、物語のその後を現実に置いて考えると、なかなか厳しい世界を想像し、ハッピー・エンドどころか、筆者はむしろ心が萎える気がした。それはこのオペラが肝心なところで深みに欠けているという批評につながるが、20世紀の世紀末的価値感が支配した後では、それがかえって人々に歓待されるだろうという思惑が作り手側に働いたかもしれない。
 つまり、それも含めての戦略ということだ。そうしたものでないと万人受けしないであろう。そのため先に書いたように、韓国映画を見るようなつもりで見るのが正しい見方と言える。20歳に満たない設定の若い男女が2組登場するのも韓国ドラマとまさに同じ設定で、2組の男女が端午の節句の祭りの日に、お互い身分を交換して4人で会うのは、モーツァルトの『フィガロの結婚』や『コシ・ファン・トゥッテ』からの引用と言ってよいが、この原作はオ・ジンヨンという人の『孟進士宅慶事』にあって、モーツァルトのオペラ台本をどれだけ意識したものかそうでないかはわからない。これは筆者の直観だが、『孟進士宅慶事』は韓国に伝わる民話をかなり土台にしたものであるだろう。韓国がオペラを作るとすれば、そうした民話的なところから題材を得て、それにいろいろと肉づけするものであるのは充分想像出来る。新作映画やドラマとは違う貫祿を付与するには、そうした伝統的な物語から骨格を引用するしかない。さて、舞台設定は李王朝時代のとある漁村での結婚話で、先祖にろくな身分の人間は出なかったが、国第一の金持ちになったメン進士が、清国に留学させてこのたび帰国したひとり息子のモンワンの嫁として、貧しくて1日に麦飯1椀も食べることもかなわないが古い家柄のキム判書の孫娘ソヒャンをもらおうと画策する。モンワンは北京に残して来た女に会いたいなどと口走りながら、まずはソヒャンの顔をどうにか見てやろうと思う。そして祭りの日にモンワンは側室の子であるソドンを連れ、ソヒャンはおつきの女性のイップニを連れて出かけるが、先に書いたように、男女ともお互いの身分を変えて出会うことにする。モンワンはイップニを一目見て気に入り、ソドンはソヒャンを慕うようになり、男ふたりは変装していたことをすぐにその場で明かすが、女性ふたりはそのまま口をつぐんで逃げ去る。ソヒャンはイップニに、今後も絶対にふたりが身分を交換したことを口外しないように説き伏せ、イップニは念願かなって金持ちのモンワンと結婚出来、ソドンはソヒャンを連れて国を出ることで日陰の身から晴れて自由になろうとする。二幕もので、各場面は非常に印象深い、ある意味ではパラジャーノフの映画を思わせるような画面構成を駆使しながら、速度感のある筋運びと動きを見せる。だが、民話の単純さを基礎にしているのかどうか、物語全体は単純過ぎて、後半は何となく尻切れトンボを思わせた。ハリウッド映画で言えば、最後の5分でもう一度ドキドキワクワクが必ず待っているが、それに相当するものがないのだ。舞台の視覚的構成が抽象絵画的なシンプルさであるのはいいが、物語も同じようにシンプルであると、全体は膨らまない。ハッピー・エンドにするためには、よけいな展開をつけ足すことは無意味と考えられたのかもしれないが、この作品が古典として今後生き残るには、物足りない何かがある。改作が出来るのかどうか知らないが、出来るのであればそうすべきように思う。共同作業によってより充実した内容のものを作ろうとするのはよくわかる。オペラではそういうことは欠かせない。だが、作曲家か台本家か、どちらかが強力な個性を持ち、しかもお互い相手のよい部分を引き出すというのでなければ名作オペラは生まれない。その点で、このオペラの作曲家はよく頑張ってはいるが、まだ経験不足、あるいは個性不足という感じが否めない。だが、これはヨーロッパの大作曲家による名作オペラと比べ過ぎかもしれない。もうそういう時代ではないので、軽い調子で矢継ぎ早にこうしたオペラが量産されることもひとつの手で、いずれ韓国オペラに普遍的名作が生まれるかもしれない。その最初のとっかかりがこのオペラかもしれないと思えば、充分及第点を与えられる。
 このドラマの物語が現代の韓国の何を反映しているかの見方もしておく必要がある。国一の成金となったメン進士は、魅力に乏しい自分の家系図を、大金を費やしてどんどん書き換える場面がある。これは韓国の歴史的事実であり、また世界どこでも同じようなことが行なわれているが、よい家柄を手に入れることが念願であったのに、結局息子のモンワンが見初めた相手は家柄の立派なソヒャンではなく、そのおつきの人があったというのは何とも皮肉だ。つまり、金は手に入っても人を見る目がないというわけだ。だが、そうした風刺、皮肉はこのオペラでは和らげられ、あくまでもモンワンは純粋な愛をイップニに感じたという「愛の物語」に転化して描く。一方、キム判書は、不正をただしたことによって息子夫婦、つまりソヒャンの両親を島流しにされたあげく失った。そのため、知識階級は腐敗し切っていると思っている。これもまた李王朝の歴史的事実と言ってよいだろう。そのため、キム判書はメン進士から婚姻の話があった時は、それを受け入れることにした。だが、その他大勢で登場する村人たちは、そうしたキム判書の決断を快くは思っていない。一番冷静に物事の成り行きを見ているのは、ごく普通の民衆という設定で、それら白い服を着た人々はみな韓国の仮面劇の仮面を顔につけていて、このオペラが韓国の伝統的仮面劇にも深く関係したところから生まれて来たことも感じさせ、この点も用意周到さがよく伝わる。身分と貧富の差という問題は、今の韓国ドラマに必ず見られる設定だが、このオペラでもそれをそのまま提示しつつ、物語はソヒャンの結ばれる相手として、メン進士の側室の子ソドンを設定するが、ふたりはそのまま同じ土地にいることは許されず、別の土地に逃げるという結末だ。だが、その未来がそう簡単に薔薇色だらけであるはずはなく、先に書いたように「愛の物語」はかなり非現実的なのに思える。また、よけいなお世話かもしれないが、イップニをソヒャンと思っているメン進士家族が、事実を知った時にはどうなることやら、そんなことも想像せずにはいられない。そうした尻切れトンボ的な内容は、あえて続編的なもの、今後もどんどんオペラを作ろうという意気込みがあるからかもしれない。このドラマは衣裳が非常にわかりやすく、メン進士家族は金色、キム判書は青、その他大勢は白というように、まるでモンドリアンの絵画のようなシンプルさで、見ていて即座に誰かわかるところはよい。この単純さの美は韓国の現代美術にも共通する伝統的価値感でもあって、それを実にうまく表現している点で、このドラマは音楽や物語よりも、むしろ視覚的に見所があるものと言える。また、メン進士家族は成金であるので金色であるのは理屈に合っているが、それ以上に、ここには豊かになった韓国社会の自賛の思いが込められている気もした。そうした今の韓国がキム判書的な一種の名誉を求めようというのが、こうしたオペラ作りに表われていると考えればどうか。だが、韓国がメン進士とすれば、そこには自嘲の思いも込められる。そのアンビヴァレンツな思いをこのオペラにもし込めたのだとすれば、そこにも韓国のしたたかさが見える。指揮は韓国人のチョン・チヨンという男性だが、管弦楽の演奏は神奈川フィルハーモニー管弦楽団で、舞台装置も日本側が協力したが、その意味では日本の助力はそうとうなものであったろう。今後お互いにオペラが作り続けられるのを楽しみにしたい。
by uuuzen | 2007-08-21 23:43 | ●鑑賞した韓国ドラマ、映画
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