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●物騒な街、物騒な夢
潰し。学校はそんなもんだと、ある小説家が書いていたが、先頃のTVでは、アフリカの少年が深い穴に潜って金を掘っている番組があって、その少年は学校に行きたいとぽつりと洩らしていたのが印象的で、TV局は意図した最大の効果を上げることが出来たに違いない。



貧しい国をよく紹介するTV番組があって、筆者のその背景にあるものをつい想像してしまうが、学校にもろくに行けない子どもが世界にはわんさかいるので、日本に生まれたことを感謝しろというわけか。一昨日の新聞には、サンパウロでは貧しい少年たちが人を銃で脅して金品を奪う事件が日常茶飯事になっているとあったが、先方は金目当てであるのでそこそこの金額を与えるとまず殺されることはない。そんな物騒な街は誰でもごめんだが、サンパウロから日本の少年犯罪を見ると、そっちの方が無気味という。貧困ではないのに、親が首を切り落とされたり、通り魔に遭ったり、犯罪の理由、根本が見えないだけに、恐さは底なしと言ってよい。だが、日本のメディアは巧妙に人々を洗脳して、そんな不安も1時間続けばいい方で、後はお笑い番組できれいさっぱり忘れましょうというわけだ。戦時中、日本の新聞や放送局はみな軍隊の言いなりになって嘘を垂れ流したが、そういう体質が根本的に改まるはずはない。かえってみんながそうは思わない今の方が深刻な状態にあるような気さえする。とはいえ、何が真実なのかは、結局のところ当人の思い込みにほかならず、そんな意見も砂粒のひとつとして埋もれて無視されるか、狂気の烙印を簡単に押されてしまう。その次に取り得るべき態度は、単なる傍観者的毒舌家に過ぎず、なおその意見は曲解されるだろう。ひとつのいい方法はその態度を自ら茶化して世に流布させることだが、それとてメディアがうまく適当に扱って、ピエロにされてしまうことは今のTVを見ていればよくわかる。また、そんな有名になれる才能を持たない人が大半で、仮に真に「目覚め」ていたとしても、それは世には表われず、より多くの他人に伝わらない。で、個人の呟きとしてブログに書くことも出来るが、結局暇潰しに過ぎないものに終わる。
 そんな暇潰しの中でも、夢について書くことはその最たるものだろう。今朝はひどい夢を見た。前半と後半は内容が違うが、ちょうど悪夢のオペラと言えばいいか、ふたつの部分は道を歩いて行くことでつながっていた。起きた後、これはメモしておくのがいいかと思ったが、まだ1時間ほど前のことなのでよく覚えている。前半はある画廊のオープンのレセプションに招かれて出席しているのだが、真冬らしくみんなロング・コートを着ている。筆者もそんな格好をしているが、水色のゴム製のサンダルを履いてまことにみっともない。それを周りのダンディな男どもが嘲笑している。こっちも恥ずかしいなと思いながら、仕方がないので無視しているが、ひとりの美人女性がやって来て、食べ物を勧められる。しばらくおざなりのインタヴューを受けるが、別室へ歩んで行き、そこで昔よく知っていた別の女性と、ある絵の周りに貼りつける表具裂について話し合う。それも時間が来て、そそくさと彼女は去ってしまうが、ひとり残った筆者は外に出て知らない街を行く。その途中大きなトンネルがある。内部はオレンジ色の灯かりがついていて、やがて平行した2本道に分かれる。右手からはオレンジ色をした空飛ぶ悪魔の女性軍団といった感じの連中がこっちへ向かってびゅんびゅんと飛来し、後方に消え去って行く。これはまずい、右ではなく左へ行こうと思ってそうする。間もなくある店が眼前に広がる。トンネルの奥に行くにはその店を越える必要がある。店には若い女性が数人いる。どうもお触りバーらしい。20歳くらいか、たいして美人でもない、華奢な女性がひとりまとわりついて来る。適当にあしらっているがしつこい。そのうち彼女は筆者の腕をつかんで自分の裸の下半身を触らせる。2、3秒、生な感触を覚えるが、ちっとも情欲しない。