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●『聖地★巡礼 自分探しの旅へ』
んぱく(国立民族学博物館)に久しぶりに行って来た。チケットはかなり以前に入手していたのに、なかなか行く時間が持てなかった。



●『聖地★巡礼 自分探しの旅へ』_d0053294_22265236.jpg開館30周年記念特別展と銘打たれているので、意気込みのほどがうかがえるが、そんなことよりも、「聖地巡礼」という展覧会の名称からして行かねばならないと決めていた。「聖地巡礼」の言葉で最初に思ったのは、サンチャゴ・デ・コンポステラだ。その次は四国の八十八番札所巡りであったが、これは現在四国のふるさと切手として確か2年前からシリーズが発売中で、いわば静かなお遍路ブームになっているから、それを当て込んだ特別展であると想像した。だが、昨日会場を訪れてわかったが、展覧会の主体はやはりサンチャゴ・デ・コンポステラで、四国の八十八番札所巡りはわずかな紹介しかされていなかった。筆者がサンチャゴ・デ・コンポステラの巡礼のことを知ったのは20歳前後のことだ。ロマネスクやゴシック建築に関する本を読むなどしているうちに知識を得た。その後NHK-TVでも特集のようなものがあったと記憶するが、旅行ブームも手伝って、今ではこの巡礼地を徒歩で踏破する日本人は珍しくないだろう。会場は映像主体の展示で、スタンプを順に捺印する冊子が入口で最初に配られるなど、各コーナーを順番に見て回る巡礼を模した楽しさがあったが、映像のひとつに大阪から巡礼に参加している中年夫婦がインタヴューに答えている場面が少し映り、「またあのゴミゴミとした大阪に戻るかと思うといやになってしまう」と発言しているのがとても印象的であった。定年退職した夫婦には見えなかったが、おそらく長い休暇を取ってサンチャゴ・デ・コンポステラの巡礼の旅に出たのであろうが、うらやましい限りだ。筆者は自由業なので時間はあるのだが、近年はほぼ無収入に近い暮らしをしているので旅費がない。それにおそらく1日30キロの徒歩は出来まい。だが、何もかもひとまず放り出して2、3か月を見知らぬところを歩き続けたいという思いにかられる。小型のスケッチブックを持参し、倍の時間をかけて各地を写生しながら歩くのもよいだろう。同じ人間として生まれて来て、そうした夢を簡単にかなえる人もあれば、思うだけで結局行動しない、出来ない人もある。今さら自分探しもないと思うが、見知らぬところを歩けばそれなりに緊張があって楽しく、意外な世界がまだまだあることを知ることだろう。人間は自分が思っているほど自分のことも世界のことも知らない。そのことを年齢を重ねるほどに知る筆者としては、なおさら全く未知の道を歩いてみたいと思う。
 サンチャゴ・デ・コンポステラはスペイン西端にほど近い街の名前だ。フランスからその街まで辿る巡礼の道がいくつかあって、最も歩きやすいル・ピュイからでは1350キロある。これを往復徒歩で歩き通すには3か月はかかる。四国八十八か所巡りは1200キロというから、それより少し長い。自転車を使う人もあるが、自動車では巡礼とみなされず、最後の500キロだったか、その分だけは歩かねばならない。ル・ピュイから出発する以外に、パリ、ヴェズレー、そして最も難関なアルルからのルートがある。どれも距離はさほど変わらないが、難関であるのは高い山を越える必要があるからだ。4つのルートはスペインに入るとやがて合流して1本道になる。今回の展覧会ではル・ピュイ・ルートが紹介されたが、陸軍の退役軍人ミッシェル・ラヴェドリン氏の4度目の踏破にみんぱくの職員が同行取材した映像が各コーナーで紹介された。コーナーごとにスタンプを押すようになっていて、これが子ども(筆者もだが)に喜ばれていた。スタンプは全部で8つで、ミッシェルの巡礼映像は10か所ほどあったと思う。またその大きな画面のほかに各コーナーには巡礼路各地を紹介する小さめの画面も置かれていた。ミッシェルはなかなか体躯がよく、また陽気な人柄で、巡礼をいかにも楽しんでいる様子があった。これは各地で出会う巡礼者も同じで、みなバック・パッカーとなって、まるでハイキングしているという雰囲気であった。信仰から参加している人は少数であるだろう。