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●ミラー・シアターでの現代音楽演奏会、ハコラ、ジョン・ゾーン
ラー・シアターの続き。トランプのカードになぞらえられている6名の作曲家は、ジョーカーが2名で、ほかにみなキングになっているが、ザッパとハコラがジョーカーであるのは面白い。




●ミラー・シアターでの現代音楽演奏会、ハコラ、ジョン・ゾーン_d0053294_9175227.jpgどうしてキングでないのかといぶかる向きもあろうが、ザッパがジョーカーであるのはどことなくなるほどと思わせられる。だが、最初にジョン・ゾーンがいて、しかもヴァレーズと同等のキングであるのは、まだちょっと時期早尚ではないかと感じさせられる。ゾーンがヴァレーズほどの古典に昇格するのは、まだ50年か、100年は早いだろう。だが、ニューヨークで積極的に音楽活動をし、レコード会社を作って、ユダヤ系を初めとして自分の身近な、あるいは有能な才能を発掘してCDを次々と売り出す才能は、単に商売上手では済まされない芸術援助的な側面があり、それだけでもなかなかたいした才能で、余人にはまねが出来ない。ゾーン自身の音楽活動は多岐にわたるので、こういう作曲家シリーズにおいて、本人が何を演奏するかはひとつの現時点での彼の主張の表われを見ることになって興味深いが、公演は去年10月26日に行なわれ、これは2003年9月いっぱい、自らの50歳の誕生日を祝して毎日大々的に実施されたいくつもの企画公演以降の、ちょっとしたエポック・メイキングな公演ではなかったろうか。当夜は5曲演奏されたが、「Shibboreth」という曲以外、すべて世界初演だ。ゾーンの仲間のマイク・パットンが声で出演し、マーサ・クラヴァーがソプラノ、そしてVox Vocal Ensembleという名前が見えるところ、これも声主体の楽団ということで、全体に声楽を中心とした公演であったことがわかる。もうTZADIKからCDが出たのかどうか知らないが、まだだとしても出るのは間違いがないだろう。「Shibboreth」は字面からしてMasadaの1曲と思うが、200曲ほどだったか、とにかく数が多くてあらゆるアンサンブルで演奏されるこのMasadaの全貌は、ゾーンやその仲間以外、まだ誰も知らないのではないだろうか。

