VIDEOARTS MUSICにいたザッパ担当者から数日前に電話があって長話をした。ザッパの紙ジャケ・シリーズのついに最後のものが、8月にボックス・セットとして発売される。
順に書けば、『DOES HUMOR BELONG IN MUSIC?』(ダズ・ヒューモア・ビロング・イン・ミュージック?)、『PLAYGROUND PSYCHOTICS』(プレイグラウンド・サイコティクス)、『AHEAD OF THEIR TIME』(アヘッド・オブ・ゼア・タイム)、『THE YELLOW SHARK』(イエロー・シャーク)、『THE LOST EPISODES』(ロスト・エピソード)、『HAVE I OFFENDED SOMEONE?』(ザッパズ・チョイス)の6点で、以前から懸案になっていたものだ。CD枚数にして7枚だが、オリジナルの発売自体に厚い英文ブックレットがついていたりするので、それらをどういう形で対訳をつけるかなど、今までの紙ジャケ・シリーズとは違った問題がいろいろとある。つまり、紙ジャケ化がやや困難なデザインでもあって棚上げされていたが、このたびようやく実現の運びとなった。ザッパの最初の紙ジャケ・アルバムの解説は2001年6月に書き、9月に発売された。それから6年、ようやく『200 Motels』を除く、『Freak Out』から『Yellow Shark』までのアルバムが、ジグソー・パズルが完成するように紙ジャケットCDとして揃う。この7年の間、筆者が何に興味を抱いて過ごして来たかは、『大論2の本当の物語』や『嵐山だより』、それにこのブログなどで記して来たが、『大論2の本当の物語』の全文をここで紹介しているさなかに紙ジャケの最後のシリーズが発売されるニュースが飛び込んで来たのは、何とも区切りのよいことだと気分がよい。昨今の様子を見ていると、ザッパのCDは新たなファン層を開拓しなければもはや勢いよく売れることはないと思えるが、ZPZのツアーに若い人が目立つ事実は、それなりに若い世代に認知され続けていることを示す。だが、ダウンロードして音楽を聴く人も多いであろうから、紙ジャケはモノにこだわる人向きということか。また、それとは別に同社からは、ザッパのDVDが何点か発売予定に上がっている。8月だったろうか、まず『Dub Room Special』が発売される。この解説の依頼を先月受け、末日に書き上げて送信した。そうした話題もまた新たに設けるカテゴリー『嵐山だより』で追々書くことになるだろう。
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●2001年11月8日(木)朝目覚めた時にまたビルの曲のメロディが浮かんだ。それで寒い中、飛び起きて上にあがり、ビルのではなしに、ジョン・マクラフリンがカヴァー演奏しているCDを取り出した。それで早速ワープロの横にあるラジカセにそれをセットして聴いた。思い出せなかったタイトルは「ウィー・ウィル・ミート・アゲイン」だった。ああ、そうだった。だがなぜこの曲のメロディを理由もなく昨日も今朝も思い出したのだろう。この日記の最後の日からして「またお会いしましょう」とは、全く舞台が整い過ぎではないか。理由は外の景色がもう木枯らしが吹く中にあって侘しく見えたからに違いないが、それにしても今日は「11月8日」で「いいわ」感があり、この日記を終えるのにちょうど祝える。ビルの曲を聴きながらというのも乙なものだ。マクラフリンのギター編曲を聴いて、やっぱりまたビルのオリジナルのピアノ・トリオが聴きたくなって、交互にそれをBGMにしている。ザッパはビル・エヴァンスを敬愛するピアニストだと『フリーク・アウト』の人名簿に書いていた。少々ザッパとは相入れない感じがあるが、実はそうではない。相入れないようなのに根底で共通している点を確認することで、ザッパの音楽がなおよく理解できる。ビルは麻薬に溺れて、演奏中に倒れてそのまま死んだが、ザッパより1、2歳若かったと思う。晩年は髭をぼうぼうに生やし、かなり太ってしまって、まるでホームレスみたいな格好だったというが、あのダンディに写る人物がなぜそんな風になったのか。