フランス、スペイン、ポルトガル、それにイタリアなど、ヨーロッパ南部はカトリック教国であるから、こうした国境を越えた巡礼地があって不思議ではないが、映像を見ていて笑えたのは、ミッシェルのフランス語がスペインで全く通じないことだ。お互い英語で話すのだが、それも発音が違って通じない。同じカトリック教国であっても、これほど言葉が通じないのは意外だが、ピレネー山脈はそれほどにフランスとイベリア半島を文化的に分け隔てているわけだ。サンチャゴ・デ・コンポステラに辿り着くには、必ずこのピレネーを越える必要があるが、かつてはよくここで命を落とした人がいたという。険しくて体力も要するのだろうが、映像では霧が多いなど、天候不順な様子が伝わり、そのことも手伝ったのであろう。それに昔は追い剥ぎがよく出没し、旅は危険がつきものであった。今はそういうことはないらしいが、歩いて踏破する労力という点では昔は同じであるから、何か克己心を得たい人にはもって来いの旅だ。また、道沿いには中世の趣をたたえる街が点在し、その点で景色が実に素晴らしいようで、映像を見ていて溜め息が出た。日本ではそういう美しい自然や町並みがすべて破壊され、醜悪以外の何物でもなくなってしまったことを今さら思い知る。東海道や中山道を歩いても失望するだけの話で、1993年に世界遺産の認定を受けたサンチャゴ・デ・コンポステラ巡礼路の価値を改めて知った思いがする。今回の展覧会の目玉は、巡礼地沿いの寺院や古い町並みが自然の中でそのままよく保存されている様子を大きな画面で見ることにあった。それだけならばTV番組と何ら変わらないことになるので随所に展示品があったが、突き詰めればサンチャゴ・デ・コンポステラの紹介であって、そうした旅への誘いだ。
●『聖地★巡礼 自分探しの旅へ』_d0053294_22273382.jpg

 なぜサンチャゴ・デ・コンポステラ巡礼が行なわれるようになったかだが、これはイベリア半島におけるムーア人(イスラム教徒)とキリスト教徒との勢力争いがある。これをキリスト教国側はレコンキスタ(国土回復戦争)と呼ぶが、8世紀にイスラムが入って来た時から始まった。イベリア半島へ最初に伝道したのは聖ヤコブとされるが、サンチャゴ・デ・コンポステラはキリストの12使徒のうち、この聖ヤコブを祀る。ヨハネの兄弟のヤコブはパレスチナ北部ガリラヤ生まれの漁師で、サラセン人に迫害で斬首されて初の殉教者となった。遺体を乗せた舟がサンチャゴ・デ・コンポステラにほど近い海外に流れ着き、そこで同地は聖地となったが、西暦844年に奇跡が起こった。それは、キリスト教徒とイスラム教徒が激闘を繰り広げていた中、白馬に乗った聖ヤコブが現われ、キリスト教徒を勝利に導いたとされる出来事だ。それが本物のヤコブであるはずはないのだが、そのようにして伝説が作り上げられ、かくてスペインではヤコブは帆立貝をひとつかふたつつけた姿か、白馬に跨がって剣を振りかざす使徒の姿で象徴される。帆立貝は海辺に遺体が打ち上げられた時、体中に帆立貝がへばりついていたという面白い伝説によるが、サンチャゴ・デ・コンポステラ巡礼路ではこの帆立貝がシンボルとなって路標に表現されていて、巡礼者はみな帆立貝を首からぶら下げたり、帆立貝のバッヂやワッペン、あるいはそれを描いたTシャツなどを着ることになっている。イスラム教徒との戦いはなかなか決着がつかず、1492年グラナダで最後のイスラム王国が倒れるまで続いたが、イベリア半島上部を東西に走るサンチャゴ・デ・コンポステラ巡礼路は、いわばイスラムをこれ以上北に侵入させないための境界線で、それに沿って修道院を持つ町が要塞として並び、道が作られた。コンポステラには「ステラ」があるので、「星」に因む名称が想像出来るが、「星の野原」という意味があるとされる。だが、今筆者が見ている週間朝日百科『旅の世界史』の「信仰の道」の号では「墓」の意味もあるとし、その方が有力とする。ヤコブの墓の上に大きなサンチャゴ・デ・コンポステラ大聖堂が建てられたから、それもうなづける。この大聖堂が巡礼最後の地点で、TVでもよく紹介されるので見覚えのある人は多いだろう。ファサードはとにかくごてごてと飾り立てられて、バロックというものの本質を見る思いがするが、先の「信仰の道」では、スペインがインドと交易をしたことによる影響がそうした寺院の装飾に現われているとする。これはなるほどと思わせられる。スペイン・バロックのあの途轍もないグロテスクなゴテゴテは、インドの図像などの影響を受けたもので、結局は海を股にして活躍した商人の力の賜物ということだ。サンチャゴ・デ・コンポステラ大聖堂は899年に建ち始め(「信仰の道」では1116年着工とある)、1122年頃に完成したロマネスク様式の寺院だが、「栄光の門」をくぐって奥にある中央祭壇は17世紀に作られた。これがバロック装飾の極みで、どの国の造形かわからない混沌さを示している。