その次の瞬間、さあ終わりましたよといった感じでその女性はある窓口へ誘導する。そこにはいかにもチンピラ風の若い男がひとりいて、37500円だったか、紙に金額を書いて請求する。しまったと思ってももう遅い。ポケットにはその半分ほどの金しかない。自宅に戻らないとこれは払えないと言うと、男は女を叱責し、女は涙を流す。それを憐れに思う。彼女も好んでそんな仕事をしているのではないのだ。筆者はそう仏心を出して納得する。男の周りには数人の同じような男が出て来る。そして筆者を無言で威嚇する。今から警察に行ってやると言うと、男たちは困ったなという顔をし、今度は下手に出て来る。こっちはそれを無視してどんどん先を歩き、ついにトンネルを出て草ぼうぼうの野原に出る。眼下に街が広がっている。ああ、これでどうにか助かったかなと思うが、前にも後ろにも男たちはついて来ていて、野道を下りながら筆者を誘導する。おかしいなと思っていると、急にある家の狭くてうす暗い畳部屋に通され、襖が閉まる。周りには数人の男が立ちはだかる。そしてひとりの男がほかの男に命令する。太い棒を持って来てめった打ちにしろ。しまったと思う。油断したのがまずかった。と同時に、顔面を殴られれば、歯がみんな欠けて後で治療が大変だから、顔を隠し、体を丸く縮めて防御するしかないかと咄嗟に判断する。そこで目が覚めた。

●2002年4月20日(土)午前 その2
●物騒な街、物騒な夢_d0053294_91614.jpg民間信仰に属するそういった話はなかなか本格的に研究する人がないのかもしれないが、伝わっている古い人形や版画などを収集すると、そこから形態の変化に伴う人々の心の変化が多少は読み取れるはずで、どのようにして福助やお多福が日本中に定着して行ったかも類推できるだろう。そのためにも荒俣宏が30年ほども福助人形を収集し続けているのは大変意味がある。それは氏の本業に関わる趣味でもあり、決してB面的なものとは思えないが、このB面とはそれをしていて素朴に楽しいという、いわば利害をあまり考えない趣味の継続を指すのだろう。B面が大ヒットすることはポップス、ロックの世界でせよくあることだが、長寿社会を迎えている日本ではこのB面的生き方をすることは誰しも可能であり、また求められてもいるだろう。そのB面的生活の継続がやがてひっくり返って、今までの本来のA面を凌駕するものに発展することは充分あり得る。それは言い換えれば道楽ではあるが、素人の道楽とプロ芸術家の道楽的作家生活にはどのような差があるのか、本当は誰にもわからない。プロなりのいやらしさもあるし、一方には素人なりの新鮮さや純粋さがあり得るから、一概にプロであるから素人より常にいいものができるとは限らない。むしろその逆も大いにある。話が妙なところに来たが、こんな素人日記を高尚なものとして理屈づけたい思いがあるためではないので念のため。実は話をいつヒロシマへと転移させようかと考えながら今まで回り道をした。さて先月23日に安芸の宮島へ行き、24日には原爆ドームを見た。ふたつとも世界遺産だ。京都の東寺も世界遺産で、毎月第1日曜日のガラクタ市が開催されるのは25日の弘法さんの市と同じく、南大門を潜ったすぐの一帯だが、その立派な南大門は重要文化財であるから何となく愉快だ。京都や奈良にはそんな国の宝がごろごろしているから、わざわざ広島まで行って神社など見る必要もないという考えもあるが、日本三景のひとつである宮島は一度見たいと思いながら今まで機会がなかった。それに原爆ドームはアメリカのスーパー・リアリズム画家のリチャード・エステスが珍しくも空から見た構図で描いているが、それがヘリコプターでも飛ばして写真を撮り、それを元に描いたのか、あるいは原爆ドームのすぐ近くに超高層のホテルでもあってその一室から写生したのか、とにかくその視点がどこにあるのかずっと気になっている。ひょっとすればエステスは原爆を落とした飛行機のパイロットの視点を採用したのかもしれない。とにかくこれも実際にドームを見るまではわからないなと思っていた。さて、この1泊旅行について詳述すると、とても100枚程度では収まらない。ここではとりあえずひとつだけ書く。それは福助の土人形についてだ。