それは麻薬のせいもあるだろうが、ますます音楽にしか興味がなくなって、それ以外のことは一切かまわなくなったことが原因だろう。それはそれで壮絶でとても人間的で格好よい。何もかもなくなって、最後にたったひとつ何かを守りたいもの、守らなければならないものがあって、それが自分の表現する芸でしかないというのは本当に凄いことだ。本人にとっては幸福だろう。たいていの人はただ生きているだけで精いっぱいだ。いやいや、それもたいしたものだ。ザッパも最晩年は病気で気力が失せるような日々の中、思うことは自分の作品のことだけではなかったろうか。そんなところでビルと共通するところがある。
筆者にビルの名前を最初に教えてくれたのは大阪に住んでいた頃の3、4歳年長の近所の兄さんだった。筆者は小学生に入る何年か前にもう父はいなかったが、近所の数人の年上によく可愛がられた。筆者の趣味や興味は全部そういう年上から教えられたものだと思う。その兄さんはそんな中のひとりで最も芸術家肌だった。筆者と同じく長男であったが、両親は働き者で、経済的には豊かな方であった。特に父親はプロ・ボクサーを一時していたことがあり、家には大きく引き伸ばした写真が飾ってあった。その父はたまにすっぽんを買って来て、家の外でその首を切って血をグラスに注ぎ、びっくりしている近所の子どもたちの前で飲み干すというパフォーマンスをするような人で、そんな父の影響をその兄さんは大きく受けていたようだ。父に似て背は155センチほどの小柄だが、いつも皮肉な笑顔で、流行に敏感、勘も鋭く、また絵も上手で、音楽もこなせば喧嘩もするという万能タイプ、世間で言う不良だった。今にして思えば女装趣味らしきものもほんの少し持っていたように思うが、ホモではなく、むしろ大の女好きで、近所の女の子のパンツをよく脱がしていた。その頃その兄さんは中1くらいだったか、筆者も悪いことも含めていろんなことを教えられた。ただし「(これは本当は悪いことだが、)ま、勉強だから」とウィンクしながらの、節度を踏まえての目上から目下への授業であった。そうした関係は現在の子どもたちにもあるとは思うが、子どもの数が少ない分、大人の管理が行き届いてしまって、昔のようには奔放にはなれないだろう。「こーちゃん、これ飲んでみ、おやじがいつも飲んでるウィスキーやで」と笑いながら、サントリーの角瓶の蓋に少し注いでくれる。それを飲み干した時の苦みと熱さ。小学3年生くらいの時だった。そんなつき合いもやがてお互いが大きくなって別世界ができると遠のく。だが、たまに駅などで会うと、「こーちゃん、家に寄りいな」と言って自宅へ連れて行く。そこで見せられたピアノ譜の束はよく記憶に残っている。その頃その兄さんはピアニストになっていて、難波か梅田のジャズ喫茶か何かでライヴ演奏している日々を過ごしていた。有名なピアニストの楽譜を買って来ては好きな曲を自分で写譜していたようで、その五線と音符の織り成しは、さすが絵を描くのも上手くて、女性の化粧にも興味がある人ならではの個性があり、流麗で色気があった。そしてその色気は筆者にはとうてい学べ得ない気がした。「こーちゃんはピアノ聴くか? ビル・エヴァンスというピアニスト知ってるか? ぼくはその人のが大好きやねん。クラシックもよう聴くで。ラヴェルが大好きやなあ。ラヴェルの曲と全部レコードも楽譜もあるで。こーちゃんも聴きや。レコードやるから持って帰り」と言ってレコード棚から差し出してくれたのは、オイゲン・キケロの2枚と、ジミー・スミスの2枚だった。後者はヴァーヴの輸入版だ。それらは今も持っている。20歳を越えてから、一度また町角で偶然に出会ったことがある。その時も音楽の話になったが、どんな音楽を聴いているかと問われてザッパの名前を言うと、「そうか、そんな人がおるのか。知らんかった。もっと勉強せなあかんな」と返って来た。そして、敬愛しているサックス奏者が東京へ出るというのだが、自分はもう音楽をやめるかもしれないとぽつりと話してくれた。それからもう30年近く会っていない。ちょうど今またラジカセがビルの「ウィー・ウィル・ミート・アゲイン」を鳴らし始めた。是真実也。