 巡礼はこの寺院内部に到達して終わるが、「栄光の門」中央の柱は人が長年触れ続けたため、指型の深い窪みが出来ている。これに触れた後、中央に飾られるヤコブ像を背後から抱くのだが、映像ではヤコブの背中に帆立貝とおぼしき形をした造形物がいくつか貼りついていた。そしてこのヤコブ像もまたゴテゴテ感がはなはだしい。また、聖堂内部ではボタフメイロと呼ばれる大きな金属製の香炉が太いロープで天井から吊るされ、それを5、6人の修道僧が体を使って大きく揺らし、お香の煙を聖堂内部に行きわたらせる。これは巡礼者の悪臭を清めるために12世紀から始められたという。巡礼の最盛期は12世紀から14世紀の間で、年間20万から50万人が歩いたが、少しずつ減少を辿り、20世紀半ばは最低を記録した。だが、どういう理由であったか忘れたが、1945年からは上昇に転じ、1980年にローマ法王がサンチャゴ・デ・コンポステラ大聖堂を訪れたことによってさらに人気が加速し、その後上昇を続けている。今回館内で上映された映像によると、同大聖堂における巡礼踏破の証明書を発行する僧侶は、「8月現在で3万人ほど」と語っていたから、年間4万人ほどは訪れるのではないだろうか。晩秋から冬にかけては宿が閉まることもあって巡礼はなく、先のミッシェル氏も全旅程を2分して2年を要して歩いた。このように分けて歩いてもよく、また一旦踏破すると、何年かすればまた歩きたくなるらしい。巡礼者の歩く動機はさまざまで、信仰に関係しない場合は、サンチャゴ・デ・コンポステラ大聖堂では別の証明書を発行してくれる。出発前に折りたたみ式の集印用紙が1枚もらえる。これは巡礼路にある修道院や旅館などでスタンプを押してもらい、しかもそれを提示すれば格安料金で宿泊することが出来る。会場ではフランスの山間部のとある小さな宿泊施設の様子が別の囲いの中で15分間上映されていて、それによると1泊1食つきで28ユーロと言っていた。毎日10人前後の宿泊で、夕食は共同で食べるがみんな実に楽しそうであった。そうした人の出会いを楽しむのが巡礼の大きな動機になっている。ミッシェルは67歳で4回目の巡礼を始めたが、そうした60代の巡礼者を見て20代の若者が勇気づけられるという場面も映し出されていた。これはなかなか心温まる映像と発言であったが、毎日30キロを足に豆を作りながら歩き続けるという苦行は、12世紀の巡礼者も同じように味わったわけで、そうした長い歴史のつながりの中に自分が位置しているという実感を持てることもまた素晴らしい。ひとつ面白かったのは、スペインに入って平坦な道が500キロ続き、その単調な道のりが巡礼者にとって一番応えるということだ。それは日常生活に似て、単調であるからだが、だがそういう時にこそかえって迷いがあって危ない。
 サンチャゴ・デ・コンポステラに到着した人々はさらに西90キロのイベリア半島西端のフィニステル(地の果て)という場所を訪れることが多い。ここは眼前に大西洋が広がる。人々は崖の隙間で履いていた靴や着ていた衣服を燃やすが、汗で臭くなったものを処分し、気分を一新するにはよい行為だ。家内の姉は旅行好きで世界中あらゆるところを旅したが、最も印象深かったのは、ポルトガルの西果ての海べりであったそうだ。フィニステル南方数百キロといったところのはずだが、似たような場所だろう。そこはかつてナチに追われてアメリカにわたろうとしてその思いを果たせなかったヴァルター・ベンヤミンが立ちたかった地点でもあるが、海の向こうが新大陸のアメリカと思うと、気分はまた格別か。だが、大航海時代のスペインやポルトガルの商人たちはそこを縦横に船で行き交いし、世界中の珍しいものを運んで金儲けをした。