 原爆ドームは思ったよりかなり小さかった。しばしそこに佇んで写生もしたが、その後は川べりを少し歩いて小さな橋をわたって自然と原爆の資料館に足が向いた。若者ふたりが暴走族の自己顕示さながら、バリバリバリバリとまるでタケノコを食べるような轟音を発して水上バイクで川を往来していた。それは一見平和な光景であるが、単なる自己顕示の嫌らしさに周りの人々は眉をひそめていた。それに関連して思い出すわけではなかったが、その2、3日前のTVニュースでは平和記念公園の中心であるアーチ型の記念碑前の石碑に赤いペンキがぶちまけられたと報じていた。こうした戦争の記憶を留めようという先人の思いに唾を吐きかける連中が出現するほどに今の日本は変わってしまった。今後1世紀も経てば果たして原爆ドームの意味がどれほどの人に伝わっているのやら。いくら物事を忘れやすい国民性とはいえ、やはり世界遺産として原爆ドームを末長く保存して民間に伝え続けるのは大きな意義があると思う。さて、平和記念資料館はTVで知っていたよりもかなり小さいと感じた。実物を見ないと何事も本当のところはわからない。丹下健三のデザインというが、なるほど今では少々古い感じがする。昭和30年代か40年代前半のレトロだ。しかしそれはそれでよい。同じ形のものを今後もずっと伝えて行くべきだ。古い建物などを大切に思わない国民に未来はない気がする。入場料は何と50円という安さで、これは誰にでも観てほしいという思いの表われでなかなかよい。おまけに係員はすこぶる親切で、これは広島人の心意気を感じた。初めての広島だが、かつて京都で使用されていた市電もそのままのんびりと走り、必要な文化施設も市の中心に集中して存在するこの町にしばらく住んでみるのもよい気がした。
 資料館は欧米人の見学者も目立ったが、こういう戦争の悲惨な資料には目を背けたいという人もぜひ一度は見る必要がある。それに本当の原爆の被害はもっともっと凄まじいもので、溶けたガラス瓶や一瞬に消えた人が残した影などからは想像ができないはずだ。手に触ってもよい数々の資料は生々しいのではあるが、どこか毒気が抜け落ちていて、戦争を知らない世代にとっては恐ろしさもさほど伝わらないのではないかと思えた。絵と文字で表現した被爆者の体験記はTVでも以前紹介されたことがあるが、それは素人の絵ではあるが、地獄絵のように真に迫り、そして恐ろしさを充分に伝えてくれる。つまり本物の被爆の品々より、体験した人々の記憶の語りの方がもっと迫力があり、それは捏造もされやすいものではあっても、やはり原子爆弾の愚を後世に長らく伝えるには、生きた証人の思いをそのまま民間伝承の語り部的に人々に訴え続けるのが一番という気がする。とはいえ資料館の資料が無意味と言いたいのではない。やはり被爆した資料はみなそれなりに原爆の威力を伝える。ガラス越しにあって触れることはできなかったが、数10の生活用具などがどの地点で得られたか、写真地図つきで展示されているコーナーがあった。その中に福助足袋の童顔タイプの土人形が目を引いた。高さ20センチほどだったろうか、どこも欠けておらず、完全な形をしている。被爆したというのに、それだけでも貴重な品だ。そして原爆のピカッと一瞬の光で顔料は全部飛んでしまって、漂白したようなベージュの土色だけになりつつ、顔や肩を中心にべっとりと黒い炭のような色が新しくこびりついている。「でこちん」タイプの福助は笑顔をしているが、童顔タイプはもともと笑っていないだけに、土色になったその人形は悲しみの顔に見える。裃の紋は丸に福の字の浮き彫りで、それが何とも皮肉だ。五色の顔料全部が消し飛んだ代わりに、そばにあった何かの事物が放射能に反応して着色した黒色のただれ状態は、骨董市では見かけることのできない不気味さを感じさせた。

by uuuzen | 2007-07-29 09:01 | 〇嵐山だより+ザッパ新譜
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