●2001年10月1日(月)昼 その2
今、昼食前で鼻がよく利くせいか、家の中にまでキンモクセイの香りが充満しているのがわかる。話がまたふらついているが、書きたいことはライニガーの影絵からの連想で秋虫のことだと思い出した。80年前後、筆者が住んでいたアパートの裏庭にはドクダミが一面に咲き、秋になるとそこには虫の大合唱交響楽が楽しめた。一度銭湯に行っている間に、テープレコーダーでその合唱を録音したことがあるが、本物の透明感溢れる響きには遠く及ばなかった。6種類ほどの種類が聞き分けられたが、それが数十か100以上か、一斉に鳴いてやかましいのだが、秋の美しい月を見ながらのそれはいとも贅沢で、貧しい生活の中にも確実な潤いがあった。そこはもう新しい建て売りが立ってしまったし、それにお金を出しても同じ自然は戻らない。今のわが家はコオロギと鈴虫だけの侘しさとは格段の違いであった。おまけに近所の神社からは深夜になるとフクロウの鳴き声も聞こえて来たが、そんな猛禽類はとっくに姿を消して、今はペット・ショップで手に入る時代で何かが間違っている。多くの生き物が生きて行けるだけの自然が残っていないのだろう。近所の田畑の農薬の散布によってもそれは充分想像できる。夏には必ず大きなムカが2、3匹は家に上がって来て、悲鳴を上げながらそれを撃退するのだが、今年は姿を見なかった。ほっとするが、どこか納得が行かない。また秋になると必ず庭ではこれも大きなカマキリを見るのに、今年はそれもいない。そう言えば雨蛙も今年は見なかった。スズメバチだけがやたら飛び交って、庭に出る気がさらに失せる。しかし掌サイズの蜘蛛は今年も姿を見せた。それに昨日は中京区でホウジャクが飛んでいるのを目にした。蛾と蜂のフュージョン型のようなホウジャクは秋になるとたまに見かけるが、空中でストップしながら花の蜜を吸っている姿を見るのは楽しい。昨夜もそうだったが、家の中でコウロギが一匹鳴いていて、それを外を出してやりたいのだが、なかなか姿が見えない。数日前はこれを書いているすぐ後ろで鳴き声がときたま響く。探しても姿は見えなかったが、2日ほどしてついにわかった。壁にかけてあるクラシック・ギターの後ろにいた。ギターの共鳴胴のすぐ背後でいたのでなおさら音が反響した。見つかったコロオギは体長が1センチほどの小さな奴で、あの体でなぜあんなに大きな音が出せるのか、手を差し延べても逃げようとはせず、簡単に捕まえられた。それを扉を開けて表に放してやった。しかしその後鳴き声を聞かないところを見ると、同じく表に住み着いているヤモリに食べられたのかもしれない。ヤモリもやたら多く目につくのだが、筆者はこの動物は嫌いではない。
 何だかこうした小動物の話ばかりしていると、若冲の絵を思い出してしまう。人間嫌いであったと伝えられる若冲だが、本当にそうだったろうか。石工に指示しながら五百羅漢の像を彫らせたということだけでも、人間嫌いではできないことのように思える。またこの人間嫌いがどういう意味かは定義もしにくい。筆者は自問すれば、さほど人間好きとは思わないが、ある知人に言わせると筆者ぐらいの人間好きはいないということで、ほんとかなと面食らってしまう。よく酒を奢ってくれる友人があるが、以前に一度だけ飲みに行った料理酒場をその友人と再訪した時、京都らしく珍しい花が活けてあり、花の写真も飾ってあった。これが何となく目を引いたので、無愛想な主に話かけて2、3、言葉を交わした。するとその主が話の締め括りに「お客さん、以前にも来てくれたことがあるね」と言って微笑んだ。これには友人はぶすりとしたようだ。ふたりでほぼ同じ席に着いたのに、主は金を払った友人の方を覚えずに筆者の顔を記憶していたからだ。それ以来京都では同店では飲んでいない。筆者はよくあちこちの店に行くと主と話を交わすようになり、1年に1回しか訪れないような場所でもよく記憶してもらえる。話好きと言えばそれまでだが、誰かれかまわずではなく、話ができると思う人にしか話を向けない。学がない人が苦手というのでは全くなく、アホでも気の優しい人は大好きだ。逆に大学の教授クラスや医者といったタイプは得てして傲慢になりがちで、むしろ嫌いな場合が多い。最近ある席で某国立大学の助教授と面識ができた。年齢は筆者と同じで、先生という職業にありがちだが、全体に美的センスに乏しく、また肥満気味でとても冴えた印象ではない。この人物の専門はバウハウスのクレー研究で、文部省の援助で本を出す予定もあるという話であった。筆者はバウハウスには興味があって、10代にはその関連本やクレーやカンディンスキーの著作を買ったり、また実物の絵画を見るためには遠方まで出かけた。そうであるので、バウハウスについてどんな研究をしているのかと興味があって、話をそこに向けたが、話をしてもあんたにわかるかというという非寛容な態度と眼差しで、説明はもらえなかった。悲観かもしれないが、見くびられたのだろう。実際どこかの馬の骨であるし、貫祿に欠ける風貌から、いつも年齢よりかなり若く見られてしまう。それに友禅染をしていますという職業がいけない。だいたいそんな職人など学問とは無縁で、頭がよければ学者になるはずというのが世間の常識だ。しかし自分で絵を描かない人がクレーの心が理解できるのかね。こういう非寛容を書いてはあかんよーだが、悲観用なのでア・肝要だ。筆者は在野は別だが、大学で学者になりたがる人間をさほど信用していない。名刺に肩書きを印刷して喜ぶ人間もそうだ。ちなみに筆者は名刺は作っていない。昔あったものも職業は記載せず、名前と住所のみであった。どこそこの団体に所属していることなどを自慢気にたくさん連ねている若者を見ると、それだけで小さく見えてしまう。やはり人間嫌いか。

by uuuzen | 2007-04-05 09:20 | ○『大論2の本当の物語』
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