そこに日本も大いに関係したが、21世紀になってサンチャゴ・デ・コンポステラを紹介する展覧会が日本の国立の施設で紹介されるようになったことは、人類にとって巡礼の普遍性と、その映像によるヴァーチャル体験、そして地球が狭くなったことなどを改めて感じさせる。今回は巡礼の聖地としてルルドの紹介もあった。そこでは中国人が奉納した豪華な刺繍を施した旗が展示されていて、人々が病気を克服して健康でありたいと願うことの万国共通性をよく示していた。同じことは四国八十八か所巡りや、今回日本の聖地としてもうひとつ展示されていた青森の恐山のイタコにも言える。展示物は全体に少なめであったが、彫刻家の池田宗弘の金属彫刻や、氏がサンチャゴ・デ・コンポステラ巡礼路を踏破して描いたたくさんのスケッチが会場後半には特に多かった。氏は分厚い電話帳ほどの旅日記とも言える写生帳をサンチャゴ・デ・コンポステラ大聖堂に奉納しており、大聖堂はそれを同じ大きさの本に印刷して配付しているようで、それも展示されていたが、広重の東海道五十三次や山下清の同じ東海道の旅による写生連作の伝統が世界的規模になって生きていると言うべきか。大聖堂の図像が込み入ったバロック彫刻を和紙に墨絵のように描いた作品が何点かあって、それを現地で描いている気持ちになってみると、何となくややこしさで眩暈を覚える気がした。巡礼は根気であり、根気のある人はさらにそうした素描も出来るということだ。
 円形の会場の中央は4つの暗い部屋に分離されていて、15分から50分程度の映像が繰り返し上映されていた。時間がなかったのでサンチャゴ・デ・コンポステラ関係のものを2つしか見なかったが、もっと早く出かけて全部見たかった。映像コーナーの手前に写真家の野町和嘉撮影の世界の聖地の写真が若干展示されていた。その最初はイスラム教のメッカ、カーバ神殿のある辺りの夕暮れ時を上空から撮影した写真で、白い衣服を着た200万人が整然と並んでいるのだが、そのひとりひとりがくっきりと写っていて、写真の威力を改めて感じた。氏のやっていることは並河萬里に多少似ているかもしれないが、世界を股にかけての撮影は規模が大きくて筆者は好む。今回サンチャゴ・デ・コンポステラの紹介が中心となると、偏りがあると言うべきで、イスラム関係についてはまた別に機会を設けて展示すべきではないだろうか。みんぱくは国の思想や宗教に関係なく、人類すべての民族資料の収集をしてこそ価値がある。そういう施設が大阪にあることはありがたいことだ。特別展示会場の2階では、みんぱくが今まで収集して来た映像資料の歴史の紹介などがあった。まず最初は小型カメラつきのパソコンが1台置いてあって、そこで数分だろうか、自分の顔と発言が記録出来るようになっていた。これはみんぱくが今後100年保管するそうだが、傍らにあったパネルを読んでなかなか意味深長であることを知った。つまり、100年後までみんぱくがあるかどうか、もしなくなっていたならば自分が納得して録画したその映像がどう管理されるのかされないのか、その危険をまずしっかりと認識してパソコンに向かうべしというわけだ。これは昨今うるさくなっている肖像権の問題を強く意識したもので、外国では無闇に他人を撮影すると、日本では考えられないほど問題が生ずるともあった。また、勝手に自分の姿が撮影され、それが何らかの形でネット上に流れると、有名になってよいというのとは違って全く予想もしなかった形でトラブルが発生することは充分考えられ、とにかくそうしたことを充分考慮したうえで、自分あるいは他人の撮影をすべしとあった。次のコーナーは立命館大学が開発した京都盆地の現在と平安時代の地図や立体情景のヴァーチャル映像化についての紹介で、これについては筆者は新聞でよく知っていたので、興味津々でパソコンを操作したが、残念ながら閉館時間が訪れて満足出来る画面は見られなかった。だが、精度の点でまだ問題があるように思った。平安時代を紹介するにもその基礎資料の充実がなければリアルなものにはならない。そうした資料は発掘などに頼るしかないが、それを思うと、みんぱくがせっせと現在各地で映像資料を収集しているのは、今後数百年後にとても価値あるものになると思える。
by uuuzen | 2007-06-04 22:27 | ●展覧会SOON評SO ON
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